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Zum Sehen geboren:見るために生まれ

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 詩(文学)は生活の表現であり表出である。それは体験を表出し、生活の外面的現実を表現する。私は生活の諸相を読者の記憶の中に呼び覚ましてみようと思う。生活においてみずからの自我はその生活環境の中で自己に与えられている。自己の生存の感情、自己の周囲の人間および事物に対する態度ならびに立場、それらは自己に一種の圧力をおよぼすか、あるいは自己に力と生存の喜びをもたらし、自己に要求を差し出し、かつ自己の生存の中にある場所を占める。かようにして、どの事物もどの人間も自己の生活連関から独自の力と色合いを受け取る。出生と死亡によって局限され、現実の重圧によって制限される生存の有限性は自己の中に、永続するもの、恒常なるもの、事物の重圧から解き放たれたものに対する憧憬をよびおこす。そして仰ぎ見る星が自己にとってかような冒すべからざる永遠なる世界の象徴となる。自己はみずからを取り巻くすべてのものの中にみずからが前に経験したことを追体験する。自己は黄昏の中で己れの足許にある静かな町を見おろす。家々につぎつぎとともされる灯火は自己にとって安全な平和の生活の表現である。自己自身の自我、自己の境遇、自己の周囲と人間と事物、それらの中にある生活の内容は、それらが生活上に有する価値を形づくる。それはそれらの作用によってそれらに附せられる価値とは異なるものである。そして創作文学がまず現わそうとするものは、これ以外の何物でもない。文学の対象は、認識する精神(知性)にとって存在するような現実ではなくて、生活関係の中に現われる自己自身および事物の状態である。何が抒情詩あるいは物語によって現わされるか、--そして何がそれらにとっては存在するものでないかが、そこから説明される。ところが、生活上のもろもろの価値は、生活そのものの連関にもとづく相互関係の中に立っていて、これらの関係が人間、事物、局面、事件にそれぞれの意味を与える。そこで詩人は意味の深いものに目を向ける。ところで、追想と生活経験とそれらの思想内容とが生活と価値と意義とのこの連関を類型的なものにまで高め、出来ごとがある普遍的なものの代表となり象徴となり、目的や財宝が理想にかわれば、そのとき表現されて来るのは、創作文学のかような一般的な内容においても、現実の認識ではなくて、生活の意味におけるわれわれの生存事情の関係のもっとも生き生きした経験である。そのほかには、詩的作品のいかなる理念も、また創作文学が実現すべきいかなる美的価値も存在しない。
 これが生活と創作文学との根本的関係で、詩の歴史的な形態はいずれもこれに依存する。
  ディルタイ(柴田治三郎訳)『体験と創作 (上)』(岩波文庫、1961年)。
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冒頭はディルタイの『体験と創作』のなかより「ゲーテと詩的想像力」の一節から。
学部生時代、ドイツ文学を学んだ居た際、必修科目の「ドイツ文学史I」の先生が、この本こそ、近代ドイツ文学の優れた文学史だと勧めてくれたのがディルタイの『体験と創作』です。そのときは、ドイツ文学を、いわゆるクロニクルな教科書的な読み物と違う側面から、内在的に把握できる優れた著作という印象をうけたが、実際読み返してみても秀逸な著作です。哲学的解釈学のいわば現代的な先駆者と評してよかろう、ディルタイの、すぐれた哲学的思索が、生の体験と詩的想像力の関係を原理的に示してくれます。

さて--。
すぐれた文学作品や詩を読む(詠む)と、不思議なことに、なぜか束縛ではなく、自由を感じるのは宇治家参去ひとりではあるまい。

おそらく、すぐれた文学作品には、生活における極度の内在と超越の契機が一度に含まれているからなのだと思う。超越の契機は、ディルタイのいう“詩的想像力”といってもよいかもしれない。

現実に超越を読みとる本物の力である。そしてその生の現実とは、生々しい人間の生活世界だけではない。美術作品や自然の雄大さに人間が対峙したときにも、それはひとつの生の現実である。

その意味で、かの、聖フランチェスコが感じとったような自然の雄大さも、人間の生活経験のひとつであろう。実存する個物としてはあくまでもこの世界に内在しつつ、その世界を別の視座から聖化するのが超越という契機である。

聖フランチェスコがその両眼でみたような--内在と超越を一瞬に両眼で見た契機が言葉に凝縮されるとすぐれた創作文学が誕生し、世の東西、古今を問わず、読み手の魂を共振させるのだと思う。

両の眼を明けて、世界を眺めるとよい。
両の眼を明けて、自然を謳うとよい。
そして両の眼をあけて、配偶者をみるとよい。

ひとは、ふだんの生活の中で、内在しか見ていない。
そして、超越を同時に見ていない。

両の眼を明けて、世界を見ていないからだ。
内在と超越を味わいなさい。

では、最後にゲーテの詩でもひとつ。

Zum Sehen geboren
          J.W.v. Goethe
Zum Sehen geboren,
Zum Schauen bestellt,
Dem Turme geschworen,
Gefällt mir die Welt.
Ich blick' in die Ferne,
Ich seh' in der Näh'
Den Mond und die Sterne,
Den Wald und das Reh.
So seh' ich in allen
Die ewige Zier,
Und wie mir's gefallen,
Gefall' ich auch mir.
Ihr Glücklichen Augen,
Was je ihr gesehen,
Es sei wie es wolle,
Es war doch so schön !

見るために生まれ〔塔守リュンコイスの歌〕
        ゲーテ
見るために生まれ
見るを勤めとし
塔の守りをしておれば
この世はまことにおもしろい。
遠くを眺め
近くを見
星を見 月を見
森を見 鹿を見る。
すると万物のうちに
永遠の飾りが見え
すべてがおれの気に入るごとく
おれ自信またおれの気に入る。
さいわいなる両の眼よ
おまえが見てきたものは
それが何にせよ
じつに美しくあった!
    --生野幸吉・檜山哲彦編『ドイツ名詩選』(岩波文庫、1993年)。

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