アルゲマイネ・ビルドゥング(Allgemeine Bildung 一般教養)
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◇ 和辻哲郎「『倫理学概論』開講の辞」(〔昭和十二年四月十九日〕東大二十九番教室)。
私は今こそ先生商売をしておるが、初めはこんなこと、予想もしなかった。いつのまにか先生になってしまっていた。それは多分、東洋大学に招かれて「日本倫理思想」を講義したのが、振出しであったと思う。
大体、私は、中学のときは、シェリーだのバイロンだの、英詩を愛読して、将来、詩人になろうと思っていた(笑声)。そのうち一高に入って、いろいろするうちに、今度は戯曲が面白く、芝居が好きになって、ドラマチストになろう、脚本を書こう、などと考えていた。
三年か、二年の終り頃か、大学に入るのに、一体、何をやったら良かろうか、と迷っているとき、先輩に魚住折蘆(うおずみせつろ)という大へん我の強い男がいて、なんでもかんでも、哲学科に入らにゃいかん、哲学はアルゲマイネ・ビルドゥング(Allgemeine Bildung 一般教養)だから、何をやるにもまず哲学を修めてからのことだ、という。哲学はアルゲマイネ・ビルドゥングゆえ、哲学専攻などということは、ありえないわけですナ。その魚住に影響されて、とにかく哲学へ入ったには入ったが、別に何をしようという当てもなかった。
当時は、なんでもかんでも西洋崇拝で、私なども西洋かぶれで、ニイチェなどが面白く、あればかり読んでいました。他人が何をやろうと、何が流行しようとかまわずに、ニイチェばかり暮していた。あまり学校へは出ず、勉強もしなかったので、私は諸君に、「勉強しろ」という資格がない。
大学出てからも、原稿など書いて暮していましたが、そのうち、子どもの死の機(おり)に、フト仏像に心を牽(ひ)かれてから、日本の古典を調べてみると、なんと日本のものも満更(まんざら)ではない。それまで西洋崇拝だった眼で見ても、われわれの祖先は、それに劣らぬ仕事をしている。捨てたものでない、どころか、立派なものである。
それから急に、日本の昔のことが知りたくて、いろいろ研究し、書いたりしているうちに、あれが日本のことをやっているから、ひとつ日本思想の講義をさせようじゃないか、というわけで東洋大学に招かれたり、法政大学で教えたりした。
いつぞやは、永平寺の坊さんが、私を御飯に招待してくれたりした。
とにかく、もしわれわれの仕事を凌駕する力量の士が現われるとすれば、(と大教室を見廻して)それはこの中から現われるのですから、諸君は「後生恐ルベシ」の後生であるわけです……。
--勝部真長『和辻倫理学ノート』(東京書籍、昭和五十四年)。
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来週から新学期が始まります。
月曜から授業開始なので、本日はその仕込みを少々。
そういえば、干した布団を引き入れていると、鉢の花が咲いていました。
で……。
上に引用したのは、倫理学者・和辻哲郎の「『倫理学概論』開講の辞」です。
新学期、初めて履修する学生に対して語った言葉です。
こういう感じで、話はじめられるとよいのですが、そうもいかないので、例の如くユルく語り始めると思います。
さて、上の文章を読んだのは、大学2年生のころだったかと思いますが、いわゆる「アルゲマイネ・ビルドゥング(Allgemeine Bildung 一般教養)」としての“哲学”について考えさせられたものです。
和辻曰く、「哲学はアルゲマイネ・ビルドゥングゆえ、哲学専攻などということは、ありえないわけですナ」です。
前時代的かも知れませんが、全ての学問を統括する諸学の王としての哲学の存在意義、人間をビルドゥング(育成)するものとしての教養の意義が語られているように思えます。
「一般教養」といえば、ふつう“パンキョウ”と蔑称され、とりあえず、履修しておかなくてはならない“つまらない科目”というイメージが、自分も含めてありますが、そもそもそうではなかったということでしょう。
一般とは、英語で、general。
generalとは、“一般”という意味だけでなく、軍隊で言う“将軍(将官)”の意味があります。専門科目とはいわば、その将官の手足となって働く実務系の部下。将官は、専門のすべてを熟知・網羅しているわけではありませんが、そうした人材を使いこなし、作戦を練り、すべてを統括していく役割です。
そうした意味合いで一般教養なるものは、タコツボ化した専門性を惑溺することを避けつつ、専門性を活かすための幅広い人間の知恵として存在したものだと思います。
そうであるとすれば、本来的には、一般教養とは、専門に進む前の人格形成における最良の道標であったはず。
気合いを入れ直して、一般教養の講義に取り組む必要がありますナ。
とにかく、「もしわれわれの仕事を凌駕する力量の士が現われるとすれば、(と大教室を見廻して)それはこの中から現われるのですから、諸君は「後生恐ルベシ」の後生」を育てる授業にしていきましょう。
とりあえず今日、息子さんが義母につれられて東京へ到着。
夜はひとしきり話して、細君に叱られて爆睡。
わたしも一杯飲んで寝ます。
Watsuji Tetsuro's Rinrigaku (Modern Japanese Philosophy) 著者:Watsuji Tetsuro,Robert Edgar Carter
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