« 火の国の城下で…… | トップページ | 天然水 阿蘇 »

宇治家ゼミ@熊本 無事終了する。

080418181559 080420163650 080420181553

お疲れ様です。

誰に?

宇治家参去です。そして、宇治家参去と、その倫理学@熊本の4人の仲間たちにです。

なんとか、地方スクーリング(D1期・熊本会場)、無事に終了する。

受講生4名。

ほとんどゼミ状態です。

眠る人皆無。

今までで一番、しゃべった授業です。

学生さんたちへ、本当にお疲れ様でした。

ただ、授業でくどく言った様に、倫理学とか、哲学っていう科目は、教科書読んだ、授業に出席した……でなんぼ!の科目ではありません。

もちろん、プラトンがこう考えた。
     カントがそう考えた。
     ヘーゲルがそう主張した。

その部分を“覚える”ことが無意味ではない。

ただ、“覚える”ことに本位のない科目である。

かつて、カントは、「哲学を学ぶのではなく、哲学することを学べ」と学生を励ました。

学んだ部分をもって、教室から一歩でたとき、倫理学とか、哲学という科目は、当人の存在に対して、“立ち上がる”科目である。

日々の生活の中での健闘を心より祈りたい。

ただし……注意事項。

死ぬまで、まじめに生きろ!っていうことではまったくありません。

ときには破れ、涙することもあるのが人生。
そして、ときには、勝利し、肩を組みあい、喜びを分かち合うのも人生。

ときには、絶望の淵に立たされるのも人生。

そして、ときには、深夜ひとりで、身の幸福を実感するのもひとのいきざまである。

それをすべて受け止めた上で、どのように、雄雄しく、そしてしなやかに、そしてしたたかに生きていくのか。

人生は一瞬ではない。

死ぬまでが、そして死んでもなお、ひとの歩みである。

歩み続けるなかで、世界と人間の意味を考え続けたい。

そう実感しております。

したたかに、しなやかに生き続けたいものです。

話がずれたようですね。

さて……。

今年度より、地方スクーリングの最終日の時間延長がはじまりましたので、しゅうりょうすると、すでに17:30.

JAL最終便がギリギリなので、事前に余裕をみて、空劫近隣のホテルに一泊です。

熊本駅前で、それなりに(?)しこたま(?)飲んできたので、これからゆっくり休息をとり、明朝朝一で東京へ戻ります。

その足で、短大へ講義。
そして、終了後、そのまま市井の仕事へ。

現実が待っています。

しかし、現実を離れて、自分の生の実存はありえない。

今日はゆっくり休み、明日からまた戦いの開始です。

最後に、遠藤周作の『沈黙』から……。
久しぶりに、何か引用しておかないと気のすまない宇治家参去です。

ストーリー要約は帯から。

「島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制のあくまで厳しい日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、<神の沈黙>という永遠の主題に切実な問いを投げかける書下ろし長編。」(遠藤周作『沈黙』(新潮文庫、平成十五年))。

本論はまさに“神の沈黙”が主題でしょうが、いろいろと考えさせられます。そのことは後日論じますが(論じるネタが山積して身動き取れませんがお許しを)……。

-----
澳門(マカオ)やゴアの宣教師たちが既に自分が転んだことを知ったかどうかはわからない。しかし、長崎の出島に居留を許されているオランダの貿易商人たちによって事の経過は澳門にもおそらく伝わり、自分はもう布教会から追放されているだろう。
 自分は布教会から追放されているだけではなく、司祭としてのすべての権利を剥奪され、聖職者たちからは恥ずべき汚点のように見んされているかもしれぬ。だがそれがどうした。それが何だというのだ。私の心を裁くのはあの連中たちではなく、主だけなのだと彼は唇をつよく嚙みながら首をふる。
 だが、真夜中、その想像が不意に彼の眼をさまし、鋭い爪の先で胸の芯を目茶苦茶にかきむしることがあった。そして思わず呻き声をあげて布団からとびあがる。教会裁判の状況は、まるで黙示録に出てくる最後の審判のように眼前に迫ってくるのだ。
 (何がわかるか。あなたたちに)
 ヨーロッパにいる澳門の上司たちよ。その連中に向かって彼は闇のなかで抗弁する。あなたたちは平穏無事な場所、迫害と拷問との嵐が吹きすさばぬ場所でぬくぬくと生き、布教している。あなたたちは彼岸にいるから、立派な聖職者として尊敬される。烈しい戦場に兵士を送り、幕舎で火にあたっている将軍たち。その将軍たちが捕虜になった兵士をどうして責めることができよう。
 (いや。これは弁解だ。私は自分を誤魔化している)司祭は首を弱々しくふった。
 (なぜ卑しい抗弁を今更やろうとしているのだ)
 私は転んだ。しかし主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけが御存知です。なぜ転んだと聖職者たちは自分を訊問するだろう。穴吊りが恐ろしかったからか。そうです。あの穴吊りを受けている百姓たちの呻き声を聞くに耐えなかったからか。そうです。そしてフェレイラの誘惑したように、自分が転べば、あの可哀想な百姓たちが助かると考えたからか。そうです。でもひょっとすると、その愛の行為を口実にして自分の弱さを正当化したのかもしれませぬ。
 それらすべてを私は認めます。もおう自分のすべての弱さをかくしはせぬ。あのキチジローと私とにどれだけの違いがあるというのでしょう。だがそれよりも私は聖職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている。
 あの踏絵の記憶は司祭の目ぶたの裏に焼きつくように残っていた。通辞が自分の足もとにおいた木の板。そこに銅版がはめこまれ、銅版には日本人の細工師が見よう見まねで作ったあの人の顔が彫られていた。
 それは今日まで司祭がポルトガルやローマ、ゴアや澳門で幾百回となく眺めてきた基督の顔とは全くちがっていた。それは威厳と誇りとをもった基督の顔ではなかった。美しく苦痛をたえしのぶ顔でもなかった。誘惑をはねつけ、強い意志の力をみなぎらせた顔でもなかった。彼の足ものとのあの人の顔は、痩せこけ疲れ果てていた。
 多くの日本人が足をかけたため、銅版をかこんだ板には黒ずんだ親指の痕が残っていた。そしてその顔もあまり踏まれたために凹み摩滅していた。凹んだその顔は辛そうに司祭を見あげていた。辛そうに自分を見あげ、その眼が訴えていた。(踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ)
    --遠藤周作『沈黙』(新潮文庫、平成十五年)。
-----

主人公・ロドリゴの告白に涙しながら、とりあえず寝ます。
弱さを認める強さも必要かもしれません。

最後に……。
初日、創立者より、「遠くからご苦労様です」と激励が入る。
学生と教員にパンが配れた。

ありがたいことです。

080419115852

沈黙 (新潮文庫) Book 沈黙 (新潮文庫)

著者:遠藤 周作
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 火の国の城下で…… | トップページ | 天然水 阿蘇 »

告白・独白・毒吐の日々」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 宇治家ゼミ@熊本 無事終了する。:

« 火の国の城下で…… | トップページ | 天然水 阿蘇 »