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自由を奪われている

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 人間はどういう状態のとき、「自由を奪われている」と感じるのだろうか。宇治家参去は、酒のほかに、アンティークカメラの収集と撮影が大好きだが、最近多忙且つ金欠で、収集どころか、撮影する時間すらなかなかとれない。精密な機械を手に取り、シャッター押す感覚は、とてもじゃないが、デジカメではかなわない。

 そうしたとき、宇治家参去は「自由を奪われている」と感じる。このことは宇治家参去とカメラの関係だけでなく、あるひとがカラオケ狂である場合、カラオケにいく時間がないほど、他の用事や仕事が立て込んでいたりすると、おそらく“自分には自由がない”と感じるのだろう。また、本当は嫌だが親から習い事を「強制」されて、友だちと遊ぶ時間がない子どもたちも、「自由を奪われている」と感じることだと思う。

 その意味で、自己に対する外的な障害が存在しないことを「自由である」と人は考えがちだろう。好きな対象へ向かう行為を、他から妨げられず、自分の意のままに選択し、享受できるという状態、それが「自由」の意味だと理解しがちである。ところが「そうじゃねえよ」と冷や水をさすのがカントの発想である。酒飲みがアルコールの奴隷であり、カメラ狂がカメラの奴隷であるように、好きな対象に向かう行為は、自己以外の他者である外的な対象によって制約をうけた行為にほかならないから、自由ではない、とカントはいうのである。すなわち、それが「他律」(Heteronomie)である。

 それでは、カントにおいては、真の「自由」とはいかなる状態なのであろうか。
 カントによれば、それは、理性的な意志が、みずから立てた決まり事(掟)によって自己を規定すること、すなわち、「意志の自律」(Autonomie)が、真の「自由」である。

 そしてこの“決まり事(掟)”とは何か。
 カントのいう“決まり事(掟)”とは、「道徳法則」に他ならない。カントの発想では、道徳法則によって自己を律するところにこそ、真の「自由」が成立する。道徳法則とは、たとえば、「人を騙すな」「人を殺すな」というような断言的な命令の形をとるが、そういう道徳的命令に従うことが「自由」を成就する契機となる。

 こうしたカントの考え方は分からなくもない。
 たとえば、受験勉強のために、親からTVを見る時間の制約をうけている学生がいたとする。学生はそのことに不自由を実感していたとしても、そのうち入りたい大学が見つかった。そのためには受験勉強に集中する時間が必要だと自覚した。親から言われてTVを見ないのではなく、受験勉強に集中するためにTV視聴の時間を減らそうということを自分で選択したとすれば、それは自分で選んだ道である。その学生は、その規則に従うことを以前のように“不自由”とは感じないはずであろう。世の中には、いろんな意味で、自由を束縛する規則やルールが存在する。しかし、その規則が外的規範として与えられたままでなく、内在化されたとき、その規則やルールに従うことを、不当な束縛とは感じないだろう。むしろ積極的にそれに従おうとなるはずである。

 そう考えると、「自己に対する外的な障害が存在しないこと」だけが「自由」の状態ではない。もちろん、社会的強制力の問題における「自由」は真剣に探究されてしかるべきだが、それだけに終始することなく、自律と他律の対比から、真の「自由」も考える必要があるのでは……? 最近そう考えることが多くて他なりません。

 もちろん、道徳には、押しつけがましい側面がたしかに存在する。しかしそれだけじゃない。そういうことを考えていかないと、本当に無法者の荒野になってしまうのでは?

最後に一発。

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 ここに二つの物がある、それは--我々がその物を思念すること長くかつしばしばなるにつれて、常にいや増す新たな感嘆と畏敬の念とをもって我々の心を余すことなく充足する、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則である。私は、この二物を暗黒のなかに閉ざされたものとして、あるいは超越的なもののうちに隠されたものとして、私の視界のそとに求め、もしくはただ単に推測することを要しない。私は、現にこれを目(ま)のあたりに見、この二物のいずれをも、私の実在の意識にそのままじかに連結することができるのである。第一のものは、いま私が外的な感性界の中で占めている場所から始めて、私自身をもつないでいる連結の範囲を拡張して、もろもろの世界を超えた彼方や世界や体系の、そのまた体系を包括する測り知れぬ全体的空間に達し、またこれらの世界や体系の周期的運行と、その始まりおよび持続とをうちに含むところの無際限な時間に達するのである。また第二のものは、私の見えざる「自己」すなわち私の人格性に始まり、真実の無限性を具えて僅かに悟性のみが辛うじて跡づけ得るような世界〔可想界〕において、〔可想的存在者としての〕私をあざやかに顕示する。そして私は、この世界(しかしまたこの世界を介して、同時に自余いっさいの可視的世界)と私とのつながりが、第一の場合〔経験界〕におけるとは異なり、まはや単なる偶然的連結ではなくて普遍的必然的連結であることを知るのである。無数の世界群を展示する第一の景観〔自然界の〕は、動物的被創造者としての私の重要性なるものを無(な)みする。このような被創造者は、暫時(私はその長短を知らない)生命力を付与されたのちに、彼を形成している物質〔身体〕をこの遊星(これは宇宙におけるただの一点にすぎない)に返却せねばならない。これに反して第二の景観〔可想界の〕は、叡智者としての私の価値を、私の人格性を通じて無限に高揚するのである。道徳的法則はこの人格性において、動物性にかかわりのない--それどころか全感性界にかかわりのない生を私に開顕する。少なくとも、私の現実的存在がこの法則によって合目的に規定されているということから推知せられる限りでは、まさにこの通りである。そして私の現実的存在のかかる合目的規定は、此世における生の条件や限界に制限されているのではなくて、〔来世にまで〕無限に進行するのである。
    --カント(波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳)『実践理性批判』(岩波文庫、1979年)。
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