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『ツォリコーン・ゼミナール』

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たしかにハイデッガーの特徴的な新しい言葉のいくつか、たとえば「世界内存在(In-der-Welt-Sein)」とか、「関心(Sorge)」とかの言葉はこの間に馴染み深いものになっている。実際、これらの言葉の一つや二つは、すでに非常に日常的で安直な大衆新聞の中にまで入り込んでいる。だが、それが深く立ち入った理解という意味での真に馴染んでいるといえることなのか、それとも、単に表面的に耳に聞き慣れているだけのことなのかは、まだはっきり言うことができない。いずれにせよ、当時ゼミナール参加者から時々あえて直接ハイデッガーに向けられたのと同じ疑問が、今日でもなおしばしば聞かれる。その疑問は、なぜハイデッガーは自分が問題とする事柄を、誰にでも分かるドイツ語で言おうと努力しないのか、という言い方で表現されるのが常である。それに対して彼は決まって次のように答えた。「わたしたちはいつも、自分が現に考えているように言い、現に言っているように考えることしかできません。ある事柄の--たとえば人間であること(Mensch-sein)そのもの--本質根拠が、新しい考え方と見方の経験の中で、今までと違った意味指示性(Bedeutsamkeiten)を帯びて現れるなら、これはおのずと新しい、それに適した言い方を求めます。たとえば人間を規定するにあたって、主体(ズプイエクト)とか自我(イッヒ)といった言い方に留まるならば、人間であることの本質根拠の理解もまったく被い隠されたままになります。しかし、人間であることの本質根拠は、聞き取り〔認取し〕ながら世界の開けの場を保持すること(Aushalten eines vernehmenden Welt-Offenständigkeits-Bereichs)にほかならないのです。」
 当時、互いに理解しあうことに関してこのような異常なほどの困難さがあったことを考えれば、ツォリコーン・ゼミナールをハイデッガーもゼミ生の誰一人もつまらないものと考えなかったのは、実に希有なことといえよう。最初の授業で出会った教師と生徒たちが、執拗に切磋琢磨しあいながら長年にわたって勉強を続けたのである。
  --メダルト・ボス編(木村敏・村本詔司共訳)『ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール』(みすず書房、1991年)。

誰にでもわかる言葉で伝わる言葉もあれば、自己自身が本質根拠の理解として聞き取った言葉でしか表現できない<事態>も存在する。そのことばを哲学者たちは、世界の中で創出し、ひとつひとつの<事態>を看取してきた。

今日はくどくど解説するのはやめましょう。どうも宇治家参去です。
今、ちょうど、『ツォリコーン・ゼミナール』を原文と照らし合わせて読んでいますが、内容よりも面白い(?)のがこの“ハイデッガー・ゼミナール”。

哲学をはじめとする人文諸科学と全く縁のない、医者たち自然科学者たちをゼミ生として数十年継続されたハイデッガーの私的なゼミです。その記録が本書というわけです。

ちょうど、明日(土曜日)から、熊本で、4人の生徒さんを対象に倫理学を講じてきます。

「クマモト・ゼミナールをウジイエ・サンキョもゼミ生の誰一人もつまらないものと考えなかったのは、実に希有なことといえよう。最初の授業で出会った教師と生徒たちが、執拗に切磋琢磨しあいながら長年にわたって勉強を続けたのである」というような授業をしたいものです。

朝早いので今日はこのへんで。
湯豆腐でいっぱいやって寝ます。

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