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ある日の宇治家参去

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三月末に植えたサニーレタスが芽を吹いていた。
不思議なもので、もともとは、ある意味で無機物のような、乾いた種だったが、土に植え、適度に水をやり、太陽のもとにだすと、米粒以下の固い種は、青い植物へと変化する。
固い種も、それが変化した青葉も、おなじ“物体”である。
“物体”といえば、人間という存在と対峙したとき、どこか、空々しい、空虚なイメージがつきまとうが、物体という存在には、それだけではない、横溢するような芳醇なイメージが内包されているのかもしれない。

人間という存在も、物体といえば、物体である。もちろん、サニーレタスの固い種とは、違うと誹られそうだが、様々な原子や組織から、構成された物体であることには間違いない。もちろん、人間は、物体だけの存在ではない、意識や理性や心がある!--こうした非難も受けそうだが、物体であることは否定できない。

その意味では、人間にせよ、固い種にせよ、青葉にせよ、物体は物体であるという事実を否定することは不可能だ。ここでいう物体とは、物体を空虚なイメージに限定する物理学とか生化学でいうような狭い意味での物体ではないのかもしれない。

それって“生きている”物体か?

そう聞き返されそうですが、物体そのものには生/死も関係ないのかもしれない。物体であるという事実が重要で、その原初の事実を、人間は、拒否するのではなく、受け容れる必要があるということだ。

物/心を立て分ける(西欧近代主義的知による)二元論への批判でしょうか?
こういう質問が出てきそうですが、そういうわけでもありません。安直な二元論批判の裏返しとしての、アニミズム的な心身合一論や物心一元論にも辟易する。

物体とは、そうした対立項や一元論とは無縁なのかもしれない。人間がこねくりまわして、解釈することを真摯に拒絶するのが物体なのだろうか--。

ふと、そんな思いの駆けめぐる、ある日の宇治家参去でした。

そのヒントを与えてくれたのが、アバンギャルド芸術論の嚆矢となる文芸評論家とでもいえばよいのでしょうか、花田清輝(1909-1974)の『物体主義』というエッセーです。
私見ですが、花田のベースにあるのは“徹底的な対峙”による、芸術的直感にも似た“本質暴露”がその主軸にあると思います。

で、その花田清輝--。
戦後、左翼的な立場から評論活動を展開した人物ですが、立場をめぐり日本共産党からは除名された人間です。その意味で、単純に左翼とか右翼とかに収まり切らぬ柔軟な思考スタイルをもっており、その優雅な文体の魅力はいまなお読む人を惹き付けてやみません。

それでは、締めに花田の『物体主義』でも読んでみましょう。
相変わらず、思索ができておりませんで、すいません!

とりあえず、細君が湯豆腐を作っておいてくれたので、一杯飲みながら、深く考えてみます。

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物体主義
わたしは物体に支配されるとともに、物体を支配する物体であり、物体として、運動し、かつ静止する。なぜわたしが運動するかといえば、むろん、わたしが、わたしを支配し、わたしによって支配される物体と、対立し、闘争するからであり、なぜわたしが静止するかといえば、むろん、その対立物との闘争において偶然、そのものの力とわたしのそれとが、均衡の状態におかれているからである。
 私を支配する物体とは、わたしを物体として支配する結果、みずからを物体以外のなにかものかであると考えているらしいが、むろん、わたしは、そのものを、わたしといささかも変りのない、物体とみなさざるを得ない。わたしによって支配される物体は、むろん文字どおり、物体にすぎず、いかにわたしが、そのものを支配してみたところで、わたしは、みずからを、物体以外のなにものかであると思い込むことはできない。物体であるわたしは、むろん徹頭徹尾、量にほかならないが、もしもわたしが、量から質へ転化するとすれば、むろん、わたしを支配し、わたしによって支配される物体を、わたし自身のなかに、すっかり吸収してしまった後のことであろう。
 つまり、要するに、わたしが、つねに物体であり、絶対に物体であり、終始一貫、物体である原因は、むろん、わたしが、物体を支配していることにではなく、みずからを物体から区別している物体によって、わたし自身、わたしの支配する物体と同様、物体として支配されていることに求められるべきであり、むろん、……
 むろん、あなたは、なにが、むろん、だと苦々しく感じながら、そもそもわたしが物体であるとはなにか、物体の支配被支配とはなにか、物体の量から質への転化とはなにかーーさっぱり不得要領のまま雲をつかむようなわたしの物体論に、すでに相当辟易(へきえき)されており、これ以上、わたしが、物体なぞという抽象的な観念に拘泥(こうでい)せず、もっと生活に即した、なまなましい話題に移ってゆくことを、心から希望されているにちがいない。
 しかし生活とはなにか。たとえば、わたしの、家庭生活とはなにか。わたしという物体と、わたしという物体を分離した物体と、わたしという物体のと結合した物体の、さらに分離した物体との単なる運動や静止にすぎないではないか。誤解を避けるために、一言、ことわっておくが、これらの物体は、わたしと同様、すべてことごとく、みずからを物体から区別している物体によって支配されている物体であり、わたしという物体とのあいだには、原則的には、支配、被支配の関係はない。
 以上によってもあきらかなように、わたしのいわゆる物体は、いささかも抽象的なものではなく、むしろ、抽象的なものを否定する極度のなまなましさうぃ具(そな)えている。ピカソの画面に貼りつけた物体、エルンストの動く物体、ダリの象徴機能の物体、等々をあげるまでもなく、二十世紀の芸術家は、あくまで具象的であろうとするがゆえに、物体にたいする異常な執着を示すのである。
 周知のように、この種の物体はオブジェと呼ばれる。オブジェはシュジェにたいする言葉であり、主体に対する客体の意味もある。思うに、わたしたちのあいだで、主体性に関する論争ばかり盛んであって、いっこう、それとともに客体性に関する論争がおこらないのは、わたしたちが、まだ十九世紀の段階にさまよっており、二十世紀的な観点から、おのれ自身を、客体として、オブジェとして、物体として、はっきりとらえていないためではなかろうか。(それは単なる自然科学的把握を意味しない。)
 おのれの主体性は、おのれの徹底的な客体化とともに、確立する。これらの相反する二つの作用が、対立したまま、同時に進行するのが、二十世紀の性格であり、それは、たとえばダリの作品が、幻想的であればあるほど、ますます客観的な明証性をもっているようなものである。したがって、また、わたしたちが、おのれの自由を実現するのは、おのれを物体としてみとめたとき、--みとめさせられたときであり、おのれの人間性を喪失したとき、--喪失させられたときである。
 もっとも、こういうと、自由を、もっぱら魂の自由としてとらえ、しかもその完全な自由は、死なないかぎり不可能であると考えているようなひとは、わたしたちが、人間性を喪失させられ、物体に変化させられるということを、さっそく、死ぬことであると思うかもしれない。さらにまた、機械的な唯物論者のなかには、右の言葉を、わたしたちが、おのれ自身を、単なる客体として、非情冷酷に観察し、その法則性をあきらかにすることができるようになれば、自由の実現など、易々たることであるというふうに受けとるひともあるかもしれない。しかし、むろん、それはそのいずれのばあいをも示すものではない。一言にしていえば、それは、わたしたちが、物体の状態にまできびしく追いつめられ、みずからの非人間性をはっきり自覚するとき、かえって、わたしたちの闘争の決意は、具体的に明確な形をとる、という簡単な事実を指す。
 このような物体を、一般に人民と呼ぶ。かれらは、おのれの非人間性を、かれらを支配する物体や、かれらによって支配される物体の--生産手段や、その所有者の非人間性と対決させ、物体として、運動し、時に、静止する。人間とは、かれらを支配する物体が、その支配のおかげで、おのれを物体以外のなにものかであると思い込もうとするばあいにいだく幻影にほかならない。
 物体には生活がない。したがって、わたしにもまた、生活がない。しかし、わたしは、たしかに物体によって支配される物体ではあるが、私の支配する物体は、つまるところ、一本のペンにすぎず、若干、貧弱のそしりをまぬがれない。
    --粉川哲夫編『花田清輝評論集』(岩波文庫、1993年)。
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