« 【ご案内】4/19-20:地方スクーリング、熊本へ(倫理学) | トップページ | 『ツォリコーン・ゼミナール』 »

美しい日本、由緒正しい日本人はどこへ?

01_dscn7543

02p_langemarck

Benedict

〔一方において〕《国家》自身が次のような欲望そのものなのである。つまり、専制君主の頭から臣下たちの心へと、また知的な法則から自然の全体系へと(つまり、この法則を免れて自由になっている自然の全体系へと)移行しようとする欲望そのものなのである。〔ところが、他方において〕、《国家》を求める欲望が働いているのだ。すなわち、抑制の最も幻想的な機械である《国家》を求める欲望が。となると、《国家》は欲望する主体であるとともに、また欲望の対象であるということになる。
(中略)
ここにあるのは、《国家》の生成の二つの様相である。そのひとつは、〔地上の〕自然の体系を守りながら、次第に脱コード化する社会的な力の場に、《国家》を内在化する様相。いまひとつは、形而上学的体系を守りながら、次第に超コード化する超地上的な場に、《国家》を精神化する様相。無限の負債が内在化されるのと精神化されるのとは、同時でなければならない。良心の呵責の時は近づいている。それは偉大なシニシズムの時ともなるであろう。「内面化を抑圧され、恐ろしくなって自分自身の中に後退した〈畜群人間〉の内攻したあの残酷さ。こうした人間は、飼い馴らされるために、《国家》の中に閉じこめられて……。」
    --G・ドゥルーズ、F・ガタリ(市倉宏祐訳)『アンチ・オイディプス』(河出書房新社、1986年)。

 国家が「創造の共同体」に過ぎないと喝破したのはベネディクト・アンダーソン(Benedict Richard O'Gorman Anderson, 1936-)だが、そうした幻想に過ぎない国家や共同体を、側面から固定化する作用として機能しているのが、これまた幻想に過ぎない文化とか文明といったものである。

 由緒正しい固有の“日本文化”なんて存在しない。
 同じように、固有の英国文化も存在しないし、その国固有の文化なんてものはないのである。

 では文化とは何か。
 三省堂の『大辞林』なんかを紐解くと次のようにある。

1 人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の―」「東西の―の交流」

2 1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。

3 世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「―住宅」

 ここで問題にしようとする文化なるものは、うえの1の定義の部分である。
 冒頭に「人間の生活様式の全体」であるとすれば、「文化」なるものは、日々流動し変容しつづけている。その意味で、固定化した固有でスタティックな「文化」などは存在しようがない。そうだとすれば、「日本」や「英国」といったナショナルな切り口で弁別されるような、固有の文化がア・プリオリ(先験的)に存在できるはずがあろうもない。
 現在とは、常に流動している。
 固定化や固有化、そして静止化が常に不可能な、生活様式全体、あるいは生活そのものがしか存在しないのが現在である。

 さて、現在流通するような意味で用いられるようになった文化という言葉は、近代西欧の知の発明である。

 ここで注意したいのは発見ではなく、発明であるということだ。
 帝国主義思想・植民地思想を補完教化する理論の構築が目的で成立した近代知の成果である。植民地主義の流れで、西欧より“劣った”“野蛮”が発見され、その表裏をなす、文化・文明の自己認識が開かれる。二項対立を軸に、“優れた文化”、“進んだ文明”が形成されていくのである。

 ただし、冒頭で、示したように、文化とは「人間の生活様式の全体」であるとすれば、まさに、現在進行形として流動している現在を、文化として固定化することは不可能である。だとすれば、ひとびとはどこに由緒正しい、固定化された、そして静的な文化を、創造したのであろうか……。

 すなわち過去にである。
 過去であるなら、生活様式全体あるいは、そうした先人たちの生活そのものを固定化し固有化し、静的な文化として整備することはたやすいことである。おまけに美化することも可能である。

 いみじくも、博物館が整備されてくるのも、同じ時期である。そこでは野蛮と文明が対照的に展示され、人々の幻想を強化するモニュメントとして機能する。

 さて、そうした文化なるものが、想像の共同体たる“国家”なるものの独自性を強化するわけですが、この、現代的な意味での国家(国民国家、Nation-State)なるものが整備されてくるのもほぼ同時期である。

 そもそもフランス革命以前には、「国家」などという言葉は存在しなかった。中国でいう「国家」は、日本でいう「ミカド」であるし、江戸時代の日本人には、日本人意識すらなかったのである。あるのは、○○藩の構成意識だけで(郷土愛、パトリオティズム)、日本人としての意識(国民主義、ナショナリズム)などは皆無である。その意味で、現代的な意味合いでの国家などという概念は、ここ二百数十年の伝統しか持たない、はかない実在である。

 国家だとか伝統だとか文化だとかを、万世一系・永遠不変の高尚なものとして、ありがたく奉ることは、きわめて愚かなことである。宣揚する人々だけが大火傷するのはいっこうに構わないのだが、そうもいかないところが難しいところである。

 よく言われる言葉に、「健全なナショナリズム」だとか「正しいナショナリズム」という言い方がある。すなわち、ナショナリズムの負の歴史(私見によれば、すべてのナショナリズムの歴史が負の歴史に他ならないが)を反省した、一段高い・高尚なナショナリストたちが、自分たちのナショナリズムと、それとを区別して、自分たちのは、「健全なナショナリズム」であり、負の歴史に現れた在り方は「誤ったナショナリズム」という言い方が存在するが、そもそも「健全なナショナリズム」も存在しなければ、「誤ったナショナリズム」も存在しない。あるのは、「捏造された・想像されたナショナリズム」だけである。

 そうした文化や国家という捏造物に対する距離の取り方をひとりひとりが、射程に入れないことには、政治も経済も、育児も食事も、そして娯楽を語ることも不可能である。

 要は、幻想や想像や捏造にすぎないものを実体として享受したり、固定化された揺り動かすことのできない構築物と捉えないことである。

 国家という仕組みや、伝統という文化が、変更可能な“構築物”であることを、前提として理解しておかない限り、生活そのものを豊かにしようと思ったり、のびのびと生きていこうと思ったりすることなどは、できるはずもない。

 われわれは、実は無限の大海に住んでいるはずなのに、そこが閉じられた池であると錯覚しているだけである。それは池ではなく、海に張られたいけすである。いけすであるならば、境界線の変更は不可能ではない。

 そうした制限と抑圧、自由と不自由を正面から捉えない限り、幻想の捏造物を乗り越える、世界市民とはたりえないだろう。

 なにも、捏造だから、そうした国家を廃棄しろ!と、19世紀のアナーキストのように夢想的な革命を主張しているのではない。

 現実に、明日から、そうした国家を廃棄することは不可能である。
 ただ、住んでいる人間や、それと対峙している人間にとって、居心地の良い関係に結び直すことは不可能ではない。

 そうしたものの見方への変更が必要だと思われて他ならない。

 こっちの文化が優れている。お前の文化は低級だ。
 こっちの文化は、おまえの文化より古い。
 こっちの文化は、おまえの文化より繊細だ。
 だから、こっちの国は素晴らしい。お前の国は、ダメな国だ。

 はっきりとそう言いきれる人間の精神年齢は、無邪気な幼稚園児のそれである。
 無邪気は、諸手をあげてで歓迎できる要素ではない。ヘタをすると火傷する。
 そう主張する人だけが、大火傷するのであれば、それでいたしかたないが、そうもならないのが、過去の歴史である。

 ナショナリズムは過去のものではない。
 手を代え、品を代え、新しい装いでやってくる。
 

宇治家参去は、“万歳”という言葉に臆します。
万歳!というかけ声が、発明されたの明治初期。
中国の古典からの引用で、どこにも、日本古来のかけ声ではない。
あまり有り難がたがってると、痛い目みます。

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫) Book アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

著者:ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ
販売元:河出書房新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫) Book アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

著者:ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ
販売元:河出書房新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4) Book 定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

著者:ベネディクト・アンダーソン
販売元:書籍工房早山
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 【ご案内】4/19-20:地方スクーリング、熊本へ(倫理学) | トップページ | 『ツォリコーン・ゼミナール』 »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/20304648

この記事へのトラックバック一覧です: 美しい日本、由緒正しい日本人はどこへ?:

» 原始時代の人生 [哲学はなぜ間違うのか?]
原始時代の人間が、人生の目的について深く悩んだとは思えません。今晩の食料が足りな [続きを読む]

受信: 2008年4月17日 (木) 19時06分

« 【ご案内】4/19-20:地方スクーリング、熊本へ(倫理学) | トップページ | 『ツォリコーン・ゼミナール』 »