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人間主義再考<1> 評判の悪いヒューマニズム

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ヒューマニズムは人間の個性を発見し、これを十分に発揮させ、中世の生活におけるあの屈従から解放し、自己肯定と創造の自由な道を教えたものといわれている。しかしヒューマニズムにはまたこれとは反対の原理がある。そこには人間の向上、創造的人間能力の発見の原理ばかりではなく、人間の低下、創造的能力の枯渇、人間の弱体化の原理もある。(中略)自己自身を肯定し、人間的なものよりも偉大な一切のものを否定する人間は、究極において、彼自身の能力の意識を崩壊させる。これは近代史上のヒューマニズムにおける最も大きな逆説の一つである。
    --N.ベルジャーエフ(氷上英広訳)『歴史の意味』(白水社、1998年)。

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 20世紀初頭のロシアの思想家ベルジャーエフ(Nikolai Aleksandrovich Berdyaev,1874-1948)は、人間(中心)主義が人間の孤立化を招き、結果として人間性をその内部から崩壊せざるをえないと人間主義の問題点を指摘した。無制約な自己肯定は、人間そのものを弱体化させ、かえってアンチ・人間主義になってしまう。そのパラドックスを見事に示して見せたものである。

 たしかに、現代哲学の世界では、人間主義の評判はかなり悪い。
宗教的な世界観や社会制度による束縛から解放され、慢心しきったお坊ちゃん(オルテガ)と化し、みずから全知全能を自負して已まない現代人が、自然を征服し、環境を操作し、諸々の問題を引き起こした原因として人間主義、すなわち人間中心主義が批判の矢面に立たされている。

ヒューマニズムは、ラテン語の「フマニタス(humanitas)」由来する。このフマニタスとは、「人間的なもの」との意味であり、もともとはキケロ(Marcus Tullius Cicero,B.C.106-43)など古代ローマの哲人たちが用いた概念である。キケロの時代、ローマ世界の外側にある野蛮な(barbarus)世界に対して、人間的な(humanus)ものを指して、フマニタスと呼んだのである。これは広い教養・教育を意味し、人間の人間たる所以は、そうした教養・教育を身につけていることであるとされたのである。

こうしたフマニタスの概念を再生させたのがルネサンス期の人文主義者たちだが、ルネサンス期のフマニタスは、次の点で古典期と著しい対比をなしている。すなわち、「人間的なもの」は野蛮との対比ではなく、「神的なもの」との対比で扱われた。古代ローマ時代のヒューマニズムが野蛮と教育(文明)との対比で人を見て、人間化していくという戦いの意義をもっていたのに対して、ルネサンスのそれは人間を超えた(=神的な)ものへの戦いという意義をもっている。清濁あわせのむ人間の実像を描いたボッカチオや聖職者の堕落を指摘したエラスムスも文芸も、神的なものと対峙した人間に焦点があわされているのもそのためである。

ルネサンスを経て、17世紀を生きたデカルト(1596-1650)は、「我思う、故に我あり」と説き、“考える”ことの重要性を指摘した。デカルトにとって、すべての出発点は、あらゆる超越的なものを排した自己自身でなければならなかった。このデカルトの原理こそ、近代に誕生する“個人主義的ヒューマニズム”の基礎となる。「我思う、故に我あり」――すなわち自己が存在するためには、なにも超越的な存在者の援助は必要ではない、との宣言である。ただ必要なのは「考える」ことだけである。「近代的自我」とは<考える“わたし”>である。すべては考える私から出発し、尊厳の根拠もそこにある。このデカルト的発想を基礎にして「個人主義」が成立し、フランス革命を経て、人権という概念に結実する。デカルト的発想は、以後、西欧の知的伝統の主流となり、近代哲学では、人間存在の基盤を思惟に置くようになる。

近代のヒューマニズムは、<考える“わたし”>をすべての出発点とし、そこに尊厳をおく。この<考える“わたし”>こそ、彼我と交換不可能な「個人」のことであり、英語では<individual>と訳される。元々の意味は「分けられないもの(in-dividual)」である。つまり個人とは究極の単位であり、独立したものである。考え、行うことすべては自分自身の主体的行為である。個人主義的ヒューマニズムにおいては、この世界は自分を中心にまわっているともいえよう。世界の中心軸は、主体的に考え、行動するこの自分である。
ヒューマニズムが西欧において人々の心をひきつけ、近代以後の哲学・芸術・文学、さらには社会運動の原動力となってきたのは、神中心主義のキリスト教伝統が人間を抑圧していたという事実があったからである。圧迫があったからこそ、そこから人間を解放し、人間をこそ最も尊び、あらゆる創造的営みの主役にするべきであるとする(個人主義的)ヒューマニズムが、現実変革の原理として力をもちえたのである。フランス革命やアメリカの独立宣言、さらには以後、急速に広まる信教の自由もこうした思想と変革運動の所産である。元来、ヒューマニズムは、人間の尊厳性を認め、これを圧迫と束縛から解放することを目指したのであり、その限りにおいては高く評価することができよう。しかし、近代ヒューマニズムには人間そのものを再び危機的状況に陥れる諸問題をはらんでいる。
人間性の解放を謳った近代ヒューマニズムは、一方においては理性による厳格な真理の探求としてあらわれたが、他方においては、物質的・現世的な欲望の追求となってあらわれた。

真理の探求は、自然を機械的・物質的な対象としてのみ捉える志向性(=デカルト以降の心身二元論)から、自然は切り刻まれ、大自然に対する素朴な畏敬の念を失わさせる結果となった。環境に神性を見出さず、操作対象として扱った結果、環境問題が惹起したことはいうまでもない。そしてデカルトにより定式化された個人尊厳の原理は、「我思う」よりも「我あり」に重点が移ってしまい、人間の崇高性の真摯な探求が失われてしまう。そのため、自己の存在が無前提に肯定され、無制限に主張されるようになってしまい、結果として、人間の尊厳性を奪ってしまったのである。つまり、“尊極の個人”の尊重が、“わがままな個人”の肯定へ、はき違われてしまったのである。

こうした問題を踏まえると、人間を解放し、尊厳されるべき存在として真正にその存在を認めようという発想から誕生した人間主義(ヒューマニズム)の伝統は、ここにきて、人間存在そのものを崩壊させる唾棄すべき言説へと質的な変貌を遂げるに至っている。

現代の思想状況において、人間主義は実に評判が悪いのも頷ける。

古代ローマの文人テレンティウス(Marcus Terentius Varro,B.C.116-B.C.27)は次のように語ったという。

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私は人間である。人間に関することで私と無縁なものは一つもない。
Homo sum. Humani nil a me alienum puto.
    --テレンティウス(木村健治ほか訳)『 西洋古典叢書 ローマ喜劇集<5>』(京都大学学術出版会、2002年)。

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現実には、「私は人間である。人間に関することはすべて私と無縁である」といった<孤人>主義的フマニタスが蕭然と広がっている。

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