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ドナドナ倫理学

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「ドナドナ」
安井かずみ訳詞・ショロム セクンダ作曲

ある晴れた 昼さがり
いちばへ 続く道
荷馬車(にばしゃ)が ゴトゴト
子牛を 乗せてゆく
かわいい子牛 売られて行くよ
悲しそうなひとみで 見ているよ
ドナ ドナ ドナ ドナ
子牛を 乗せて
ドナ ドナ ドナ ドナ
荷馬車が ゆれる

青い空 そよぐ風
つばめが 飛びかう
荷馬車が いちばへ
子牛を 乗せて行く
もしもつばさが あったならば
楽しい牧場(まきば)に 帰れるものを
ドナ ドナ ドナ ドナ
子牛を 乗せて
ドナ ドナ ドナ ドナ
荷馬車が ゆれる
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どうも宇治家参去です。冒頭は有名な「ドナドナ」です。市場へ売られてゆく子牛への眼差しを歌い上げた童謡、反戦歌、神への歌と様々な解釈がありますが、ここではそれは措きます。注目したいのは、その子牛への眼差しと情(こころ)の問題です。実はここにこそ、倫理学が立ち上がる契機が孕まれているのではなかろうかと思うことが屢々ありましたので、ひとまず紹介しました。

その契機とは、小難しい体系や専門用語の羅列、もしくは暗記科目として講壇学問化する以前の、“道”としての倫理です。

人間という生きものは不思議な物で、たとえ相手が人間でない、動物であれ、植物であれ、他の存在と生(リアル)に向き合ったとき、すなわち他の存在を「目の当たりにしたとき」なんらかの形で“情(こころ)が動く”ようになっている。情が動くということは、すなわち、相手がなにであれ、両者の間に暗黙のうちに関係が生じてしまうという事態である。たとえ一瞬でもそれに対面すると、人間はそれに対して「無関係」ではいられなくなってしまうのである。

その眼差しが交差する瞬間と言外の情を「ドナドナ」は美しく歌い上げていると思います。

同じような牛のエピソードが、実は、中国の古典『孟子』で紹介されています。

少し長くなるが引用してみます。
※白文は入力が面倒なので割愛しています。

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斉の宣王問いて曰く、斉桓の事、聞くことを得べきか。孟子対(こた)えて曰く、仲尼(ちゅうじ)の徒、桓・文の事を道(い)う者無し。是の以に後世伝うる無く、臣未(われいま)だ之を聞かざるなり。以(已)む無くんば則ち王〔道を述べん〕か。曰く、徳如何なれば、則ち以て王たるべき。曰く、民を保んじて王たらんには、之を能く禦(とど)むる莫きなり。曰く、寡人の如き者も、以て民を保んずべきか。曰く、可なり。曰く、何に由りて吾が可なるを知るか。曰く、臣之を胡齕(こけつ)に聞けり。曰く、王堂上に坐せるとき、牛を牽きて堂下を過ぐる者有り。王之を見て曰く、牛何にか之(ゆ)く。対えて曰く、将に以て鍾(鐘)に釁(ちぬ)らんとす。王曰く、之を舎(お)け。吾その觳觫若(こくそくじょ)として罪無くして死地に就くに忍びざるなり。対えて曰く、然らば則ち鍾に釁ることを廃めんか。曰く、何ぞ廃むべけんや。羊を以て之に易(か)えよと。知らず諸有りや。曰く、これ有り。曰く、是の心以て王たるに足れり。百姓は皆王を以て愛(惜)しめりと為すも、臣は固より王の忍びざりしを知るなり。王曰く、然りや。誠に〔かかる〕百姓もあるか。斉の国褊小(へんしょう)なりと雖も、吾何ぞ一牛を愛しまんや。即ちその觳觫若として罪なくして死地に就くに忍びず、故に羊を以て之に易えしなり。曰く、王、百姓の王を以て愛しむと為すを異(怪)しむこと無れ。小を以て大に易えたり。彼悪んぞ之を知らん。王もしその罪なくして死地に就くを隠まば、則ち牛と羊と何ぞ択ばん。王笑いて曰く、是れ誠に何の心ぞや。我その財を愛しみて、之に易うるに羊を以てせるに非ざりしも、宣なるかな、百姓の我を愛しむと謂える。

曰く、傷むこと無れ。是れ乃ち仁術(道)なり。牛を見て未だ羊を見ざりしなり。君子の禽獣に於けるや、その生けるを見ては、その死するを見るに忍びず。その声を聞きては、その肉を食うに忍びず。是の以に君子は庖廚(ほうちゅう)を遠ざくるなり。王説(悦)びて曰く、詩に、他人心有りて、予之を忖度(はか)ると云えるは、夫子の謂なるかな。我乃ち之を行ない、反(省)みて之を求むれども、吾が心に得ず。夫子之を言いて我が心に於て戚戚焉(おもいあたるもの)有り。此の心の王たるに合(足)る所以の者は、何ぞや。曰く、王に復(白)す者有りて、吾が力は以て百鈞を挙ぐるに足るも、以て一羽を挙ぐるに足らず。明は以て秋毫の末を察るに足るも、輿新を見ずと曰わば、則ち王之を許さんか。曰く、否。今恩(なさけ)は以て禽獣に及ぶに足るも、功(いさしお)の百姓に至らざるは、独に何ぞや。然らば則ち一羽の挙がらざるは、力を用いざるが為なり。輿新の見えざるは、明を用いざるが為なり。百姓の保んぜられざるは、恩を用いざるが為なり。故に王の王たらざるは、為さざるなり、能わざるに非ざるなり。

斉の宣王がたずねられた。「斉の桓公と晋の文公の事蹟について、ひとつお話を承ることはできぬものだろうか。」孟子はお答えしていわれた。「孔子の流れをくむ者は、誰ひとりとして、桓公や文公のことを口にするものはありません。だから、なんの言い伝えもなく、私も彼らのことはなにも知りません。〔それでも〕是非にとおっしゃるなら、天下の王者となる道についてお話し申しあげましょう。」王がいわれた。「どんな徳があれば、王者となれるのだろうか。」孟子はこたえられた。「別に格別の徳とてはいりません。ただ仁政を行って人民の生活を安定すれば、王者となれます。これを、なんびととても妨害できません。」王がいわれた。「わしのようなものでも人民の生活の安定ができようか。」孟子はこたえられた。「勿論、できますとも。」王がいわれた。「どうしてそれが分るのじゃ。」孟子はこたえられた。「私はご家来の胡齕(こけつ)君から、こんな話を聞きました。王様がいつぞや御殿におられたとき、牛をひいて御殿の下を通ものがあった。王様はそれをご覧になって『その牛はどこへつれていくのじゃ』とおたずねになると、その男から『こんど新しく鐘をつくったので、この牛を殺してその血を鐘に塗り、お祭をするのです』ときかれて、『止めてくれ。道理で牛は物はそ言わぬが、罪もないのに刑場へ曳かれてゆくかのようにオドオドと恐れている。可哀想だ、助けてやれ』とおっしゃったのでしょう。『それでは、鐘に血を塗るお祭はやめにしましょうか』とその男が申しあげると、『なんで〔大切な〕祭がやめられようぞ。牛の代りに羊にしたらよかろう』とおっしゃられたとか。ほんとうにそんなことがあったのですか。」王がいわれた。「そうそう、そんなことがあった。」孟子はいわれた。「そのお心こそ、天下の王者となるのに十分なのです。ところが、人民たちは大〔きなもの〕を小〔さなもの〕にとりかえられたので、王様はけちんぼうだと口さがなくもお噂しています。だが、私には王様の〔情深い〕お心はよく分かっております。」王は苦笑いしていわれた。「さようか。なるほど、そんなことを申している人民どもがおるのか。斉の国がいくらちっぽけでも、このわしが、なんで牛の一匹ぐらい物惜しみしよう。ただ、罪もないのに殺されにゆくそのオドオドしているさまを見て、いかにも不憫とおもい、羊にかえさせたまでのことだ。」孟子はいわれた。「しかし王様、けちんぼうだといって非難するのも無理からぬことです。小さな羊で大きな牛ととりかえさせたのですから。〔なぜそうなされたのか〕、彼らには王様のお心のうちがよく分らんからのです。もし、罪もないのに殺されにゆくのが不憫だとおっしゃるなら、牛も羊もなんのちがいがありましょう。」王はまた苦笑いしていわれた。「これはなるほど。どんなつもりだったのかな。自分でもサッパリ分らぬ。物惜しみし〔て羊とかえさせ〕たのではないが、人民どもがそう申すのも尤もだわい。」

 すると孟子がいわれた。「人民たちがかれこれ申しても、決してお気にかけなさいますな。これこそ尊い仁術(仁への道)と申すもの。牛はご覧になったが、羊はまだご覧にならなかったからです。鳥でも獣でも、その生きているのを見ていては、殺されるのはとても見てはおれないし、〔殺されるときの哀しげな〕鳴き声を聞いては、とてもその肉を食べる気にはなれないものです。これが人間の心情です。だから、君子は調理場の近くを自分の居間とはしないのです。」王は〔これを聞いて〕たいへん喜んでいわれた。「詩経に『他人の心をば、われよくおしはかる』とあるが、正しく先生のことをいったようなものだ。自分でしたことだが、なぜ、ああした(羊にかえさせた)のか、考えてもサッパリ分らなかった。それが、先生のことばを聞くとひしひしと自分の心に思い当るのです。しかし、この心があれば十分王者となれるというのは、なぜだろう。」孟子はいわれた。「では、申しあげましょう。ここに誰かが王様に、『自分は力があるから、三千斤もある重いものでも持ちあげられるのだが、一枚の羽根はどうも持ちあげられない。自分は目敏(めざと)いから、秋に生えかわる細い毛の先でも見分けられるのだが、車いっぱいに積んだ薪はいっこうに見えない』と申しあげたら、王様は『なるほど、尤もだ』と信じられますか。」王様がいわれた。「なんで、そんな〔馬鹿げた〕ことが信じられるものか。」〔孟子がそこでいわれた。〕「それなら、申しあげますが、いま王様のおなさけはとりやけものにまで及んでいるほどなのに、肝心の人民にはサッパリそのご実績が及んでいないのは、これはいったいどういうわけでしょう。一枚の羽根が持ちあげられないというのは、力をだそうとしないからです。車いっぱいに積んだ薪が見えないというのは、見ようとしないからです。しも人民の生活が安定しないのは、あなさけをかけようとなさらぬからです。ですから、王様が〔仁政を施かれて〕王者となられないのは、なろうとなさらぬからであって、できないのではありません。」
巻第一 梁恵王章句上
    --小林勝人訳注『孟子 (上)』(岩波文庫、1968年)。
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出来事の要点(?)としては、王が人民に対して善を行いうるかと悩んでいたとき、王にその資格があることを理解させるために、孟子は以前王が行った逸話を掘り返す。
さる儀式の折、一等の牛が供犠のために曳きつれられていくのを王が目にしたときのことである。処刑場に引っ立てていかれる無辜の民にも似た、牛の怯えた様子に、王は「忍び」なかった。王は牛を放すように命じ、代わりに、「牛に代えて羊を用いよ」と命じる。さらに話は続くわけで、王者の資質、仁政の意味など、様々に探究すべき命題が凝縮された一節ですが、ここでは、牛の姿に「忍び」なかった所に集中してみようと思います。

牛の姿を見た王の情にはなにがおこったのだろうか。

孟子は言う。

王が、考える暇もなく、牛に代えて羊を用いよと提案したのは、牛の怯えた様子を「目の当たり」にしたからであって、羊のほうは「目の当たり」にしていなかったからだと。王は、怯えた一頭の牛の姿を自分の眼で見てしまった。その怯えに対する「忍び」ないこころの発露は、出来事的には、不意に出現した事件である。王は何か心の準備をしていたわけではない。不意の出来事であるにもかかわらず、王と牛が対峙した瞬間、絶対的な関係が立ち上がったわけである。

では一方の羊はどうか。

王は羊を「目の当たり」にしていない。王にとって、羊は「観念」にすぎず、「匿名」であり、「抽象的」であり、一切、両者の間に効果ある関係は存在していないのである。王は羊と対面しなかったのであり、牛の怯えに情が動かされ、その閉ざすことの出来なくなった関係が、羊には届かなかっただけである。だからこそ、代わりに羊を用いよと提案した王は、羊に対して一切の情が揺り動かされることなく、いわば、羊を事物と同列に扱っただけにすぎない。

本文中でも続いているように、そうした王の姿に、吝嗇だとか、一貫性がないとか様々な批判はでてくるが、孟子はそんなことを一切気にかけない。

王は苦しんでいるものを「目の当たりにすること」に「忍び」なかった。王は、それが人間でない他者であろうとも、その運命に「無関心」でいられなかったのである。いわば、「忍びざるもの」を前にして、直ちにとった、この反応こそ、王の王たる徳性を示すものであると孟子は言う。

主義に一貫性がない、そして吝嗇である……こうした傾向は、王の王たる徳性を損なうに充分の資質であるにもかかわらず、孟子はそこを問題にしない。なぜなら、いわば、「無関心であることの不可能性」にこそ倫理が自然と立ち上がる原初の場を見ているからである。

他者(の不幸)に対面したとき発現する忍びざる感情は、いかなる勘定からも生じない。いかな反省の対象でもなく、その反応が、いわば「自然になされる」ところにその特徴がある。計算づくの行動ではなく、「思わずなされた」行動である。その意味では、陳腐な言い方だが、偶然対峙した相手に対して、個人的な関心を乗り超え、人間は思わず「公正無私」な行いが出来るのである。自己を通り越して、自己に背いてまでも他者のために動く存在者が現出する瞬間である。

その瞬間こそ、倫理(学)が「自然」と立ち上がる瞬間なのだと思われる。
他者の圧倒的な存在に対して、ひとが「思わず」動き出す瞬間である。反省も言語もないにもない。

関係に対する責任が「自然」と動き出す瞬間である。
古代中国で、ひとつの単語として成立した「倫理」とは、「倫」すなわち「ともがら」であり、「理」すなわち「ことわり」である。その意味で「倫理」とは単純化すれば「人間(関係)の在り方」という部分が大きなウェイトをしめる、在り方といえよう。その意味では、人間がたったひとりでは、倫理は存在しない。しかし、他者との関係が偶然であろうが、必然であろうが、全く人間はその関係を断ち切り、孤立して存在することも不可能である。ここでいう他者とは、人間だけに限られない。

そうした圧倒的に迫ってくる関係にたいして、敏感でありたい……そう思うある日の宇治家参去でした。

そういえば、宇治家参去より長く、帰省していた細君が帰ってきた。
しかし、子供を連れて帰らなかった。
子供曰く、もう少し、香川での生活を楽しみたいとのこと。週末に(子供から見れば)祖父母が東京までつれてきてくれるとのこと。
細君が子供と物理的に離ればなれになったのは、生まれてから今日が実ははじめて。
どこに行くにも、なにをするにも一緒だった。
だから、空港で別れ、子供に「ママ、東京でいい子にするんだよ」と言われたとき、涙があふれ出しそうになったとのことだ。

自然に溢れ出す涙は美しい。

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