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絶対とか普遍とか……そのあたり

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またまた素描ですいません。

ただ大事かなと思ったので、コメントでしたが、日記に転載します。

絶対的な正義とか善といったものをどう捉えるのか……ひとつの考え方です。

人間主義の問題に限られたことではないですが、ものごとを固定化してとらえることに何か違和感を感じるので、書いた次第ですが、たとえば人間主義に関しては、スケッチになりますが、<1><2>のとおりで、また文化や伝統に関しては、以前も論じましたが、日々、生々流転しているのが実態であるにも関わらず、人はどこか過去の一点をスタティックに「固定化」して、“ありがたい”文化や他より素晴らしい“伝統”を夢想する。

そうした「固定化」に対する違和感とでも言えばいいのでしょうかね。ただし、やはり、人間は、“立ち止まって”考える習性がありますので、やはり、考える際、どこか“固定化”してしまう……そうした、解釈学的循環の中にいるのが現実ですが、そのことを踏まえた上で、文化や伝統との関係、また他者との関係を、変更不可能な固定化されたものとして受け止めるのではなく、現実の緊張的な関係のなかで、いかに価値創造していくのか、そちらのほうが重要なのかなと考えていましたので。

さて、正義とか絶対的な善という問題ですが、プラトンのような立場にたてば、正義とか絶対的な善は、所与のものとしてアプリオリに存在することになると思います。もちろんそう主張する背景もありますが、プラトンの当時、流行していた思潮のひとつが、相対的な快楽主義という立場です。「人間は万物の尺度である」(プロタゴラス)とのソフィストの格言(人間尺度論)は有名ですが、<よい>とか<正しい>ということは、そのひとにとって<よい>とか<正しい>ということであって、その意味ですべての物事・価値観は相対的であるという主張です。その主張ににのって、彼らは「善とは快楽である」という主張が出てきたわけですが、快楽とは長続きするものではない。例えば、腹が減ったら飯を食う。満腹を目指す運動が快楽(感・幸福感)であるとすれば、満腹になったにもかかわらず、食べ続ければそのことは苦痛である。そうした部分に対する批判が惹起する。その流れで出てくるのがソクラテスといえます。ソクラテスは、(それが何だかわからないが)人間には、個人を超えた誰にでも共通するようなαでありΩであるようなものは何かあるはずだ(それが真理ということなのでしょうが)と考え、問答を繰り返します。そこでソフィストや当時の有力者と呼ばれた人々は、ソクラテスとの対話のなかで、その無知が暴かれ、ソクラテスを刑死へと追いやるわけです。

ですので、ソクラテスは、「だれにでも当てはまるような普遍的(絶対的といってもよいと思いますが)真理は、何かあるはずだ!」と発想しましたが、結局「それが何か」については語る前に亡くなります。

そこで弟子のプラトンがその課題と格闘するのですが、そこで提示されるのが、イデアという概念です。

机といった場合、ひとびとはいろいろな机を想像し、絵に描くことが出来ます。ある人は四角いテーブルを、ある人はちゃぶ台を、そしてある人は……。そこで出てくるのは、現実の様々な机たちです。しかし、それが机であることにはかわらない。そうした共通性・本質性が、現実の机の背後にある。それがイデアというものと考えていいと思います。机には机のイデアが、そしてペンにはペンのイデアが、そして勇気には勇気のイデアがある。そして最高のイデアが善のイデアであるとプラトンは考えました。

このイデアはある意味で現実の感覚的な世界から、まさに超越したイデア界にあるとされたわけですが、ひとはそれをただしく認識し、行い為すところに、正しい生き方、幸せがあると考えたわけです。『メノン』でも魂の不死が語られていますが、人間は現象世界に生まれる前、イデア界で、イデアを見ていた。しかし現実世界に肉体をもって生まれてきた際、それを忘れている。しかし古物をみて、イデアを想起することはできる、だから真実へ迫ることが可能となる……そういう論調ですよね。

※ただし、乱暴な私見によれば、ソクラテスは、普遍的客観的な真理はあるはずだと考え、それを何かはいわなかった。しかしプラトンは、それをイデアと呼び、考え方を深化・整理しただけにすぎないでは?と思ったりもします。

でこのあとのアリストテレス。

アリストテレスは、プラトンと違い、真理は現実に内在すると考えました。
ラファエロの『アテナイの学堂』なんかを見れば二人の対照性が理解できます。中央にプラトンとアリストテレスが語り合いながら歩いている部分があります。プラトンは天空を指さし、普遍的真理は、現実世界を超越したイデア界にあるということを暗示しつつ、横のアリストテレスは地面へ向けて指さしています。普遍的真理は、現実世界に内在する……そうした立場を暗示させます。

アリストテレスは現実から発想しますすなわち、善の問題に関していえば(『ニコマコス倫理学』で詳しく触れられていますが)、善は、まずもってこの人間の世界から考えるべきだと論を立てます。善とは何か……すなわち人間が皆望んでいるものですが、その“よさ(善さ)”とは何か?それは「幸福」(エウダイモニア)であるとアリストテレスはいいます。幸福はこの現実世界における善の実現であり、「人間にとっての善とは幸福である」このように主張しました。

そして善=幸福の活動はどこにあるのか、それは魂の活動であり、幸福はスタティックな在り方ではなく、活動にこそあるとアリストテレスはいいます。

アリストテレス主義の要点は二つです。ひとつは、善を幸福として考えること。このことはプラトンと逆の発想です。現実の活動の中から善の内実を語っているといえます。そしてもうひとつは、幸福を魂の活動に見出したことです。

例えば、アリストテレスにおいては、健康で不自由のない生活が幸福かといった場合、幸福ではないということになる。健康も不自由のない生活も状態であって、活動ではないからです。健康でも、それをどのように使うかであり、不自由のない、例えば、お金に不自由がないと言った場合、どのように使うのか、すこし踏み込んで言えば、どのように「よく使うのか」それができないと、幸福とはなりません。この“よく”ということに関してアリストテレスは、習慣的徳と知性的徳というふたつのアプローチをもうけていますが、その部分はひとまず措きます。

こうしたふたりの善とか正義とか普遍的真理といったものを対比した場合、非常に通俗的なものの言い方になり恐縮ですが、プラトン主義がどちらかといえば、二元論的(それがプラトニックという所以ですが)・真理実在論であり、アリストテレス主義の場合、一元論的・内在論といえるかもしれません。

で……、現実の場で考えてみると、考え方として、絶対的な正義や、絶対的な善といったものが、どこか、われわれの泥沼にまみれた現実世界を超越した真理の世界に、あらかじめ所与のものとして存在すると考えることは、すっきりするといえば、すっきりします。宇宙の法則しかり、自然界の法則しかりです。われわれの現実的行動を、形而上からささえる基盤があると考えるのは発想としてすっきりしています。またそう思うことも多いと思います。

それに対して、普遍的真理が内在的なものと考えれば、アリストテレスの幸福論のように、<善く>生きるといっても、人によってアプローチや達成の方途が全く異なってきます。どのように価値的に<善く>生きるのか……という問題が当事者に投げ出されているという現実に当惑させられてしまうことの方が多いと思います(もちろん、アリストテレスの場合は、一つ観想という魂の知的運動に最大の幸福・善の実現を見出していますが、発想をかりるだけでそこまでは踏み込まないようにします)。

前フリがながくなってしまいました……。

で……、どちらが良いのか?というわけではありませんが、ワタシの実感ですが(実感デスヨ)、普遍的な真理とか絶対的なαでありΩであるような軸とでもいえばいいでしょうか……そうしたものは、あるのかもしれないと思います。ただカントがいうように、人間の理性の力には限界があるから確認のしようがない。感性界に生きる我々は、イデアが存在するような叡智界(プラトンのいうようなイデア界)に存在する物自体を正しく認識することは不可能です。だから、それに「ふさわしく」生きる。また「(幸福とか真理とか正義とか絶対的な善とかに)ふさわしくあるような自己を目指して」現実を生きていく。そのことしかできないのかと思います。

もちろん、いうまでもありませんが、そうした現実の緊張感を超克するのは宗教的な真理把握(宗教体験)になるのだと思いますが、議論としては、世俗に生きる人間のレベルで話を進めてみました。

カントのいうように、人間は、絶対的な善とか正義を、正しく認識することはできないとしても、それに対して、ふさわしくあるように人間は努力することが可能である。だとすれば、不完全であっても、現実には善とか正義とかを実現することは可能になるんだと思います。ただそれはひとによって千差万別で、善や正義を実現させるマニュアルとかハウツゥー本はないんだと思います。でも、人間はひとりではありません。目指そう!と励まし合い、体験を語り合いながら、漸進することは可能だと思います。

あと蛇足ですが、絶対的な真理が人間の存在と関係なく、所与のものとして存在するということを巡って、詩聖タゴールとアインシュタインが論争をしております。アインシュタインは絶対的な真理が人間の存在と関係なく存在すると主張しました。例えば、万有引力の法則を例に取ってみれば、そこに人間が存在しようがしまいが、存在する。人間という生き物が仮に地球上に存在しないとしても、リンゴは木から落ちる。だから普遍的な絶対的な真理は、アプリオリに存在するとの主張です。

この主張に対して、タゴールは、絶対的な真理とか普遍的な真理というものは、人間存在の関わり抜きには存在しえないと主張しました。人間が存在しない地球において、リンゴがおちても、それは真理としての万有引力の法則ではない。人間という存在と無関係の真理は真理でないというのがタゴールの主張です。

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真理が人間性から遊離して存在するというのは、実際には科学そのものを否定することになる。人間に知り、理解できる事実だけを、科学は合理的概念として体系づけることができるからであり、論理とは、機械的な人間がつくりだした思考の機構であるからである。
     --タゴール(森本達雄訳)「人間の宗教」、『タゴール著作集 第7巻』(第三文明社、1986年)。

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タゴールのいう真理とは、人間の精神によって把握されるものであり、たんなる論理的知性とか悟性によって把握されるのではありません。全体的な精神性の立場から、経験的に把握されるものである。だから科学もまた人間という立場を離れることは出来ず、人間と無関係な真理を考えるということ自体、科学の自己否定であるという主張です。

こういう考えに耳を傾けてみると、絶対的とか、普遍的とか、そうした、いわば、「誰にも当てはまり」「だれもがそう思わざるを得ない」というような考え方(真理とそれを読んでよいのでしょうが)は存在するのは存在するが、それは人間のいきているこの現象世界を超越した、どこか宇宙の果てに存在する所与の法則とか価値機軸ではないのかもしれません。その意味で、絶対的とか、普遍的とか、そういうものは、予めあるのではなく、あったとしても、「誰にでも獲得可能な」という意味で、絶対的で(=そう考えざるを得ない)、普遍的(=誰にでも当てはまる)のだと思います。

哲学とは何か……といった場合、いつも次のように定義しています。

すなわち、

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哲学とは、人間が世界について、自分について考えるということ。その際、哲学とは、人間が言語を通して徹底的かつ精確に、合理的に考えようとする試みである。その営みは、自分の考えを“普遍的真理”と思い込んで他者に押しつけようとするものではない。
その反対に、自分の考えを他者の吟味に委ね、相互批判を通して、多くの人を納得せしめるような強い考え方(普遍的な考え方や原理)を作り出そうとするものでなければならない。
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その意味でようやくたどり着きましたが、「正義とか絶対的な善というもの」は存在するといえば存在すると思います。ただし、それを所与の原理原則として「固定化」することは、イデオロギーの奴隷となってしまいます。そうではなく、例えば、それを普遍化ならしめる過酷な対話レースを勝ち抜き、獲得されるところの、だれもがそう考えざるをえない価値機軸こそ、本来的な強さと説得力を持つ、「正義とか絶対的な善」なのではないのかな……そんなところです。

だから、固定化の議論で言い換えれば、正義とか善といったものは、確かにあると思いますが、それを一人一人が、自分の現場で、普遍化たらしめる、過酷な対話レースを繰り返す中で、ときには涙し、ときには友と深い握手をしたり、ときには笑いながら、獲得していくものではなかろうかと思います。どこかに完成品があるようではないと思うのですが……。

本当の価値とか正義とか真理というものは、本来は自分自身が創造するもだと思います。人間自身を離れて存在するものこそが、なにか客観的な真理だとする考え方が強いと思いますが、そうした真理はしばしば権威化し、人間を支配するものへ転化してしまいます。権威となった真理は私のものではなく、おそらくそれは真理ということもできないものなんだと思います。

趣意がつたわっていないとすいません。

こういう話は、酒でも飲みながらヤルのが一番なんですけど。

いつか皆さんと呑みながら話したいものですネ。

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哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事

コメント

 はじめまして。人間主義や人間中心主義と科学的真理に関して論じられていらっしゃるようなので、私が常々疑問に思っていることについて質問させて頂きます。

 管理人さんは人間主義あるいは人間中心主義の問題を固定性であるとお考えのようですが、差異理論的に観ていけば、管理人さんの見解は<脱固定化>を意味論的に固定化していることになります。フランクフルト学派の皆さんが<批判>と<肯定>の二項図式それ自体を<無批判的に>利用し続けてしまったことと同じです。脱固定化を主張するには、<脱固定化>と<固定化>という区別それ自体の固定化に対して、盲目的になるしかありません。

 同様のことが、ヒューマニズムにも言えます。人間主義にしても人間中心主義にしても、「これが人間だ」と言わんとする指し示しが施されているはずです。とするなら、<被造物の自覚>や<凡夫の自覚>を持つ人間性を主義主張とするならば、<被造物>や<凡夫>に無自覚な人間に人間性を見出す訳にはいきません。ゲシュタルト的に言えば、人間的な人間と非人間的な人間は「地」と「図」の関係です。<人間の哲学>を謳う方々は、自覚の有無を問わず、その哲学的見解に従事しない全ての人間に「ひとでなし」というラベリングを貼ることになるでしょう。

 こうなると、作為的に、こう問い掛けたくなります。人間主義にせよ人間中心主義にせよ、同じ生物種に排他的なラベルを貼る結果を招いてしまう見解は、果たして人間的なのか。これは端的に包摂と排除の逆説と言えるでしょう。管理人さんは巧妙にご自身の人間主義を他の人間中心主義と差異化されていらっしゃるようですが、「これは人間だ」と指し示している時点で既に、「これではない者は人間ではない」と暗示することになるでしょう。

 最近では、加害者と統治権力側との戦いであるはずの刑事訴追に対して、何故か「被害者の人権」というワケのわからない概念を持ち出す死刑賛同ブロガーが散見されました。法と憲法の差異が度外視され、人間的な被害者と非人間的な加害者という区別が導入されたのです。人間中心主義という哲学的レイヤーを持たない一般人でも、人間性を指し示すことはできた訳ですね。

 無論、我々の身の回りには絶えず人間が居ます。だから、人間を指し示すのは誰にでもできます。管理人さんのように哲学的な思考訓練を果たした方々であれば、私が申し上げたラベリングの件も容易く解消されるのでしょう。しかし問題は、一般人です。

 私見によりますと、一般人にとって人間本位なヒューマニズムは、構造的な複雑性に対する機能的な単純化として活躍していると考えます。システム理論的に言えば、複雑性の選択的な縮減。もっと一般的な用語で言えば、アルノルト・ゲーレン的な意味で「負担軽減」です。

 たとえば先程申し上げた死刑大賛成志向に関して言えば、複雑極まりない法的な問題を、「犯罪者という人間を生かすか否か」という単純な問題へと縮減する働きがあります。<生きるべき人間>と<死すべき人間>という区別を顕在化させることで、一般人にとってカオスのように思える法的・憲法的な思考を潜在化させている訳ですね。彼らにとって、「死刑制度強化後に自分が犯罪者になったらどうするのか?」や「死刑制度に対する政治的利権争いは無いのか?」といったサイドエフェクツについては、棚上げの状態です。自分たちが犯罪者に「負担軽減」として依存しているという皮肉に、彼らは知る由もありません。

 哲学者のご活躍は賛美したいところではあります。しかし、ヒューマニズム、人間主義、あるいは人間中心主義という学知に無知な一般人が、その学知を<理解>することなく<利用>しているというのが、現状です。これでは、哲学者がいくら有力な学知を形式化したところで、一般人が<人間的かどうかもわからないヒューマニズム>に没入するという偶発性を制御し切ることは困難極まりないでしょう。こうした背景の中で、哲学的論考を続ける方々が「人間性」に言及し続けることに何らかの動機付けはあるのでしょうか。私はそこに興味があります。

投稿: 木村アンパンマン | 2008年4月29日 (火) 18時13分

木村アンパンマン様、


宇治家参去と申します流しの神学研究の学徒です。

内容が無いに等しく、方法論的を全く無視した呟きのようなブログに、学識豊かなインスパイアされるコメントを頂き、ありがとうございます。
知の最先端を歩む木村様のような学生ではなく、学生時代は日吉に1年、三田に都合6年いましたが、呑んで遊んでばかりので学生時代でした(体育会でしたので)。

チト脱線しました。
では、はじめようと思いますが、結論から先に言えば、無学なつまらない奴との誹りをおそらく受けると思いますが、甘受します。
無学というか、被造物だからお許しを。
そしてこんな印象批判に過ぎないレスを返されるようならコメントすべきでなかったと思いましたら大変申し訳ございません。


さて、はじめに、二項図式自体を<無批判的に>利用し続けてしまったことの“目を覚まして頂き”ありがとうございます。自分では、“自覚(目を覚ましている)”つもりですが、なかなかそうでない。現在の構造を批判する過程で、無意識に、同じ立ち位置にすりかわってしまうことを避けねばと思っていますが、批判に惑溺する過程でそうなってしまうことがしばしばあります。議論の進め方として、人間中心主義に対する人間主義の提示もそう取られかねない部分があると思います。そうしたところは猛省せねばならないと思います。

心根としてですが、形而上学の解体を迫る現代思想に共鳴しつつも、伝統的な形而上学への憧憬とでもいえばいいのでしょうか……そうした心根がありますので、そうなるのかもしれません。

いずれにしましても、哲学者という生きものは、つまるところカントが定式化した問い、すなわち、「人間とは何か」に縛れているのかもしれません。その探求の過程で、「人間とはこれだ!」(裏返せば、そのカテゴリーに当てはまらない人間を「ヒトデナシ」と規定する)という形而上学の暴力が発生したことは指摘するまでもなく否めません。
それがいわば、概念の固定化であり、それを脱固定化する過程で、さらに固定化する負の連鎖が永劫に続いているのが現状だしょう。そしてその罠から宇治家参去も抜け出せないでいるのが現状だと思います。

つくづく、実感するのは、現実世界においてですが、(わたしも聖人君主ではありませんので)いわゆる、“ヒトデナシ”“無礼者”(清水幾太郎)と思える人と直面・対峙する瞬間は比較的よく存在します。そうしたときに、無意識に、自身を形而上学的に仮設された「人間」の側へ措定し、その“ヒトデナシ”なる生きものを、「人間」の圏外に置いてしまうことは厳然と存在します。ソクラテスにいわせれば、そのことを自覚しているだけ自分の方がマシと言えなくもないですが、そういう時点でソクラテスの無知の知は内崩しているかもしれません。マシという言い方にすでに、ヒトデナシを超克する「人間中心主義」の視座が見え隠れしますからね。
どうしましょうか?……というのが正直な現状です。

もちろん、コメントを頂いた文章に関しては、そうした部分を自覚する手掛かりとして--本当は世俗レベルで追求すべきだったのでしょうが、そのルールを無自覚に破り捨てている時点で破綻をきたしているわけでもありますが--、例えばということで、被造物の自覚(乃至は凡夫の自覚)ということを考えてみました。通俗化していうならば、それは内村鑑三の預言者的な近代(人)への警世的批判を手掛かりにということですが、内村(乃至は吉満義彦)や、宮沢賢治の場合は、前者においては、被造物を自覚している人間(乃至は凡夫の自覚)=真正な人間、被造物を自覚していない人間(前に同じ)=ヒトデナシであったとしても、その両者が、神(乃至は仏)という翠点の現前では、両者の同じである。もちろん、それは宗教の言説になりますので、信じる・信じない(諸宗教間)というレベルでの、非人間化がもっとも問題すべき暴力として発動しますが……。

ま、いずれにせよ、そのへんを考えながら、書いてみたわけですが、ご指摘の通り、「これは人間ではないもの」という暴力を孕んでいるのだと思います。

そうしたところで、常々痛感するのが、人間観の問題になってきますが、「これは人間だ」と指し示す要素と「これではない者は人間ではない」を指し示す要素が、個体として別々の人格に整理されて存在するのではなく、生物学的にはひとつの人間に、両者が内在するという視点をふまえたうえで、どのように人間と向き合っていくのか、そこを考える必要はあるのではなかろうか……と実感します。もちろん、そこにもすでに、差異化の暴力は含まれているのでしょうが、ひとつの実感です。

先に、他者にヒトデナシを認識する自己を表現しましたが、そうしたヒトデナシ性が他者に先験的に存在するのではなく、自己にも先験的に存在するということです。もちろんこうしたことは、宇治家参去の実感レベルですので、言語による反省・哲学的な基礎付け(基礎付け主義の問題もありますが)は何等なされていません。

頼りにしているのは池波正太郎の人間観ですがね。


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「人間(ひと)とは、妙な生きものよ」
「はあ……?」
「悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。こころをゆるし合う友をだまして、そのこころを傷つけまいとする。ふふ……これ久栄。これでおれも蔭へまわっては、何をしているか知れたものではないぞ」
「お粥が、さまてしまいまする」
    --池波正太郎「明神の次郎吉」、『鬼平犯科帳 第8巻』(文春文庫、2000年)。


人間とか人生とかの味わいというものは、理屈では決められない中間色にあるんだ。つまり白と黒の間の取りなしに、そのもっとも肝心な部分をそっくり捨てちゃって、白か黒かだけですべてを決めてしまう時代だからね、いまは。

人間という生き物は矛盾の塊なんだよ。死ぬがために生まれてきて、死ぬがために毎日飯を食って……そうでしょう。こんな矛盾の存在というのはないんだ。そういう矛盾だらけの人間が、形成している社会もまた矛盾の社会なんだよ、すべてが。

矛盾人間のつくっている矛盾社会なんだから、それに適応したやりかたで人間社会というものは進歩させていかなきゃならない。科学的に、理論的にすべてを律してしまおうとしたら、人間の社会というものはすごく不幸なものになっていくわけですよ。必ずしも白と黒に割り切れるものではない。その中間色というものがあるということですよ。
--池波正太郎『男の作法』(新潮文庫、1984年)。

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単純化していえば、清濁併せのむ存在としての人間存在の自覚ということですが、そんなことなら昔からいわれているゼと言われればそれまでですが、そうしたところをふまえ、「これは人間だ」/「これではない者は人間ではない」という二項図式を超克する(超克という言い方自体、問題のある言い方ですけど)視座を練り上げるのが、今の課題かもしれません。ただ、プロパーが神学になりますので、そこに宗教的視座が介在しますので、哲学という世俗の言語での表現としてはすでに、破綻が予期されるかもしれませんが、気長に待ってください。


さて、死刑への言及、木村アンパンマン様の死刑関係へのコメントを読ませて頂きましたが、議論としてすっきり納得です。そんなコメントは必要ないよ!と叱られそうですが、宇治家参去の場合、<生きるべき人間>と<死すべき人間>という区別を顕在化を前にすると眩暈を覚えてしまい、立ちすくんでしまいます。もちろん、そうした部分への適切な反応ができるほどコンテンツがないという大問題も抱えていますが……、そもそも人間が人間対して、生死の判断ができるなどとは夢想しておりませんので、フランツ・カフカがよく描く主人公のように、問題という壁や門の前で、待っている、立ちすくんでいるというのが正直なところです、こう表現すると、カトリック的といわれ、わらわれそうですが、そういう部分もありますが、憲法と法の関係、基本的人権の関わり、そしてコメント頂いた「棚上げ状態」の問題は深く共感しております。こうしたところが、本来は広く認知されるべきなのでしょうが……。


では、最後の部分ですが、これが一番大きな問題かもしれません。

ここですよね。

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 哲学者のご活躍は賛美したいところではあります。しかし、ヒューマニズム、人間主義、あるいは人間中心主義という学知に無知な一般人が、その学知を<理解>することなく<利用>しているというのが、現状です。これでは、哲学者がいくら有力な学知を形式化したところで、一般人が<人間的かどうかもわからないヒューマニズム>に没入するという偶発性を制御し切ることは困難極まりないでしょう。こうした背景の中で、哲学的論考を続ける方々が「人間性」に言及し続けることに何らかの動機付けはあるのでしょうか。私はそこに興味があります。

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言うまでもありませんが、知識人が、劣った無知な一般人を<前衛>していく時代は過去のものとなり、学知を<理解>することなく<利用>できるようになった現状は、歓迎するとか忌諱するといった反応よりも、そうなっているのだから、そこで生きていくしかないとは思いますが、哲学者としてどのように関わるのかといわれれば、無駄と言われれば無駄な学的探求を行っているのかもしれないという危惧を頂くことは現実にはしばしばあります。おそらく大杉栄などにいわせれば、“智識的手淫(intellectual masturbation)”に過ぎないと断罪されそうです。


断罪されてもなお、「人間性」に言及し続けるのでしょうか……。


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世界を日常的と呼び、それを非・本来的なものとして断罪することは、飢えと乾きの真摯さを見誤ることだ。
    --E.レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』(講談社学術文庫、1996年)。
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「存在そのものが悪」(レヴィナス)であるかもしれませんが、そうした人間が好きだから、言及し続けているのだと思います。

好きというと語弊があるかもしれませんが、そうしたひととの関わりを抜きに、生活することは不可能であるからです。

せっぱ詰まって考えています。だからここでいう人間とは、「存在者」の「存在者性」を失った「存在」ではありません。個別の顔をもち、匂いをもち、習慣をもち、嗜好をもった、横溢な「存在者性」をもって圧倒的に、宇治家参去に迫ってくる人間たちです。

「頼むから静かにしてくれ」といいたくなる人間たちもいます。またその人間たちを、限りなく、いとおしいと思うときもあります。そうした、いわば、生の人間が好き……というよりも、自分自身も生の人間であり、個物をはなれて存在はできません。

だから言及しつづけるのかもしれません。
変革ができなくとも、愚か者とののしられようと、そして無学と蔑まれようと。


最後に、ドストエフスキーの言葉でも。


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自分は人類を愛しているけれど、われながら自分に呆(あき)れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮らすことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしはわずか一昼夜のうちに立派な人を憎むようにさえなりかねない。ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、別の人は風邪をひいていて、のべつ洟(はな)をかむという理由だけで、わたしは憎みかねないのだ。わたしは人がほんのちょっとでも接触するだけで、その人たちの敵になってしまうのだろう。その代わりいつも、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対する私の愛はますます熱烈になってゆくのだ。
    --ドストエフスキー(原卓也訳)『カラマーゾフの兄弟(上)』新潮文庫、1978年。

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木村アンパンマン・賢兄のご活躍を心よりお祈り申しあげます。


いずれにしましても、江ノ島から酔っぱらって帰ってきて、勢いで書いているので、またおちついて感が手見ようと思います。

インスパイアを受けましたが、おそらく木村様をインスパイアできずすいません。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年4月30日 (水) 04時24分

 私が依拠するシステム理論は、ラディカルな構成主義を前提に差異理論を展開していくことに、特徴があります。これは、デリダ的な脱構築主義に近接するスタンスではありますが、共時性と通時性のどちらにも言及するところに、差異があります。このスタンスを背景に言うと、今回の問題への対処法は、盲目的であることに盲目的になるしか無いのではないかと思うのです。

 私にとって目を逸らしたくなるほど悲惨だと思うことは、二項図式の超克それ自体もまた<二項図式>と<非二項図式>という二項図式に依拠してしまっているということです。脱固定化に付き纏う固定化や批判理論に伴う無批判性と同じように、区別を付与する観察者は不可避的にその区別それ自体を区別し切れていない。観察者にとって、観察に使用した区別が盲点となるのです。

 二項図式の超克が二項図式に回収されてしまうとすれば、あらゆる観察は区別に依拠します。観察するということは、区別するということです。だとすれば、あらゆる観察には区別それ自体を区別できないという盲点が付き纏うということになります。

 これを前提に言えば、二項図式の超克の放棄にもまた、盲点が伴います。超克が無力化されるとすれば、超克の放棄にも無力が伴います。無力を理由に放棄することが可能ならば、同じ理由で、超克の放棄を放棄することも可能でしょう。だとすれば、時折超克が有力となり、時折超克が無力となる、としか言えません。人間的人間の包摂には、不可避的に非人間的人間の排除が伴うのは、尤もなことです。

 こうした状況から考えていくと、宇治家参去さんほど哲学に詳しくない私には、カント的な意味でのアンチノミーを想起します。二項図式に回収されてしまうという背理を知りつつ二項図式の超克を目指すのも正しい命題。二項図式の陥穽に自覚の有無を問わず二項図式の徹底を以って対処するというのも正しい命題。ノイラートの船に不平を言うのも正しい命題。ノイラートの船を満喫するのも正しい命題。相互に矛盾する二つの命題が、同時的に発現しているということです。だから、二項図式の超克を目指し「人でなし」のラベリングに対処した上でヒューマニズムを提唱することも可能でしょうし、「人でなし」のラベリングに対処せずにヒューマニズムを提唱することも可能であると推測できます。哲学的な訓練を果たした方々であれば前者のスタンスを奨励するでしょうし、そうではない一般人ならば、後者のスタンスで落ち着くのではないかと思います。

 しかし、先験的理念の第三の自己矛盾が自然と人為の二項図式で表して良いとすれば(哲学者には怒られそうですが、社会学の間でよく話題になるのはこの区別なのです。)、その反対命題側に科学的な人為は及びません。とすると、反対命題側に観点を置き正命題側に盲点を位置づけるならば、アンチノミーそれ自体が潜在化します。と言うのも、ラディカルな構成主義に準拠するなら、アンチノミーそれ自体が既にカントの思考回路から成立した人為的構成物だからです。仮に自然法則によって成立する世界こそが正しいとするなら、アンチノミーという人為が成立した根拠が希薄化します。これは、スペンサー=ブラウンから二クラス・ルーマンへと継承された「形式のリ・エントリー」という現象学的なレトリックに基づくものです。アンチノミーそれ自体が既にアンチノミー化しているために、「アンチノミーが成立する」という正命題と「アンチノミーが成立しない」という反対命題が同時に成立してしまっている、というパラドクスが顕在化しているのです。

 このパラドキシカルな二項図式を受け止めるならば、「アンチノミーが成立しない」という指し示しの内部に、「アンチノミーが成立する」という指し示しが構成されてしまいます。だとすると、最初に「アンチノミーが成立しない」という反対命題に依拠した場合、<二項図式の超克>と<超克の放棄>というアンチノミーについても、潜在化させることが可能になります。つまり、どちらか一方の命題のみを顕在化させることでその命題に没入できるということです。要は、どちらか一方を盲点として位置づけることで、その時点で残された他方に観点を置くことができる、ということになります。

 ポイントは、その時点でその観点に没入できるということです。つまり、次の時点では異なる観点に視点を移動させている可能性もあります。デリダが単なる「差異」ではなく「差延」という言葉を使用したのも、区別には時間が掛かるためでした。

 観点を移動させるということは、グラマトロジーの如く盲点をズラしているということです。無論グラマトロジーという見解自体が<哲学者デリダ>による科学的な人為的構成物ですから、脱科学化と科学化が振動する可能性を含めて、盲点をズラし続けるのです。

 では、盲点をズラすのは誰なのか。システム理論的に考えるならば、別の差異を構成することで既成の区別それ自体を区別できる観察者。つまり観察を観察する観察者です。とはいえ、観察を観察する観察者の観察にも、同じ理由で盲点が伴います。ですから、次に必要となるのは、観察の観察の観察を観察する観察者です(笑)

 結局、私たちには、二項図式に依拠せざるを得ないのではないでしょうか。二項図式の超克すら二項図式化されてしまい、どのような観察にも盲点が伴います。その時点で盲点を見抜くことが不可能ならば、盲点を観察することにもまた盲点が伴います。ですから、観察を観察し続けることで、二項図式に伴うパラドクスや盲点の発見と隠蔽を循環的に連続させていくことが必要となるのです。宇治家参去さんのように哲学的論考に長けた方であれば、一般人の盲点を指摘することが可能でしょう。一方の一般人については、「被害者の人権」といったように科学では説明できないようなことを遣って退けてしまう訳ですから(笑)、ある意味で科学をやっている私たちの盲点をズラしてくれるはずです。

 蛇足になりますが、私が今し方お話した観点にも無論盲点は伴います。僭越ながらに申し上げると、今回の私の狙いは宇治家参去さんの盲点をズラすことでしたが、宇治家参去も私の盲点をズラすことができます。私の「盲点超OK!という前提で盲点をズラし合う」というスタンスに伴う盲点を指摘されることもあるでしょう。しかし、またしても私はその指摘に伴う盲点を指摘することになります。これは、システム理論の使い手が<真理>よりも<背理>を好んでいるということであり、システム理論と哲学の違いであると言えるでしょう。

投稿: 木村アンパンマン | 2008年4月30日 (水) 13時39分

なにか反応しておいたほうがよいのでしょうか……ということで書き繕います(カントのアンチノミーに関してはまた後日)。

はじめに例の如く、あまり内容が無く恐縮です。

で……
システム理論と哲学の差異違いに関しては、まさにおっしゃるとおりかもしれませんね。
哲学的解釈学を提唱したガダマーとジャック・デリダが、一九八一年に、解釈学と他者性の問題を巡って論争しておりますが、そのことを思い起こします。

ガダマーは「語っていること」の解釈学を論じていますが、これは伝統的に明晰で自明とされる立場であり、デリダは、「語りえない」ことの解釈学を問題にする。

論争に関しては『テクストと解釈』にやりとりが収録されていますが、編者はこの論争を「風変わりな(unwahrscheinlich)論争」と読んでいます。

そういう部分が、作為的な質問を発する立場と、伝統的な哲学なんかを探究する人々との間にはあるのかもしれません。

ガダマー-デリダ論争においては、ガダマーはいわば、論争の土俵には上がってはいるものの、デリダはそれよりも別の土俵をつくるのに余念がないそういった印象を懐きます。もちろん、ガダマーは、デリダのそうした振る舞いにかなり気分を害していたようですが(10余年後のインタビュー集でも、言説よりも、デリダのそうした態度や振舞を非難しています)。

論争という意味でいえば、ガダマーの、ロゴスにおける「意味の現前」を橋頭堡を守ろうとする姿勢にも共感しますし、それを拒否するデリダの議論にも頷く部分が多々あります。デリダにおいて、「他者」とは、「意味経験」としての「意味地平」に回収されることを拒否抵抗するものですし、統一化しようとするロゴスの力を執拗に糾弾する姿も美しい。(もちろん、デリダとレヴィナスの他者論の分析、そしてハイデガーの他者理解との差異は分析されてしかるべき必要性が緊近にありますがここではひとまず措きます)。

その意味では、宇治家参去などは、そうした言説の乱立する荒野で、眩暈を覚え、立ちつくしてしまうというのが実情ですが、それでもなお、(以前にも書いたとおり)「形而上学の解体を迫る現代思想に共鳴しつつも、伝統的な形而上学への憧憬とでもいえばいいのでしょうか」そうした部分がありますので、ひょっとすると無駄な営みかもしれませんが、観照しようと心がけているのかもしれません。

「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」のでしょうが、ミネルヴァの梟が餌を求めて夕闇に飛び立つように、伝統的な形而上学(崇拝)者たちは、語りたがるのだと思います。ダブルバインドという現実のただ中で……。


本来、木村アンパンマン様がもくろんだような作為的な対話になれず残念ですが、うえにかいたような部分が実感です。

土俵にのるというよりも、アウグスティヌスのような、女々しい告白しかできない宇治家参去に哀れみを。

批判理論の立場にも頷けるが、伝統的な哲学への憧憬も捨てがたい……。神学的飛躍が必要なのかもしれませんが、説得力のある議論は難しい。だから世俗の言葉にこだわるのが哲学者なのでしょう。


釈迦に説法で忸怩たる部分もありますが、さいごにとつ、紹介しておきます。
学知と探究者の関係、そして専門的知識人と一般人との関係に関してはスピヴァクのように生きていければよいものですがね。


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 ポストコロニアル批評で知られるガヤトリ・チゥクラヴォルティ・スピヴァク米コロンビア大教授が今月、国際文化会館などの招きで来日した。インド出身のスピヴァク氏は、世界で最も著名なアジア系女性の人文研究者の一人といわれる。毎日新聞などの共同インタビューに応じ、第三世界の下層民との関係における知識人の役割を語った。【鈴木英生】
 スピヴァク氏は、代表作『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)で、ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズというフランス現代思想を代表する2人の討論を例に、西欧の知識人を批判した。そこから知識人と被抑圧者との関係を問うている。
 サバルタンとは「多様な被抑圧下層民」といった意味。イタリアのマルクス主義者、アントニオ・グラシム由来の言葉である。
 「フーコーとドゥルーズは、自分たちの理論(の問題点)を棚上げすることで、ダブルバインド(矛盾した心理的拘束による葛藤)を回避しました。だから、彼らの議論は現実の構造に組み込まれ得ないのです」
 スピヴァク氏の分析は難解だが、大づかみに言えばこうだ。フーコーらは資本主義下での抑圧構造を分析し、抑圧される側が社会変革の主体であるかのように説いた。しかしその理論は、経済発展を遂げた先進国でしか妥当しないという。しかも、先進国の住民は金持ちも貧乏人も、第三世界の経済的犠牲の上にいる「勝ち組」だ。ところが2人は、第三世界の被抑圧者を無視するか、先進国のそれとまるで同列で扱う。こうして、現実の世界の複雑な問題から目を背けている。
 さらに、インドの女性を例にして、フーコーらに表れた西欧の視点の問題性を示す。ヒンズー教的な文化の抑圧下にいる貧しい女性たちは、背景が西欧とは違いすぎる。だから、そのまま西欧人の理解できる文脈に即して自らを語ったり、社会変革の主体になったりはできない。むしろ、この女性たちの主体は西欧の文脈からこぼれ落ちるところにあるという。
 なのに西欧の側は、インドの女性のような立場を自分たちの社会的文脈に無理やり当てはめて理解する。たとえば「ヒンズー教の犠牲者を西欧文明の力で救い出す」というように。こうして彼女たちは、やはり自分自身の声を奪われ続けるという。
 もちろん、西欧人の理解できる表現で語れないからといって、弱者が抑圧されたままで良いわけがない。
 「グラシムは『サバルタンが自ら語れるようになるために、知識人が法的、教育的なインフラを構築すべきだ』と主張しました」。そこでスピヴァク氏は、彼女たち下層民のただ中に入りながら、教育者として振る舞う。故郷のもっとも貧しい地域に、教師養成の学校を開いている。ただし、その現場にべったり張り付いているわけではない。
 「一方、私はニューヨークで博士課程の学生に教えています。両極を行き来しながら、グラシムの言う有機的な知識人について考えています」
 最下層の人々と触れ合うインドの女性知識人が、最下層の犠牲で成り立つ資本主義の中心で、最先端の研究と教育に携わる。この矛盾に居続けることこそが大切なのだ。有機的知識人とは「専門バカ」の対極にある、常に人々とかかわり、説得し続けるような存在だという。
 彼女のような世界的知識人ではなくとも、あらゆる人はダブルバインドの中で生きている。たとえば、インドでの教育活動の協力者は、教師養成学校の開校日に漏らした。
 「この学校は、(建設に協力した)政治組織の腐敗した構造を利用しなければ実現できなかった」と。
 「生きることはダブルバインドそのもの。しかし生きて何かをするというゲームから降りることはできません」
 理想とほど遠い現実でも、それを直視して、行動しなければ、なにも始まらない。この思いこそが、スピヴァク氏を支えているようだ。
Gayatri Chakravorty Spivak 1942年生まれ。カルカッタ大を経て米コーネル大で博士号。邦訳に『サバルタン~』『ポストコロニアル理性批判』など。
    --「ポストコロニアル批評 スピヴァク・米コロンビア大教授に聞く/第三世界の知識人の役割とは」(『毎日新聞』2007年07月23日付)。


投稿: 宇治家 参去 | 2008年5月 2日 (金) 02時08分

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