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おお炎々と燃える天守閣!

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町はにわかに物々しい戒厳状態に入って、辻々には剣付き鉄砲をかついだ番兵が二人ずつ立ち、刀を差した巡査が、三人五人と組をなして街を見廻り、挙動不審とみれば、容赦なく引留めて、妙名や住所、用向きをきき糺(ただ)していた。私たちが家に着いて間もなくである。凍るような寒空をとどろかして、どどんと号砲が三発、続けざまに鳴った。
 早くも城下は戦時状態に入ったのである。
 その翌日、二月十九日も、身を切るような寒い風が強く吹き荒んでいた。お午近くである。にわかに門前が騒々しくなった。
 「お城に火がついたぞ!」
と叫ぶ声が聞こえて来た。
 私はびっくりした。父はもっと驚いて立ち上がった。
 裏切者の仕業か、それとも士族連の斬り込みか。熊本城下は一瞬にして魂を奪われた。しかし、まだ薩摩の軍勢は城下に入っていなかったのである。
 村の若い者は勿論、老人も子供も、白川の堤防へと駆けて行った。父は、
 「かねて覚悟はしていることだ、騒いでも仕方がない。わしが見て来る。お前方は、言いつけておいた通り、身につけるものは、それぞれ身につけて、わしの帰るのを待っていなさい」
と母と姉に言いつけてから、
 「正三と次太郎は、わしについて来い」
と言った。私は次太郎と共に、父の後に従(つ)いて、お城のよく見える長六橋に行った。
 本山から迎町にかけては、大変な騒ぎで、長六橋に来てみると、附近は人で埋まっていた。
 おお炎々と燃える天守閣! 窓から凄まじい火焔を吹いて、強風が黒煙を竜巻きのように、空高く巻きあげ、城下の街々へ火の粉を降らしている! 強風にあおられて火勢はますますつのるばかりである。暫くすると天守閣全体が、一つの火の塊となって昇天するかのようである。
 父は長六橋の欄干に身を寄せて、じっとお城を眺めていた。
 「何が原因であろうとも、天守閣を焼くとは言語道断、実に怪(け)しからん」
とぶつぶつ憤慨し出した。その瞳は涙に濡れている。私も悲しくなった。群集の中にも泣き声で、
 「士族が火を放ったのだろう」
という者もあれば、
 「馬鹿め、たとえ敵味方に別れても、お城を焼く士族が何処にある!」
と怒号する者も、共に泣いているのである。中には拳で涙を拭いながら「おいおい」声をあげて泣いている立派な士族もある。
 道に土下座して合掌し、念仏を唱える老人もあれば、土下座したまま立つ気力もなくなって、
 「恐ろしいことでございます」
と身をふるわせている者もある。
 この悲壮な情景は、筆や言葉に尽くせない。それもその筈である……
 慶長十二年、清正公の手によってお城が完成されて以来、二百余年の間、私たちの先祖代々が、この城下に生まれ、この城を仰いで育ち、この城を守り、この城と共に栄えてきたのである。そして、自分たちの宝として誇り、藩主細川公の居城として尊敬してきた名城ではないか。一朝に焼尽して行くのを目前に見て、嘆き悲しまない者は一人としてある筈がない。
 父も泣いた。私も泣いた。次太郎も大声をあげて泣いた。溢れる涙で曇る眼を開いて次第に焼け落ちて行く天守閣を眺めていると、突然群集の中から、 「おやッ、上林の方に火の手があがったぞ」
と叫んだ。私は、はっとした。上林は生田の家の在るところだ。
 全市の半鐘が私どもの心臓のように早鐘を打ち出した。
 「通町にも火が移ったぞ」
 「唐人町も燃え出したぞ」
 城下の方々に火焔が渦巻き出して、騒ぎはますます大きくなるばかりである。やがて非難する人たちが、なだれを打ったように押し寄せて来た。
 「これは大変だ。ご城下全体が火の海になってしまう。正三、さあ帰ろう」
 私は父に促されて、急いで家に戻ると、母たちはもうすっかり避難の準備を整えて、私たちの帰りを待っていた。父は欅の大樹の下の祠に額づいて、暫く黙禱してから、座敷に一家中を集め
 「城下は大変な火事になってしまった。官軍の準備もすっかり出来たようだし、薩軍も国境を越えたのであろう。薩軍が熊本に入るとなればこの辺は陣営になろう。西郷さんが率いているといっても、旧兵隊のことだ、規則も厳しくない、どんなことが起こるか判らない。お前(母)は真佐子や真臣を連れて今から谷尾崎へ避難しなさい」
 母は私をちらりとかえりみて「正三も一緒に連れて行きたいが……」と言うと、父は、
 「正三はもう十歳だ、女子供と一緒に逃げるようなことをさせてどうする。ここに残してわしの手伝いをさせる」
と叱るように言った。母や姉やお寿加伯母さんは、真臣や妹たちを連れて、早速西郊の谷尾崎へ非難した。あとは父と私と次太郎と三人で家を守ることになったのである。
 城下の火事はますます激しくなって行くばかりであった。
    --石光真清『石光真清の手記1 城下の人』(中公文庫、1978年)。

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冒頭は、明治から大正にかけてシベリア、満州での諜報活動に従事した陸軍軍人・諜報活動家・石光真清(1868-1942)の手記より。

熊本藩士・石光真民、守家(もりえ)の四男として熊本市本山町に生まれ、父・真民は産物方頭取を務めていた。引用シーンは、西南戦争で、熊本に西郷隆盛率いる薩軍迫り、天下の名城と謳われた熊本城が炎に包まれた日について叙述です。

この手記は、明治期から大恐慌まで陸軍で諜報活動に従事していた石光真清が残した細やかな記録をその子息が取りまとめた体裁ですが、そこにはナショナリズムを煽ったり、妙なヒロイズムを高揚するような筆致は全くありません。非常に淡々と日常が語られているだけです。
“藩”のパトリオティズムから“帝国”の“ナショナリズム”へひとびとのメンタリティがどのように編制されていくのか--読み始めると止まらないこと必至です。

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 慶長十二年、清正公の手によってお城が完成されて以来、二百余年の間、私たちの先祖代々が、この城下に生まれ、この城を仰いで育ち、この城を守り、この城と共に栄えてきたのである。そして、自分たちの宝として誇り、藩主細川公の居城として尊敬してきた名城ではないか。一朝に焼尽して行くのを目前に見て、嘆き悲しまない者は一人としてある筈がない。
 父も泣いた。私も泣いた。次太郎も大声をあげて泣いた。
    --前掲書。

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“お国”のために泣いたわけですが、その“お国”は、まだ郷土というレベルの想像の共同体への忠誠であり、今日の日本と呼ばれる範囲に対する忠誠は、明治ヒト桁時代には、あまり現れてきません(形となるのはやはり日清~日露戦争期ですが)。

で……、
石光自身の人生は、語られている通り、結局は揺れ動く国政や軍部に振り回され、失敗を繰り返して終わるわけですが、この顛末も悲劇的です。ただし、それを嘆くのでもなく、過去をノスタルジックに憧憬するわけでもない。いわば、一人の明治人の記録という立場に終始して淡々と語りのみである。しかし、淡々とある独白だからこそ、現場の様子がよく伝わってくる。

思えば、石光の活躍した日清~日露戦争期の中国東北部(いわゆる満州)も、無政府状態であった。政府(清)が機能せず、馬賊の群れが実質管理を果たしていた地域で、諸外国が利権確保と在留自国民保護の名目で出兵しあい、出方をうかがい、しのぎあう。こうした構造自体はいまだ変わらず--というところでしょうか。

さて、熊本出張の精算や採点がすべて終わり、夕方大学へ発送するだけになりましたので、ひとつ総括を。

①ふるい城下町だった都市は、都市計画がさっぱりしている。
 基本的には、城下の編制どおり、官庁街、歓楽街、住宅街が整頓されてい、無定見な近代都市よりわかりやすく、道路がひろい。

②焼きモノの串が驚くほど旨く安い。
 名物は馬刺しと天草の海産物ですが、阿蘇を中心に育てられた地鶏や豚、そして新鮮な野菜や海産の焼きものの串(焼き鳥)が驚くほど、安くてうまい。博多なんかも比較的そうした部分がありますが、そのうえをいくレベルでしょうか。

③歩きたばこが少ない。
宇治家参去は愛煙家ですが、いちおう、外で吸う際は状況を気にかける人物です。たった3日の滞在ですが、市内で、歩きたばこをしている人間と出くわしたのは1件だけ。たまたまそうだったのか、はたまた条例で、市街が禁止区域に指定されているのか不明ですが、このことに衝撃を受けました。

④シャイ(謝意)。
授業とか、飲飯のやりとりしかありませんが、概して、シャイな方が多いのでしょうか--。慎み深いといいますか、思慮深いといいますか、穏やかな方が多かったです。

そんな感じの熊本紀行でした。
来年は行けるのでしょうか……。
いずれにせよ、関係各位に謝意です。
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