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【覚え書】ペトラルカ「自己自身に」

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心に浸みるフランチェスコ・ペトラルカ(Francesco Petrarca, 1304 - 1374)の文章があったので、【覚え書】として残しておきます。

浸みます。

ペトラルカといえば、叙事詩人ダンテ、友人であった散文家ボッカチョと並ぶ、イタリア文学の三巨星のひとり。どの仕事も超一流と言われた詩人、学者、人文主義者です。

いうまでもなく哲学者としての仕事も超一流だったとか。

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「私はなによりも哲学を愛します。しかし私の愛しているのは、わが学者どもがこっけいにも自慢のたねにしているあのスコラ流の空虚なおしゃべりの哲学ではなく、真の哲学なのです。たんに書物のうちにばかりか魂のうちに住みついている哲学、ことばにではなく、ことがらにもとづいている哲学なのです」(『親近書簡集』第一二巻三)。
     --ペトラルカ(近藤恒一編訳)『ペトラルカ ルネサンス書簡集』(岩波文庫、1989年)

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まさにルネサンスを予感させるペトラルカの言葉です。ペトラルカによれば哲学とは、魂の世話や生の形成を主要任務としており、この方面で実際的な力を発揮するものでなくてはならない。その意味で、哲学の正当は道徳哲学(倫理学)でなければならないことになる。しかしペトラルカは、一般的な倫理学的考察や体系の構築には無関心であったようだ。

個々の現実的状況の中で直面する具体的問題に焦点を当ててに人間を考察し、その生や生き方を考察する--そういうスタイルをペトラルカは取っています。つまり、実際に生きている具体的存在者としての自己自身や個々の人間を通じて普遍的な在り方を探究する、モラリストの在り方である。

その意味で、ペトラルカは偉大な“道徳哲学者”(philosophus moralis)であろう。

【覚え書】として紹介するのは、「自己自身への書簡」という一文です。
この書簡は自己自身への語りかけの形式をとり、自己自身との対話(独白)の記録となっている。

主題としては「内なる戦い」です。

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自己自身に

ああ、何ゆえにこの苦しみか。運命の暴威は私をどこへ押し流すのか。
私の眼に、世界はいまや終末へといそしぎ、
「時」がすさまじい勢いで遁走していく。
そして私の周りには、死にゆく若者のおびただしい群れ。
世界のどこにもわが身をよせる安全な泊(とま)りの港は見いだせぬ。
救いへの切なる願いにも 絶えて希望の訪れはない。
おびえるわが眼をどこに向けても
葬列につぐ葬列に私はたじろぐ。
寺院は死者の棺で雑踏し、悲嘆のうめきにみちる。
屍体はあわれにも貴賎の別なく一面に散らばる。
私は心にわが死をおもい、自分の不孝を思い出す。
ああ、我が心によみがえる、すでに亡き数々の友。なつかしい語らい。
そして突然、その甘美な顔たちが消え、
埋葬につぐ埋葬で すでに墓地も狭すぎる。
かくもおびただしい死によって見る影もないイタリアの民はこれを泣き、
人影もなく病みおとろえたフランスはこれを悼(いた)む。
いづこの星のもとなる他の国民もこれをかなしむ。
すべては神の怒りのためなのか。われらの罪の当然の報いか。
あるいはただ自然の異変に由来する天体の影響なのか。
この悪疾(ペスト)の年は人類に重くのしかかり、
悲惨な破滅をつきつけておびやかす。
大気は異様によどみ 死の勢いを助長する。
ユピテルは怒って、汚(けが)された天界の高見みから下界を見おろし、
そこから地上に疫病や陰惨な死を降らせているのだ。
運命の女神は非情にも 人間の生命(いのち)の糸をことごとく
瞬時に断ち切りたいと急いでいるのだ。
その願いは天に容(い)れられたのではないかと私はおそれる。
げに悲惨にも冥界へと落ちいそぐ青ざめた顔の群れはかくもおびただしいのだ。

こうした思いに私はおののき、間近に死のたくらみを予感する。
いったいどこに逃(のが)れたらわが身を隠すことができるのか、
海も地も 岩壁の暗い洞穴(ほらあな)も なんら示してはくれぬのだ。
げに死の力はすべてにうちかつ。そしてどんな隠れ処(が)にも
死は猛然とおそいかかってくるのだ。
たとえば水夫が不意に危険な嵐におそわれて、その目の前で
仲間の小舟がつぎつぎに凶暴な荒海に呑みこまれていくとき、
自分のもろい小舟も脇腹がきしみ
櫂(かい)も岩礁に打ちあたって砕けるのを聞き、
舵(かじ)もとおく怒濤に流されていくのを見るように、
そのように私も、確実な危険を前に、なすすべも知らず途方に暮れる。
あるいはまた、激しい火炎がひそかに古い梁(はり)に燃え付き
貪婪(どんらん)な猛火が分厚い屋根板を舐(な)めはじめると、
突然の轟音(ごうおん)に一家は仰天していっせいに起き出し、
父親はだれよりもさきに屋根の上によじのぼって周りをうかがい、
そしておびえおののくわが子を抱きかかえ、
おそろしい危険からまっさきに遠ざけることを思い、
襲いかかる炎のなかを子どもをかかえて連れ去ろうとする。
そのように私もしばしば、危惧の念から、私の惰弱な魂を抱きしめ、
なんとかして情念の炎をかいくぐって魂を連れ去り、
肉欲の炎を溢れる涙で消しとめようと思いめぐらす。
しかし現世は私をとらえ、快楽は強烈にひきつける。
そして凶暴にも習慣は わざわいのきずなで私をしばって放さないのだ。

私はこんな状態にある。こうして深い暗黒が氷のような戦慄で私をつつんだ。
自分はつねづね死についての省察を怠らず
死の断末魔にも平静に直面できる--
こう思うのは誤りだ。あるいは気違い沙汰か自信過剰だ。
しばしば真摯高邁な怒りの念や正しい苦痛の思いが、
私の優柔な心をひたし、内と外で私とたたかう。
私はあきらかな理性の光に導かれるが、
衝動が理性にうちかち、まじめな意図をさまたげる。
こうして私は捕えられ、嘆き悲しみ、しばしばみずからに問いかけるのだ。

おまえはむなしく何をもとめているのか。みじめにもどこへゆこうとしているのか。
こんなに多くの回り道をして いったいどこへゆけると思っているのか。
おまえの死は確実なのに、憩いを求めてこの絶えざる労苦はなんの役にたつのだろうか。
なにゆえ不毛な砂地に種を蒔くのか。なにゆえ砂浜を耕しているのか。
へつらいの希望を追い求めては、希望にもてあそばれ翻弄されているのだ。
すでにバラ色の時期(とき)はおまえの背後に遠く、
はや灰色の老齢が ひそかにおまえを侵しつつある。
おお、無知な子どもよ。なぜにこれほど愚鈍にふるまうのか。
いつも心に明日を思い求めては この現在を失っているのだ。
いつも未来の 定めない運命に依りかかり、
おまえ自身とおまえの善から逃げ出して 他人(ひと)のものを追い求めることになるだろう。
さあ、立ちどまれ。逃げるをやめよ。
おめがじかに認めうる今日という日に拠ることをなぜしないのか。
明日という日はおそらくおまえの上に これほどあかるく訪れはせぬ。
知らないのなら教えよう。死はたやすくすべてを滅ぼし 暗黒の闇にとかしこむのだ。
しかも死の常として突然にやってくるのだ。もしもおまえ自身のことを気づかうのなら、
おまえの魂が未来に先送りしているそのことに なぜすぐ着手しないのか。
おそらく慎重にさまざまな計画を 未来の長期間に割りあてているのか。
なんたる盲目ぶりよ。死後になすべくあれこれと大きな仕事を企てるとは!
人の世のはかなさが身にしみてわかっていながら、
おまえが土塊(つちくれ)となり、血に飢えた禿鷹がおまえのからだを喰いちぎり、
きたないうじ虫がはらわたをむしばむそのときに、おまえはそれをなすのだろうか。
むしろいま、このいまが、その時期(とき)なのだ。
いまならおまえはからだを動かすことも 心を意のままにすることもできるのだ。
もっとも善きものである自由と生が 不意に消え去ることもなくまだ残されているのだ。
おまえには見えないだろうか。「時」の翔ぶように逃れ去るのが。
瞬間は刻々とかろやかに一時間一時間を押し進め、各時間はつぎつぎに昼と夜を追いたてる。そして昼夜の逃れるうちに
月はその周期を満たし、新月となって回帰する。月はつぎつぎに日を奪い去り、一年に一年を重ねてゆき、
そして年の経過は老衰と死とをもたらす。
こうしていっさいを動かしつつ「時」は過ぎ、一刻もとどまらず
生は二度と還ることなく走り去る。その速いこと、急湍(きゅうたん)の
水勢すさまじく峻嶺の高みより海へと落つるにまさる。
弓弦(ゆみづる)をふるわせて放たれた矢も
これほど速く空(くう)を切って進みはしない。
思い出してもみるがいい。おまえが生みの母の胎内から
はだかの無力な泣き虫の哀れな赤ん坊として生まれ落ち、
口をふるわせて泣きながら産声(うぶごえ)をあげたその日より、
その心にはただ 労苦と涙と呻吟と
かなしい胸をさいなむ苦悩(なやみ)だけが住んでいた。
おまえには一度も たのしい日の訪れはなかった。
あえぐ心が無数の嘆きに終止符を打ちうるような日の訪れは。
おまえは休息を望んでいるのに、運命は非情にもそれをこばむ。
歩み疲れたからだを横たえて
しばしの憩いを楽しむこともできないうちに
おまえの生涯がすべて終わってしまいはせぬかと私はおそれる。
おまえの一日はすでに大部分が過ぎ去ってしまった。
永遠の夜を予告する夕べがすでに迫ってきている。
おまえははや老齢なのに、遠い将来のことまで思いわずらっている。
おもえは死にかかっているのに、重い睡魔に囚(とら)われて、安堵の眠りに浸っているのだ。
西の方(かた)、地平へと落ちいそぐ太陽を見よ。そして間に合ううちに、
いたずらに浪費した「時」を泣け。
そして永遠の母国へと歩みを向けよ。
まだ天の高みから束の間の光がおまえを照らしているうちに。
おまえは嵐の海に生きてきて、あまりにも悩み苦しんだ。
港のうちに死ぬがいい。さあ、ぼろぼろの帆布をたため。
嵐でばらばらにちぎれた帆綱を、いまこそ拾いあつめるがいい。

こんな思いにふけるうちにも、しばしば怒りと苦悩が私に叫ばせるのだ。--
いったい だれが私を 敵の口からひきはなしてくれるのだろうか。
だれが私を この死すべき牢獄から解放し、天に返してくれるのだろうか。
こんなにおびただしい陥穽(かんせい)や迷路のあいだにあって、
永遠の救いにいたる正しい道を だれが示してくれるのだろうか。
ああ、はるかに山の高みからのように 平和の母国(くに)が
遠くかすかに見えるような気がする! いや、ほんとうに見えているのか。
しかし私の周りはすべて固いイバラの茂みにおおわれて、そこに住む
おそろしい地獄の犬ども。かつて天主の御旗(みはた)を投げすてた略奪者ども。
そこを歩み抜けようとすれば連中の すばやい襲撃の的となる。
忘れもせぬが、いかにしばしば正しい道を歩もうとして挫(くじ)けたことか。
そしていつも押しもどされては途方に暮れ、
ゆくべきでないほうへとあこがれるのだ。
それではだれが、不幸な私を助けてくれるのだろうか。
幸福な魂や至福の民の住むところへと だれが安全に導いてくれるのだろうか。
私が肉の重みにあえぎ、私の罪が私の歩みを妨げているのなら、
だれの助けで私は重荷をおろし、鳩の翼を付けて高みをめざし、
かくも多くの苦難の果てに憩いを見いだしうるのだろうか。

これが私の現状なのだが、未来を予知せる運命がこの身に
いかなる終わりを準備しているのかはまだわからない。
果てしない希望とおそれとがこれまで絶えず私の心のなかで争ってきている。
しかしまもなく、私の最期そのものが教えてくれよう。--
私はほんとうにだれだったのか。幸運の星のもとに生まれていたのか。
しめされや道をたどる私の旅は 速かったのか遅かったのか。
要するに、この死すべき肉体の 私はいかなる客人であったのか。
(『韻文書簡集』第一巻一四)
     --ペトラルカ(近藤恒一編訳)『ペトラルカ ルネサンス書簡集』(岩波文庫、1989年)。

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