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人間主義再考<2> 被造物の自覚、凡夫の自覚

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私は人間である。人間に関することで私と無縁なものは一つもない。
Homo sum. Humani nil a me alienum puto.
    --テレンティウス(木村健治ほか訳)『 西洋古典叢書 ローマ喜劇集<5>』(京都大学学術出版会、2002年)。

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本来、人間を人間としてお互いに尊重し、豊かな共同生活をおくらせしめるべく整備されてきたはずの人間主義(ヒューマニズム)という発想そのものが、人間中心主義とでもいうべき、他者や環境、そして共同体と<孤立>した<個人>へと一極集中した考え方へと変貌して待った。その結果、われわれにもたらされたものは、人間自身の生存を脅かそうとする状況であり、対他関係の現実である。

ただし、人間がこの世界での生存を望むのであれば、真正に人間とは何か、そしてどのように、そうした人間と人間が向かい合っていくべきかは、考えざるを得ない。

人間中心主義は唾棄されてしかるべきであろうが、人間そのものを真正に捉え直し、対他関係(環境も含む)を踏まえた上で、その尊厳を尊厳たらしめる<人間>主義は議論されるべきであるし、その在り方はひとりひとりの人間が所与のものとして受け取るのではなく、自己の中に立ち上がらせ、対他関係のなかでよりより在り方を学んでいかざるを得ないと思う。

この問題には様々な立場から考えることが可能であろう。例えば、環境との関わりや生存圏の問題から、生命を捉え直す環境倫理学の立場から捉え直す視点もそうであろう。また、人間中心主義を招いた、デカルト以来の西洋形而上学の伝統の再検討を目指す、いわば哲学の「脱=構築」という立場もそうである。こうした考え方は、20世紀後半から大きな潮流となり、様々な分野で大きな業績を残している。そのため、ここでの議論はひとまず措く。

今回は、宗教学とか神学が交差する視点から考えてみたいと思う。

ひとつのキーワードとして、先に提示するとすれば、それは<被造物の自覚>であり、<凡夫の自覚>という視点にヒントがあると思われる。

人間主義という言葉は先に見たとおり、ラテン語の「フマニタス(humanitas)」由来する。このフマニタスとは、ローマ時代において、ローマの外側に広がる野蛮な世界に対して、人間的なものを指し、フマニタスと呼ばれたわけだが、ルネサンス期においてその概念が再生される際、「人間的なもの」は野蛮との対比ではなく、「神的なもの」との対比で扱われた。ここにひとつヒントがあると思われる。

中世ヨーロッパの世界は、確かに、ローマ・カトリック教会を中心にした神聖なコスモロジーのもと、宗教的な価値観が生活を規定し、まさにゆりかごから墓場まで教会が、ある意味で“支配”していた世界である(もちろん、現代の歴史学や中世神学の最先端では、そうした“支配”構造が一面的な理解に過ぎないとの指摘もあるが、この問題もひとまず措く)。そうした支配の揺らぎが、中世末期から近世初頭にかけて、まさに台頭してくるわけだが、そこでキー概念となるのが、デカルトの“我思う故に我あり”の主張である。そしてその誤解の定着化である。

単純化していえば、それ以前の世界は、すべて宗教的な価値観による真理規定が存在したが、デカルトの主張は、人間の理性をすべての認識基盤の出発点せよという主張であり、そのことによりデカルトは神の存在証明を行おうとしたわけだが、前者の視点が肥大化するなかで、人間はすべての中心軸におかれてしまったところである。そのこと自体わるいわけではない。しかし問題なのは、人間のいわば、<神化>という事態である。<神化>という発想自体は、悪いものではないかもしれない。アッシジの聖フランチェスコは、一瞬一瞬の雄大な自然の姿の中に、何か神的なものを認め、さえずる小鳥にまで説教したといわれるが、そうした一瞬一瞬の造化のなかに、なにか神的なものを感じる瞬間はあるだろう。しかし、それは人間からの応答ではなく、あくまでも神からの恩寵である。恩寵は人間から発しない。神があるがゆえに、人間の神聖さが保証されるという逆の構造である。

とわいえ、そうした交通路の問題を別にしても、バルトが嫌悪したような自然神学的な、なにか神聖さが認められる一瞬はたしかに存在する。しかし、一番大きな問題は、<神化>の<固定化>という問題である。

<神化>ないしは、<神性>なものが、所与の属性として<固定化>されたところに、問題があり、そこに驕りと悲劇が生まれる原因があるのではなかろうか……そう思わざるのが宇治家参去の実感です。

通俗的な言い方ですが、ある意味では、人間は、「無限の可能性」とか「無限の力」をもっているのでしょう。その意味では、他の被造物と違って、まさに、神にちかい被造物であり、そこに他の動物や植物と大きな質的な断絶が存在する。

しかし、それだけでもないが現実である。
人間は、他の被造物と同じように、「有限」な存在であり、死すべき存在であり、神学的には、まさに、罪を背負った存在である。その意味で、「無限」と対峙する「有限」さを内包した、矛盾する存在である。

しかし、<神性>の固定化、無限の高潮は、いきおい、人間の有限さを忘れさせる結果となり、存在自体の尊厳性ばかりが甲高い声で主張され、無限が手放しで歓迎される結果となってしまったのではあるまいか。他の動物を支配し、環境を操作した。そして、その議論に乗るならば、本来、自己と同じような<神性>をもち、「無限」の可能性を秘めた他者を目的とするのではなく、手段とする対他関係を極限まで押し進め、現在の事態が招来された……そう言い切れなくもないのではなかろうか。

人間は、牛や馬、犬や猫といった、神から造られた被造物といえば、同じような有限な存在である。今、忘れられているのは、そした「有限の自覚」である。有限性を顧みず、無限性のみ高揚するのは、一面的な人間理解であり、ゆがんだ人間理解である。ゆがんだ発想を極限まで押し進めれば進めるほど、ゆがんだ現状を露呈してしまう。ただそれだけのことだ。

「無限の可能性」も「無限の力」も「有限性の自覚(=被造物としての自覚」なくして成り立たない。

ただそのことである。

今までの議論は、通俗的なキリスト教理解の線で話を進めてきたが、同じようなことは仏教的な世界観でもいえよう。

それは、宮沢賢治がいえば、<デクノボーの自覚>とでも言えばいいのでしょうか……<凡夫の自覚>ということである。

小乗教典においては、まさに、人間という存在は、永遠に続くような修行を何代にも渡って繰り返し、その果てに、成仏が可能になるという発想があったが、大乗系の仏教においては、内在する仏性ももとに、現世での凡夫の成仏が可能になった。

いわば、人間の尊厳性の根拠であり、そして無限の可能性の根拠である「仏性」が人間に内在するという如来蔵の発想がそれである。

仏性の主張は、新しいものではないが、そこである程度共通しているのは、凡夫が現世で成仏するためには、もともとそうしたダイヤモンドのような尊厳性を内在していても、そのままではダメで、修行によって尊厳性を尊厳たらしめる努力が必要であるという点である。形態は千差万別だが、仏性とよばれる無限の可能性とか尊厳性をもっているだけではダメだという点ではマジョリティは共通している。

単純化して言えば、「無限の可能性」とか「無限の力」の根拠となる「仏性」はそれだけでも、多分(専門じゃないので許して)、当人が持っているだけではダメだという点である。当人が、その存在を自覚し、それを尊厳たらしめる努力・修行がない限り、無限を無限たらしめることが不可能ということである。

しかし、そうした仏性の発想は、伝教大師・最澄(767-822)によって、天台教学のひとつとして日本にもたらされ、整備されたが、中古天台教学において、ひとつは天台本覚思想として発展をとげる。鎌倉新仏教とよばれる始祖たちもおおむねこの発想の受容と対峙が大きな問題となるが、この思想のひとつのながれは、“素晴らしき”が内在するが故に、そして“もともと素晴らしき”仏性を持っているがゆえに、修行は不必要という主張へと発展する(立川流もここから出てくる)。

それが人間主義を考える上では、大きな問題と言わざるを得ないのである。
キリスト教学的にいうらならば、<神性の固定化>という事態と心根は同じである。
それが問題のである。

<凡夫の自覚>、ないしは、<被造物の自覚>とは、人間が有限な存在である事実と、無限への開けを両眼でみる、両者の緊張的な弁証法的関係である。有限であるが故に、無限であり、無限であるがゆえに、有限である。そうした緊張関係が生の現実であり、片方を高揚したものの見方では、真実を語ることは不可能である。

あるがままに尊厳があるのではない。
尊厳を内在しているにせよ、付与されるにせよ、尊厳を尊厳たらしめる緊張的な努力を放棄したとき、“慢心しきったお坊ちゃん”の時代が到来するのである。

んー、うまく書けませんねエ。
覚え書きふうに、書き流しましたが……。
いずれにせよ、<被造物の自覚>や<凡夫の自覚>がない限り、人間の尊厳性は安っぽいものになってしまうのではと危惧します。あるがままに神ではないし、あるがままに仏でもないんだと思うのだが……。

そのうちに、「その<3>へ」

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人間文化の徹底的な建直しを宗教性の否定において、宗教的の無限性格を以て見出さんとするニーチェ的人間宿命のヒロイズムは、或る意味において姿を変へてナチス的な民族的血の神話の中に再現されたとも見ることが出来る。今かうして無神論的な社会主義や神話的民族主義等が結局真の信仰を失つた人間の自殺的な悲劇に他ならないことを最も深い西洋近代人間の解剖を以て指摘したものが、ドストエフスキーの偉大なロマン『悪霊』の中に見出され得ると思ふ。このロマンはさうした意味において、近代ヨーロッパにおける宗教的精神性の悲劇を最も形而上的に直感し預言者的に洞察したものであると言へよう。

 かうした「文化としての宗教」と言つた人間主義的な宗教の観念が、帰着するところ徹底的な無神論、乃至徹底的な人間神化の悲劇的な宿命となるところに、此等の立場に対する一種の警報が発せられる所以がある。そしてそれは軈(やが)て他の極端な文化否定の立場において、宗教を徹底的に把持せんとする立場の出現となるであらう。今同じくヨーロッパの近代精神史についてこの立場を系統づけて見れば、先の人間主義的な「文化としての宗教」の立場がルネッサンス的な自然観や人間観に繋り得るごとく、このルネッサンス的な人間に徹底的に対立する所のレフォルマチオン的乃至宗教改革者的宗教理念がそこに指摘される。実際第一次欧洲大戦前後の宗教精神界において意識された危機的な人間意識を繞(めぐ)つて登場した所謂弁証法的神学といふ、近代的文化プロテスタンティズムの徹底的批判を意味する立場は、「ルッターに帰れ」「カルヴィンに帰れ」といふ原始プロテスタンティズムの志向を意味したのであつた。この立場において、例へばカール・バルトがその『ロマ書講解』の画期的な著作を以て爆弾の如くに投下した思想、或ひはエミール・ブルンネルやフリードリヒ・ゴガルテンなどの如き人々の近代的イデアリズム乃至文化主義の批判の試みは、帰するところ世界の危機的有限性乃至罪悪性を暴露するところの「世界審判としての宗教の立場」の意味づけに他ならなかつた。宗教とは文化に対立して、文化をその人間的有限性において暴露するところの審判に他ならない。宗教は人間の側より、文化の側より下から基礎づけられるものではなく、却つて人間に対立し、人間文化への危機を意味する、上よりの垂直的降下の天啓の語における審判を意味するものである。歴史的世界は、そしてその文化は、宗教の前に一応全く無として罪として否定し盍(さら)される。人間性とその文化に対する死を宣告するものが、宗教の真理である。かゝる文化の否定としての宗教性の意識は、直接には近代的人間中心主義的な宗教間年への根本的自己批判を意味するものとして、具体的現代的思想状況の所産であると言ふべきであるが、然しそれはそれらの主張者において、明白に志向された如く、神学的に原始宗教改革者達の人間観や歴史観の立場を表明せんとするものである。即ちそこにおいて志向されるものは、ルッター、カルヴィン的な原罪観乃至救済観とそれに繋る週末論的な歴史観乃至文化観の立場である。原始プロテスタンティズムの原罪観乃至救済観は、つまり「神の前に」立たされた人間の罪悪性、「永遠の前」に立たされた歴史と文化の空虚を強調する立場であるが、然しそこには「神と人間」、「永遠と時間」との距離を強調する余りに、人間性とその歴史を全然消極的に「死の相の下に」(sub specie mortis)見るといふ、一面的な否定のラディカリズムに陥つうてゐる点において、先に述べたのと対蹠点的(たいせきてんてき)な無神論的なニヒリズムの立場と、そのラディカルな性格において、何等か相通ずるものがないとは言へないものがある。しかしこのことは今さし措いて、この徹底的な人間性本質の文化の否定において宗教性を定立する考へ方には、先きの宗教を文化と人間性に同一化して世俗化し現世化して考へる立場に比すれば、遙かに深い宗教性の真実を把握してゐる点が認めなければならない。宗教は固と人間の罪の意識と救済の要求を外にしてはないのである。神の実在的威厳の深い意識なしに真実の宗教性は存しないのである。神の前に己を主張する、或ひは己の中に神を包摂し盍すところには、宗教性はその本質を見失はれ、神はその姿を見失はれてゆく。神あつての世界であり、神あつての人間であるといふ意識の中にこそ宗教性は存するので、人間のための、人間の故の神といふ意識の中には、神は実在的には臨在しないのである。この意味において、近代の初期の宗教改革者的な宗教意識が、宗教性の外面的世俗化意識に対するプロテストとして現はれ、神の絶対性を人間の徹底的在悪性の強調において意識しようとしたのは、確かに深い宗教性を表明してゐるものと言へるのであるが、然しそれは後に述べるであらう如く、真の宗教性の一面を強調する立場であつて、特にキリスト教的神観及び人間観において、真の深い全体的な真理は、かゝる神の絶対他者性や人間の絶対在悪性を強調するところに存するのではない。たゞこの立場が特に近代的な西洋精神史の状況において、次第に人間主義化されてゆく、世界内在化されてゆく誤謬に対して、神と世界との「無限なる絶対的質的差別」を強調する点に、その近代に対する訂正的意味をそこに見るならば、この立場は本来的な立場への復帰の一つの契機ともさえ得よう。即ち今日の弁証法的神学乃至危機神学といふ立場の根源に、近代的イデアリズムの最高の表現とも言ふべきヘーゲルに直面対峙する北欧の預言者的思想家ゼレン・キェルケゴールが存するが、このキェルケゴールの意味がとりもなほさずかゝる危機的な近代訂正(Korrektiv)といふところにあると言へるのである。このキェルケゴールに繋る現代の所謂「実存哲学」の立場においても、人間の有限なる不安なる存在としての把握が深く営まれてゐるのであるが、この現代的有限人間性の実存形而上学の立場にも一種の危機的意味をもたしめ得るのでそれ自身としては却つて「世界内在的存在」としての人間の自意識の営みと言つた一種の宿命的無神論の主張ともなつてゐることは、例へばハイデッガーの哲学に知られる如くである。が然し又それは人間性の限界状況を自意識することによつて、更にこれを超越的無限者の最も生命的な把握乃至飛躍への契機となすことも出来るのであつて、実存哲学的な人間意識はキェルケゴール的道を通じて軈てアウグスチヌス・トマスと言つた伝統的キリスト教哲学の神観に繋る契機ともなし得るであらう。
    --吉満義彦「文化と宗教の理念」、『吉満義彦著作集 第1巻』(みすず書房、昭和二十二年)。

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哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事

コメント

どうも、毎日興味深く拝見させていただいております。

今回は「固定化」の危険性についての考察、大変参考になりました。

固定化の議論と関係するのか分かりませんが、人間主義からみて、正義とか絶対的な善というものをどう考えていくのでしょうか??

どうも矛盾する気がして仕方ありません。

何かしらご教授くだされば幸いです。失礼しました。

投稿: ツルハ | 2008年4月27日 (日) 19時46分

ツルハさん、どうもご無沙汰しております。
大変な難問ですね。

人間主義の問題に限られたことではないですが、ものごとを固定化してとらえることに何か違和感を感じるので、書いた次第ですが、たとえば人間主義に関しては、スケッチになりますが、<1><2>のとおりで、また文化や伝統に関しては、以前も論じましたが、日々、生々流転しているのが実態であるにも関わらず、人はどこか過去の一点をスタティックに「固定化」して、“ありがたい”文化や他より素晴らしい“伝統”を夢想する。

そうした「固定化」に対する違和感とでも言えばいいのでしょうかね。ただし、やはり、人間は、“立ち止まって”考える習性がありますので、やはり、考える際、どこか“固定化”してしまう……そうした、解釈学的循環の中にいるのが現実ですが、そのことを踏まえた上で、文化や伝統との関係、また他者との関係を、変更不可能な固定化されたものとして受け止めるのではなく、現実の緊張的な関係のなかで、いかに価値創造していくのか、そちらのほうが重要なのかなと考えていましたので。


さて、正義とか絶対的な善という問題ですが、プラトンのような立場にたてば、正義とか絶対的な善は、所与のものとしてアプリオリに存在することになると思います。もちろんそう主張する背景もありますが、プラトンの当時、流行していた思潮のひとつが、相対的な快楽主義という立場です。「人間は万物の尺度である」(プロタゴラス)とのソフィストの格言(人現尺ドロン))は有名ですが、<よい>とか<正しい>ということは、そのひとにとって<よい>とか<正しい>ということであって、その意味ですべての物事・価値観は相対的であるという主張です。その主張ににのって、彼らは「善とは快楽である」という主張が出てきたわけですが、快楽とは長続きするものではない。例えば、腹が減ったら飯を食う。満腹を目指す運動が快楽(感・幸福感)であるとすれば、満腹になったにもかかわらず、食べ続ければそのことは苦痛である。そうした部分に対する批判が惹起する。その流れで出てくるのがソクラテスといえます。ソクラテスは、(それが何だかわからないが)人間には、個人を超えた誰にでも共通するようなαでありΩであるようなものは何かあるはずだ(それが真理ということなのでしょうが)と考え、問答を繰り返します。そこでソフィストや当時の有力者と呼ばれた人々は、ソクラテスとの対話のなかで、その無知が暴かれ、ソクラテスを刑死へと追いやるわけです。

ですので、ソクラテスは、「だれにでも当てはまるような普遍的(絶対的といってもよいと思いますが)真理は、何かあるはずだ!」と発想しましたが、結局「それが何か」については語る前に亡くなります。

そこで弟子のプラトンがその課題と格闘するのですが、そこで提示されるのが、イデアという概念です。

机といった場合、ひとびとはいろいろな机を想像し、絵に描くことが出来ます。ある人は四角いテーブルを、ある人はちゃぶ台を、そしてある人は……。そこで出てくるのは、現実の様々な机たちです。しかし、それが机であることにはかわらない。そうした共通性・本質性が、現実の机の背後にある。それがイデアというものと考えていいと思います。机には机のイデアが、そしてペンにはペンのイデアが、そして勇気には勇気のイデアがある。そして最高のイデアが善のイデアであるとプラトンは考えました。

このイデアはある意味で現実の感覚的な世界から、まさに超越したイデア界にあるとされたわけですが、ひとはそれをただしく認識し、行い為すところに、正しい生き方、幸せがあると考えたわけです。『メノン』でも魂の不死が語られていますが、人間は現象世界に生まれる前、イデア界で、イデアを見ていた。しかし現実世界に肉体をもって生まれてきた際、それを忘れている。しかし古物をみて、イデアを想起することはできる、だから真実へ迫ることが可能となる……そういう論調ですよね。

※ただし、乱暴な私見によれば、ソクラテスは、普遍的客観的な真理はあるはずだと考え、それを何かはいわなかった。しかしプラトンは、それをイデアと呼び、考え方を深化・整理しただけにすぎないでは?と思ったりもします。


でこのあとのアリストテレス。

アリストテレスは、プラトンと違い、真理は現実に内在すると考えました。
ラファエロの『アテナイの学堂』なんかを見れば二人の対照性が理解できます。大学の講堂の緞帳がそれですが、中央にプラトンとアリストテレスが語り合いながら歩いている部分があります。プラトンは天空を指さし、普遍的真理は、現実世界を超越したイデア界にあるということを暗示しつつ、横のアリストテレスは地面へ向けて指さしています。普遍的真理は、現実世界に内在する……そうした立場を暗示させます。

アリストテレスは現実から発想しますすなわち、善の問題に関していえば(『ニコマコス倫理学』で詳しく触れられていますが)、善は、まずもってこの人間の世界から考えるべきだと論を立てます。善とは何か……すなわち人間が皆望んでいるものですが、その“よさ(善さ)”とは何か?それは「幸福」(エウダイモニア)であるとアリストテレスはいいます。幸福はこの現実世界における善の実現であり、「人間にとっての善とは幸福である」このように主張しました。

そして善=幸福の活動はどこにあるのか、それは魂の活動であり、幸福はスタティックな在り方ではなく、活動にこそあるとアリストテレスはいいます。

アリストテレス主義の要点は二つです。ひとつは、善を幸福として考えること。このことはプラトンと逆の発想です。現実の活動の中から善の内実を語っているといえます。そしてもうひとつは、幸福を魂の活動に見出したことです。

例えば、アリストテレスにおいては、健康で不自由のない生活が幸福かといった場合、幸福ではないということになる。健康も不自由のない生活も状態であって、活動ではないからです。健康でも、それをどのように使うかであり、不自由のない、例えば、お金に不自由がないと言った場合、どのように使うのか、すこし踏み込んで言えば、どのように「よく使うのか」それができないと、幸福とはなりません。この“よく”ということに関してアリストテレスは、習慣的徳と知性的徳というふたつのアプローチをもうけていますが、その部分はひとまず措きます。

こうしたふたりの善とか正義とか普遍的真理といったものを対比した場合、非常に通俗的なものの言い方になり恐縮ですが、プラトン主義がどちらかといえば、二元論的(それがプラトニックという所以ですが)・真理実在論であり、アリストテレス主義の場合、一元論的・内在論といえるかもしれません。


で……、現実の場で考えてみると、考え方として、絶対的な正義や、絶対的な善といったものが、どこか、われわれの泥沼にまみれた現実世界を超越した真理の世界に、あらかじめ所与のものとして存在すると考えることは、すっきりするといえば、すっきりします。宇宙の法則しかり、自然界の法則しかりです。われわれの現実的行動を、形而上からささえる基盤があると考えるのは発想としてすっきりしています。またそう思うことも多いと思います。

それに対して、普遍的真理が内在的なものと考えれば、アリストテレスの幸福論のように、<善く>生きるといっても、人によってアプローチや達成の方途が全く異なってきます。どのように価値的に<善く>生きるのか……という問題が当事者に投げ出されているという現実に当惑させられてしまうことの方が多いと思います(もちろん、アリストテレスの場合は、一つ観想という魂の知的運動に最大の幸福・善の実現を見出していますが、発想をかりるだけでそこまでは踏み込まないようにします)。


前フリがながくなってしまいました……。


で……、どちらが良いのか?というわけではありませんが、ワタシの実感ですが(実感デスヨ)、普遍的な真理とか絶対的なαでありΩであるような軸とでもいえばいいでしょうか……そうしたものは、あるのかもしれないと思います。ただカントがいうように、人間の理性の力には限界があるから確認のしようがない。感性界に生きる我々は、イデアが存在するような叡智界(プラトンのいうようなイデア界)に存在する物自体を正しく認識することは不可能です。だから、それに「ふさわしく」生きる。また「(幸福とか真理とか正義とか絶対的な善とかに)ふさわしくあるような自己を目指して」現実を生きていく。そのことしかできないのかと思います。

もちろん、いうまでもありませんが、そうした現実の緊張感を超克するのは宗教的な真理把握(宗教体験)になるのだと思いますが、議論としては、世俗に生きる人間のレベルで話を進めてみました。

カントのいうように、人間は、絶対的な善とか正義を、正しく認識することはできないとしても、それに対して、ふさわしくあるように人間は努力することが可能である。だとすれば、不完全であっても、現実には善とか正義とかを実現することは可能になるんだと思います。ただそれはひとによって千差万別で、善や正義を実現させるマニュアルとかハウツゥー本はないんだと思います。でも、人間はひとりではありません。目指そう!と励まし合い、体験を語り合いながら、漸進することは可能だと思います。

あと蛇足ですが、絶対的な真理が人間の存在と関係なく、所与のものとして存在するということを巡って、詩聖タゴールとアインシュタインが論争をしております。アインシュタインは絶対的な真理が人間の存在と関係なく存在すると主張しました。例えば、万有引力の法則を例に取ってみれば、そこに人間が存在しようがしまいが、存在する。人間という生き物が仮に地球上に存在しないとしても、リンゴは木から落ちる。だから普遍的な絶対的な真理は、アプリオリに存在するとの主張です。

この主張に対して、タゴールは、絶対的な真理とか普遍的な真理というものは、人間存在の関わり抜きには存在しえないと主張しました。人間が存在しない地球において、リンゴがおちても、それは真理としての万有引力の法則ではない。人間という存在と無関係の真理は真理でないというのがタゴールの主張です。


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真理が人間性から遊離して存在するというのは、実際には科学そのものを否定することになる。人間に知り、理解できる事実だけを、科学は合理的概念として体系づけることができるからであり、論理とは、機械的な人間がつくりだした思考の機構であるからである。
     --タゴール(森本達雄訳)「人間の宗教」、『タゴール著作集 第7巻』(第三文明社、1986年)。

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タゴールのいう真理とは、人間の精神によって把握されるものであり、たんなる論理的知性とか悟性によって把握されるのではありません。全体的な精神性の立場から、経験的に把握されるものである。だから科学もまた人間という立場を離れることは出来ず、人間と無関係な真理を考えるということ自体、科学の自己否定であるという主張です。


こういう考えに耳を傾けてみると、絶対的とか、普遍的とか、そうした、いわば、「誰にも当てはまり」「だれもがそう思わざるを得ない」というような考え方(真理とそれを読んでよいのでしょうが)は存在するのは存在するが、それは人間のいきているこの現象世界を超越した、どこか宇宙の果てに存在する所与の法則とか価値機軸ではないのかもしれません。その意味で、絶対的とか、普遍的とか、そういうものは、予めあるのではなく、あったとしても、「誰にでも獲得可能な」という意味で、絶対的で(=そう考えざるを得ない)、普遍的(=誰にでも当てはまる)のだと思います。


哲学とは何か……といった場合、いつも次のように定義しています。

すなわち、

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哲学とは、人間が世界について、自分について考えるということ。その際、哲学とは、人間が言語を通して徹底的かつ精確に、合理的に考えようとする試みである。その営みは、自分の考えを“普遍的真理”と思い込んで他者に押しつけようとするものではない。
その反対に、自分の考えを他者の吟味に委ね、相互批判を通して、多くの人を納得せしめるような強い考え方(普遍的な考え方や原理)を作り出そうとするものでなければならない。
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その意味でようやくたどり着きましたが、「正義とか絶対的な善というもの」は存在するといえば存在すると思います。ただし、それを所与の原理原則として「固定化」することは、イデオロギーの奴隷となってしまいます。そうではなく、例えば、それを普遍化ならしめる過酷な対話レースを勝ち抜き、獲得されるところの、だれもがそう考えざるをえない価値機軸こそ、本来的な強さと説得力を持つ、「正義とか絶対的な善」なのではないのかな……そんなところです。

だから、固定化の議論で言い換えれば、正義とか善といったものは、確かにあると思いますが、それを一人一人が、自分の現場で、普遍化たらしめる、過酷な対話レースを繰り返す中で、ときには涙し、ときには友と深い握手をしたり、ときには笑いながら、獲得していくものではなかろうかと思います。どこかに完成品があるようではないと思うのですが……。


趣意がつたわっていないとすいません。

こういう話は、酒でも飲みながらヤルのが一番なんですけど。

いつか呑みながら話したいものですネ。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年4月28日 (月) 01時13分

ご丁寧な御返事、大変にありがとうございます。

あれからしばらく思索してたら、次のような言葉に出会いました。

「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、
譬えば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、
法華経はしからず・心すなわち大地・大地則草木なり、
爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、
法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり」(白米一俵御書)

これもプラトンのイデア的な発想=爾前経と考え、それとの対比で法華経を考えてみてもいいんでしょうか?

なんだか考えるのが楽しくなりました。本当にありがとうございます。とりあえずタゴール・アインシュタイン論争を探して読んでみます。

投稿: ツルハ | 2008年4月29日 (火) 21時17分

ツルハさんへ

ちょい、白米一俵御書を確認してから、返信しますが、実感としては、仏教には、プラトン的発想と、アリストテレス的発想の両方があると思っています。ただ知己の仏教学者(東哲)は、「(大乗)仏教は内在一元論だ!」と、こないだ呑んだとき、行っていたので、少し確認してみます。
少々お待ちを。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年4月30日 (水) 04時27分

木村アンパンマン様

おせわになりあます、宇治家参去です。


管理画面より、まとめて、エロサイトのトラックバックを削除していたのですが、その際、誤って木村様のトラックバックを削除してしまいました。

どうぞ張り直していただければと思います。
ご面倒をおかけしますが宜しくお願いします。

宇治家参去


投稿: 宇治家 参去 | 2008年5月 3日 (土) 15時56分

ツルハさんへ

遅くなりましたが、白米一俵御書を再読しましたが、爾前=プラトン的、法華思想=真理の内在論、という簡単な図式でもなさそうですね。真理が諸法であり、そのエネルゲイアの展開としての現実態である実相が弁証法的に相関しているといえばよいのでしょうか……。あれだ、これだと定義づけを拒むような人間論的真実が垣間見られます。
その意味では、プラトン的な真理の超越論的実在主義でもなく、たんなる現実内在に対する集中的な議論でもないようなきがします。カントは「あるべし」と「ありたい」を幸福論において調停しますが、人間論的にはそうした視座が諸法と実相をめぐる真相ではないかと……そう思うところですが、もう一度考えてみます。

一筋縄ではいかなそうなので……。

ちなみに、おそくなりましたが、アインシュタイン-タゴールの真理を巡る討論の全文をアップしました。ご参考までに。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年6月 9日 (月) 02時01分

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