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シビレエイたるソクラテス② 暗黙知との関わり

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 ちょうど、前日紹介したプラトンの『メノン』における探求の議論をどこかで読んだよなアと思っていたので、昔読んだ本をパラパラ読みますとありました。

 ハンガリーの科学哲学者とでもいえばいいのでしょうか……マイケル・ポラニー(ないしはポランニー)(Michael Polanyi)によって1966年に提示された概念のひとつに、認知のプロセス、ないしは、言葉に表象できる知覚に対して、言表できない・説明不可能な知覚を指す言葉に『暗黙知(Tacit Knowing)』という概念があります。それが『暗黙知の次元』という書物になっているわけですが、そのなかに、プラトンの『メノン』のパラドックスに関する議論が含まれております。

 Polanyi(日本語表記が統一されていないので、ローマ表記で)によれば、知識というものがあるとすれば、その知識の波形には必ず“暗黙の次元”のおける“知る”という作動が存在する。それが概念かされたものが、「暗黙知」である。まさに「暗黙に知る」ということだ。このことは、経験やヤマカンに基づく曖昧な知識、潜在的な知識、先験的なオカルティックな知識とは全く異なる概念である。いわば……、記述に還元不可能な、統合的・全体的な知とでもいえばいいのでしょうか……明示的な知が“語られるもの”とすれば、暗黙的な知とは、“語られ得ない”が人に“知られた・知られうる”知であり、人の身体には、暗黙のうちに、しかも自然に、複雑な制御を実行するプロセスが作動することで、状況制御が可能となる、語り得ない知が立ち上がる、それがどうやら暗黙知らしい。

Polanyiいわく……

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人間の知識について再考するときの私の出発点は、我々は語ることができるより多くのことを知ることができる、という事実である。この事実は充分に明白であると思われるかもしれない。しかし、この事実がなにを意味しているかを正確にのべることは簡単なことではない。一つの例をとりあげよう。我々はある人の顔を知っている。我々はその顔を千、あるいは一万もの顔と区別して認知することができる。しかし、それにもかかわらず、我々が知っているその顔をどのようにして認知するのかを、ふつう我々は語ることができないのである。そのため、この知識の大部分は言葉におきかえることができない。しかし最近警察で、この知識の多くを伝えることができる一つの方法が導入されている。まず、花や口など顔のいくつかの部分について、そのさまざまなかたちを描いた絵の厖大なコレクションがつくられる。目撃者は、顔の部分をなすそれら諸細目の中から自分の知っている顔の細目に似ているものを選びだす。そしてそれらの断片がよせ集められると、犯人の顔にかなりよく似た顔がつくりあげられる。このことは、適当な自己表現の手段があたえられれば、結局、我々が人相についてもっている知識は伝えることができる、ということを示唆しているのかもしれない。しかし、語ることができる以上のことを我々がそれに先だって知っていたという事実は、警察のこの方法によってもゆらぎはしないのである。しかもこの警察の方法を用いることができるのは、我々が記憶の中にもっている諸特徴の絵のコレクションの中の諸特徴といかに結びつけるべきかを知っているときだけである。しかし我々が実際どのようにそれを結びつけているのかを、我々は語ることができないのである。このようにして成立する知識伝達の行為こそまさしく、我々が語ることのできない知識を示している。
    --マイケル・ポラニー(佐藤敬三=訳・伊東俊太郎=序)『暗黙知の次元』(紀伊國屋書店、1980年)。

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いわば、職人の師弟が、語りを交えずに、その技を盗んで自分のものにしていくようなものでしょうかね。

こういうのを読んでいますと、ひとはしばしば、科学的知識の客観性や普遍性を問題にする中で、当人の主体的な関心や営為と切り離して考えがちだが、そうした客観性や普遍性の探求は、探求者の主体的営為を通してのみ、開示されるひとつの知であることを実感します。ともすれば、客観的、普遍的な知とは、超個人的な(誰にでもあてはまる、獲得可能で再現可能という意味では超個人的なのでしょうが)主体や現実と切り離された、事実に即しただけの客観性とうけとめがちだ。事態はそうでもなさそうだ。

Polanyiの主張は、科学的知識の客観性や普遍性を否定するのではなく、事実に即しただけの客観性を拾い上げる探求者の洞察のプロセスに焦点を当てたものである。Polanyiの議論は、客観性か、主観性か、といった不毛な二者択一を迫る「客観性の神話」をより創造的かつ緊張的な主観、客観関係へ転換する力をもつものであり、そこには、安易な東洋的な合一論を退ける科学論も内包する。

読んでいるとすっきりします。

これで、わたしが、行ったことのない土地でも、うまく旨い店へ辿り着ける理由がわかったようです(どこか違うよな)。

ということで、最後に冒頭に示した、プラトンの『メノン』に関する言及部分を紹介します。

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 すべての研究は問題から出発しなければならない、とはふつうに言われることである。研究は、問題がよい場合にだけ成功することができる。研究が独創的でありうるのは、問題がよい場合にだけ成功することができる。研究が独創的でありうるのは、問題が独創的である場合にかぎる。しかしよい問題にせよ独創的な問題にせよ、そもそも人間にはどのようにして問題が見えるということがおこりうるのだろうか。なぜなら、問題が見えるということは、かくれているなにものかが見えることだからである。それは、まだ包括的にとらえられていない諸細目のあいだに、まとまりがあるのではないか、という一つの内感(intimation)をもつことである。この内感が正しければ問題はよい問題となる。我々が予感している包括の可能性を、ほかのなんぴとも見ることができない場合、その問題は独創的である。偉大な発見に導かれるような問題が見えるということは、たんにかくれているあるものが見えることではない。それは、他の人が夢想だにせぬあるものが見える、ということである。このことはわかりきったこととされている。そして我々はそこに自己矛盾がひそんでいることに気づくこともなく、それをまったく当然のことのように考えている。しかしプラトンは『メノン』の中でこの矛盾を指摘したのであった。彼は、問題にたいして解答をさがしもとめることは不合理であるという。なぜなら、さがしも
とめているものを知っているとすれば、その場合には問題など存在していないことになるし、また、もしそうでなければ、さがしもとめているものがなにかを知らないのだから、なにを見出すことも期待することができない、というのである。
 このパラッドクスに対してプラトンが与えた解決は、発見とはすべて、過去の経験を想い起こすことである、ということであった。この解決はほとんど受けいれられていない。しかしこれまでの、この『メノン』の矛盾を回避するために、ほかになんらの解決も提出されてはいない。このようなわけで、我々はつぎのような事実に直面しているのである。つまり、人類はこの二千年以上ものあいだ、困難な問題を解決しようとする人々の努力によって前進してはきたものの、他方、その間あらゆる場合に、それらの努力が無意味であるかそれとも不可能であるかが示されえた、ということである。こうして我々は、だれの目にもふれるところになにげなくおかれていたがゆえに、すべての人が気づかずにいた重要書類という、あのポーの『盗まれた手紙』の古典的な一例をここに見ることができるのである。なぜなら、もしすべての知識が明示的なら、つまり明らかに述べることができるのなら、我々が問題を知るということはありえず、あるいはその答をさがすことなどありえないことが、『メノン』によって明白に示されているからである。したがってまた、それにもかかわらずもし問題が存在し、さらにそれを解くことによって発見をすることができるならば、それは、語ることができないことがら、しかも重要なことがらを、我々は知ることができるからにほかならない。このことも『メノン』によって示されている。
 『メノン』のパラッドクスを解決することができるのは、一種の暗黙知である。それは、かくされてはいるがそれでも我々が発見できるかもしれないなにものかについて、我々がもっている内感である。このような精神の力をあらわすもう一つの重要な例がある。偉大な科学的発見は、それがもたらす結果の豊さによって特徴づけられる、としばしば言われており、それは真実である。しかし、我々は、真理をその豊かな結果によって知ることがどのようにしてできるのであろうか。我々は、ある言明が真実であることを、その言明のまだ発見されてもいない諸帰結を評価することによって知ることができるのであろうか。もし、まだ発見されてもいないことを、我々が明示的に知らなければならないというのなら、これはもちろん意味をなさない。しかし、まだ発見されていないことについて、我々が暗黙的な予知をもつことが認められるならば、それは意味をなす。太陽中心説が、たんに惑星の軌道を計算するための一つの便利な方法にすぎないのではなく、実際に真実であるということを、コペルニクス主義者達はニュートンが証明する百四十年もまえに重圧にめげず情熱的に主張したが、そのとき彼らが肯定しようとしていたのは、まさにこのような種類の予知であったにちがいない。
 そこで、ある言明が真であることを知るということは、語ることができるよりも多くのことを知るのである、と考えることができる。したがってまた、ある発見によって問題が解決されるときには、その発見は、当の発見以外に不確定な範囲の内感をともなっていると考えるられる。さらに、我々がその発見を真理として認めるときには、我々は、まだ明らかにされていない、そしておそらくはまえもって考えられすらもしないそのすべての帰結を信じることにみずからを傾倒*させているように思われる。
 *(訳注)傾倒。commitmentあるいはcommit。この語は本書はもちろん、“Personal Knowledge”でも用いられるポラニー哲学における重要な概念であるので、文脈に応じて適宜訳しわけることをせず、「傾倒」あるいは「傾倒する」という一通りの訳語を与えた。関与、参加などという言葉より強い、主体的かかわりを意味する観念である。
    --マイケル・ポラニー(佐藤敬三=訳・伊東俊太郎=序)『暗黙知の次元』(紀伊國屋書店、1980年)。

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※引用は手元にあった紀伊國屋書店版を使っていますが、筑摩書房から文庫で新訳された、マイケル・ポランニー(高橋勇夫訳)『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫、2003年)のほうが入手しやすいと思います、念のため。

で……、写真は、熊本でゲットした、地酒「れいざん」(山村酒造)です。
九州は焼酎天国ですが、日本酒も旨かったです。水と米がおいしい地域は酒もウマイですね。酒と並んでいるのは、ウィルコムの端末です。熊本出張では、LANケーブル忘れで、ウィルコムが大活躍しました。もう少し通信速度が速いとよいのですが……。

Book 暗黙知の次元―言語から非言語へ

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暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫) Book 暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)

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