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探究しながら途上にあること

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答張五弟
    王維

終南有茅屋
前對終南山
終年無客長閑關
終日無心長自閒
不妨飲酒復垂釣
君但能来相往還

張五弟に答う
終南 茅屋有り
前に終南山に対す
終年客無く長く関を閉ざし
終日心無くして長く自ずから間なり
妨げず 酒を飲み復た釣を垂るるを
君但だ能く来たらば相往還せよ

終南山に一軒のあばら家がある。その家の前は、終南山と向かい合っている。ここでは一年中、客が一人も来ないので、門はいつもしめたきりだ。一日中、何も心をわずらわすものがないから、いつでものどかなものだよ。酒を飲もうと釣糸を垂れようと思うまま、何のさしつかえもないのさ。君もここへ来られさえしたら、来てつきあいたまえ。
    --前野直彬注解『唐詩選(上)』(岩波文庫、1961年)。
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冒頭は、盛唐期の高級官僚で、時代を代表する詩人・王維の詩より。
輞川(もうせん)の別荘に引きこもっている王維にあてて、友人の張諲(ちょういん)がなにか手紙でも送ったのであろう。それに対する返事がうえの詩で、張諲を山中の閉居に誘うおうとするもの。

張諲でなくとも、宇治家参去も行かせてください!
日がな酒を友に、無心に釣り糸を垂れたいものです。

さてそうした仙人のような暮らしとは無縁な新学期が始まりました。
昨日は短大での『哲学入門』のガイダンス。

高等学校を卒業したばかりの学生たちにとって“哲学”とは、いわば、高等学校で習う社会科学系の“倫理”やら“世界史”“日本史”の延長線上の認識で、暗記科目では?という印象が極めて強い。

ガイダンスでは、そうしたところを払拭するところから始めます。
暗記することがわるいことではない。
英単語を覚えたり、文法の意味を理解(もしくは脳のシナプスの接続)しないと英文は読めないし書けない。条文を覚え、判例を理解しないと、刑法各論の単位は取得できない。暗記が必要な場面は無尽蔵に存在する。

ただ本質ではないということだ。
暗記をすることは手段に他ならず、目的ではない。
そういうところが本末転倒し、毒気をふりまいているのであろう。

暗記が必要ならすればよい。ただそれだけだ。

知識の混同と詰め込みが蔓延している。

さて--。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、知識を3つに分類した。
すなわち、エピステーメー(科学知識)、テクネー(技術的知識)、フロネーシス(良識、或いは知恵)の3つである。

それぞれ知に関わる重要な概念だが、ひとはこれを混同しがちである。単純化をおそれずにいうならば、エピステーメーとはscienceとも訳されるように、技術を背景支える概念的・理論的な科学知であり、テクネーとは、まさにtechnologyと訳されるように、操作法・やり方を含む技術知であろう。

エピステーメーに関わる人間が広義の科学者であるとすれば、テクネーは実際に物事に関わる人間を含めた広義の技術者である。

では最後のフロネーシスとは何か。
古代ギリシャでは、人の生活を導く知の働きを、フロネーシスと呼んでいた。その意味では、まさにprudenceと訳されるように思慮分別のことであろう。その意味で、フロネーシスに関わるのは、科学者も技術者も含めた自由な市民がその担い手である。
※もちろん、フロネーシスを「科学的な思慮」として構想し、純粋知(ソフィア)と区別したプラトンの議論はここではひとまず措く。

近代公教育の現場において、長い間、知識の多様性は顧みられず、知識とは単に、科学知識と技術知識のみがその役割を担ってきた。学校で学ぶとは、即ち、学的法則の理解と、技術的知の暗記が主軸であり、そこにはフロネーシスの出番はない。

そのお陰であろう。
産業革命以降の(西欧型)の近代化は驚くべき速度で、人々を“魔術から解放”し、快適な生活スタイルとイノベーションを提供した。

そのことになんら異論はない。
現代社会は快適で便利な社会であるし、それへの依存なくして日常生活の運行は不可能なほどに生活にとけ込んでいる。

しかし便利で快適な社会は、実は危険社会の側面も持っているとの指摘もある。ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックは、古典的工業化社会においては、“危険の拡大”よりも“富の拡大”が圧倒したため、“危険の拡大”は等閑視されてきたが、現代置いてはそれは逆転されていると警告する。古典的工業化社会においては、副作用で済んだ問題が、世界化しているのが、現代である。そのことは時事的報道に目を通せば明らかである。食の問題から環境・政治・国際レベルにおいても、もはや“危険”がキーワードといっても過言ではない。

危険は技術者の檻から解き放たれ、市民社会を闊歩している。

多様な在り方であった知識が、一元化され、単純化された(教育)の末路であろう。多様性を単純化する恐怖はここにも存在する。

危険に満ちた現代世界では、科学知識、技術知識を学ぶだけでは充分でない。良識、知恵を学ぶ事が必要なのだ。

ヤスパースが面白いことを言っている。
「確かに、私たちはギリシア時代の医者であったヒッポクラーテスよりもはるかに進歩しています。しかし私たちはプラトーンよりも進歩しているとはいえないのです。私たちは、プラトーンに利用できた科学的認識の材料に関してだけなら、彼よりも進歩しているといえる。しかし「哲学すること」それ自身に関していえば、おそらく私たちはもう一度彼の水準に到達することはほとんどできないのではないでしょうか」(ヤスパース(草薙正夫訳)『哲学入門』(新潮文庫、昭和四七年))。

その意味で、生活や書物、そして世界と人生という教材を相手に、自分で筋道を立てて考え、そして、ひとびとや社会という全体と対話しながら、共通理解(普遍性)を目指していく哲学の営みは無益ではない。

そうした講座になればと思いつつ……。

いつもながら、話が飛びまくる宇治家参去でした。
酒の漢詩で始めたのにネ。

最後にヤスパースの言葉にでも耳を傾けながら……。

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 哲学者(philosophos)というギリシア語は、学者(sophos)と対立する言葉であって、知識をもつことによって智者と呼ばれる人と異なり、知識(知)を愛する人を意味する言葉であります。この言葉の意味は現代まで維持されてきております。すなわちそれは独断主義の形態、換言しますと、いろいろな命題として言い表された究極決定的な、完全な、そして教訓的な知の形態、をとることにおいて、しばしばこの言葉の意義を裏切っているのでありますが、哲学の本質は真理を所有することではなくて、真理を探究することなのであります。哲学とは途上にあることを意味します。哲学の問いはその答えよりもいっそう重要であり、またあらゆる答えは新しい問いとなるのであります。
 しかしこの途上にあること(Auf=dem=Wage=sein)--時間のうちに存する人間の運命--はそれ自身のうちに深い満足の可能性を隠しているのであります。特に高潮した完成の刹那においてそうなのです。このような可能性はけっして言葉で表すことのできる知識や命題や認識のうちに存するのではなく、人間存在の歴史的な実現過程のうちに存するのであって、存在そのものはこの人間にとって現われ出るのであります。人間がそのつどおかれている状況のうちにこの現実をとらえることが「哲学すること」の意味なのであります。
 探究しながら途上にあること、あるいは瞬間の安心と完成を発見すること、これらの言葉はけっして哲学の定義ではないのであります。哲学には縦の組織とか横の組織とかいうものはないのです。哲学はある他のものからは導き出されない。哲学はいずれも自己を実現することによって自らを定義する。哲学とは何であるかということは、私たちによって実験されなければならないことなのです。かくて哲学は生きた思想の実現であり、またこの思想への反省であります。あるいは哲学は、行為であり、この行為について語ることであります。自己自身の実験からして、はじめて私たちは、世界の中において私たちが哲学として出会うところのものを感得することができるのであります。
 しかし私たちはさらにもっと多くの哲学の意味の型を示すことができます。しかしどんな型でも、哲学の意味を完全に尽くしているものでもなければ、また唯一のものとして表わされるものでもありません。古代から伝えられているところによると、哲学とは(その対象に従っていえば)神的な事物や人間的な事物についての認識であり、存在者としての存在者の認識である。さらに(その目的に従っていえば)死の学びであり、思惟によって浄福を得ようと努力すること、神的なるものに似ることである。最後に哲学は(その包括的な意義に従っていえば)あらゆる知の知、あらゆる技術の技術、ここの領域に立つことのない学問一般であります。
 今日私たちは、哲学に関しておそらくつぎのような型において言い表わすことができるでしょう。
 現実を根源においてみること。
 私が思惟しながら私自身と交わるという仕方によって、すなわち内的行為において現実をとらえること。
 包括者(das Umgreifende)の広い世界に対して自分の心を開くこと。
 あらゆる真理の意義を通じて愛の闘争において人間と人間との交わり(Kommunkation)を敢行すること。
 もっとも疎遠なものや反抗者に対しても、忍耐強く常に理性を目ざめさしておくこと。
 哲学は人間が現実と関係をもつことによって、人間自身となるために必要な「集中すること」(das Konzentrierende)であります。
    --ヤスパース(草薙正夫訳)『哲学入門』(新潮文庫、昭和四七年)。

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