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『生きる力 学習指導要領がかわります』らしい……

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火曜日から息子の幼稚園の新学期がスタートしましたが、当分は午前保育。
帰ってくるのが早い。
それまで寝てると、細君にどやされますので、早めに起きるのが辛い毎日の宇治家参去です。

さて、今日はかろうじて、起床し、レポート添削をしたり、出張の準備をしたりしていたわけですが、細君が、「これを読んでおけ!」と一冊の小冊子を手渡してくれました。幼稚園の事務所でもらってきた小冊子は、『生きる力 学習指導要領がかわります』(文部科学省、2008年)というものです。

ゆとり教育に対する反省から、コンテンツ変更を余儀なくされた新学習指導要領というわけでしょうが、パラパラとめくる。

13頁目に「子どもたちの現状」という項目がある。

曰く……。

「基礎的な知識・技能は身に付いていますが、知識・技能を実生活の場面に活用する力に課題があります」とのこと。

なるほど……。

10頁目には「伝統や文化に関する教育を充実します」とある。

曰く……。

「たとえば、
国語の時間では…
・小学校で古文・漢文の音読を行います
社会の時間では…
・小学校で国宝などの文化遺産、中学校で江戸時代の教育・仏果や近現代史など、歴史学習を充実します
音楽の時間では…
・唱和や和楽器の学習を充実します
保険体躯の時間では…
・中学校で男女共に武道を必修にします」

なるほど……。
結構です。

って、本当かよッてつっこみを入れた方がよいのでしょうか?

ゆとり前もゆとり後も、その以前の(古くは、御一新以来の近代教育以来)形から孕んでいる問題が一向に解決されていないのでは?と思うのは宇治家参去一人ではあるまい。

教育学とか、教育行政学、もしくは教育史・教育思想史の専門家からは、怒られそうですが、なんとなく、違和感を感じてしまいます。

つまるところは、公教育だけで、全体人間を創出することは不可能かもしれません。
教育という言葉を広い意味で捉えれば、読み書きを教えることから、子供との遊び、ふれあいにまで、至ると思いますが、少し、我が子との時間を、考える時間・表現する時間、共に悩む時間を創らねばと実感しました。

そういう意味で、おもしろ一節がありましたので、ひとつ紹介を。
『エセー』の著者で知られるミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne)に関する自伝的小説に『ミシェル 城館の人』(集英社文庫)というのがあります。モンテーニュといえば、16世紀ルネサンス期のフランスを代表するモラリストとして知られ、現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けたその文章は、広く読み継がれています。そのモンテーニュの学童時代の教育環境のエピソードからひとつ。

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 第七章
 更にミシェルにとって幸いしたことは、教科が退屈きわまりない初歩の級から、上級へ進むにつれて課目の内容もが豊かになり、暗記一点張りの文法から、次第に修辞学の分野へと転化していったことであった。修辞学は、美辞学とも言うように、思想を最も有効、かつ適切に表現する方法を学ぶものであった。かくしてはじめて身につけていた母語としてのラテン語を、自分のものとして自ら活用することが出来るようになりもしたのであった。
 学級の階段を上るに従って、教師たちも優秀な人々に変わって行くこともまた、ミシェルの頭脳と精神にとっては、よい刺激になる。
 刺激と言えば、上級へと昇って行って課目に、議論と討論(デイスピュタテイオ)が加わって来たことが、彼にとってもっともよい刺激であったであろう。それは、毎日午前午後の全科目が終わったところで、その日の授業のしめくくりとして行われたものであった。その日のどの課目、あるいは教師の説明等についても学童たちが相互に質問を提出し、それに答える。意見を交換し、また時には討論によって勝負を決める。と、このような形のもので、それは西欧の教育には欠かされてはならないものであり、彼等西欧人の人格形成は、いわばこの討論の形をとって形成されて行ったものであった。
 学校とは、あるいは教育とは、ある学年級に到達した場合、一言で言って、討論の場であった。そうしてこの討論の場としての学校、あるいは教育という考え方が、遺憾ながらもっとも欠けているのは、東方世界のそれであろう。
 そうして土曜日になると、午前中の授業の終わったとところで、学級別、あるいは全校的な規模での討論集会が行われた。そのための材料は、教師が出題することもあったが、生徒自身が、たとえば作文をして、それがつかわれることもあった。文章中の誤りなどの指摘も当然行われた。反論、反駁も、これも当然であり、修辞学、哲学の初歩なども必然に加わる。
 こういう時に、大人しく、ただ椅子に腰をおろして黙って聞くだけ、という生徒は、大人しいのではなく莫迦(ばか)、低能と見做(みな)されるであろう。それはまた、ただの会話や問答というものではなく、多数の人間の同意をかちえなければならぬていのものである。
 すなわち、ここで討論は、すでにして言論である。こういう言論はまた、<知性の体操>でもある。この、知性の体操ということばは、まことにふさわしくもエラスムスの言であり、ルネサンスの教育のみならず、爾後の西欧の教育の基礎をなしたものであった。
 この討論によって、学童たちは、一つの主題に対して、解釈の多様性というものがありうることを学んで行く。一つの問題に対して、答えが多様にありうることを知ることもまた、市民社会に生きるためには必須の知恵でなければならない。それは、答えが唯一に限定されている、試験ではない。
    --堀田善衛『ミシェル 城館の人 第一部 争乱の時代』(集英社文庫、2004年)。

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“和”とか“空気を読む”といった感じの“黙る”伝統的エートスも大切なのでしょうが、教育に関しては、いかがなものかと思うことが時にあります。剣豪と剣豪の撃ち合いのような、熾烈な対峙から、人は、価値観の多様性を、本源的に学ぶのだと思います。

基礎体力として暗記はいうまでもなく、必要ですが、それを発酵・醸造させる在り方をなんとか取り込んでほしいものです。

「修辞学」という課目が小学校にあってもよいと思う次第ですが……。

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