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シビレエイたるソクラテス

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一三
ソクラテス それでは、もういちど最初から答えてくれたまえ。君も、君の仲間の人も、徳とは何であると主張するのかね?
メノン ソクラテス、お会いする前から、かねがね聞いてはいました--あなたという方は何がなんでも、みずから困難に行きづまっては、ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり、どうやらあなたはいま、私に魔法をかけ、魔薬を用い、まさに呪文でもかけるようにして、あげくのはてに、行きづまりで途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら、あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビイレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に大してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えてよいのやら、さっぱりわからないのですから。
 とはいえ、これまで私は徳について、じつに難解となく、いろいろとたくさんのことを、数多くの人々に向かって話してきたものです。それも、自分ではとてもうまかったつまりでした。それがいまでは、そもそも徳とは何かということさえ、ぜんぜん言えない始末なのです。--あなたがこの国を出て海を渡ったり、よそへ行ったりしようとしないのは、賢明な策だと私は思いますね。なぜなら、あなたがほかの国へ行って、よそ者とこんなことをしてごらんなさい。きっと魔法使いだというので、ひっぱられることでしょう。
ソクラテス 油断のならぬ男だね、君は、メノン。もうすこしでひっかかるところだったよ。
メノン え? いったい何のことですか、ソクラテス?
ソクラテス 何のために君がぼくを譬えたか、気がついているよ。
メノン 何のためだと思われるのですか?
ソクラテス ぼくに君のことを譬えかえさせようという魂胆なのだろう。とかく美しい連中は誰でも、「たとえっこ」をするのをよろこぶものだということを、ぼくは知っている。彼らにしてみれば、それは得になることだからね。だって、思うに、美しい人たちは、やはり美しいものに譬えられるにきまっているではないか。しかしぼくは、君を譬えかえしてはあげないよ。
 それから、このぼくのことだが、もしそのシビレエイが、自分自身がしびれているからこそ、他人もしびれさせるというものなら、いかにもぼくはシビレエイに似ているだろう。だがもしそうでなければ、似ていないことになる。なぜならぼくは、自分では困難からの抜け道を知っていながら、他人を行きづまらせるというのではないからだ。道を見うしなっているのは、まず誰よりもぼく自身であり、そのためにひいては、他人をも困難に行きづまらせる結果となるのだ。いまの場合も例外ではない。徳とは何であるかということは、ぼくにはわからないのだ。君のほうは、おそらくぼくに触れる前までは知っていたのだろう。いまは知らない人と同じような状態になっているけれどもね。だがそれでもなおぼくは、徳とはそもそも何であるかということを、君といっしょに考察し、探求するつもりだ。

一四
メノン おや、ソクラテス、いったいあなたは、それが何であるかがあなたにぜんぜんわかっていないとしたら、どうやってそれを探求するおつもりですか? というのは、あなたが知らないもののなかで、どのようなものとしてそれを目標に立てたうえで、探求なさろうというのですか? あるいは、幸いにしてあなたがそれをさぐり当てたとしても、それだということがどうしてあなたにわかるのでしょうか--もともとあなたはそれを知らなかったはずなのに。
ソクラテス わかったよ、メノン、君がどんなことを言おうとしているのかが。君のもち出したその議論が、どのように論争家ごのみの議論であるかということに気づいているかね? いわく、「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」--。
メノン あなたには、この議論がよくできているとは思えませんか、ソクラテス。
ソクラテス ぼくはそうは思わないね。
メノン どの点がよくないかを指摘できますか?
ソクラテス できる。というのは、ぼくは、神々の事柄について知恵をもった男や女の人たちから聞いたことがあるからだ……。
メノン どのような話をですか?
ソクラテス 真実な--とぼくには思えるのだが--そして美しい話だ。
メノン どんな話でしょうか、それは。また、話した人たちというのは誰ですか?
ソクラテス それを話してくれたのは、神職にある男の人や女の人たちのなかでも、自分のたずさわる事柄について説明をあたえることができるように心がけている人々だ。さらにまた、ピンダロスをはじめ、その他多くの神的な詩人たちもこのことを語っている。彼らの言うのは次のようなことだ。さあ、それが真実を伝えていると君に思えるかどうか、よく考えてみてくれたまえ。
 すなわち、彼らの言うところによれば、人間の魂は不死なるものであって、ときには生涯を終えたり--これが普通「死」と呼ばれている--ときにはふたたび生まれてきたりするけれども、しかし滅びてしまうことはけっしてない。このゆえにひとは、できるだけ神意にかなった生を送らなければならぬ。なぜならば--
 ふるき歎きへのつぐないを ペルセポネに
 うけいれられし人びとの魂は 九つたびめの年に
 ふたたび 上なる陽のかがやく世へと送られ、
 その魂からは ほまれたかき王たちと
 力つよき人びとと 知恵ならびなき人びとが生まれ
 のちの世に 人たたえて聖なる英霊とよぶ

一五
こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなくうまれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろな事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親切なつながりをもっていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気をもち、探求に倦むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと--このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが--その想起がきっかけとなって、おのずから他のすべてのものを発見するということも、充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、実は全体として、想起することにほかならないからだ。だからわれわれは、さっきの論争家ごのみの議論を信じてはならない。なぜならあの議論は、われわれを怠惰にするだろうし、惰弱な人間の耳にこそ快くひびくものだが、これに対していまの説は、仕事と探求への意欲を鼓舞するものだからだ。ぼくはこの説が真実であることを信じて、君といっしょに、徳とは何であるかを探求するつもりだ。

メノン わかりました、ソクラテス。ただしかし、われわれは学ぶのではなく、「学ぶ」とわれわれが呼んでいることは、想起にほかならないのだと言われるのは、どのような意味なのでしょうか。ほんとうにそのとおりだということを、私に教えることができますか?
ソクラテス だからさっきもぼくは言ったのだよ、メノン、君は油断のならない男だとね。いまも君は、ぼくが君に教えることができるかどうかなどとたずねてくる--教えというものはなく、想起があるだけだと、ぼくが主張しているのに。つまり、ぼくが自分の言葉と矛盾したことを言うのを、たちどころに暴露させようというつもりなのだ。
メノン いえいえ、ゼウスに誓って、ソクラテス、けっしてそんなつもりで言ったのではありません。つい、くせが出たのです。でも、あなたの説のとおりだということを、もし何らかの仕方で示すことがおできになるなら、ぜひそうしてください。
ソクラテス なかなかむずかしい注文だが、まあ君のためなら、努力してやってみよう。--では、そこにいるたくさんの君の従者のなかから、これはと思うのを誰かひとり、ぼくのためにここへ呼び出してくれたまえ。その者をつかって君に証明するから。
メノン 承知しました。〔召使の一人に〕君、ここへ来たまえ。
ソクラテス ギリシア人だね? ギリシア語を話すだろうね?
メノン ええ、それはもう……。私の家で生まれたのですから。
ソクラテス さあそれでは、よく注意していてくれたまえ。この者が想起するとわかるか、それともぼくから学ぶのだとわかるか、という点にね。
メノン よく注意していましょう。
    --プラトン(藤沢令夫訳)『メノン』(岩波文庫、1994年)。

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「徳を教えることは可能か」と問うメノンに対して、ソクラテスは、その前に把握すべきは「徳とはそもそも何であるか」と問い直し、「徳」の定義の問題、探求する(学ぶ)という意味を巡って提起される「(学習)想起説」の問題、そして「想起」を可能にさせる「魂の不死」の問題--様々な課題が彩り鮮やかに、爽やかな対話として進行するプラトンの美しい対話編の一節から。

上で少し述べたように、「徳」(アレテー)とは何か、というテーマを手掛かりに、想起(アナムネーシス)の問題、知識論、そして徳を体現した全体人間の養成という課題(哲人政治家の教育、この問題は『国家』で深く論じられることになるが)が本論の主軸となる。ちょうど上に引用したのは、知識論(探求・学ぶということの意味)との関わりから、想起が提起される個所です。

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「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」--。
    --前掲書。

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なんとなく“聞き流す”ともっともらしく聞こえてしまう“論争家ごのみの議論”です。
ゆっくり読み直してみると……、この“論争家ごのみの議論”は、知を探求することは無駄だとの主張といえる。すなわち、
①人が知っていることを探求することはありえない。知っているから探求する必要がない。
②人が知らないことは探求することは不可能である。対象を知っていないから探求不可能である。

こうしたいわばソフィスト的議論は、哲学とは「知を愛する」という“フィロソフィア”という営みを否定するものであり、知と知の所有者を固定させてしまう二元論である。
現実の人間は、いわば知と無知のただ中に投げ出されており、はっきりとは知らないが、そしておぼろげにしかつかめていないが、その全貌とは何か、そしてその真実とは何か、“知ろう”と欲する、知を愛そうと動くがゆえに、哲学が存在する。そこには知の固定化は存在しないし、固定化した時点で、探求すべき知は存在する価値を失ってしまう。また人間の現実を固定化させてみてしまうこと自体が、傲慢なソフィストの立場である。

ソクラテスは、そうした議論に対して、「魂が不死なるもの」という条件に基づく想起説を提示する。その想起説の、技術時代における有効性に関する議論には興味がないので、ここでは措く。ソクラテスがそうした議論を提示した意味を探求すべきだと思うからだ。

ソフィストの議論に従えば、探求には意味がない。
初めから“あらゆること知っている”がゆえに、ソフィストたちは探求しない。そして、“知らない人間”たちに、知を“教える”がゆえに金もとる。いわば、ソフィストたちだけが「知っている者」であり、それ以外は「無知の者」ということにもある。そうした分断的な二元論への異議申し立てとしてのソクラテスの議論が存在するのである。

人間は、「知らない」と同時に「知っている」。
だから、探求が必要だ。
ソクラテスにおいては、それが“想い起こす”ということであり、知らない状態は、忘れている状態にほかならない。今は忘れているから「知らない」のである。

だからこそ“汝自身を知れ”と語ったのである。

“汝自身を知れ”とは単に知らないこと自覚という知識論的なレベルに収まるような格言ではない。本来知っていたからこそ、想起するのである。であるとするならば、ソクラテスの知とは、知のカタログや見本市ですべて展示されているような知とは質的にことなるものである。つまり、知とは本来自分自身のものである知にほかならない。自分自身のものでない知は存在しないし、探求の価値もない。

探求によって自己自身に帰る……“自覚”という手続きが必要かもしれません。

久し振りにプラトンの対話編を読み直しています。
シビレエイたるソクラテスの議論にしびれてしまう、ある日の宇治家参去でした。

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