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2008年5月

「自由な世界へいたる門」を開く

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 「余暇」は何によって正当化されるかといえば、労働者が余暇をもつことでスムーズに、「事故なしに」働くことができるからというのではなく、むしろ余暇をもつことで人間性を失わない、ということが大事なのです(ニューマン枢機卿なら「ゼントルマンでありつづけることができる」ということでしょう)。
 いいかえると、「余暇」のおかげで労働者は、特定の労働機能にしばられ、狭い環境のなかに閉じこめられたままにはならないのです。むしろ、労働者はそのような状態から解放され、いわば世界全体をながめわたし、存在するすべてのものと交わり、そして一体となることができるのです。
 したがって、「余暇」をもちうる能力は、人間の魂の根本的な能力の一つなのです。この能力は、「コンテンプラチオ」とか「祭りを祝う」能力と同じように、労働や苦労の世界を超え出て、人間の生命の真実の源泉へと到達することを可能にしてくれる能力だといえます。
 この能力は(深い眠りのように)私たちを元気づけ、新たにして、一日の仕事へと送りだしてくれます。まさに真実の「余暇」だけが、あの「目に見えぬ不安」がただよう閉ざされた世界をあとにして、「自由な世界へいたる門」を開くことができるのです。
    --ヨゼフ・ピーパー(稲垣良典訳)『余暇と祝祭』(講談社学事術文庫、1988年)。

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どうも宇治家参去です。

怪我の功名とでもいえばよいのか、本来この週末は、新潟出張が予定されていたので、市井の仕事をすべてキャンセルしていた。しかしスクーリングの受講生が集まらず流れてしまったのですが、仕事はキャンセルのままにしておいた。
金、土、日の三連休だ!
決意と期待で木曜の仕事をこなしていたわけですが、終業前より、頭が痛い。
帰って熱を測ると38度。
単なる風邪にしては、高温だ。
そこでとりあえず、一杯引っかけて(エビス500×2、日本酒1合)、寝る。
しかし眠れない……。
数時間おきに目が覚める。
とりあえず、朝まで流すが、どうも熱はひいていないようだ。
土曜日が、また別の紀要の論文のエントリの〆切日のため、その要旨をまとめ、そのうえで、レポート添削を済ませる予定だったので、2時間寝ては1時間作業をして、その繰りかえしでなんとか規定量はこなし、エントリの要旨も電子メールで送信する。

土曜日は、家族と共に美術館へ行く予定。
早く熱が下がらないとヤバイので、今日はこの辺で寝ます。

この3日間を“あの「目に見えぬ不安」がただよう閉ざされた世界をあとにして、「自由な世界へいたる門」を開く”余暇の一日一日であろうと考えていたのですが、出鼻を挫かれる。
ま、明日から勝負(?)なので今日は呑まずにとっとと寝よう。

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収集し分類する人間 そして片づける人間

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 リンネ--この視覚の天才については、エラズマス・ダーウィンについてと同じように、人間の行動の観察が外界に集中しているにしても、彼の眼差しは気持ちよく整理された可視的な自然に向けられていた、ということができるだろう。つまりリンネはたんなる観察者、たんなる傍観者にして収集家なのである。彼は『神罰』という本にならなかった著作物の作者ではなく、万物の造物主に由来する原理の告知者にすぎない『神罰』の提示する事例集には、動機と行動結果との比較考量をうながす懐疑論的なところがいっさい見当たらない。しだいに台頭しつつあった、人間の内面についての動機論や気質論に比べれば、リンネの可視的なものの道徳は古めかしい印象を与える。植物学や動物学のような、可視的なものを対象とする学問に影響を受けているだけに、彼の道徳経済学においては、妥協のない明瞭さが主調をなしているのである。
 アダム・スミスは、個人の行動は意図せぬ結果をもたらす「見えざる手」によって導かれていると信じていたが、リンネの場合、このような考えはその片鱗すら見られない。リンネの確信するところによれば、神は人間を被造物の基準としてつくった。それゆえに人間が自然の道徳的均衡に違反することは、とりわけゆゆしいことなのである。人間は「自然」のなかであまりにも高い地位を占めているため、「社会」における個人は、自分の行動結果など予見できないといったからとて、その行動結果から逃れることはできない、とリンネは考えていた。
 一九世紀の進化論が社会科学の分野で主導的理論となったのは、進化論が人間を最終的に優位におかなくなったからでもある。「人間も例外ではない」とチャールズ・ダーウィンはノートに記している。精神科学の歴史のはじまりが、自然神学と弁神論の範囲内で設定された諸問題から自然および道徳が取り除かれたときだったとしたら、精神科学の前進は、個人の排除を特徴とする。そして最後に、社会は個人によって構成されているのではなく、個人の相互関係の総体なのだという、マルクスの公式化した認識にいたる。鈴年がこのような思考の方向をとれなかったのは、なによりも、生物の学問(博物学)から生命の学問(生物学)を生みだすために貢献した比較解剖学の「平行進化」について、あまりにも知識がなかったせいである。一八世紀末葉と一九世紀の社会学が、社会的なものを対象とする自然科学に移行する途上で、まず最初に自然を、つぎに道徳を、そして最後に個人までも視界から消し去ったのに対し、リンネの視線は変わることなく具体的な個人に向けられていた。抽象化をおびた「平均的人間」には向けられなかったのである。
    --ヴォルフ・レペニース(小川さくえ訳)『十八世紀の文人科学者たち』(法政大学出版局、1992年)。

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近代の学問は、それ以前のドグマ的な思考から脱し、なによりもまず「観察」に基づく「経験」に沿って「記述」することをその大きな特色としている。前時代のあり方から、実証的な近代の学問への以降過程である十八世紀に活躍した人物のひとりがリンネ(Carl von Linné、1707-1778)である。

「現世の整理好き」だったリンネは「分類学(Taxonomy)の父」とも呼ばれる。自然界に存在するものを収集し、分類に情熱をかけ、近代博物学(Natural history)の礎を築いた存在である。情熱的な集中で、収集と整理、そして分類にあけくれた……。
いわゆる近代の科学技術なるものが爆発的な勢いで開花するのは、リンネの没後のことになる。従って、その前夜に活躍したリンネの業績は、科学技術の圧倒的な成果に対してみせると、一見無力で誤りに満ちあふれたものとして、すでに「乗り越えられた」感も否めなくはない。しかし、冷徹な科学技術者としてリンネの業績を検討するのは愚かな試みかもしれない。

リンネは確かに客観的な観察をこころがける科学者であった。
しかし、科学者という存在だけに終始したわけではない。当時は高名を馳せた文筆家としての顔ももっていた。リンネとは、冷静な研究をこころがける科学者でもありながら、想像力に満ちあふれた文士であったという希有な存在なのである。もちろん、文人としての姿にひとびとは注目すればするほど、リンネの博物学やその科学性を中途半端な“イカガワシイ”ものとして早計することは簡単だが、文人でありながらも科学を志向したその歩みを振り返って見るならば、単なる技術屋とか冷酷な実験室の科学者とは異なる、ひとつの全体人間の見本を見ているようである。
深い信仰心も兼ね備えたリンネの歩みは、あれかこれかの独断と億見を跳ね返す、「具体的な個人」としての「科学者」という、ヒポクラテスの誓いにも似た、理想的なあり方を示しているようだ。

さて--
リンネや博物学を論じるのが主ではありません。
子供の遊びを「客観的」に「観察」してみると、実におもしろい動きをしている。
うちの子供もリンネではありませんが、どうやら収集癖と(彼の中での自律した概念に基づく)分類が存在する。

ポケモンカード、ウルトラマンや動物のフィギュア、そしてウルトラ大怪獣バトルゲームカード……様々集めているようですが(過剰に与える細君の姿勢も問題ですが)、そのカードなんかを音読しながら、時折テーブルの上に並べています。

どういうルールや基準があるのかわかりません。

しかし彼のなかでの自律的な基準によって並べ、整理しているようです。
宇治家参去が手を出す(=助ける)とエライ剣幕で拒否されます。

邪魔するな!とのこと。

人は何かを収集し、自分の基準に従って分類したり、整理するのが大好きな生きものかもしれません。

そうした生きる力がひとつの形になり、彼における博物学という学問が、もしも誕生したというのであれば、こんなにうれしいことはないかもしれません。

どうも学問や科学というと、ひとは自分の実存とかけ離れたものとして相対しがちですが、むしろそうではなく、自己の営みと反省する中でそうした対象と関わることで、対象の実存的な意味合いが確立するのかもしれません。

ただ問題なのは……
並べたり、分類したりした後、それを片づけないことが問題である。
これはおそらくうちの子に限られた問題ではなかろうかと思う。

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Book 十八世紀の文人科学者たち―リンネ,ビュフォン,ヴィンケルマン,G.フォルスター,E.ダーウィン (叢書・ウニベルシタス)

著者:ヴォルフ レペニース
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異常事態のなかで価値を紡ぎ出す

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頼ってくれるのは嬉しいのだが……、
市井の職場の話ですが、日中完了できなかった業務に関して、何でもかんでも夜間勤務の宇治家参去になげつけてくるのに少し違和感を感じている宇治家参去です。

(人員不足)という異常事態は異常事態である。
しかし、その異常事態に、ひとはなれてしまうと、その異常さが通常となってしまい、異常が異常であることの認識ができなくなってしまう。現在の対テロ戦争と同じで、テロの報復合戦とか戦争とは、本来異常事態であるにも関わらずそれが毎日の出来事となってしまうと異常の認識が不可能となる。

ひとがいないから、他部門の応援をしろ。
ごもっともなことです。
そのことで現実は自分の部署の仕事に穴があく。
しかし応援しながらも、自分の部署の埋め合わせもしろとのこと。

責任職といえばそれまでのことだが、カール・マルクスのいう“賃金労働者”という意味ではそれ以上のことも(余裕がないので)それ以上はできない。しかし叱責をくらってしまうので、それ以上のことを実践してしまうため、「(こういう現状でも運営できるのであれば)さらにそれ以上のこともやってくれ」と励まされてしまう(?)。

今日は市井の仕事でひとつの山場の曜日でしたが、とりあえず無事に業務をなんとかこなす。頼ってくれるのは嬉しいが、頼られすぎるのもチト重荷。そうしたリアルな重荷と使命論的な重みのジレンマに重圧されるある日の宇治家参去です。

(市井の仕事の)終業後……、すこし近況を心配していた後輩と飲みに行く。
まずは元気で安堵する。
彼は夢に向かって走り続ける青年です。
種々話を交わすなかで出てくる結論は、自分のなかで、その目標に対してできることから手を付けるほかないという常識論へ結実する。

何かやろうとすれば動くしかない。
しかし動くとすれば必然的に、船が波濤を越え前進するように、なんらかの圧力が加わるものである。その圧力と折り合いをつけていきていくのか、それとも、自己自身が目標として定めた埠頭へ目指してたゆみなく前進していくのか、それで大きくかわるよな……といいながら盃を交わす。

だれのためでもない。

自己自身に生きる。
そして自己自身の完成と他者の幸福促進のなかに真の幸福(カント)を見出すほかあるまい。

あゆみはじめた一歩を後退させたくない……そう思いながら酒を呑む宇治家参去でした。

(考察ができていなくて恐縮ですが……)
そういう理不尽で不条理な市井の職場の、ある休憩時間に西田幾多郎のテクストと向かいあっていたわけですが、(真理だけでなく)価値なるものも所与の対象と自己自身がなんらかの関係性や意味合いを見出さない限り、価値は価値にならず、人間を苦しめるものにもなれば、人間を溌剌とさせるものにでもなるのではないかと思った次第です(もちろん価値相対主義にはどこかでそれを敬遠すべき視座は必要なのですが)……。相対論と絶対論の相剋のかなたに真実があり方があるのかもしれません。

意味合いは自分自身が創りだすもの……。

すんません、読者方々、例の如く……考察不足で。

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……善とは自己の内面的要求を満足する者をいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一即ち人格の要求であるから、これを満足する事即ち人格の実現というのが我々に取りて絶対的善である。而してこの人格の要求とは意識の統一力であると共に実在の根抵における無限なる統一力の発現である。我々の人格を実現するというこの力に合一するの謂である。善はかくの如き者であるとすれば、これより善行為とは如何なる行為であるかを定めることができると思う。
 右の考よりして先ず善行為とは凡て人格を目的とした行為であるということは明らかである。人格は凡ての価値の根本であって、宇宙間においてただ人格のみ絶対的価値をもっているのである。我々には固より種々の要求がある、肉体的欲求もあれば精神的欲求もある、従って富、力、知識、芸術等種々貴ぶべき者があるに相違ない。しかしいかに強大なる要求でも高尚なる要求でも、人格の要求を離れては何らの価値を有しない、ただ人格的要求の一部または手段としてのみ価値を有するのである。富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なるのではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現其者を目的とした即ち意識統一其者の為に働いた行為でなければならぬ。
 カントに従えば、物は外よりその価値を定めらるるのでその価値は相対的であるが、ただ我々の意志は自ら価値を定むるもので、即ち人格は絶対的価値を有している。氏の教は誰も知る如く汝および他人の人格を敬し、目的其者 end in itself として取扱えよ、決して手段として用うる勿れということであった。
    --西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫、1979年)。

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われわれが維持している日常的な感情

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万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男

五月とは思えぬ暑さの続く毎日です。
今年の夏は炎夏との予想……。嚥下しそうです。

さて今日は、日中、たまったレポートを添削し、その後はこれまたたまった博論の資料に目を通しながら整理する。一段落して来週の授業の準備……。

夕食を取ると、細君が小一時間ばかり外出するとのことで、子供と二人でお留守番。
当初は、私が休みですので、存分にウルトラマンごっこをすると公言してはばからなかったわけですが、10分くらい“闘う”と、絵本に熱中する。
気まぐれといえば気まぐれですが、好きな方向や感性の集中には大いに敬意を払いたい。育つ新緑のように、育つ我が子が絵本を音読する姿を眺める宇治家参去でした。

さて……。
入浴の時間になったので、風呂へいれてやる。
細君より洗うのが上手だとほめられる。
たまにしかしないので、それが却って念入りになっているのでしょうか……。

不条理といえば不条理な世の中。
そして世知辛い風潮。
そうした現実を吹き飛ばす“生命力”を子供は秘めていることを実感する。
やがては彼もそんな“世間”にもまれるのでしょう……。

そうしたなかで、自己自身を見失わない基礎を作り、そしてひとびとを手放さない慈愛を選択する勇気を培うのがこの時期かもしれません。

微力ながら尽力したいと思う宇治家参去でした。

ちょうど、カミュ(Albert Camus,1913-1960)の手記を読んでいたので、ひとつ。

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 世界を明るくし、それに耐え忍べるようにしているのは、世界とわれわれの絆から--また、より個別的には他者とわれわれを結びつけているものから、われわれが維持している日常的な感情だ。他者との関係は、たえず持続をわれわれに働きかける。というのは、そうした関係は常に発展を、未来を予想しているからだし--またわれわれも、あたかもわれわれの唯一の務めは、まさしく他者との関係を維持することであるかのように生きているからだ。だがやがて、それがわれわれの唯一の務めではないことに気がつきはじめ、またとりわけ、われわれの意志だけがこうした他者を手もとにひきつけているのであって--たとえば、書くこともしゃべることもやめ、たった一人になってみたまえ、他者は周囲から消え去ってしまうだろう--実際多くは相手に背を向けているのであり(悪意からではなく無関心から)、あとの連中にしたところで、いつかは別のもに関心を寄せる可能性を常にもっていることがわかりはじめると、ひとは、われわれが愛とか友情とか呼んでいるものに突然訪れる不慮の出来事や、偶然のいたずらを頭に浮べる。すると世界は夜に変じ、われわれはまたわれわれで、人間の温かい情愛がせっかくそこから救いあげてくれたのに、またもとの冷たい世界に帰ってしまうのだ。
    --カミュ(高畠正明訳)『反抗の論理 カミュの手記2』(新潮文庫、昭和五十年)。

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ひととかかわること、そして世界とかかわることは勇気が必要なのかもしれません。
自己自身と他者を結びつけている絆をこちらか切断しないようにしたい。
その絆を吟味してひとを励まし、存在の自覚を促すのが存在論的倫理学の使命かもしれません。

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ファイナル・ボキャブラリーを断念する

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 わたしは、プラグマティズムの第一の特徴は、「真理」、「知識」、「言語」、「道徳」といった観念、ならびに哲学的理論化の同様の諸対象に、反本質主義を適用するところにあると考える。このことを「真理」を「信念としてもつとよいもの」とするジェームズの定義によって説明してみよう。この定義は、彼の批判者たちにとって、的はずれで非哲学的であり、まるでアスピリンの本質は、それが頭痛にきくということであるといった類いの議論のように思われた。しかしジェームズの主眼は、真理とは本質をもつようなものではないという点にあったのである。彼にはそれ以上言うべきことはなかった。もっともはっきり言えば、彼の眼目は、真理は「実在への対応」であると語ることは無益であるという点にあった。なるほど、もし世界にについてのある言語とある見方が与えられれば、人はたしかに、その言語の一部分と世界のなかで人がとりあげる一部分とを対応させることができる。そしてそのことによって、人が真であると信ずる文は、世界における事物の関係と同型の内部構造をもっているのだと信ずることができる。われわれは、「これは水だ」、「あれは赤い」、「あれはぶかっこうだ」、「それは不道徳だ」といった日常のなにげない報告をふと口にだす。このときこういった短い定言文は、容易に映像として、あるいは地図をつくるのにかなったシンボルとしてみなしうる。こういった報告は、たしかにほんのわずかの言語の細片を、同じくほんのわずかの世界の細片に対応づけている。否定的全称仮説かそれに類する文の場合は、そのような対応付けは混乱した場当たり的なものとなるだろう。しかしそれでもその対応づけをなしとげることはおそらく可能である。だがジェームズの論点は、こうした対応づけを仮に果たしたとしても、そのことによっては真理がなぜよいと信じられるものであるのか、じつはあきらかにならないということなのだ。それは、世界についての現在の見方が、なぜわれわれが保持すべき唯一の見方であるのか、あるいはそれは事実保持すべきものなのかどうかについて、なんの手がかりも与えてくれないのである。もし仮に人々がこの問いに答えたいと思わなかったならば、だれも真理の「理論」など求めなかったであろう。しかし、真理が本質をもつことを要求する人々は、認識、合理性、探求、思考と対象との関係もまた本質をもっているはずであると考えたのである。しかも彼らは、そういった本質についての知識をつかって、彼らが間違っていると考える見解を批判できるようになることを望んだ。そしてより多くの真理の発見にむかって、進歩を方向づけようとしたのである。だが、ジェームズは、こういった希望は無駄であると考えた。こういった領域においてはどこにも本質など存在しない。すなわち、探求の過程を方向づけ、それを批判ないし保証してくれるような包括的な認識論的方法などまったく存在しないのである。
 むしろ、プラグマティストたちによれば、真理において何か有益なことを語ることができるとすれば、それは理論よりも実践、観想よりも行為のボキャブラリーにおいてである。
(中略)
デューイによれば、こういった文(引用者注;例えば「愛は唯一の法である」)に対する自然なアプローチは、「それらが正しいか」と問うことではない。そうではなくそれは、「それを信じるとはどういうことなのか、もし信じたとしたらどうなるのか、わたしは何に関与していることになるのか」と問うことである。われわれが観察よりも理論、インプットよりもプログラミングにかかわるとき、まさにわれわれは、観想、見ること、テオーリアのボキャブラリーから立ち去るのである。観想的精神が瞬間の刺激からはなれて、大きな視野でものをながめようとするとき、その活動において決定されていることは、ある表象が正確であるということよりも、何をすべきかということであるように思われる。それゆえジェームズの真理についての箴言に従えば、実践のボキャブラリーが不可欠となる。
(中略)
 プラグマティズムの第二の特徴は、何であるべきかについての真理と何であるかについての真理の間には、いかなる認識論的相違もないとする見解にある。すなわち、プラグマティズムによれば、事実と価値の間にはいかなる形而上学的相違もなく、道徳と科学の間にはいかなる方法論的相違もないのである。プラグマティストでない人たちですら、プラトンが道徳哲学を善の本質の発見とみなしたことや、見る説かんとが道徳的選択を規則に還元しようとしたことを誤りだと考えている。だがそれが誤っていると言うためのどんな理由も、認識論的伝統が学問の本質を求めたり、合理性を規則に還元しようとする点で間違っている根拠となるはずなのである。プラグマティストにとって、探求のパターンとは--科学的なものであれ道徳的なものであれ--さまざまの具体的選択肢がもつ相対的魅力について熟考することにほかならない。科学や哲学においては、思考のさまざまの選択肢の帰結を熟慮するかわりに「方法」をたてることができるとされる。しかしこの考え方は、単にそうなればいいということにすぎない。こういった考え方は、道徳的賢者は自己のディレンマを、<善のイデア>についての記憶を参照することによって、あるいは道徳律の関連する項目を調べることによって解決するものだと信ずる考え方に似ている。それは、合理性が規則によって制御されうるという神話である。このプラトン的神話によれば、理性的生活は、ソクラテス的対話にもとづく生活ではない。それは、状況の記述と説明の可能性を汲み尽くしたかどうかもはや決して問う必要がない、光に照らされた意識の状態なのである。人は機械的な手続きにしたがうことによって、いとも簡単に真なる信念にたどりつくというわけである。
 認識論に中心をおく伝統的なプラトン的哲学は、そのような手続きの探求にほかならない。それは、対話と熟慮の必要を回避し、容易に事物のあり方を確認できるような方法を求める。この考え方は、興味ある重要な事柄についての信念を、可能なかぎり視覚的知覚と同じ仕方で--ある対象の前に立ち、プログラムされている通りにそれに答えることによって--獲得しようとする。
    --リチャード・ローティ(庁茂訳)「プラグマティズム・相対主義・非合理主義」、室井尚ほか訳『哲学の脱構築』(御茶の水書房、1985年)。

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ちょうど月曜の講義では、アメリカを代表する思想家・哲学者にしてプラグマティスト、ジョン・デューイ(John Dewey, 1859-1952)の哲学観、教育思想と社会の関わり(可能性としての民主政治)を論じた。その必要上、この半月間、デューイの文献やプラグマティストたちの文献を再度紐解いていましたが、上に引用したリチャード・ローティも「デューイの忠実な支持者」でありたいと常々述べている現代アメリカの哲学者です。

さきにデューイの話からすると、その理論や考え方に注目するよりも、まず驚くのはその長寿。

生まれた年は、スエズ運河が開通し、黒船来航から六年後の江戸末期。

亡くなるのがサンフランシスコ平和条約が締結された年である。

92歳で亡くなるまで、南北戦争、アメリカの産業革命、そして二つの大戦とロシア革命……20世紀の全ての事件を経験した人物と言っても過言ではないと思います。哲学を語るだけでなく、広く教育への応用、平和提言、現実の政治への助言など様々な活躍をした人物です。

伝統的な哲学(西欧形而上学)者たちは、デューイやプラグマティズムの発想を軽んじる傾向が強いですが、彼の人生の歩みそのものがひとつの哲学的足跡ではなかったのかと思いますし、七転八倒しながら、現実の教育プログラムの改善に尽力した姿は決して軽視出来ない迫力を持っています。近年、“デューイ・ルネサンス”とでもいうべき再評価の機運が高まっているのは嬉しい限りです。

さて……
デューイやその後継を自認するローティにとって、プラトンに代表される伝統的な哲学のあり方が提示する真理観はどうも現実に即して考えるとうさんくさいという直感がある。それがプラトンに代表される真理のいわば実在論という思考法への批判である。
デューイの発想や、それをラディカルに押し進めたローティの発想の特徴とは何か……。言葉として哲学概念を拾い上げるとすれば、反基礎づけ主義、可謬主義、多元主義がそれに当たるだろう。

どの概念にも共通するのが、伝統的な哲学のあり方に対する挑戦である。

例えば、上に引用したローティによれば、「理性」や「人間性」を現実の現在の現存在としての人間に対して超越的に、そして先験的に措定する哲学的立場は「プラトン的禁欲主義」と呼ばれる。永遠不滅にして不変、そして普遍としての真理は、世界の存在とは関係なく、どこかに存在するはずだと考える発想である。イデア論に見られるプラトニズム的二元論がその典型的な立場であり、伝統的な哲学のメインストリームともいえよう。そうした立場を批判する形で登場したのが「プラトン主義のニーチェ的転換」と呼ばれる立場である。同様にこの立場も伝統的な哲学のメインストリームのもう片方の雄とでもいうべきあり方で、たとえば、真理を“覆い隠す”現実の葛藤や社会的疎外を解消すれば“本質的”な「人間性」や「自然」といった真理が現出するという立場である。

両者に共通しているのは、「真理」や「自然」、そして「理性」や「人間性」なるもの……そうした大文字のいわば「ファイナル・ボキャブラリー」の先験的実在を認めるスタンスである。

「ファイナル・ボキャブラリー」とは、所与の概念として先験的に実在するのだろうか……そうした感覚に対する違和感、そしてその概念から溢れ出すあり方への暴力性に、プラグマティストたちはなにか“胡散臭さ”を感じるのであろう。

プラグマティストによると、真理という概念を、実在や本質と照合する思索の構えはナンセンスな知的自慰(大杉栄)に過ぎないのであろう。

真理とは、伝統的な哲学の語りで語るなら、「どこの誰にでも当てはまる普遍的なあり方・状態・法則」のことであろう。プラグマティストたちは、そうした考え方に対するレコンキスタを目指し、真理に対する「死亡宣告書」を出しているのであろうか……。そうであるとするならば、われわれに残された状況とは「どこの誰にでも当てはまる普遍的なあり方・状態・法則」の存在しない世界となる。この世界ではケセラセラなるがゆえに、熾烈な物取りゲームの掟しか存在しないあり方となってしまう。

しかし、そうでもないようである。
デューイにしても、ローティにしても、相対主義の絶対化を主導しているようではなさそうだ。

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……「それらが正しいか」と問うことではない。そうではなくそれは、「それを信じるとはどういうことなのか、もし信じたとしたらどうなるのか、わたしは何に関与していることになるのか」と問うことである。われわれが観察よりも理論、インプットよりもプログラミングにかかわるとき、まさにわれわれは、観想、見ること、テオーリアのボキャブラリーから立ち去るのである。観想的精神が瞬間の刺激からはなれて、大きな視野でものをながめようとするとき、その活動において決定されていることは、ある表象が正確であるということよりも、何をすべきかということであるように思われる。それゆえジェームズの真理についての箴言に従えば、実践のボキャブラリーが不可欠となる。
    --前掲書。

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デューイとローティの核として共通している点は「対話」によって「他人に危害を加えない限りの干渉されない自由」の確立である。
所与の絶対的な真理なるものを前提として確立する、乃至は観照することを放棄する代わりに、対話による相互認識によって共通了解としての“小文字”の“真理”立ち上げていくことである。
「真理」とはものごとの精確な表象や普遍的実在ではない。
自由で開放的な意見の交流から生じた信念なのではなかろうか……。

プラグマティストたちの言葉に耳を傾けるとどうもそう思わざるを得ない。
所与の真理が前提条件として“強要”されることよりも、自由に探求するひとびとが立ち上げた“共通了解”(それを「真理」と小文字でいってもよいのかもしれませんが)のほうが“魅力的”で“素敵な”真理かもしれません。しかし、それが権威にならないよう「ひとつの「有望な実験」として構えを手放してはならないだろう。
その実験を無限に続けてゆく中で、本物の真理が、汗を流し、悩み、そして人の言葉に耳を傾け、自分の体験をかたる賢衆のなかから立ち上がるのだと思います。

真理に何か絶対的な所与の“相手を観念させてしまう”価値はないのかもしれません。
真理に“価値”を見出し“創り出す”、そして真理を真理たらしめるのは、ひととひとの語り合いから始まるのではなかろうか……そう思えて他なりません。この意味で、もう一度、伝統的な西欧形而上学の構築した「真・善・美」を再検討する必要はあるのでしょう……。なかなかそれを行う時間のない寂しい宇治家参去です。

と・わ・い・え……
ご破算にするようで恐縮ですが……
プラグマティストたちの刺激的な言い方(これがフランスの現代思想家だと“戦略的”な言い方になるのでしょうが)に惹かれる一方で、伝統的な哲学者であるカントのような発想(真理(カントの言葉では「物自体」ですが、そうしたものがあったとしても有限な人間存在はそれを確認できないという考え方)にもどこか惹かれるの現実です。

真理とは難しいですね……。

ということで、まだ続きます。

ま、今日は講義の中で、教材だけに集中せず、宇治家参去の「きわめてごく私的な考え方ですが……」と断りをいれた上で、真理論とか価値の問題に関してすこし突っ込んで話してみました。

それはそれで良かったのかも知れませんが……学生さんのリアクション・ペーパーを読んでみると次のようなコメントが出てくる。

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先生はよく「私の哲学を語ってしまって申し訳ないですが……」と言いますが、宇治家参去先生はご自身の哲学(観)以外に何か語れるものを持っているのですか?

一般的な見解や哲学史を勉強するならわざわざ大学に来なくても本を読めば事足りると思います。「この授業でしかできないこと」を考えると、宇治家参去先生の哲学以外に学ぶべきものはないように思います。「個人的(プライベート)なことを公的(パブリック)なところで話てはいけない」というのは日本人の一般的な傾向性として悪い癖の一つだと思います。
確立した「個人」のないところに哲学も宗教もないのではないですか?

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まさにその通りですね。
哲学の歩みなるものを語る際、それを自分の営みとは別次元にある、どこか余所の物、できあがった物、ファイナル・ボキャブラリーとして語ることとを“公的”語りとし、そして自分が哲学を語ることを何か“私的な”語りとして自然に選り分けていたようです。
そしてプラグマティストたちが批判し、自分が自戒せねばと思っていた惑溺に対して、“冴えた”学生さんが冷や水を浴びせくれました。

くどいようですが、カントは次のように言いました。

「ひとは哲学を学べない。学べるのは“哲学する”ことだけだ」
「自分の知性を用いる勇気を持て」

学問とは、どこか別の世界にできあがったものとして存在し、われわれがそれを“観照”することが、学問を学ぶということではないのかもしれない。

先人の言葉に耳を傾けながら、逃げることの出来ない・共約不可能ないまこのとき・この場所で考えながら、そのことを他者とすり合わせていくしかありません。

そうでないと学問という営みは次のようなつまらない営みになってしまうのだろう。自戒をこめつつ……、すこし自分に自信をもちつつ、自惚れないようにしながら……。

-----

対話と熟慮の必要を回避し、容易に事物のあり方を確認できるような方法を求める。この考え方は、興味ある重要な事柄についての信念を、可能なかぎり視覚的知覚と同じ仕方で--ある対象の前に立ち、プログラムされている通りにそれに答えることによって--獲得しようとする。
    --前掲書。

-----

蛇足ですが……語句解説。
【プラグマティズム(Pragmatism) 】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0

更に蛇足……自分でURLを指示していながら、なんですが、レポートでwikipediaをコピーアンドペーストしてしまうと一発でばれますので、ご用心を(再提出になります)。

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Consequences of Pragmatism: Essays, 1972-1980 Book Consequences of Pragmatism: Essays, 1972-1980

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無事に生きる、平和に生きることそれ自体に、限りなく深い意味がある

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 本来、生きるということには、それ自体で価値がある。生きるという目的のためにさまざまな手段が考えられる。こういう生命の価値の特別なありかたを否定して、すべての価値は何かの手段となることであると想定すると、生きることは何の手段になるのかという形の問いが生まれる。生命を目的と手段という文脈におくと、「命を賭ける」(目的のために手段が死ぬ)という関係が代表的なものとなる。しかし、これは目的と手段に関する非常に例外的な関係である。
 われわれの日常生活では、目的が手段で、手段が目的になっている状態を幸福と呼ぶことがが多い。私はふだん自分の妻を快楽や生活の便宜を達成する手段としているが、しかし、病気の妻の看病をすることになったとき、看病は私自身の生き甲斐になるだろう。理屈で考えれば、妻は自分の快楽の手段である、妻の健康を回復しようとすることは、自分の利益になると言う目的と手段のつながりが成り立っていることになる。目的と手段が一致していることが最高の幸福なので、目的のために手段が犠牲にされることは例外的な、それ自体不幸な場合である。
 無事に生きる、平和に生きることそれ自体に、限りなく深い意味がある。それを支えるためには、外交、経済、国防、生活環境をささえる努力が必要である。その努力自体が、個人の生き甲斐となりうる。
 永久に戦争を廃止するという確実な軌道の上に人類の歩みがのる見込みについて、環境問題に関心をもつ人の多くは戦争の文化が過去のものとなるという予測を抱いている。
「戦争は本質的に持続可能な開発の破壊者である(Warfare is inherently destructive of sustainable development)」(リオデジャネイロ宣言の二四原則)
 人類の文化のなかで、戦争を適当に制限しつつ維持していくことの方が現実的だと考える人は、地球の環境がもはや戦争に堪えられないことを忘れている。戦争という賭は、勝利者にとっても重大な損失を意味する。
 環境という共同の運命を担った人類は、平和という条件のなかでしか生きられない。平和の必要が、平和を産み出す母になることを信じてよいと思う。
    --加藤尚武『戦争倫理学』(ちくま新書、2003年)。

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著者は著名で精力的に活動を展開しておられる生命倫理学者・加藤尚武氏。
本書は、9.11以降、世界中の世論が戦争へ向かって走り出したとき、その状態がいかに狂っているのか、そして自分自身の位置をしっかりと測定し、落ちついて考え始めるきっかけをどこにもとめればよいのか、たいへん分かりやすく纏めた一冊です。
すこし古い著作ですが、いろいろと示唆に富んでおります。

ひとつは手段と目的の問題。古来より目的のために手段が犠牲にされ、手段のために目的が犠牲にされ、ひとびとの生命を奪う暴力が発動した。その最たるものは戦争であるといえよう。

“善き”ものを目指すはずの行いが“善き”ものを圧倒する。その悲劇の連鎖を卒業する必要はたしかにに存在する。人間の生命そのものが手段になる場合、生命には目的がないということになる。「何のために生きるのか」を人は自分に向けてよい。しかし「何のために死ぬか」ということを人は人に向けるべきではないのだろう。

「無事に生きる、平和に生きることそれ自体に、限りなく深い意味がある」。

ハッとさせられる一文です。
ともすれば、ひとは他者の生そのものばかりか、自分自身の生そのものを軽んじてしまうことがある。そういうあり方は謙虚に見つめ直すが必要かも知れません。

「無事に生きる、平和に生きることそれ自体に、限りなく深い意味がある」のだとすれば、その生きること自体を尊厳たらしめる努力と営みが必要だ。

そのひとそのひとの現場の生活の中での取り組みと発見と驚きと喜びのなかから学ぶしかない。人間は一見すると愚かな生きものかもしれないが、なかなか捨てたもんじゃないと思うときもある。

これまでの歩みとはいわば“戦争の文化”しかなかった歩みかも知れない。
しかし同じように“平和の文化”を立ち上げて歩んでいくことも可能なのであろう。

面白いことに、人は戦争の状態を想像することはたやすくできる。戦場を想起するのは簡単なことだ。しかし、平和の状態を想像することはどうやら難しい。だからこそ平和の文化(Culture of Peace)を創造する必要があるのかも知れない。

以下のURLに、『平和の文化に関する宣言』(1997年11月20日国連総会決議52/13採択)の日本語の全文があります。興味のある方はどうぞ。

http://www.unesco.jp/meguro/unesco/peace.htm

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御名があがめられますように。御国がきますように。

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虫の知らせとでもいえばいいのでしょうか……
今日は何かいやな予感があったのですが、市井の職場で仕事をしているとお客様から電話。昼過ぎに購入した商品が不備とのことで、「いますぐ取り替えに来い」とのことです。
運悪く、対応できる“大人”が宇治家参去しか存在していなかったため、雨の中、お客様宅へ向かう。

「商品交換だけで済んでほしい……大クレームに発展しないでほしい……」
まさに“祈る”ような気持ちで、希望を立ち上げながら到着する。

電話では強面の感じでしたが、会ってお話をするとそうでもなく、すんなり案件がクローズする。

“祈り”とか“希望”を少しだけ考えた一コマです。

さて……、ここで「祈り」という問題が出てくることに、何か奇異な感じを抱かせるかもしれませんが、そうした「祈り」の問題を奇異に感じさせるこの時代感覚の方が奇異なものへと変質しているのではなかろうかとつくづく思う宇治家参去です。

「祈り」とは、元来、人間の生活世界の中で、そして「生」そのものの中で、良くも悪くも中心的な位置を占めていたと思う。過去の歴史を振り返るまでもないし、特定の宗派や団体に所属して“祈る”というあり方(チャーチ・ゴーアー)だけが「祈り」を占有しているのではない。人間が未来へ何かを希望する時点ですでに「祈り」は立ち上がるし、その高低浅深を論じることほど無意味なものもない。その意味で「祈り」とは、何か特殊な人間の行為や行動を意味する物ではなく、人間の個人生活においても、共同生活においても、ごく自然な形式であり、踏み込んでいうならば、人間の「生」そのものが「祈り」であり、「生」は「祈り」においてあったのではなかろうか。

人間とは様々な関係世界の中においてそのひとの営みが現実のものとして存在する。
対象との関係とはすなわち、物との関係、人との関係、そして自分自身との関係である。そうした対象と善い関係が結べたときひとは幸福を感じ、善い関係が結べないとき懊悩する。そうしたリアルな関係を横軸とすれば、縦軸に、これまでそのひとが歩んできた営み、そして現在、そして到来以前の未来である。その交差軸に「祈り」が存在する。

「祈り」とは何か。
一つ言えるのは、人間は「祈る」ことで自分自身と遭遇する。
祈る行為により、人間がその内奥に深く秘めている「生の肯定」の根本的信念が「事実」として溢れ出してくる。そして何かを希望する。その意味で「祈り」とは(カント的な積極善としての)「生の肯定」についての“根源的な叫び”といってもよかろう。

もうひとつは、「祈り」によってひとはひとと「共同」する。
ともすれば、現実世界は、人間同士の欲望や欲求の強烈な自己主張の修羅場にすぎない。実際にはなかなか協同して共同することが困難だ。しかし「祈り」が自分となんらかの対象との関係にたいする希望の表現であるとすれば、自己自身を見つめ直しながら他者と協同することが可能になる。

かつてマルクス・レーニン主義のイデオロギーは、「祈り」の存在を根本から否定し、ひとつの共同幻想を強要した。しかしひとびとの「祈る」姿は堪えなかったという。
もちろん、「鰯の頭も信心から」というジレンマも存在するが、なによりも代え難いのは祈る人間の「美しさ」である。ついでにいえば、大宗教家と言われるような人の「祈り」よりも貧しき老婆の「祈り」のほうが格段に美しい。

「祈り」の瞬間に希望の成就の閃光が煌めく。
つねに人間を、そして世界をその内部からつき動かし、歴史を導くのは「祈り」であるのかもしれない。なんせ、歴史を創る人間をその内奥から希望させるわけですから……。

ふとそんなことを感じたある日の宇治家参去でした。
いつもと全く違う、自由筆致ですいません。

ま……そういうわけで(?)、「祈り」という次元が人間と対象との関係に入らざるを得ない事象であるとすれば、「祈り」は人間の学としての「倫理学」の射程に入らざるを得なくなる。

そういえば、カントが哲学を定義して次のように言っている。

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 理性の一切の関心(思弁的および実践的関心)はすべて次の三問に纏められる、
1 私は何を知り得るか
2 私は何をなすべきか
3 私は何を希望することが許されるか
    --カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判 下』(岩波文庫、1962年)。

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……私は何を希望することが許されるか。

倫理学は「祈り」をきちんと学としての対象として吟味する必要がありそうです。

ちなみに今日は金がないので……「すずろ」です。

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仙人になりたい……

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真夏のような東京です。
線路もぐにゃりです。

まだ五月ですので、本来ならば、合い物をきるべきなのですが、夏物の一重のスーツを着てしまった脆弱な宇治家参去です。

今日は休みですが、学生時代一番お世話になった方へ近況報告のため、信濃町へ向かう。
半年ぶりの邂逅で種々近況を報告した。

学生時代、ちょうど今から10年ぐらい昔の話になりますが、その方と一緒に仕事をしていました。そのなかで矛盾に充ちた世の中であったとしても、そうした矛盾を自覚しながらも漸進していくほかあるまい……という生き方をその方から学びました。池波正太郎との出会いもその頃のことです。

印象批判にならざるを得ませんが、本当にこれぞ“大人”だなと思えた方でした。
学部生の頃、アリストテレスとか、カントやヘーゲルといった西洋哲学の訓詁註釈でもするべきか、はたまた仏教学における原典批評でもしようか迷っていた折り、第三の道としてのキリスト教学、神学への示唆を与えてくれ、今の学問の師匠を紹介してくださった思い出があります。

当時はメディアの分野で仕事をしておりましたが、一緒に数日徹夜を繰りかえし、原稿を仕上げたりしたものです。

ちょうど、当時のその方の年齢はちょうど今の宇治家参去ぐらいです。
本当にこれぞ“大人”だな……。
自戒を込めつつ自分に贈りたいと思います。

種々言葉を交わすなかで、ひとつ指摘されたのが、大理想と現実の取り組みを、具体的なあり方としてどう規定するのか……そのことです。

人間は生きている限り歩みを辞めることは不可能である。その歩みを具体的にどのように組み立てていくのか、その甘さを指摘される。弾劾とか詰問ではなく、促しである。

あとは自分と自分の対話しかない。
人間という生きものは、どうやら自分自身と向きあう作業が苦手のようだ。
その深奥を見つめ直す中で、理想や概念を、そのひとなりに生活の現場で立ち上がらせるその当人の実践を鍛え上げていくしかない。

常々、物事を観る観点として、超越かつ内在する仕方でのものの見方を宇治家参去は強調してきたが、そのことを自分自身としての実践として正面から取り組む時期にさしかかっているのだろう。

矛盾に充ちた現実のまっただ中で、足下を掘るしかない。

文豪・漱石は「私の個人主義」のなかで次のように語っている。

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……貴方がたはこれからみんな学校を去って、世の中へお出掛けになる。それにはまだ大分時間のかかる方もございましょうし、または追付け実社界に活動なさる方もあるでしょうが、いずれも私の一度経験した煩悶(たとい種類は違っていても)を繰返しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜けるわけにも行かず、何か掴みたくっても薬罐(やかん)頭を掴むようにつるつるして焦燥(じ)れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。
 もし貴方がたのうちで既に自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他(ひと)の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとは決してもうしませんが、(自己に安心と自信がしっかり付随しているならば、)しかしもしそうでないとしたらなば、どうしても、一つ自分の鶴嘴(つるはし)で掘り当てる所まで進んで行かなくっては行けないでしょう。行けないというのは、もし掘り中(あ)てる事が出来なかったなら、その人は生涯不愉快で、終始中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範にしないさという意味では決してないのです。私のような詰らないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、貴方がたから見てその道がいかに下らないにせよ、それは貴方がたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです。私自信はそれで満足する積りであります。しかし私自身がそれがため、自信と安心を有(も)っているからといって、同じ径路が貴方がたの模範になるとは決して思ってはいないのですから、誤解しては不可(いけま)せん。
 それはとにかく、私の経験したような煩悶が貴方がたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょう。もしそうだとすると、何かに打ち当たるまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう間投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡(もた)げて来るのではありませんか。既にその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄(もや)のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああこうだという掘当てる所まで行ったら宜かろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。
    --夏目漱石『私の個人主義』(講談社学術文庫、1978年)。

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足下を掘るしかない。
期日を決めて、闘うしかない。
自分の実践を明確にするしかない。
“掘当てる所”まで掘り進むしかない。
懊悩の霧と靄を消散させるところまで進むしかない。

そのなかでしか自己自身は確立できないのであろう。

さあ、一丁やりますか!

ということで……再度ふたりの会話から。

「で……、宇治家ちゃん(“ちゃん”呼ばわりはよしてほしいのだが)。とりあえず、次のステップは何?」

「はい、センニン(専任)にまずなれれば……」
「センニン(仙人)?」

……どうも仙人になることを目指してるように思われて他ならない宇治家参去でした。

最後は仙人でいいのですが(苦笑)。

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傍観する人間は「非人間的」か?

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人間の生の現実とは大きく分類すると公共的な領域と、ごく私的な領域にその活動を分類することができるのであろう。前者はいわば政治参加や経済活動、広い意味での社会参加により社会正義とは何かを探求する分野であるとすれば、後者は、たばこが好きだとか、酒はやっぱり日本酒だとか、髪の長い女性が好きだとか……そういうプライベートな側面であろう。

伝統的な形而上学や神学は、その両者の統合をいわば目指して、神や自然、真理、理性というものを描きだすことに知的リソースを注ぎ込んできたのがその歴史である。たとえば、人間の本質とは理性的生き物である。個人の生を理性と描くことによって、ひとつの社会像を提示し、理性的であるとされる人間の道徳的規定が整備され、自己-他者論という物語が作られた。

そのほかにも人間の本質とは○○である……と論じ、いわば様々な個人の私的な領域と公共的な領域を体系づける試みが何度となく繰り返されてきたが、どうもうまくできていない……それが現状かもしれません。

そうした試み自体が無駄とかヨタ話に過ぎないと退けることは不可能です。またそこで議論し熟慮の末提示された人間像や社会観を全て廃棄せよ、と主張するつもりも毛頭無い。
そうではなく、“大文字”で表現される公共性と“小文字”で表現されるプライベートな部分を体系化し根拠づけ、正当化する思惑をあきらめたとき、実は、個人の生と他者との共生の新しいあり方が考えられるのではなかろうか……。

そう考えたのが、およそ一年前に惜しまれて亡くなったアメリカの哲学者リチャード・ローティ(Richard Rorty ,1931-2007)です。

ローティの考え方は明確だ。
人間の生の現実は私的な部分と公共的な部分にはっきりと分かれている。しかし両者をひとつにまとめあげるような理論や枠組みはない、というものです。人間は、自己を創造しようとする私的な企図--例えばそれが趣味や思考の問題から、精神的に高めていこうという側面まで--を追求しながら生きている。しかし、他方では同時に、他の人間がこうむる苦しみ(suffering)をできるだけ少なくしようと“生きることができる”。
ただ注のように付言すれば、ローティの言う私的とは、personalなではなく、solitudeにおいて行う“私的”活動です。

さて……
ローティの人間観といってもよかろうが(本人はおそらくそうよばれるのを一番嫌ったと思うが)、人間の生とは、私的な自己創造と公共的な連帯という相反する側面を併存させる位相から成り立っているということだ。プライベートな要求と連帯の要求はいずれも等しいもので、いずれかが他方に対して先験的に優位をしめるものではない。

これまでの全体的人間-世界観においては、単純化をおそれずにいえば、たとえば、人間存在における公共性をその本質と見るもの見方に従えば、プライベートな部分は恐ろしく制限され、極端にはしれば“滅私奉公”へ通じる回路となる。またその逆も然りで、公共性を破壊する“野獣”の疾走する“滅公奉私”へ通じる回路となる。

その両端を避けるローティの考え方の根本にあるのは、いわば本質実在論の拒否である。例えば、「共通の人間本性」なんかを想定し、そこから、私的なものと公共的なものを公共の優位に統合する欲望(例えばプラトニズムやキリスト教主義)、また逆に、私的な言語・発想が公共的な実存を決定するかのように考える傲慢さ(例えばニーチェ)は、ローティが批判して止まない発想である。

人間の生やその歴史がなんらかの制約を受けざるを得ない事実は論を待たないが、そうであるとすれば、そこで提示されてきた人間像や本質論はすべてなんらかの制約を受けている。そうであるとすれば、そうした普遍的な核心を「想定」し、そこから秩序づけるあり方は、「プロクルテスの寝台」に他ならない。
崇高なものを求める努力や営みは必要だが、それは“私”の営みである。私的な領域と公的な領域になにか“普遍”な“本質”やら“真理”が顔をのぞかせるとろくなことがないのかもしれません。

だからといってケセラセラの相対の絶対主義をローティは主張しているわけではない。
新たな語彙を創造せよ……である。
真理を発見したり、正しく記述することではなく、そうしたものを、より魅力ある仕方で描きなおすことの競争が必要なのではなかろうか……。
普遍でないということは変化するということである。
「より魅力ある仕方で描き直す」競争が続いていけば、最高とはいわないまでも、快適さと信頼は実現不可能ではないと思います。

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 もしあなたがアウシュヴィッツへと列車が通じている時代のユダヤ人だったとすれば、非ユダヤ系の隣人に匿ってもらえる見込みは、ベルギーではなくデンマークかイタリアに住んでいる場合の方が高い。この違いは通常、デンマーク人やイタリア人の多くは、ベルギー人の多くが欠いていた人間の連帯の感覚を示したという仕方で描かれる。オーウェルが示した見通しは、そのような人間の連帯が――用意周到な計画によって意図的に――不可能なものとされた世界だった。
 「人間の連帯」という言葉が意味しているものを伝統的な哲学のやり方で説明するなら、それは、私たち各人のうちには、他の人間存在のうちにも存在するそれと同一のものと共鳴する何か――私たちの本質的な人間性――がある、と述べることである。連帯という観念をこうした仕方で説明することは、コロシアムの観客たち、ハンバード、キンボート、オブライエン、アウシュヴィッツの親衛隊、そして、ユダヤの隣人たちがゲシュタポに引きたてられていくのを傍観するベルギー人は「非人間的」だ、と口にする私たちの習慣とも符合している。それは、こうした人びとは皆、まともな人間存在にとって本質的な構成要素を欠いているという観念である。
 そのような構成要素があることを否定し、「自己の核心(コア・セルフ)」のような何かがあることを否定する――第二章で私がそれを否定したように――哲学者たちは、いま述べた観念に訴えることはできない。私たちは偶然性を強調し、したがって「本質」「自然」「基礎づけ」といった観念に反対してきたが、そのことによって、何らかの行為や態度は自然に照らして「非人間的」だという観念を維持することができなくなる。というのも、このように偶然性を強く主張することは、どのようなあり方がまともな人間存在とみなされるかは歴史的な環境によって相対的であり、それは、どのような態度が正常であり、どのような慣行が正義にかなっているか否かについての一時的な合意に依存する、ということを含意するからである。とはいえ、アウシュヴィッツのような時代には、つまり歴史が大きく揺れ動き、伝統的な制度や行動パターンが瓦解するときには、私たちは、歴史や制度を超えた何かを求めるものである。人間の連帯、互いに共通する人間性についての私たちの認識を除くとすれば、それ以外に何がありうるだろうか。
――リチャード・ローティ(齋藤純一ほか訳)『偶然性・アイロニー・連帯』(岩波書店、2000年)。

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あらかじめ人間とはこうだ! 世界とはこうだ! と決めつけることこそ傲慢なのかもしれません。

そういえば、今日、市井の職場で、万引き者が巡回中の警官に現行犯逮捕。
詳細は省きますが……そのお方は「わたしにも守るものがある!」と叫んでいました。
犯罪者とはこうだ!……そういう見方はしたくないものですが、「わたしにも守るものがある」。
だから「守る者」同士の衝突をさけうるべく、あらかじめ、人間とはこうだという人間本質実在論をさけながら、変更可能な「魅力ある」ものの見方を競争し、連帯したいと切に念願する宇治家参去でした。

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偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性 Book 偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

著者:リチャード ローティ
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人類と言ったとき、君は誰かの顔が浮かぶか?

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書き殴ります。
少し飲んで書いています。
何かを中傷しようとか貶めようとかそういう発想ではありません。
自覚して動くしかないよってことかもしれません。

理想論かもしれません……
激論かもしれません……

何もやっていないひとにはついていけないし、やっているひとを揶揄するあり方には違和感がある。

臆病者と卑怯者は大嫌いです。

では……。

-----

団体が個人を世界へ導く時代は終わったのかもしれない。
団体は個人を導くのではなく啓発する機関であり権威であるにすぎない。

国家や地域社会、そして家庭と世代……。
制度宗教や政治権力、そして営利組織(会社)と同好の集い……。

平和を目指す国家。
平和を説く宗教。

平和の実現を模索する政治(権力)。
平和を説く家庭。

そうした組織や権威に“リードしてもらう”時代は終わったのかもしれない。
リードするのは組織や権威ではなく、代替不可能な自己自身である。

そういう実感があります。

お世話になった大先輩(芸術家)とのやりとりの中でつぎのようなフレーズが出てきました。

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議題は次の通り……。
戦争や平和の問題がクローズアップされると、平和を目指したり、説いている団体ないしは宗教が、そうした問題に対してなぜ黙っているんだ! ……との批判。

こういう声をよく聞く。
それに対してその芸術家は次のように感じたそうである。

>煽りに相対した時感じた気持ち悪さ。
>まだ、職業革命家的なヒロイズムに身を置いていられる感性に呆れた。

現実にそうしたところに所属する“心根の良い”若い学生は、「じゃ、どうすればいいんですか?」って聞いてきた……。

>「ちゃんと生きればいい」と答えた。
>彼は不服そうだった。

>この、『不服』感みたいな青年の感性がある種の勢力やベクトルに利用されちゃうんだな~みたいな危機感が私にはいつもある。

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批判するひとびとと、そしてそのことに対して「不服」を抱くひとびとに、何か違和感を感じるのは当の芸術家ひとりではあるまい。
宇治家参去もそのひとりである。

宇治家参去は芸術家に次のように答えた。

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ただ、いえることだけ要点を列挙すると……
①善意の青年の不満も理解できなくない。
②過去の革命運動の悲劇は、そうした心根に付けいった点がある。
③「じぁあどうすればいいんですか?」っていうなら、ひとりの人間としてお前が自己自身で動けばよい。お前が動けば時代はかわる。組織や団体に“自分のおもっている善”を託したり、その実現を夢想したりするなという点です、厳しい言い方ですが。
④平和も人類も抽象化してしまうと、実現不可能である。夏目漱石のいうように“足下を掘る”しかない。それが平和や人類へ至る道であり、一足飛びに平和や人類という流れ・発想パターンは観念の籠絡にすぎない。

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強烈な個人主義的な発想かもしれませんが、③でいうように「そう思うならお前がやれ」というのが常識的な導き方ではないかと思う。

冒頭でぼやいたように、宇治家参去自身は、団体とか組織とかに何かリードしてもらう時代は終わったと思っている。具体的指示(例えば平和にするための具体的行動)をア・プリオリな権威が、号令をかける時代は終わったのだと思う。

宗教もおなじかもしれない。
宗教的叡智は、具体的実践指示をだすのではなく、そうした自他のために動ける人間を薫育する力であり源泉にすぎない。
同じ発想(例えば平和にしよう)でも、その動き方は人によって違ってくるはずだ。

ただ、そう思うだけです。

思えば、戦前ドイツの国防軍のベルトのバックルには、国称である鷲の周りを“GOTT MIT UNS”という言葉が刻まれていた。「神我らと共にあり」とでも訳せばよいのでしょうか……。そのベルトを締め、国防軍は兵士たちはヨーロッパ各地を駆けめぐったものである。キリスト教批判などには毛頭意味がない。ひとつの例に過ぎないことだ。

端から言えば、具体的な実践事例をア・プリオリな権威は説くことができないのだ。

具体的な行動は、そう思った人が、その人自身の現場で、試行錯誤しながらやっていけばよい。そこで同じ志をもった人がふえていけば、それが波となる。
ただそれだけでよいのだ。

「不服」は「不服」なのでしょう。
でも行き場のない「不服」は単なる個人から団体へ向けられたルサンチマンに過ぎないし、そう思うなら、まさに「自分でやれ」です。
信念や団体や権威に“頼る”時代は終わったのである。
平和にしたいのなら、そう思う君がやれ。
厳しいようだが、そう考えざるをえない。
“頼る”のではなく平和を実現するのは“わたし”であり“君自身”にほかならない。

そして、具体的な実践論は、具体的な生活現場やその個人の個々人性を離れては存在できないし、一様に示されたあり方がすべてのひとにあてはまるわけでもない。

一足飛びに、「人類」を目指すマヤカシの“具体的な実践論”の指示こそ、現実にそぐわない抽象論の籠絡にすぎないのではないだろうか。

平和を求めている人類は、どこにいるのだろうか?
イラクにもいるだろう。
チベットにもいるだろう。
そしてミャンマーにもいるのだろう。

ひとは「平和のために」とか「人類のために」となってしまうと、どうしてもセンセーショナルな話題に飛びつきがちだ。

たしかにイラクにもチベットにもミャンマーにも平和を求め、苦しんでいる人は存在する。

だがしかし、同じように、宇治家参去のとなりにも、そして乗り合わせた電車で向かい合ったおじさんにも、そして、一緒に暮らす家族すらも「人類」の一人であり、平和を求め、それぞれが現実の場で苦しんでいる。

たぶん宇治家参去がイラクやチベットにいっても何もできないだろう。

かえって足を引っ張るにすぎない。

できるところから世界や平和に繋がる回路を開くしかないのだ。できるひとはいけばよい。できないひとは、できる現場でできることをやるのみだ。

人類はどこにでもいる。

不思議なことですが、人間は生きた顔をもった人間の中に、どうやら人類や平和の問題を感じにくいようにできているのかもしれません。あの『カラマーゾフの兄弟』の独白のように……。

-----

自分は人類を愛しているけれど、われながら自分に呆(あき)れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮らすことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしはわずか一昼夜のうちに立派な人を憎むようにさえなりかねない。ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、別の人は風邪をひいていて、のべつ洟(はな)をかむという理由だけで、わたしは憎みかねないのだ。わたしは人がほんのちょっとでも接触するだけで、その人たちの敵になってしまうのだろう。その代わりいつも、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対する私の愛はますます熱烈になってゆくのだ。
    --ドストエフスキー(原卓也訳)『カラマーゾフの兄弟(上)』新潮文庫、1978年。

-----

「平和」にしようと思った自己自身が動けばよいと思います。 そして自分自身にしかない環境への自分自身の関与こそ「平和」への第一歩である。

人類と言ったとき、君は誰かの顔が浮かぶか?
ただそれだけだ。

顔が浮かばないのに、動けるはずはないよな?
ただそれだけだ。

人類のために……大いに結構である。
平和のために……大いに結構である。
やりましょうよ!ともに。

最後にレヴィナスの言葉にでも耳を傾けよう。

-----

 自由な存在に加えられる暴力とは、もっとも一般的な意味での戦争である。戦争はたしかに労働とは異なっているけれども、この違いはただ単に、戦争の場合、屈服させるべき力が遥かに複雑であることや、これらの力および力の方式の予想不可能な性格によるのではない。違いは、行為者が自分の敵に対して新しい態度をとることにも由来しているのである。事実、そこでは敵もまた自由として認められているのではないだろうか。しかしこの自由は獣的で野蛮で、それは顔を欠いている。敵の自由は、力と化すことなき全体的抵抗たる顔としてではなく、私の恐怖やその恐怖を乗り越える勇気として私に与えられるのだ。勇気とは他なるものと対面する態度ではなく、自己に対する態度なのである。闘いの相手としての自由に対して、私は正面から近づくのではない。私は盲目的に飛びかかっていく。戦争は二つの実体の衝突でもなければ、二つの意図の衝突でもない。戦争とは、二つの実体、二つの意図のうちの一方が他方を不意うちや待ち伏せによって支配しようとする試みなのだ。戦争とは待ち伏せ、奇襲である。それは、他なるもののうちなる弱点にもとづいて、他なるものの実体を、その強く絶対的な点を捉えることである。戦争とはアキレスの踵を探し出すことなのだ。あるいは、戦争とは、集団と化した他者、敵たる集団を解体するために必要な労力を測定する技師のように、論理計算を行いながら、他者、つまり敵を検討することなのである。戦争における関係を描写すると以上のようになるのだが、かくして戦争は労働による暴力に近づくことになる。
 換言すれば、暴力的行為や圧政を特徴づけているのは、この行為の相手となる者を直視しないということなのだ。もっと正確に言えば、相手を正面に見いだすのではなく、この他なる自由を力として、野蛮なものとして理解し、他なるものの絶対性をその力と同一視してしまうことなのである。
 正面や顔とは一個の実在が私に対立しているということである。ただし、正面や顔としての現れによってではなく、その存在の仕方によって、こう言ってよければ、存在論的に対立しているのである。それはみずからの対立によって私に抵抗するのであって、その抵抗によって私に対立するのではない。つまり、この対立は私の自由と衝突することでみずからを示すのではなく、私の自由に先立つ対立であり、この対立が私の自由を発動させるのである。私がそれに対して対立するところのものではなく、私に対してみずから対立させるところのものなのだ。正面や顔が私に対して現前すること、そこにすでに、この対立は書き込まれている。それは私の介入に後続するものではまったくない。そうではなく、この対立はみずからが私のほうを向く限りにおいて、私と対立するのである。
 力による対立とは異なる顔の対立、それは敵意ではない。顔の対立とは平和的対立であり、しかもそこでは、平和は中断された戦争や、単に暴力が抑制されている状態などではまったくない。反対に、暴力とはこの対立を無視すること、存在の顔を無視すること、視線を避けること、斜めから垣間見ることに存するのである。顔に書き込まれた否、それもまさに顔が顔であるがゆえに顔に書き込まれた否は、このように斜めから見られることによって、敵対的な力と化したり、あるいは逆に、従順な力と化してしまう。
 暴力とは、あらゆる存在、あらゆる自由に大して斜めから近づきつつ働きかける仕方である。暴力とは不意打ちすることによって存在を捉え、その不在を起点として、厳密に言えば当の存在ならざるものを起点としてその存在を把握する仕方である。モノとの関係、モノに対する支配、モノを超えたこの存在様式の本義はまさしく、決して個体性としてのモノには、近づくことがないという点に存している。モノの個体性、このもの(トデ・ティ)、指示され、おのれ自身で存在しているように思えるものといえども、実を言うと、一般性、普遍的なもの、観念、法則を起点とすることによってしか接近できない。モノは概念を起点として与えられるのだ。
 暴力とはある存在への力の直接的行使であるかに見える。が、実際には暴力は、この存在を自分の計算の要素として、概念の特殊例として把握することで、存在の個体性をまったく拒否している。
 自由な存在に加えられる暴力とは、もっとも一般的な意味での戦争である。戦争はたしかに労働とは異なっているけれども、この違いはただ単に、戦争の場合、屈服させるべき力が遥かに複雑であることや、これらの力および力の方式の予想不可能な性格によるのではない。違いは、行為者が自分の敵に対して新しい態度をとることにも由来しているのである。事実、そこでは敵もまた自由として認められているのではないだろうか。しかしこの自由は獣的で野蛮で、それは顔を欠いている。敵の自由は、力と化すことなき全体的抵抗たる顔としてではなく、私の恐怖やその恐怖を乗り越える勇気として私に与えられるのだ。勇気とは他なるものと対面する態度では
なく、自己に対する態度なのである。闘いの相手としての自由に対して、私は正面から近づくのではない。私は盲目的に飛びかかっていく。戦争は二つの実体の衝突でもなければ、二つの意図の衝突でもない。戦争とは、二つの実体、二つの意図のうちの一方が他方を不意うちや待ち伏せによって支配しようとする試みなのだ。戦争とは待ち伏せ、奇襲である。それは、他なるもののうちなる弱点にもとづいて、他なるものの実体を、その強く絶対的な点を捉えることである。戦争とはアキレスの踵を探し出すことなのだ。あるいは、戦争とは、集団と化した他者、敵たる集団を解体するために必要な労力を測定する技師のように、論理計算を行いながら、他者、つま
り敵を検討することなのである。戦争における関係を描写すると以上のようになるのだが、かくして戦争は労働による暴力に近づくことになる。
 換言すれば、暴力的行為や圧政を特徴づけているのは、この行為の相手となる者を直視しないということなのだ。もっと正確に言えば、相手を正面に見いだすのではなく、この他なる自由を力として、野蛮なものとして理解し、他なるものの絶対性をその力と同一視してしまうことなのである。
 正面や顔とは一個の実在が私に対立しているということである。ただし、正面や顔としての現れによってではなく、その存在の仕方によって、こう言ってよければ、存在論的に対立しているのである。それはみずからの対立によって私に抵抗するのであって、その抵抗によって私に対立するのではない。つまり、この対立は私の自由と衝突することでみずからを示すのではなく、私の自由に先立つ対立であり、この対立が私の自由を発動させるのである。私がそれに対して対立するところのものではなく、私に対してみずから対立させるところのものなのだ。正面や顔が私に対して現前すること、そこにすでに、この対立は書き込まれている。それは私の介入に後
続するものではまったくない。そうではなく、この対立はみずからが私のほうを向く限りにおいて、私と対立するのである。
 力による対立とは異なる顔の対立、それは敵意ではない。顔の対立とは平和的対立であり、しかもそこでは、平和は中断された戦争や、単に暴力が抑制されている状態などではまったくない。反対に、暴力とはこの対立を無視すること、存在の顔を無視すること、視線を避けること、斜めから垣間見ることに存するのである。顔に書き込まれた否、それもまさに顔が顔であるがゆえに顔に書き込まれた否は、このように斜めから見られることによって、敵対的な力と化したり、あるいは逆に、従順な力と化してしまう。
 暴力とは、あらゆる存在、あらゆる自由に大して斜めから近づきつつ働きかける仕方である。暴力とは不意打ちすることによって存在を捉え、その不在を起点として、厳密に言えば当の存在ならざるものを起点としてその存在を把握する仕方である。モノとの関係、モノに対する支配、モノを超えたこの存在様式の本義はまさしく、決して個体性としてのモノには、近づくことがないという点に存している。モノの個体性、このもの(トデ・ティ)、指示され、おのれ自身で存在しているように思えるものといえども、実を言うと、一般性、普遍的なもの、観念、法則を起点とすることによってしか接近できない。モノは概念を起点として与えられるのだ。
 暴力とはある存在への力の直接的行使であるかに見える。が、実際には暴力は、この存在を自分の計算の要素として、概念の特殊例として把握することで、存在の個体性をまったく拒否している。
    --エマニュエル・レヴィナス(合田正人・谷口博史訳)「自由と命令」、『歴史の不測』(法政大学出版局、1997年)。

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しかし、まあ、なんでこんなに久し振りに書き殴ったのだろう?

原因や事実をどこか他人事とする物の見方……

そして安全地帯から、文句だけ言って自分を慰める、ないしは“正当化”するあり方……

そしてかけ声だけかける人……。

宇治家参去は、卑怯者と臆病者が大嫌いです。

慈悲は勇気が契機にならないと発動しないとか。

自分が現在存在する現場を大切にすることで人類へ繋がるはず。

誰にも顧みられませんが、ただ歩くのみ。

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避けながら手探りで歩く

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学問や探求においてその当事者は、自己の認識論的関心や主観的関与をできうる限り排していく、ないしは制限すべきだという発想がある。個々人の主観的な関与が、学や真理の客観性の確立に大きな影響を与えるからである。しかし、個々人の認識論的関心や主観的関与を完全に滅却するのは現実には不可能である。そもそも、何かしらへの探求を生じさせる、原因や関心は当事者個人の主観的関心として発生するものである。そうした主観性と客観性の隘路を厳粛に整理し、「価値自由(Wertfreiheit)」の概念として定式化したのはマックス・ヴェーバーである。社会事象の認識にあたってはその前提となっている自己自身の価値基準を鋭く冷静に自覚しなさいとのテーゼである。当事者の価値基準をあいまいにしたまま認識してもそれは科学的な認識とはいえない。

しかし、いわば、この(個人の実存的な)価値と(対象の)事実性との弁別は、ヴェーバーの精緻な探求とは裏腹に、俗流の事実/価値の二分法として通用しているようである。
事実/価値の二分法とは何か。
すなわち、その根底にある考え方は、事実認識は客観的でありうるが、価値判断は主観的であるという発想である。事実認識はたしかに価値判断とは異なるが、この区分が膨張してしまえばしてしまうほどひとつの悪辣なドグマに化してしまう。価値判断は、主観的な臆見にすぎないものであるとするなら、すべての道徳的言辞は無意味なものとなってしまう。道徳と道徳、そして規範と規範の衝突は、根拠を欠いた主観と主観の衝突に過ぎないという価値相対主義をもたらしてしまう。

もちろん、これまで道徳の言語や、倫理の言語は、そうした価値相対主義と対極にある、いわば価値絶対主義の訓令として機能し、人間という生きものを律する側面も有すれば、おなじように人間という生きものを束縛してきたのも事実である。その意味で反省されてしかるべきであり、どのように道徳や倫理の言語が、いわば“生きたもの”として立ち上がるべきなのか、メタレベルでの探求は非常に必要である。

しかし、事実/価値の二分法の最も恐ろしい点は、そうした道徳や倫理におけるオプションの提示ではなく、そもそも道徳的言辞や倫理的言辞に「意味がない(ナンセンス)」と最後通牒を突きつけた点である。

たしかに、事実(事実)と意見(価値)は明確に区別して扱うにこしたことはない。
無意味というよりも、有害なものも存在する。
事実と意見の混同や混合は、道の見えない深い暗闇に人を誘い込んでしまうのであろう。

洪水のように溢れ出すメディアの言説はほとんどがナンセンスだ。
事件が起こり、ワイドショーが後を追う。
傍若無人なカメラは“事実”とやらを“暴き出す”。
そして、評論家と称する“物知り顔”の連中が悦に浸りながら語り出す。
「心に闇があったからです……」。

主観的な価値判断にすぎない臆見が、公共メディアの波にのる過程で一定の公共性=客観性を確立する。そうだとすれば、主観的言辞は「ナンセンス」にほかならない。

しかし事実は事実であったとしても、意見(価値)がすべて“主観的であるがゆえに無意味なもの”であるはずもないのも事実である。「あれかこれか」の二者択一を迫る事実/価値の二元論は強力な破壊力を秘めているが、何か決定的な胡散臭さをもっている。

これまで伝統的な事実の実在論は、基本的には事実については真理の対応説というスタンスをとってきた。真理の対応説とは、ある文が真であるのは、その文に対応する事実が存在するときのみという物の見方である。鏡像モデルといってもよかろうが、この考え方には、真である事実を映し出す鏡として主観は存在していなくても、その存在とは独立に客観的に真である事実は存在することが可能であるという発想が潜んでいる。人間は事実をありのまま映し出す鏡であり、鏡に映される真である事実こそ客観的で価値あるものだという発想である。真である事実は真である事実にすぎないし、それ自体で“正しいもの”である。しかし、真である事実を写した主観の見解は、真である事実を真である事実でないものにしてしまう。しかしこの考え方は極端に煮詰めていってしまうと、進歩の発展の最終局面に至っても、鏡は真理を映し出すことはできないという逆説も内包している。単純な話だが、本物とコピーには差異があるからだ。カントは慎ましい言い方で「物自体」と表現したが、真の実在性の優位の発想は、極端に主張すればするほど自壊してしまう。
いずれにせよ、批判の矢面にさらされている道徳の言辞や倫理の言辞の先験的・独断的な価値絶対主義の道も避けなければならないが、現代にあるような価値相対主義の道も避け成ればならない。

「十分とは十分ということである。十分とは全てのことなのではない」。

「価値判断」を保証された主張可能性と保証された否認可能性を両手にひっさげて、手探りで共通了解を立ち上げていくしかないのかもしれません。

-----

私は、倫理の場合でも法律においても、あるものがある価値性質を持つことをわれわれは非神秘的な仕方で観察できる、と論じた。例えば、あるワインに「こくがあり」、「ふくよかな芳味」を持つことを、ある人が「すがすがしく自然である」あるいは「思いやりがある」ことを、ある訴訟趣意書が「ぞんざいに纏められている」ことを、われわれは観察できる。これは、ときどきの色知覚について推定されているような(それについては、現在まだ多くの議論が続行中であるが)配線済みのニューロンの集団だけに基づくような知覚ではなく、概念の適用を含むところの知覚である。私は、すべての知覚がこの種のものだ、と主張したのである。するとさらに、すべての知覚が概念を含み、概念はつねに批判を免れないという事実によって、知覚自体も、不可謬の「所与」なのではなく、批判を免れえないものだということになる。探求は知覚をもって終わるわけではない。しかし、知覚がときどき間違っていることがあるという事実は、知覚を信頼することは決して正当化されない、ということを意味するわけではない。プラグマティストは、疑うことは信じることと同じだけ正当化を要求する、と考えるのであり、また、疑うべき真の理由がないような知覚も多く存在する。(可謬主義と反懐疑主義とのこの結合こそが、実際、アメリカのプラグマティズムの主たる特徴である。)デューイの説明によれば、何ごとかに価値があるという判断は、彼が価値づけと呼ぶ種類の経験を必要とするだけでなく、彼が「批判」(「鑑定」という言葉もデューイは使っている)と呼ぶ活動も必要とするのである。さらに私は、批判においては、「では、どうすればよいのか?」という問いは、ときどきそう思われているような「無理難題のふっかけ」なのではない、と論じた。われわれは探求がどのように導かれるべきかについていくぶんかは知っているし、探求一般に妥当することは価値探求という特殊領域にも妥当するという原理は、一つの強力な原理である。それに関連して、私は可謬主義の原理(いかなる探求の成果であろうと、それが批判を免れていると見なすな)、実験主義の原理(問題状況を解決する種々の異なった方法を試してみよ、もしそれが実行不可能ならば、別の方法を試した人たちを観察し、その帰結を注意深く反省せよ)、それに、私が「探求の民主化」と呼んだものを構成することによるような諸原理、に言及した。私はさらに、現実の生活においては、われわれは少なくとも時々は(価値判断を含めて)保証された判断と保証されない判断とを区別することができるし--もちろん、困難なケースや論争の余地のあるケースは存在するし、存在し続けるであろう--、また、保証された判断と保証されない判断とをわれわれが区別できるというその事実で十分なのだ、と示唆した。(ジョン・オースティンの有名な評が言うように、「十分とは十分ということである。十分とは全てのことなのではない」。)ここには認識超越論的な真理は存在しない。「価値判断」を真や偽でありうるものとして扱うためには、われわれが「価値判断」を保証された主張可能性と保証された否認可能性を持ちうるものとして扱うことができ、現にそのように扱っている、という事実以上にすぐれた根拠は、必要ではないのである。
     --ヒラリー・パトナム(藤田晋吾・中村正利訳)『事実/価値二分法の崩壊』(法政大学出版局、2006年)。

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無力であるべき哲学の“力に対する説得の勝利”

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月曜は例の如く、短大での哲学の講義を行う。
5月というのに蒸し暑い一日。久し振りにスターバックスで一杯。
喫煙者にとって鬼門のスターバックスですが、気候がよいので、そとのベンチで一服。
リフレッシュしていざ大学へ。
気温は20度オーバーですが、木陰にそよぐ風が心地よい。

さて……。
担当している講座は、立ち上げ当初から「なるべく“西洋哲学史I”とか“西洋哲学概論”のような内容ではなく、それを踏まえたうえで、考えたり、本を読みたくなるような講座にしてほしい」との意向があり、「哲学入門」は、いわゆるクロニクルな哲学史の解説というスタイルをとらず、哲学の主題と概要(哲学の史的流れ)をザァーっと第1部で行い、次いで第2部、残りの2/3ほどの回数をテーマ別で攻めるようにしています。例えば、キーワードを列挙するならば、文学、民主主義、暴力(と可能性としての非暴力)、人間主義(人間とは何か)、技術時代の科学と哲学、そして哲学の活かし方……だいたいそういうテーマで組み立てています。

言うなれば、人文諸科学と社会思想(史)の領域に渡って、哲学的知見の可能性を問う……そうした領域で講座を組み立てています。市販の教材が使えない分、自分で組み立てる苦労と悩みもありますが、先哲の言葉に耳を傾けながら、“個”としての自分自身も“全体”のなかで“考える”醍醐味を味わわせて頂いている喜びとその恩に感謝の日々であります。

本日は1部のしめくくり……実践と概念としての「対話」と「真理論」の可能性に関して、プラトンからアリストテレスの知的営み概観する。

ケセラセラと吹聴したソフィストたちの考え方に違和感を感じたソクラテスは、「だれにでもあてはまる(もしくはそう考えざるを得ない)ような普遍的な真理はあるはずだ」と考え、一冊の著作も遺さないかわりに、ひたすら“対話”に明け暮れた。

対話を行うことによってひとは、自分が何を知っているのか、そして何を知らないのか、そのことを把握できる。知らないからこそ、その対象への知への愛が芽生える。
知への愛……Philo-Sophia,ここに哲学の語源が存在する。

で……。
対話を行うことでソクラテスは自己自身の“無知の知”を把握するとともに、結果として、対話者の“無知”を暴き出すことになってしまった。ソクラテスの対話とは、まさに、当人を刺激してドクサ(臆見;真実に対して,当人の思い込みにすぎない事柄のこと)を知らしめる営みであり、そうしたソクラテスの姿を、当時のアテナイの人々は、“虻(あぶ)”のようだと表現した。

ソクラテスにその虚構が見破られたひとびとは、いわば当時の有名人たち……。虻に差されて黙っていようはずはない。差された痛みはルサンチマンと化し、“恥をかかされた”怨念は、やがてソクラテスを刑死へと導く。

ソクラテスは、「何らかの普遍的な真理はあるはずだ」……そう発想した。
しかし、「真理とは何か」このことに関しては語らずじまいとなってしまった。

それが弟子プラトンの大きな課題となる。プラトンは、「真理とは何か」という問いの探究のなかで、真理とはイデアである、というイデア論を組み立てる。生成変化する現実世界の背後には、永遠普遍のイデアという理想的な雛型があり、イデアこそが真の実在であると主張した。

永遠不変のイデアは実在するのか?

イデア論に違和感を感じていたプラトンの弟子アリストテレスは、師の学説を引き継ぎながらも、イデアが個物から離れて実在すると考えたことを批判し、師のイデアと区別して独自の存在論(真理論)を切り拓く……。

ま、そういう宇治家参去もなんとなくイデア論には違和感がありますが……。
そのあたりの話を哲学史的には本日の講義で行う。

学生さんには、負担をかける側面もあるが、ひとつ、双方向の試みとして、毎回出席カードのかわりに、リアクション・ペーパー(授業の感想カード)を書いてもらっています。
ある一人の学生さんのコメントから……。

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プラトンのイデア論にはすっきりしない部分が多々ある。正義とは何か、善とは何か、なんて一言では言い表せるものではないし、私が生きているのは現実世界であり、理想的に想定されたイデア界ではない。発想として具体的な善の行為をひな形を為す善そのものはなんとなくありそうにも思えるが、イデア(界)という言い方をされるとなんとなく躊躇する。結局は、私が今いる現実の中で、正義や善の行為を一人一人が悩みながら産み出していく方向を考える必要があるのではないだろうか。移ろいやすいかもしれないけれども、変わっていく世界だからこそ、たとえ悪いものだったとしても善いものへ変わっていけるのではないでしょうか。善と悪が完全に決まっているイデア界では、悪なるものはいつまでたっても悪のままで和解は存在しない。つまり「問答無用」と同じです。不完全だからこそ良い方向へ変わることもできるのではないでしょうか。

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実感の吐露だと思います。
彼女の言葉の前では、ここでイデア界の是非や、プラトンとアリストテレスの存在論の差異は意味をなしていないのだと思います。
彼女自身が“考え”はじめているからです。
イデアがあるにせよ、ないにせよ、結局は彼女自身が“悩み”“考える”プロセス抜きには獲得できないシロモノだからです。

その意味で、“自画自賛?”ですが、考えるヒントの提供という意味で「哲学入門」が“虻”としての機能を果たしていることに安堵する。

哲学なんか……語っていると、ついその無力さを実感するときがあります。
特に現代ではそうですが、これまで諸学の王として君臨してきた哲学は、その学としての先験的なリーダーシップ性のゆえに、大きな過ちも犯してきたものである。通俗的な言い方で極めて恐縮ですが、誤った発想、考え方のもとに沢山の流血が流れてきたものであります。そうした暴力性の反省から、現代の世界において、いわば“前衛革命家”じみた哲学の発想のつつしむべき方向性なのでしょうが……哲学の立場から提言を自戒する傾向が強い。

しかしながら、哲学者はかたらずにはおれない“ミネルヴァのフクロウ”たちです。

そうした自戒を含めつつ、何かへ善導しようという思い上がりは毛頭ありませんが、考える糸口、実際の著作へ手を伸ばすきっかけだけは失いたくないものです。動執生疑さえできれば……、そんな実感です。

技術時代と高度に先端化した学術世界において、古典的な哲学の言説は、ある意味で無力かもしれません。ミネルヴァのフクロウの羽ばたきは“すすり泣き”かもしれません。しかしその歩みを辞めることは決してない。善を説かないとしても、善を見出したいからかもしれません。

人間は何度も同じ歴史を繰り返してきました。その意味でひとは歴史から何も学んでいないのかもしれません。しかし、どこかで学ぶきっかけをつくりたい。
考え方の“強要”ではなく“共学”を目指したい。その意味でいつまでも学生としての自覚が宇治家参去には必要不可欠かもしれません。学生と教師……立場違いますが、共に議論し、学び合うなかで、“力に対する説得の勝利”をこの地に実現したい今日このごろです。

最後に哲学者にしてプロセス神学者・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead, 1861-1947)の言葉でもひとつ。

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 人間の生は、既存の言葉では表わせないほど一般的な想念を、漠然と感知することによって推進される。このような一般的な諸観念は、一つ一つ切り離して単独には把握できない。それには、人類が相互に解明し合う諸観念の体系を思考しうるよう、事物の一般的な本性を感知するにあたって前進することが必要である。しかし、感知の一般性の成長はあらゆる進化する変化のうちでもっとも緩慢なものである。精神性におけるこの成長を促進するのが哲学の仕事である。それが首尾よくいくかぎりにおいて、偉大な観念の特殊な適用は野蛮な空想との粗雑な結びつきをまぬがれるのである。カルタゴ人は偉大な文明的な貿易国民だった。彼らは人種的には、人類のうちで偉大な進歩的部分の一つに属していた。彼らが貿易を行ったのは、シリアの沿岸から、地中海全域を通り、ヨーロッパの大西洋岸を北上し、イングランドのコーンウォール錫鉱山にまで及んでいた。彼らはアフリカを周航し、スペイン、シシリー、北アフリカを支配した。だがしかし、プラトンが思弁にふけっていた時に、この偉大な国民は、宗教的な贖罪の行為としてモレク神に子どもをいけにえにするというしかたで、<宇宙>の至高の力を考察した。理解の一般性の成長は、今日のこれに対応する文明ではこういう蛮行を不可能にする。<人身御供>や<人間奴隷>は、偉大な宗教上の直観や文明の諸目的が、本能的行動として継承された野蛮さによって表現されている例である。直接的な宗教的直観は、その起源がいかに純粋なものであっても、既存の社会に実際に偏在している低級な悪習や情緒と結託する危険性がある。宗教は哲学に推進力を与えている。しかし一方<思弁哲学>は、流布している行動様式の諸事実にかかわらない究極的な意味を示唆することによって、われわれの高度な直観が低劣なものと結託することを防いでいるのである。
 観念の歴史は誤謬の歴史である。しかしあらゆる誤謬を通じて、それはまた、次第に行為が浄化される歴史でもある。好ましい秩序の展開に進展がある時は、意識的に抱懐された観念の働きが増すことによって、行為が野蛮へと逆行しないように守られているのがわかる。この点で、プラトンの次の言い分は正しいことになる。世界--すなわち、文明的秩序の世界--の創造は、力に対する説得の勝利である。
    --ホワイトヘッド(山本誠作・菱本政晴訳)『ホワイトヘッド著作集 第12巻 観念の冒険』(松籟社、1982年)。

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Book ホワイトヘッド著作集 第12巻 (12)

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ホワイトヘッドの哲学 (講談社選書メチエ (390)) Book ホワイトヘッドの哲学 (講談社選書メチエ (390))

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Adventures of Ideas Book Adventures of Ideas

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【覚え書】Einstein Letter on God Sells for $404,000

Alberteinsteinatbeach1945celebritie

NYTにおもしろ記事があったので、覚え書としてひとつ紹介します。

New York Times,May 17, 2008.
Einstein Letter on God Sells for $404,000
By DENNIS OVERBYE

From the grave, Albert Einstein poured gasoline on the culture wars between science and religion this week.

A letter the physicist wrote in 1954 to the philosopher Eric Gutkind, in which he described the Bible as “pretty childish” and scoffed at the notion that the Jews could be a “chosen people,” sold for $404,000 at an auction in London. That was 25 times the presale estimate.

The Associated Press quoted Rupert Powell, the managing director of Bloomsbury Auctions, as describing the unidentified buyer as having “a passion for theoretical physics and all that that entails.” Among the unsuccessful bidders, according to The Guardian newspaper, was Oxford evolutionary biologist Richard Dawkins, an outspoken atheist.

The price makes the Gutkind letter one of the best sellers among Einstein manuscripts. That $404,000 is only a little less than the $442,500 paid for the entire collection of 53 love letters between Einstein and his first wife, Mileva Maric, at an auction at Christie’s in New York in 1996. At that same auction a paper by Einstein and his best friend, Michele Besso, attempting a calculation that would later be a pivotal piece of his crowning achievement, the General Theory of Relativity, went for $398,500.

Diana L. Kormos-Buchwald, a historian at the California Institute of Technology and head of the Einstein Papers project, said she was not surprised that the Gutkind letter, which was known to Einstein scholars, fetched such a high price.

“It is an important expression of Einstein’s thoughts and views on religion, on Judaism, on his views about God and religious texts,” she wrote in an e-mail message. She said the letter, which was not written for publication, was “concise and unvarnished” and more straightforward than the metaphors he usually turned to in public.

Gerald Holton, a historian of science at Harvard and a longtime Einstein expert, also was not surprised. He said Einstein’s marketability had been improved by the last few years of hoopla about the 100th anniversary of relativity, which included his selection as Time magazine’s Man of the Century in 2000, and several new biographies. Dr. Holton described the letter as “a feat of eloquent Credo in short form.”

Einstein, as he says in his autobiographical notes, lost his religion at the age of 12, concluding that it was all a lie, and he never looked back. But he never lost his religious feeling about the apparent order of the universe or his intuitive connection with its mystery, which he savored. “The most incomprehensible thing about the universe is its comprehensibility,” he once said.

“If something is in me that can be called religious,” he wrote in another letter, in 1954, “then it is the unbounded admiration for the structure of the world so far as science can reveal it.”

Einstein consistently characterized the idea of a personal God who answers prayers as naive, and life after death as wishful thinking. But his continual references to God — as a metaphor for physical law; in his famous rebuke to quantum mechanics, “God doesn’t play dice”; and in lines like the endlessly repeated, “ Science without religion is lame, religion without science is blind” — has led some wishful thinkers to try to put him in the camp of some kind of believer or even, not long ago, to paint him as an advocate of intelligent design.

Trying to distinguish between a personal God and a more cosmic force, Einstein described himself as an “agnostic” and “not an atheist,” which he associated with the same intolerance as religious fanatics. “They are creatures who — in their grudge against the traditional ‘opium for the people’ — cannot bear the music of the spheres.”

The problem of God, he said, “is too vast for our limited minds.”

Einstein’s latest words offer scant comfort to the traditionally faithful.

In the letter, according to the A.P. account, he wrote that “the word God is for me nothing more than the expression and product of human weaknesses, the Bible a collection of honorable but still primitive legends which are nevertheless pretty childish.”

As for his fellow Jews, he said that Judaism, like all other religions, was “an incarnation of the most childish superstitions.”

He claimed a deep affinity with the Jewish people, he said, but “as far as my experience goes they are also no better than other human groups, although they are protected from the worst cancers by a lack of power. Otherwise I cannot see anything ‘chosen’ about them.”

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「……にすぎない」はずはない

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0--科学のイデオロギー化に直面して

……現代は、専門家の時代だといえる。残念なことに、事実の木は求めても真理の森を見ようとしない専門家があまりに多い。歴史の歯車を逆に回すことはできないし、現代の社会は専門家なしではやっていけないのも事実である。多くの研究は専門家のチームワークにより進められるようになっている。しかし私は次のように考えている。現在の危機は、科学者が多方面の知識に通暁していないためではなく、むしろ科学者が全体について主張をするために生じている。たとえば生物学の専門家である科学者が、人間実存の諸現象をもっぱら生物学的な用語で理解しようとする。彼は生物学主義にとりつかれているのだ。生物学が生物学主義になると、たちまち科学はイデオロギーに転じてしまう。したがって、われわれが嘆ずべきことは「科学者が専門化しつつある」という事実ではなく、「専門家が一般化を行いつつある」という事実である。要するに専門家が一般化しすぎた主張にふけっているのだ。「恐ろしく単純化する人間」は従来いくらでもいたが、今ではそれとは別種の「恐ろしく一般化する人間」と出会うことが多い。こういう人間は、生物学を生物学主義に、社会学を社会学主義に、心理学を心理学主義に変化させてしまうのである。

1--ゲーテの芸術を分析すると
 ここでは、話を心理主義という現象に限ろう。心理主義は私がかつて病理学主義と呼んだものと往々にして結びつくことが多い。病理学主義とは、神経症的傾向を見抜いたり、性的シンボルなどを発見することに全力を注ぐ性向である。ジグムント・フロイトからの引用を二つ紹介しよう。ファブリの『精神療法の生活への応用』(一九六八)では、親の愛情は再生されたナルシスムであり、友情は同性愛的傾向の昇華であるという意味あいでフロイトを引用している。フロイト自身は賢明にも慎重であり、葉巻は葉巻以外の何ものでもないし、事実は事実以上のものではないと発言している。しかし彼の追従者はそれほど慎重でもなく、謙虚でもない。その一人、有名なフロイト派精神分析学者が最近ゲーテに関する一冊の本を書いた。ホイシャーによる書評からの引用を紹介しよう。「著者は一五三八ページのうちに、躁うつ的、偏執的てんかん質の疾病の徴候や、同性愛、近親相姦、観淫症、露出症、フェティシズム、性的不能、ナルシズム、脅迫妄想神経症、ヒステリー症、誇大妄想狂などの徴候を示す天才の姿を描いて見せている。著者が焦点をあてているのは、もっぱら芸術作品の底にある本能的な力のようだ。われわれはゲーテの作品は前生殖期的固着の結果であると信じこまされそうになる。ゲーテの苦悩は理想や美や価値に対するものではなく、早漏というやっかいな問題の克服にむけられたものであると。これらの著作で改めてわかるのは精神分析学の基本的な立場はまったく変化していないということである」と書評の著者は結論した。
 こういった事態に弊害があらわれても驚くにあたらない。つい最近、マンハッタンの精神分析医ローリン・ジョン・ハットラーはある論文の中で次のように指摘した。「たいていの芸術家は精神分析医の解釈に激怒して診察室を出ていく。分析医の解釈によれば、芸術家は不正行為の収集家またはサドマゾヒストゆえに書き、露出狂だから演技し、観客を性的に誘惑したいから踊り、あるいはおもうさま塗りたくることで厳しい排便訓練を克服しようとして描くのだとされる」。こういう例ならいくらでも提供できる。しかしその行為も、最終的に人間の内にある真正なものに直面したところで中止すべきだと私は思う。もしそこで立ち止まらないとすれば、精神分析医が暴露しているものは、彼自身のシニカルな態度であり、ニヒリスティックな性向である。それは人間の中にある人間らしさの価値を減じ貶めようとする。
 意味を与えるために、また価値を実現するために努力することこそが人間の本性である。たいへん残念に思うのは、価値心理学の分野の傑出した二人のアメリカ人学者が、「価値や意味は防衛機構と反動形成にすぎない」と述べたことである。私は自分の反動形成のために生きていこうとは思わないし、防衛機構のために死のうなどという気はなおさらない。現代の還元主義はニヒリズムの仮面である。今日のニヒリズムは無という言葉をふりかざしたりはせず、「……にすぎない」ということでカムフラージュされている。人間の諸現象はかくして単なる付随現象とされてしまう。少し話がそれるが、広く受けいれられている見解に反して、実存主義でさえもニヒリズムではないと思う。現代の真のニヒリズムは還元主義なのである。ジャン・ポール・サルトルは「無」という言葉を彼の主要な哲学的著作の題に用いたが、実存主義の真のメッセージは「無」ではなく人間の「非物質性」であり「人間は決して物ではない、ましてや、一人の人間はとりわけ物の一つでない」ということである。
    --ヴィクトル・E・フランクル(本吉良治訳)「還元主義とニヒリズム--次元人類学の立場から」、A・ケストラー編(池田善昭監訳)『還元主義を超えて アルプバッハ・シンポジウム68』(工作舎、一九八四年)。

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冒頭は、少し古い本の一節から紹介です。
1968年夏--ちょうど今から40年前、オーストリアのアルプバッハに15名の著名な科学者が集まり、還元主義にもとづく機械論的世界観を論駁し、人間行動における人間的価値を容れうる新しい展望をもつ科学の綜合を目指して議論し合った。この記録が本書である。

還元主義(Reduktionismus)とは、すなわち、複雑な事物を、それを構成する要素や単位に“分解”し、分解された個別の一部の要素だけを理解すれば、元々の複雑な物事の全体を理解できるはずだと考える、機械論的・決定論的立場のことである。いわば、ひとつの要素に“還元”したもので、全体を理解しようとする考え方である。

卑小な例ですが、人間が微笑むのは、何らかの対象を眼という器官を通して、脳が判断し、頬の筋肉に振動を行うよう指示した現象「にすぎない」と観察するようなあり方です。うえの引用文ですと、ゲーテの苦悩の克服とは、それが創作の原動力ですが、「早漏というやっかいな問題の克服にむけられたもの」となってしまう。

こうした還元主義の主張は、“神が死んだ”現代の自然科学と科学技術の目覚ましい発展と恩恵を追い風にひとつの有力な言説となり、ひとびとはその考え方で、なんとなく複雑な状況を割りきり納得したものである。もちろん、そうした還元主義のアポリアに対する真摯な批判やオプションの提示も活発に行われ、たとえば、非線形科学(Nonlinear Science)や複雑系(complex system)の主張が、複雑な物事自体を捉えるアプローチとして理解の可能性を広げている。また還元主義的アプローチに対する自戒を持って事にあたる専門家も出始めている。

すべての現象を実験室のネズミの行動や元素の反応で説明することは不可能だ。
すべての現象を基本的な物理-化学の法則に“還元”できると信じる思考は一九世紀的思惟そのものである。しかし料簡の狭い還元主義的テーゼが、いまだに広く普及しているという現状を眺めると少しゾッとするのも事実である。
生命倫理の議論が、えてして技術的な議論に終始し、先の見えない不毛な議論に終わるのもこのことに起因しているのだろう。

自然科学は世界を対象化するところに発展してきた。科学も技術の発展はそれとして否定すべきものではない。むしろその進展を応援すべきであり、科学を反省する人々に付け入ろうとする疑似科学とかオカルティックな言説に対してはより警戒すべきである。

たしかに、人間とは物(物質)であり、物でない(非物質)。
ただ必要なのは、還元主義を排しつつ、オカルティックな歩みも退けつつ、両端を避けつつ、人間という複雑な現象そのものへの冷静で真摯な洞察と、洞察間の対話と議論が必要だということだろう。

問題なのは、専門家だけではない。

ひと頃よく心理テストなるものが流行ったものである。
たとえば、一つの絵に対する解釈から、その人間の傾向性をクイズ的に導き出そうとするゲームである。これもおそらくひとつの還元主義である。

いつ渡り船の来るとも分からない橋の無い河を前にしたアナタ!
泳いで渡る?
船が来るまで待つ?
渡るのをあきらめる?

橋のない河を、泳いで渡る人間と、船が来るまで待つ人間と、渡るのをあきらめる人間への還元である。

「泳いで渡る人間」は、仕事人間。
「船が来るまで待つ人間」は、家庭を大切にする人間。
「渡るのをあきらめる人間」は、自分が一番大切なマイペース人間。

--なのだろうか?

アリストテレスは「全体とは、部分の総和以上のなにかである 」と喝破した。

複雑な事象は複雑なまま見るしかない。
人間も世界も還元不可能だ。

著者のフランクル(Viktor Emil Frankl,1905-1997)は、周知の通り、『夜と霧』で有名な、ナチスの絶滅収容所を生き抜いた、オーストリアのユダヤ系精神分析医である。極限の絶望体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人物であったという。

もういちど、自分自身の、自分に対する、他者に対する、そして世界に対する“還元主義”を点検しなくてはならない。「恐ろしく一般化する人間」は自分自身をも一般化してしまう。その時点で可能性も不可能性も廃棄されてしまう。

世界も人間も「○○にすぎない」はずはない。

複雑に絡まった糸をほぐしたい。
複雑に絡まった糸をほぐすのにハサミは用いたくない、ある日の宇治家参去でした。

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のみにいきたい

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 和尚の言葉によると、村松が戸越村へあらわれたのは、一昨年の夏であったそうな。
 旅姿の松村太九蔵が、一夜の宿りを行慶寺にもとめたのが縁となり、それから、戸越村に居ついてしまったらしい。はじめは行慶寺に滞留していた松村へ小さな家を見つけてやったのも道誉和尚だし、そこで寺子屋を開かせ、村の子供たちへ読み書きを教えさせ、寺からも援助をし、村松の生計をたててやったのも和尚なのである。
 「どういうものか、たがいに呼吸(いき)が合いましてな。まあ、黙って酒を酌みかわすだけでもたのしくなる。つまり、酒をのむ呼吸がぴったりと合うたわけで」
 「なるほど」
 「そうなると、何も、むずかしいことはない。たがいに詮索もいたしませぬし、身の上ばなしをするでもないのに気心が通じ合うという……これが先ず、のみ友達のよいところでありましょうなあ」
 語りながらも冷酒を小兵衛にすすめ、自分ものむ。小肥りの、いかにも健康そうな和尚である。
    --池波正太郎「十番斬り」、『剣客商売 十番斬り』(新潮文庫、平成六年)。

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連休明けに送られてきたレポートの添削をどうにかすませ本日返送する。
返送して家に戻ってくると、月末〆切のレポートが送られてくる。

4月よりも件数が明らかに多くなってきています。処理能力を上げることも必要ですが、水準も落としたくない。きちんと時間管理とToDoの優先順位をプランニングしていかないとえらいことになるなアと実感です。
金曜は休日でしたので、午前中は資料の整理、午後は関連文献に目を通すと一日がおわる。

何か……忘れていたなアと思い出し、古い受信メールを確認していると、所属の研究所の紀要に載せる論文のエントリの〆切がこちらもデッドライン。

前回の続きを載せようと計画はしていたのですが、(金欠故)資料が揃わず悩んでいたところ。

書いた論文は殆どがキリスト教学ないしは宗教・宗教学史に関係するものばかりでしたので、ここらでひとつ倫理学関係も数本はだしとかないとなア……という鬨の声も聞こえてくる。

本来予定していた<その3>は明年に廻し、今年は倫理学で攻めてみようと思い、整理した書架をまたばらして、関連文献に目を通すと、この時間(午前2時)……。

なんとなく、構想はできているのですが、全体のイメージがつかめない。もう少し読み込まないといけないけれども、時間がない。土曜から市井の仕事も6連チャン。とりあえず、今日は、覚え書だけ入力して、寝るしかあるまい。明日に片づけましょう!

ということで……。
ビールのプルタップに手をかけましたが、久しく(?)気のおけない友と飲んでいない。

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 「どういうものか、たがいに呼吸(いき)が合いましてな。まあ、黙って酒を酌みかわすだけでもたのしくなる。つまり、酒をのむ呼吸がぴったりと合うたわけで」
 「なるほど」
 「そうなると、何も、むずかしいことはない。たがいに詮索もいたしませぬし、身の上ばなしをするでもないのに気心が通じ合うという……これが先ず、のみ友達のよいところでありましょうなあ」
--前掲書。

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仕事が一段落ついたら(永遠につきそうにないのですが)、書を捨て友と飲みに行こう!(寺山修司風に)。

で……。

全く関係ありませんが、最近、青いモノがめっぽううまく感じるようになってしまった。
細君の実家の家庭菜園で育てられた、何かの豆が送られてきたが、ウマイ。
年のせいか?

※……すいません、またまた考察の欠如した印象批判で、教育的配慮に欠けた駄文で。ちかいうちまた考察します。

十番斬り (新潮文庫―剣客商売) Book 十番斬り (新潮文庫―剣客商売)

著者:池波 正太郎
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オレ、オレ、トルストイだよ!

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 「わたしが人間であった時に生きてゆくことができたのは、わたしが自分で自分のことを考えたからではなく、通りすがりのひとと、そのおかみさんの心に愛があって、わたしを憐れみ愛してくれたからです。また、ふたりの孤児が生きてゆけたのは、みんなが彼らのことを考えてやったからではなく、他人の女の心に愛があって、彼らを憐れみいつくしんでくれたからです。こうしてすべての人は、彼らが自分で自分のことを考えるからではなく、人々の心に愛があることによって、生きていっているのです。
 「いぜんにもわたしは、神さまが人々に生命をお与えになって、彼らが生きてゆくことを望んでいらっしゃるのを知っていました。が、いまではもうひとつ、べつのことをもさとりました。
 「わたしがさとりましたのは、神さまは人々が離ればなれに生きてゆくことを望んではいらっしゃらないので、そのひとりひとりにとって何が必要だかということは、お示しになっていませんけれども、みんなが心を合わせて一つになって生きてゆくことを望んでいらっしゃるので、人間一同にとって、自分のためにも一同のためにも必要なものはなんであるかということを、みんなにお示しになっているのだということでした。
 「今こそわたしは、ひとが自分で自分のことを考える心づかいによって生きているように思うのは、それはただ人間がそう思うだけにすぎなくて、じっさいはただ、愛の力だけによって生きているのだということが、わかりました。愛によって生きているものは、神さまの中に生きているもので、つまり神さまは、そのひとの中にいらっしゃるのです。なぜなら、神さまは愛なのですから」
 そこで天使は、神をたたえる歌をうたいはじめた。と、その声のひびきで小屋はふるえ、天井は裂けて、一本の火柱が、地面から天まで炎々と立ちのぼった。セミョーンと女房と子供たちとは、一せいに地面へひれ伏した。と、みるみる天使の肩に翼がはえて、彼は天へ昇ってしまった。
 やがてセミョーンが気がついた時には、小屋はもとどおりに立っていて、小屋の中にはもう、家族の者以外にはだれの姿も見えなかった。
    --トルストイ(中村白葉訳)「人はなんで生きるか」、『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇』(岩波文庫、1965年)。

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専門家に叱責をうけそうですが、トルストイの神髄は、長編小説よりも、こうした民話集にあるのかもしれません。思想がダイレクトに表出されているという意味ですが……。

ちょうど、市井の仕事の休憩中、トルストイの言葉を噛みしめながら、その美しい物語を読んでいると、携帯電話が鳴り響く。

電話というシロモノは、ひどく、当人の時間を遮る機械ですが、着信相手を見てみると、実母から。

不思議に思い、電話をとると……

「さっき、電話かけた?」--とのこと。

かけるもなにも、トルストイの世界へ沈潜していたわけで、そのことを話すと、

「オレ、オレ、オレだよっ!」と電話があったとのこと。

いやはやまだまだあるのですね、オレオレ詐欺。
手法が入り組んできている現状から察すると古典的なレトロな方法ですが、まさかウチにかかってくるとは思わずにいられません。

実母が「貴様は誰?」と誰何(すいか)すると、「参去だ」と答えたそうですが、「声が違う」とガチャ切。
それで念のために電話をかけてきたとのことだそうです。

宇治家参去は、親に対してオレという第一人称を使用しないのも決め手になったとか。

とりあえず要件は終了する。

「かかってくるもんですね、気をつけましょう」。

ただ、宇治家参去の脳内アドレナリン溢れんばかりの静寂な読書タイムをぶち壊すことになった実母の問い合わせをさせた、最初の電話をかけた人物のなかにも、おそらく--「つまり神さまは、そのひとの中にいらっしゃる」のだろう。

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人間の真の本質は、その顔において現前する。

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「宇治家さん~。すいません、お客様が“責任者だせ!”とおっしゃっているので対応お願いできませんか?」

内線のPHSから嫌なメッセージというか、ヘルプの連絡が入る。

このところ、市井の仕事場でクレームが頻発しており、「またか」と頭を抱える。
学問で食えない市場の荒野を彷徨う宇治家参去です。

売り場へ出て応対すると、若い姉ちゃん。
話を伺うと、単なる、商品の在庫の確認の問い合わせ。
最初に応対した人間が他部門のバイト君のため、正確な対応ができず「分かる人に見てもらいたい」とのことでした。

案件はすんなりクローズする。

いやはや、お客様に限らず、初めて逢う人と面と向かって話し合うというのは結構生命力がいるものです。ただし、今回の案件はクレームではありませんでしたが、電話やメールでなく、実際に顔と顔をつきあわせて話をするというのは、解決の早いものだと再確認です。

で……。
お客様の退店後、最初の担当者がおそるおそる出てくる。
「宇治家さん、何だったんですか?」
「ん……? あぁ、お客様に告白された! どうしましょうか?」
「それは、ないでしょ!」

そういえば、レヴィナスが、顔について書いていたので最後に一つ。

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人間の真の本質は、その顔において現前する。顔のうちで人間は、私の暴力とかよいあう暴力とは無限に他なるものとなる。私の暴力に対立し、敵対する暴力、すでに私の暴力と争いあっているような暴力とはべつなものとなるのである。そのような対立は、ひとがおなじ体系に参与している歴史的な世界の内部にのみ存在する。顔は、暴力をふるうことなく高みから到来する呼びかけによって、私の暴力を停止させ麻痺させる。存在の真理とは、存在のイメージでも、存在の本性についての観念でもない。それは、主観的な領野のうちに位置をもつ存在のことである。主観的領野は視覚をたしかに変形させるけれども、まことにそのことによって外部性は、まったき命令、権威として語り出されうる。外部性とはつまり、まったき優越〔上位〕なのだ。間主観的な空間のこの湾曲によって、隔たりが屈曲させられて高みとなる。その湾曲は、存在を歪ませるものではなく、存在の真理をはじめて可能とするものなのである。
    --レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限 (下)』(岩波文庫、2006年)。

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「自分が困らなければ、それでよい」。

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青銅貨は使うことによって輝き、よき衣服は着られることを求める。人の住まぬ家は不快に朽ちて汚れる。
aera nitent usu,vestis bona quaerit haberei, / canescunt turpi tecta relicta situ.
    オウィディウス『恋の歌』第一巻8.51
    --柳沼重剛編『ギリシア・ローマ名言集』(岩波文庫、2003年)

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哲学や倫理学などの話の中で、「利」という言葉を口にすると面食らう人間がまだまだ沢山居る。ここでいう「利」とは、「利益」の「利」であり、「利己」主義の「利」のことである。万巻の書を読破した「倫理学者」に期待される説教とは、高邁な隣人愛の教えとか、仏教の慈悲心とか、そういったたぐいの「倫理的なお話」のことである。

「利益」や「利己」の話では、「非倫理的なお話」になってしまうのであろう。しかし人間という生きものは、「倫理的なお話」を実践するときもあれば、「非倫理的なお話」を実践してしてしまう部分もある。

人間が生きると言うことは、まずもって「自己」の保存の安定的確保がどうしても必要になるから、どうしても「利己」的にならざるを得ない部分がある。自己保存の放擲は、物理的・存在論的な喪失である。

自己保存を安定的に確保し続けるためには、糧が必要になるから、「利益」を考え、打算的に動いていかざるをえないのも事実である。

さて、面食らう人間が当惑するのは、おそらく「利己」とか「利益」に悪いイメージや低俗なイメージを抱いているからであろう。「利己主義者」や「エゴイスト」というと、他人の迷惑などはおかまいなしに「自分のため」に邁進し、身勝手に振る舞う“困った人”や、法の網の目をくぐりぬけて不逞な利殖に励む“あくどい人”を想像するのだろう。そうした人は確かに存在するし、“困った人”であり“あくどい人”たちである。

“困った人”や“あくどい人”を高みの存在から、安全地帯から批判したり非難するのは単純なことだが、それだけでは問題は一向に解決しないし、非難している当人も“困った人”であったり“あくどい人”であったりもする。批判者と被批判者を薄皮一枚で分けているの程度の問題に過ぎないかもしれない。

生きていくうえでは、食料も必要だし、金も必要だし、住む家も必要だ。だからこそ、基本的な衣食住から始まり、高価な嗜好品に至るまでの“物”と“己”の関係、そしてその“物”を取り持つ“利”と“己”の関係を実は考えざるを得ないのだ。
倫理学は“倫理的なお話”よりも“非倫理的なお話”にコミットする。
「倫理的なお話」を説教して「利己主義」や「利益」を批判することは単純で簡単なことだが、どこかヒューマニズムの美名に隠された偽善や欺瞞の匂いがぷんぷんする。また人間の利己的な側面や利益の部分をすべて否定してしまうと、生活はどこか潤いのない、空虚な営みになってしまうだろう。

ま、このことは、倫理学を講ずる中でそうした話をする宇治家参去自身が、酒をこよなく愛し、生臭い・物欲と日々“適当”に仲良くしている、“利己主義者”だから仕方がないのかもしれません。よく細君に、「貴方の一番大切なものは貴方自身だ!」と恫喝されていますが、その通りです。

さて話がそれましたが、いずれにしましても、人間誰もが利己主義者であり、利益を考えて生活する生きものであることは間違いない。

己のなかの利己主義が消滅し、利益を考えなくて生きていける生き物がいるとすれば、それは神か野獣しかいない存在しない。しかし、不思議なことに世界の人々すべてが、いわゆる“困った人”や“あくどい人”ばかりでないことも確かなことだ。どちらかといえば、大多数の人間が、ごく少数の“困った人”や“あくどい人”たちを“倫理的なお話”で批判し、社会的に糾弾されると、ときおりスッカと爽快感を味わい、一人悦に浸っているというのが現状だ。

すべての人間が利己主義者だが、いわゆる“あくどい人”や“困った人”にはなりたくない(時折小さな程度でなることはあるのでしょうが)。だからこそ“利”を考えよう。
倫理学は“非倫理的なお話”に注目する。
そのひとつが、合理的な“利己主義者”として生きていていきましょうという発想だ。

合理的な利己主義者は、ただ単に自分の幸福(欲望・目的etc……)を追求して「自分のため」になることをしようと考える人である。その意味では、“困った人”や“あくどい人”という、いわば素朴な利己主義者と同じである。
では何が両者を分かつのであろうか?
おそらく共同するのか、孤立するのか……そこが大きな分岐点になっていると思われる。

合理的な利己主義者は、合理的な利己主義者同士で共同するのに対し、素朴な利己主義者は孤立してことを為す。

素朴な利己主義者たちは、ひとりで全部やらないといけないし、自己以外はすべて手段であるし、自己自身も手段である。共同者がいないから“あくどい”こともできるし“困った”ことも実践できる。他者に対しても自己に対しても。
しかし合理的な利己主義者は、孤立するよりも、他の人々と共同して暮らすほうが「自分のため」にあると考える。たがいに迷惑をかけあっていたのでは、お互いに“損”になるし、「自分のため」にならないと考える。だからルールに従ったり、他人に迷惑をかけないように配慮しようと考える。合理的な利己主義者は、「自分のため」と利己的になればなるほど、「自分のため」から遠ざかる……不思議な“利己主義のパラドックス”にはまっている。

「自分が困らなければ、それでよい」。

そのために、合理的な利己主義者は、「自分のため」から遠ざかることで「自分のため」を実現する。発想が清新な発露であろうが、打算であろうが、合理的な利己主義者は、利己主義の冠を被っているが、利他主義の規範を受けて入れている。

情けは人のためならず。
A kindness is never lost.

最後にカントの言葉でもひとつ。

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 第四に、他人に対する功績的義務について言えば、およそ人間のもつ自然的目的は、自分自身の幸福にほかならない。なるほど他人の幸福に寄与しないまでもこれを故意に損ないさえしなければ、人間性は支障なく存立し得るであろう。しかし各人が、他人の目的をできるだけ促進するに努めないとしたら、目的自体としての人間性と消極的に一致するだけで、積極的に一致するものでない。目的自体であるところの主体のもつ諸種の目的は、もし例の表象〔目的自体としての人間性という〕が私において十分な効果を挙げることになれば、それはまた私の目的にもなり得るからである。
    --カント(篠田英雄訳)『道徳形而上学原論』(岩波文庫、1976年)。

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眠り杉

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月曜……。
大学で哲学の講義を行う。

学生さんから「先生が元気ないことにちょっと戸惑いました・だけど授業はいつもどおり面白かった」とのコメントを頂く。

すこし体調がよくなく睡眠不足だったからだと思うのですが、授業の方は、問題なく充実した内容でありましたが、そういう部分を気遣わせてしまったことに猛省する。まだまだです。

今年から哲学の講義をすこし変えてみました。
教材(といっても自分で編んだものですが)に沿った講義だけでなく、なるべく自身の哲学観を語るようにしましたが、いまのところなかなか好評です。つねに努力し続けるしかありません。

講義後、そのまま市井の仕事で、帰宅すると24時過ぎ。
がっつり呑んで寝てしまい、起きると16時。

もうこのパターンは辞めないと、生産性が低くなる。

これから授業の仕込みと論文の仕込みです。
休みといっても寝るだけで、起きていると仕事です。

息抜きにティリッヒ(Paul Johannes Tillich,1886-1965)を読む。
20世紀最高の神学者といってよいでしょう。
先週末、大学時代の後輩から、キリスト教と諸宗教に関する話をしてくれと依頼がある。最近、こちら方面の文献を読んでいなかったので、ぼちぼち整理しはじめました。

課題が山積してくれているお陰で、空虚と無意味の絶望からはほど遠い生活ですが、ただし有限な時間を大切にしないと……。

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 <存在的(オンティック)>な自己肯定と<精神的(スピリチュアル)>な自己肯定とは区別されなければならないけれども、分離することはできない。人間の存在は、さまざまな意味関係をもっている。それが人間的であるのは、彼の世界と彼自身の両者を含む現実をば、さまざまな意味や価値に従って理解したり形成したりする限りにおいてである。人間の存在は、最も原始的な人間存在の最も原始的な表現においてさえ、精神的である。人間が意味をこめて語る「最初の」文章においてさえ、人間の精神的生活におけるすべての豊かさが潜在的に含まれているのである。こういうわけで、人間の精神的存在に対する脅かしは、彼の存在全体に対する脅かしなのである。この事実を最もよく示すものは、空虚と無意味の絶望に耐えるよりは、自分の存在的実存を放擲してしまいたいという欲求である。
    --パウル・ティリッヒ(大木英夫訳)『生きる勇気』(平凡社、1995年)。

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「統制された暴力機構」による安定とコカ・コーラ

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 そのときデュボア先生は<価値>についてマルキストの理論とオーソドックスな<効用>の理論との比較を講義していた。
 「むろん、マルクスの価値定義は馬鹿げている。人間がそれに加えるいかなる労働にしろ、泥の団子を焼リンゴに変えることはできるもんじゃない。あくまでも、泥団子は泥団子として残る、価値はゼロだ。当然な結果だが、不手際な労働は容易に価値を減少してしまうものだ。下手なコックは、そのままでもすでに価値のあるうまそうな団子や新鮮なリンゴを、食えもしない代物に変えてしまう、価値はゼロとなるのだ。これを逆に、腕のいいコックは、同じ材料でも、ふつうのコックがふつうの味につくりあげる手間もかけずに、ありふれた焼きリンゴよりはるかに価値のある菓子に変えることができるのだ。
 このように料理を例にとってみても、マルクスの価値理論や、共産主義根本理念のまったくけばけばしいばかりのインチキさは、崩壊してしまうし、常識的な定義が、その効用の面からみても真実であることを指摘できるのであって……」
 デュボア先生は切株のような腕をおれたちに向けた。
 「それにもかかわらず……おい、起きんか、そのうしろの生徒! このもったいぶったいかさま師カール・マルクスがものした仰々しいこじつけの、めちゃくちゃで気狂いじみ、非科学的で支離滅裂な、資本論の筋のとおらぬ色あせた神がかり的な言葉には、非常に重要な真理がちょっぴり含まれているのだ。もしもだ、マルクスに分析的な心があったなら、価値観念について、最初の完璧な定義を下せたかもしれないのだ……そして、この地球は無間地獄のような悲しみから救われたかもしれんのだ……もしくは、それと反対になったかもしれんが」
 デュボア先生はつけ加えた。
 「おい! きみ!」
 おれは反射的に起立した。
 「きみは聞きたくもない様子だが、それぐらいならみんなに言えるだろう。価値というものは、相対的なものか、それとも絶対的なものなのか?」
 おれは聞いていたんだ。ただ、眼をつぶり背中をゆっくりくつろがせたまま聞いていてはいけないという理由はない、と思っていたのだ。だがこの質問はちんぷんかんぷんだった。予習をしていなかったので、おれはあてずっぽうに答えた。
 「絶対的……なものです」
 デュボア先生は冷淡に言った。
 「まちがっているね。人間との関連性なしには、いかなる価値も無意味だ。物の価値は、常に特定の人間に関連し、完全に個人的なものであり、その人その人にとって、その量が異なるものであり……市場価値なんてものは絵空事だ。それは、個人的な価値の平均値を大ざっぱに推量したものにすぎない。そのすべてが量的に違わなければならず、さもなければ、売買など不可能となる」
 親父が<市場価値>は絵空事などというのを聞いたら、なんて言うだろうと、おれは思った--たぶん、軽蔑して鼻を鳴らすことだろう。
 「この非常に個人的な関連性を持つ価値は、人間に対して二つの要素を持っている。まず第一には、それによって人間は何ができるかということ、その効用であり……二番目は、これを得るために人間が何をしなくてはいけないのか、その代価である。昔の歌に、はっきりこう言っているのがある……この世で無料(ただ)よりいいものはない……だがこいつは、嘘だ! まったくのでたらめだ! この悲劇的な盲信こそ、二十世紀民主主義の堕落と崩壊をもたらしたものなのだ。この崇高な実験が失敗したのは、そのころの人間が、お好みのものはなんでもただ投票さえすれば手に入るものと信じさせられていたからだ……苦労もせず、汗を流しもしないで、涙もなしに、手に入るものとな。
 まず、価値あるものが無料であることはないのだ。呼吸でさえも、たいへんな努力と苦痛をともなう出産を経なければ手に入らないのだ」
    --ロバート・A・ハインライン(久野徹訳)『宇宙の戦士』(早川文庫、1979年)。

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冒頭は、SF作家の大家・ロバート・アンスン・ハインライン(Robert Anson Heinlein、1907-1988)の代表作『宇宙の戦士』の一節から。『宇宙の戦士』は映画『スターシップ トゥルーパーズ』として映像化されていますので、なじみのある方もいらっしゃるかと思いますが、断然活字の方が面白いです。


舞台は未来の地球……。

裕福な家庭に生まれた主人公の少年が、高校卒業後に両親の反対を押し切って軍隊に入り、徹底的にしごかれて、一人前の機動歩兵になっていく過程を描いた作品です。

舞台となる社会制度は、民主体制と共産体制の共倒れのあとに誕生した軍事政権によって“保証”されたユートピア社会です。
能力主義が徹底され、人種や性別に関わることなく、いわば完全な平等が実現した社会ですが、ひとつ軍歴の有無のみが区別をなした社会です。
ただし軍歴の有無は、参政権といくつかの政府職への就職を制限するだけで、言論や表現の自由も認められており、生活としては区別なく続いている……。

表面的には、「統制された暴力機構」による安定と理想の実現が描かれており、民主主義とか共産主義といった価値概念は退けられていますが、ハインラインの思考実験を観察すると一筋縄ではいかない人間の多元的なありようが見て取れます。
本人自身は、基本的にはリバタリアン的立場であったと言われていますが、右にも左にもふれる機会があったとか。

いずれにせよ、不思議なものですが、時折、無性に、SF物が読みたくなってしまうことがあります、年に数度ですが……しかも偏っています。

ただ、SF作家の見せてくれる思考実験は、人間の様々なあり方や可能性のヒントを与えてくれるので、無限の自由度を斟酌することが可能です。読み物として面白い部分もありますが、それなりに考える部分もあります。




さて……。
人間という生きものは、時折、まさに「無性に○○したくなる」ところがありますが、宇治家参去の場合、本当に時々、「無性にコカ・コーラが飲みたくなる」ことがあります。
それは違うだろう……酒でしょ?と反駁されそうですが、酒は空気と一緒なので、「無性に飲みたくなることはありません」。

しかし2-3ヶ月に一度、コカ・コーラを無性にがぶ飲みしたくなるのが不思議です。

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「社会の窓が開いている」

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 ヘーゲルは、「それぞれの意識は、他者の死を追求する」と語った。わたしたちの意識は、わたしたちが把握することのできるすべての対象に意味と価値を与えるものであり、その自然の状態において、<めまい>のうちにある。他者の意識は、自己の意識のもつ特権を奪おうとするものであり、自己の意識は他者の意識の犠牲のもとに、自己を確証したいという永久の誘惑に駆られている。しかし意識というものは、身体なしには何もすることができず、他者の身体に働きかけなければ、他者に対して何もすることができない。意識が他者を奴隷にするためには、自然のうちから自分の身体の付属物を作り出し、それを自分に同化し、そこに自分の力の道具を確立する必要がある。歴史は本質的に闘争--主人と奴隷の闘争、階級闘争である。それが人間の条件の必然性であり、人間が分かち難い形で意識でもあり、身体でもあること、無限でもあり有限でもあるという基本的な逆説によるものである。受肉した意識の体系においては、それぞれの意識は他の意識を対象に還元しなければ、自己を肯定することができない。
 人間の歴史というものが存在するのは、人間が外部に向かって自らの力を発揮する存在であり、自己を実現するためには、他者と自然を必要とする存在であり、特定の財を所有することによって、自らを個別の存在とするものであり、そのために他者との闘いに進む存在だからである。
    --メルロ=ポンティ(中山元訳)「プロレタリアから人民委員へ」(『ヒューマニズムとテロル』から)、『メルロ=ポンティ・コレクション』(ちくま学芸文庫、1999年)。

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フランスのユニークな哲学者の一人がモーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)です。もともと現象学から出発した哲学者ですが、デカルト以後の近代哲学が主体と客体という二元論に収束していくなかで、そうした論調とは一線を画し、二元論ではどうしても捉えられないもの、二元論から横溢してしまうもの、すなわち、主体でもあり、かつ客体でもあるような人間の存在を探究した人物としてして知られています。

そのメルロ=ポンティのいう、いわば、主体でもあり客体でもある「曖昧な」“人間の存在”とは何かといえば、すなわち、それは人間の「身体」である。人間は「身体」をもつことにより主体でありうることが可能になり、同時にこの「身体」をもつことによって、客体となる。こうした人間の両義性、曖昧さにメルロ=ポンティは注目したわけですが、その所為か、彼の言葉は、言い得ないことをいおうとする試みであるが故に、よどみがあり、迂回があり、歯切れの悪さがある。しかしそれを真摯に追求しようとするひとつひとつの言葉に大きな魅力を持たせているようです。

さて、デカルト以降の近代の人間論は、身体に対する先験的な優位を保つ存在として、精神とか意識を措定し、対峙させますが、人間は意識だけでは存在することが不可能です。身体を通さないと意識は発現しないし、身体をもつ主体は意識だけの存在であることも不可能だ。だから、人間は自然に影響を与え、他者に具体的な影響や関わり(それが暴力のときもある)を与えながらでしか、人間にはなりえない。その意味で、人間は何らかの影響を与えることで、文化を形成し、歴史を生み出してきた存在というこも可能である。

だとすれば、身体を持つ人間が生きるということは、形と力を伴った固有の影響を自然や他者に与えてしまうということだ。自然に働きかけ、他者に影響を与えてしまうことであり、たとえば、それが暴力としての機能を果たしてしまうことは不可避の状況である。

メルロ=ポンティ曰く……

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歴史が存在するということは、各人が自らの行為において、たんに自分の名において行動するのではなく、自分だけを処理するのではなく、他人を巻き添えにし、他人を処理しているということである。だからわたしたちは生まれたときから、善意志というアリバイを失っているのである。わたしたちは、他人に対して行う行為によって規定されているのであり、「美しい魂」として尊敬される権利を喪失しているのである。他者を尊敬しない人物を尊敬するということは、結局は他者を軽蔑するということである。暴力に対する暴力を控えるということは暴力の共犯となるということである。わたしたちは、純粋さと暴力のどちらかを選ぶべきなのではなく、異なった種類の暴力のどれかを選ぶべきなのである。受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である。誘惑なしの説得というものはない。すなわち結局は、軽蔑なしの説得というものはないということだ。暴力は、すべての体制に共通した出発点である。生も、議論も、政治的な選択も、この土台の上で行われるのである。重要なこと、そして議論する価値あることは、暴力そのものではなく、暴力の意味とその未来である。人間の行動の法則とは、未来に向かって現在をまたぎ越え、他人に向かって自己をまたぎ越えることである。この闖入は、政治的な生の事実であるだけでなく、私的な生においても起こる。恋愛においても、愛情においても、友情においても、わたしたちはすべての瞬間において絶対的な個人性を尊重できる「意識」に直面しているのではなく、規定された存在--「わが息子」「わが妻」「わが友」--に直面しているのである。そしてわたしたちは彼らを共同の企図に巻き込む。ここで彼らは(わたしたちとともに)一定の権利と義務のある規定された役割を引き受ける。同じように、集団的な歴史に置いても、<魂をもつ原子たち>は、背後に固有の歴史を引きずっているのであり、互いに自らの行動の糸によって結ばれているのである。それだけではない、彼らは意図して行動するかどうかを問わず、自分が他者と世界に対して行う行動の全体と自分を同一視する。主体の複数性が存在するのではなく、間主観性が存在する。他者に対して加える悪と、他のすべての人々のため引き出す善についての共通の尺度というものが存在するのはそのためである。すべての暴力を断罪するということは、正義と不正の存在する領域の外に出るということであり、世界と人間性を呪うことである。これは偽善的な呪いである。
    --前掲書。
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まさに「受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である」。だから人間が人間になるということは、不可避的に暴力と関わざるを得ないのである。
戦場から遠く離れた作戦室に引きこもり、まさに“神の視座”から「すべての暴力を断罪するということは、正義と不正の存在する領域の外に出るということであり、世界と人間性を呪うことである」。

人間が生きるということは善かれ悪しかれ、何らかのかたちで、自然や他者に影響を与えているということなのだろう。またそうした人間の共同体もひとつの影響を行使する<身体>なのだろう。

意識というものは、身体なしには何もすることができない。しかし「他者の身体に働きかけなければ、他者に対して何もすることができない」のも事実である。

さて、本日、出勤前に、細君から「社会の窓が開いている」と指摘を受ける。
「社会の窓」とは、即ち、男性のズボンの前ファスナーの俗語であり、「開いている」とはそれが開いた状態への指摘である。

身体をもつ宇治家参去という人間存在が影響を与えてしまったようだ。

とはいえ、そのまま外出しなくてよかった。

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お前は、なぜ、この男に福音を語らなかったのか

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ニーメラーの夢
 いま一人、罪責告白との関わりで興味深い悪夢を見たのはマルティン・ニーメラーである。
 ニーメラーは、ナチ政権成立前後から、ドイツ《教会闘争》の指導者としてヒトラーと対決し、強制収容所に入れられた。戦後は核武装反対の平和運動家として世界的に著名であった。一九四三年の初め、ドイツの教会指導者たちがヒトラーにたいして抗議の覚書を手渡すために首相官邸に出掛けたときのこと。最後の場面では、激昂するヒトラーとニーメラーとのあいだに激しく論争がくり広げられるにいたった。

 「ドイツ国民のことは私に任せてほしい」とあなたは言われたが、それにたいして私は、こう言わねばなりません。「あなたであれ、この世のいかなる権力であれ、キリスト者として、教会としての私たちから、神が私たちに課したもうた国民にたいする責任を取り去ることはできないのです」。

 このようにヒトラーと面と向かって論争した人間は、ナチ・ドイツの全期間を通じて、おそらくニーメラーただ一人だったと思われる。この激しいやりとりの代価を、彼は、ヒトラーの復讐の形で支払わねばならなかった。一九三七年夏、ニーメラーは、国家反逆罪の容疑で逮捕された。世界の注視を浴びたこの裁判では、驚くべきことに無罪判決をかちとった。しかし、彼が釈放されて裁判所を出ると、玄関で待ちうけていた秘密警察は、そのまま彼を<<保護拘禁>>した。ニーメラーは《ヒトラーの特別囚人》として、敗戦の日までダッハウの強制収容所につなぎとめられていた。
 一九四五年五月にナチ・ドイツは降伏し、自宅に帰ったニーメラーは、この年の六月から七月半ばにかけて、こんな夢を見た。

 私は、白雲から発する眩しいばかりの明るい光をじっと見詰めていなければならなかった。首を回したり、目を動かしたりすることはできない。光とともに一つの声が響いてくる。それは、私の傍らをかすめて誰か別人に向けられている。しかし、私は、首を曲げて、それが誰であるかを見ることができない。その声はこう尋ねている。「お前は何か申し開きをすることがあるのか」。そして、それに答えている声を聞いたとき、私はすっかり仰天した。「はい。私には、かつて何ぴとも福音を語ってはくれませんでした」と答えるその声は、まさしくアードルフ・ヒトラーのものだったから。
 私は驚きのあまり目覚めたが、雲間から聞こえてくる次の声が、私に向かってこう尋ねているのを、はっきりと予感できた。「お前は、なぜ、この男に福音を語らなかったのか。お前は、かつてたっぷり一時間もこの男と一緒にいて、口論し、罵倒しあったではないか。それなのに、お前はこの男に福音を告げはしなかったのだ」と。
  (「M・ニーメラーとの対談」宮田光雄『日本の政治宗教』朝日選書、所収)

 この夢をニーメラーはくり返し何度も見たという。それを通して、彼は、ヒトラーに抵抗した自分もまたナチス・ドイツの成立と支配の全過程にたいして共同責任があることを自覚せざるをえなかった。
 この年の秋、世界の教会代表者たちがドイツを訪ね、告白教会指導者たちと会合をもった。その人たちにたいしてニーメラーはこう言った。

 「われわれは、教会としても、ナチ・ドイツの罪責から決して逃れていない。あなた方はわれわれを正しいドイツ人として話し相手にするつもりで来られたかもしれないが、それは間違っている。むしろ、われわれを、ドイツ民族とドイツ国民の罪責に、全面的に、おそらくは決定的に関与した人間として扱うべきである」。

 ドイツの教会は、このとき会合を開いて有名な《シュトゥットガルト罪責宣言》を発表した。この中には、次のような言葉が入っている。

 「大きな痛みをもって、われわれは告白する。われわれによって、限りない苦難が多くの諸国民や諸国の上にもたらされたことを。……われわれは、われわれ自身を告発する。われわれは、もっと勇敢に告白しようとはしなかったこと、もっと誠実に祈ろうとはしなかったこと、もっと喜ばしく信じようとしなかったこと、もっと熱烈に愛しようとしなかったことを」。

 当時、世界の教会の代表者たちを前にして、ナチと闘ったドイツの教会が、このような自分たちの罪責を告白したことは画期的であり、逆に世界の人びとの注目を浴びた。「大きな痛みをもって、われわれは告白する」以下の文章は、この宣言の作成過程において、ニーメラーの強い要求にもとづいて加えられたものだったことが知られている。
    --宮田光雄『ナチ・ドイツと言語  --ヒトラー演説から民衆の悪夢まで--』(岩波新書、2002年)

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かつて、マーチン・ルーサー・キング.Jr(Martin Luther King, Jr,1929-1968)と公民権運動を闘ったハーバードの神学者ハービー・コックス(Harvey Gallagher Cox, Jr. ,1929- )が、キングの精神を指摘して、“悪と戦いながら、しかも戦っている相手の悪に自分は陥らないという信念”と語ったことがある。

非暴力とは、あれかこれかと単純に善悪を立て分け、一方に極悪非道な体制を設置し、そして一方に、純粋無垢な無辜の民を措定して、その攻防に専念する、いわば一昔前の革命家の構造とはかけ離れたあり方なのだろうと常々思っています。キングの足跡を辿ると「悪に抵抗する」非暴力を構想し、悪には陥らないという信念を体現したことが伺えます。

歴史のなかで、何度も繰り返されてきたことですが、解放(軍)が往々にして、圧制者に変貌する。そのことで善悪の表裏一体性を指摘したり、真理の相対性を主張することはたやすいことですが、キングの跳躍は、そうした二元論を粉砕する人間の全人性を提示しているように思えます。真理論の立場から善悪を措定することが無意味とまではいわないものの、善にせよ、悪にせよ、おのれ自身の中に内在する。そうした急所を踏まえない限り、人間という生きものは善になれば、悪にもなり、解放者が圧制者になり、圧制者が解放者になりうるのだと思います。

うえで、引用したフリードリヒ・グスタフ・エミール・マルティン・ニーメラー (Friedrich Gustav Emil Martin Niemoller、1892-1984)は、ドイツの著名な神学者でルター派教会の牧師で、もともとは保守派の人物で、アドルフ・ヒトラーの支持者だったという。しかし、ドイツのプロテスタント教会のナチ化に違和感を覚え、対決の末、引用の通り、1937年から1945年までの間をザクセンハウセン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容され、まさに命からがらホロコーストをまぬがれ収容所から生還した人物です。

国家やシステム、そして共同体といった論理は、構成員に無限の責任を要求するようつくられている。その主体が空虚で仮想であったとしても、そこが要求する無限責任は、かたちをもった暴力として機能する。

しかしその暴力も、そして連帯、癒しも人間自身に内在する。

その自覚が、おそらく人間における無限責任の自覚なのかもしれない。要求された無限責任は滑稽であり、暴力に過ぎない。しかし、無限責任の自覚は、人間の全人性の肯定であり、手探りの作業であるにもかかわらず、根本的な再構築が可能になるのだと思います。
そこに倫理(学)が、自己自身に対して立ち上がる瞬間があるのだと思います。

ニーメラーが夢のなかで対話したエピソードは決して他人事ではないかもしれません。

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さらば新潟

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月末に新潟にてスクーリング予定でしたが、参加者集まらず、今回は不開講となる。

がっくし。

昨年は、比較的大都市といいますか、地域の拠点都市ばかりでしたので、そういう事態はなかったのですが、むずかしいもんですね。

新潟の酒が飲みたかった……。

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「それでは説明してみたまえ」

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類似のもの--理解することと説明すること
 すでに述べたように、厳密な意味での思考は、理解し説明することを目ざしている。これらの動詞を正確には何と理解すべきであろうか。

<語源的に> これらの動詞は相異なる二つのイメージを呼び起こす。理解する〔comprendre〕とは、共に捉える〔prehendere cum〕ことである。即ち、部分を全体と共に、結果を原因と共に、行動を動機と共に、結論を前提と共に、捉えるというわけである。これに反して、説明する〔expliquer〕とは、すぐには現われて来ないものを現われさせるように、包みこまれて〔implicatum〕いるものを繰り拡げ、展開し、のばすことである。--これらのイメージは相異なる心的作用を暗に示している。即ち、折り曲げられたものの内側へのまなざしは分析を呼び起こし、幾多の事物を見渡す一瞥は綜合を呼び起こす。
<普通の用法で> ここ数十年前までは、<<説明する>>と<<理解する>>とは殆ど同義であり、同じ心の作用の二つの相を表わしていた。直観によって理解し、次に諸々の論弁的(デイスキユルシフ)なやり方で説明する、というわけである。だから説明とは、理解したことの理性的確認である。理解したと言っている生徒に対して、数学の教師がしばしば「それでは説明してみたまえ」と言うのはそのためである。だから、このようなものとして解された説明と理解とは、二つの補足しあう過程と見なされる。

<現代の対立意見> 人文諸科学の方法を自然諸科学の方法と同一線上に並べようとした前世代の実証主義(コント、デュルケム)に対して、フランスの新歴史学派(L・フェーヴル、I・マルーなど)の激しい反撥があったが、その結果として現在では、ドイツの哲学者ディルタイ(一八三三-一九一一)がうち立てた verstehen 〔理解する〕と erklären 〔説明する〕との間の区分が一般的に行きわたるようになった。「我々は自然を説明し、心的生活を理解する」(『精神の世界』)というのである。
我々は、科学者に法則を定式化させる一致や継起の関係をうち立てることによって、ついで、そのようにうち立てられた法則に特殊的事実を結びつけることによって、自然を説明する。
 我々は人間や心的事象を、正真正銘の経験を通して、つまり思考により相手の立場に立つことによって理解する。理解は、一人称の認識形式であって、説明の場合のように三人称の認識形式ではない。
 このような区別は、科学的実証主義の支持者たちによって反対される。彼らは、この区別が認識されるものに代えて経験されるものを置くものだとして、非難する。しかし、正真正銘の経験が同時に思考された経験、しかも正真正銘なるがゆえにいっそう十分に思考された経験である、ということは全く明らかである。
 それでもやはり、理解が可能なところ、つまり人間諸科学では、理科には常に説明が混ざり合い、また逆に説明も常に理解によって裏づけられる、ということは真である。やがて次の第二巻の方法論の部分で述べるように、説明と理解とは補い合うのである。
    --ポール・フルキエ(中村雄二郎・福居純訳)『哲学講義I 認識I』(ちくま学芸文庫、1997年)。

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日本の高等学校に相当する、フランスの後期中等教育機関をリセ(Lycée)と呼ぶ。3年制の学業過程と、2年制の職業訓練過程に分別されるが、その哲学科の教科書として使われているのが、冒頭に引用した『哲学講義』(“cours de philosophie”)である。

ちょうど、新年度の哲学の講義から一ヶ月過ぎましたが、年度初頭に一度は読み直す書物です。およそ似るに似ない科目であるにもかかわらず、日本の高等学校で相当する科目を指摘せよといわれれば、いわゆる社会科学系の科目としての「倫理」である思います。

ここでは、人名と概念をクロニクルに覚えることが、まずもって第一の課題とされるわけですが、お国違えば教科書も大きく違うものです。

ゆとり教育以降、大学における学力低下も叫ばれていますが、そうした問題群以前の、“考える”ということを等閑視ししてきた本邦の教育界のドン詰まりがあらわになってきた……そんなかんじがします。

この教科書は、もちろん高等学校の学生向けに作られていますが、よくできています。
カントのいう「哲学を学ぶのではなく、哲学することを学ぶ」のが哲学であるとすれば、こうした考える、概念を整理する、論理とは何か……そうしたことを積み上げていくことが本当に必要なのでは?と実感せざるを得ません。

大人にこそ読んでほしい一冊です。

さ、今日は考えすぎたので、一杯飲んで寝ます。

ちなみに蛇足ながら……フランスの高等学校はリセ(Lycée)と呼ばれますが、いうまでもなく、アリストテレスが創設した学園のリュケイオン(Lykeion)にちなんで名付けられています。

女性哲学者として名高いシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)の恩師として知られる、あの『幸福論』のアランも、リセの教師でした。

そのへんから手をいれていかないと、学校は工場になってしまいますね。

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甘ったれ、横着、邪悪な精神。

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……今年から教職につくという女子大生たちが三人訪れて、若い世代につき、こういうところはよくないと思うことがあれば、それを色紙に書いてくれ、自戒としたい、というのでした。僕はたまたま、自分の青年時の友人や、その後に出会った人びととの間で、お互いに不愉快なことになった、いくつかの関係について、すでにとりかえしはつかぬ、という思いをこめて回想していたところでした。そこで僕は、
 甘ったれ、横着、邪悪な精神。
 そう書いて渡したのです。この夕暮、妻が買物に出かけてすぐひきかえして来ると、ふきだしそうなのをこらえながら--はい、と差しだしたのは、僕が下手な字を書きつけて署名した色紙なのでした。生ゴミの袋が積まれている脇に、妻によれば、--充分に丁寧な仕方で、たてかけてあった、ということです。考えてみれば、確かにこの色紙を、はじめて着任する学校の職員室にモットーとしてかけるわけにもゆかぬでしょう。
    --大江健三郎「15 甘ったれ、横着、邪悪な精神、ということからヴォガネットのセリーヌ論へ」、『小説のたくらみ、知の楽しみ』(新潮文庫、平成元年)。

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大江健三郎もなかなかいいもんですね。
今日(すでに昨日)は、ようやく6連勤あけの休日のひととき。
学問の仕事をしようと思っていましたが、レポートを見るので精一杯。
はやめに切り上げて、ゆっくりと過ごす。

細君が、“母の日”を要求するので、夏用の帽子とジーンズをプレゼント(というか買わされる)。子供とすこし遊んで、一日遅れの“菖蒲湯”を一緒に堪能する。

贈ることはつづけたい。
しかし拒否する構えを拒否したいある日の宇治家参去でした。

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【覚え書】Mother's Day money advice from The Christian Science Monitor, May 5, 2008 edition.

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クォリティ・ペーパーとして名高い『クリスチャン・サイエンス・モニター(The Christian Science Monitor)』紙に、考えなければならない問題がひとつ掲載されていましたので、【覚え書】として紹介します。
母の日もたいへんだ。
母もたいへんだ。

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Mother's Day money advice
Working mothers, faced with growing financial responsibilities, can take steps to lighten their load.
By Kathleen Connell
from The Christian Science Monitor, May 5, 2008 edition

American families celebrating Mother's Day next Sunday might take some time to reflect on the changing financial role that mothers play.

The days when mothers remained home to raise children are rapidly disappearing.

Today, most mothers hold jobs outside the home, assume the burden of caregiving for older family members, care for adult children and grandchildren, and increasingly support themselves in retirement.

According to the US Department of Labor Statistics, over 75 percent of mothers with children between the ages of 6 and 17 are in the workforce. In 1975, little more than half of mothers with school-age children worked outside the home.

Despite the rise of working moms, they face both gender inequality and employment discrimination in the workplace. In 2006, women earned an average $0.77 to every $1 of their equally educated male counterparts, according to the US Census Bureau. This inequity exists at all levels of the workforce.

In addition, mothers are at an apparent disadvantage when competing for jobs against women without kids. A 2005 study sponsored by Cornell University determined that, from equally qualified résumés, employers would hire 84 percent of women without children, compared with 47 percent of women who disclosed they were mothers. Once hired, mothers were offered $11,000 less for the same job compared with women who were not mothers.

Many moms work to build college funds for their childrens' educations, but their responsibilities do not end there. Among 2007 college grads, nearly half expected to "boomerang" home for at least a short period.

While greeting their college graduates back home, mothers also assume economic responsibilities for the care of an aging parent, grandparent, or relative. A 2008 study indicated that almost 3 out of 10 baby-boomer mothers now fit the term "sandwich generation," supporting a child under the age of 18 and a parent or grandparent.

Seventy-five percent of caregivers are women, assuming weighty financial obligations. Long-distance annual caregiver expenses were almost $9,000, with caregiver expenses for someone living nearby half that amount, according to a 2007 study by Evercare and the National Alliance for Care-giving. The majority of mothers will provide care for three or more years. And they frequently trade off a secure retirement to financially support an aging parent, taking out loans or increasing credit-card debt.

With a lifetime of increased financial responsibility, securing the financial resources to live comfortably and independently has become increasingly challenging. But mothers can take steps to meet these challenges. Among them:

Identify a benefits-rich job. Paid maternity leave, vacation, and healthcare benefits add both financial and family value. These may be as important as salary and are nontaxable.

Update your education and skills. Working mothers face greater résumé scrutiny – education gives you an edge.

Network, network, network. Don't neglect creating industry contacts – they are your next job.

Organize backup support for your child or elderly parent. Don't expect that you can work from home when your hired care-provider is unavailable.

Prioritize your retirement. Don't risk your retirement savings! All other goals are secondary. Set a reasonable target for supporting college funding for your children. Anticipate caregiver expenses and secure long-term care insurance for parents.

Certainly, motherhood is a marathon, not a sprint. And mothers need to take time – certainly more than one annual holiday – to care for themselves.

• Dr. Kathleen Connell is a professor at Haas Graduate Business School, University of California, Berkeley.

http://www.csmonitor.com/2008/0505/p14s02-wmgn.html

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Book Chronicle of the Soviet Coup, 1990-1992: A Reading in Soviet Politics

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生活世界そのものへの反省

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二 政治的・社会的生活の地平における人間行為

 人間は、生活様式を自分で決めることができるだけでなく、多元的な欠陥と世界開放性がもたらす多様な危険に対して、そうせざるを得ない。人間には、本能によって与えられた固定的な行動パターンというものはない。また、ある種の行動の素質や才能、ある程度の幅しかもたないが、人間は、特定の行動様式だけに拘束されているわけではない。まさにこういう理由から人間は、生物として成長すれば、それだけで生存できたり、善き生活ができる具体的な人間になるわけではないのである。

 人間は自ら、行為可能性の広範な範囲にわたって、ある種の行為パターンを発展させ、実現しなければならない。つまり、生命の必要や問題に応え、しかも単に飢え、渇き、睡眠、セックスという生理的な欲求だけでなく、天候とか他の動物や他の人間から身を守る必要に応じられるような行動のパターンと、とりわけ自分自身による内的な脅威を除くという問題に応え得る行動を実現しなければならない。

 このような問題の大部分は、他の人間との共同作業でしか解決できない。これ以外にも、共同作業でやれば、もっとうまく、安全かつ容易に解決できるものがある。出産や育児、衣食住や経済的物質の調達および内外からの危険の防止の場合がそうである。共同作業で解決する場合は、その解決は個人だけのものでなく(政治的)社会的な活動である。

 生命の必要、関心ならびに問題の解決は、個人やグループ、さらには全人類にとっても重要なことであり、個人が努力しても多少は偶然的なものであり、当人や他の人々を危険にさらしがちでもあるために、問題解決のための努力を個人から十分に除いてやらなければならない。そこで、問題の解決を、永続的な解決に仕上げる必要がある。これが可能になるのは、各個人や個別的状況を超えて妥当する社会的な行動パターン、すなわち制度の形である。

 一時的でない超個人的な行動パターンの総体が、人間の制度的、政治的・社会的な生活世界を形成する。これは、善いものと適切なものと正しいものの統一、つまり、慣習と習俗と法との元来分かちがたい統一である。このさい、慣習や習俗や法は広い意味で理解しておかなければならない。慣習や習俗の法は行為の規則、価値基準、制度を表している。これらは、歴史的・社会的に生成しかつ変化するが、個人の恣意とは完全に引き離されたものである。ある意味では言語もそれに入れてよい。言語には、自然的世界や社会的世界や自分自身と取り組む人間特有の様式、認識や思想が含まれているからである。認識や思想は、歴史的に変化するが、個人を超えている限りで、個人には規範的に与えられている永続的な形象である。

 人間の制度的(客観的)な生活空間である多種多様な政治的・社会的生活世界が存在していなければ、新生児の生存も、子供の成長も、また成人にとっての心理的、社会的、政治的、自然的な危険を克服することも不可能である。要するに、生活世界がなければ、生存も不可能であり、ましてや長期にわたる快適な善き生活などまったく不可能である。それゆえ、本章表題のテーゼを致命的に極限し、道徳だけに切り詰める主観的な解釈とも反対に、次のことが重要なのだ。それはつまり、(無制約的な善によってまだ確定されていない広い意味での)政治的・社会的倫理が、人間行為の地平なのだということである。ここで地平というのは、原理的に世界に対して開かれている空間におけるあらゆる具体的行為の行為空間を、歴史的・社会的に限定する視野という意味においてである。あらゆる人間行為はつねに、習俗や制度、とくに法や国家によってすでに規定されている範囲で行われる。行為がなされるのは、個人の裁量を超えた規範的な生活世界においてであり、しかもこの生活世界に属するものは、もともと、狭い意味で倫理的、社会的、法的な命令や禁止だけではない。むしろ--ニーチェが言っているように「ありとあらゆる養生や健康法、結婚、濃厚、戦争、弁舌や沈黙、人々や神との交わり」(『曙光』第一巻、九節)が、生活世界に属しているのである。

 たしかに、客観的な倫理は、人類の歴史を通じてさまざまな発展を遂げてきた。規範的義務にも、内容ばかりでなく<方法論的に>も変化したものが多い。超個人的、規範的な生活世界から、個人的な恣意の領域に移しかえられたものもある。また、礼儀作法や慣習や習俗、あるいは法のうちに区分されたものもある。これらの広い領域のどこにおいても、さらに細かな区分がなされている。そのような場合には、補足や修正が加えられている。したがって、役割や機能を失った義務もあれば、力を失っていない義務もある。しかしながら、法や国家、そして言うまでもなく、多様な社会慣習が示しているように、人間行為が規範的な生活世界において行われるという根本的事実は、変わることなく存在している。上に述べた人間存在の一般的条件を見れば、この根本的事実が消え去ろうとは考えられない。

    --オトフリート・ヘッフェ(青木隆嘉訳)『倫理・政治的ディスクール 哲学的基礎・政治倫理・生命倫理』(法政大学出版局、1991年)。

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いつもの如く長い冒頭です。

スイスのフライブルク大学で、倫理学、社会哲学、法哲学を講じ、精力的に活躍しているオトフリート・ヘッフェ(Otfried Höffe1943-)の、いわば「倫理学序説」とも表現できる著作の一節から。

学生の頃、たとえば、A教授が「社会学」という科目の講座を行う際、教科書というか参考書で、そのA教授が編んだ教材が使われるというとき、なんとなく違和感というかむず痒さを感じていました。

いわく……商売するなよ!

……みたいな部分です。

しかし

いざ逆の立場になってみると、自分で組み立てる授業の場合、もちろん、いろんな参考教材を利用したり、目を通したりすることは可能なのですが、細かい部分では、自分で編んだ教材や、自分の学問の師匠筋にあたるような人物の著作を利用する方がはるかに組み立てやすいし、講義の進行がスムーズにいくことを身を持って痛感するようになりました。

もちろん、それだけで総てをカバーすることは不可能ですので、それを主線におきつつ、様々な文献を指示し、読ませて、ふくらませていくという作業が、実はそれよりも重要なわけですが、そうした部分が実際にはあります。

さて、上の著作の本の数頁分ですが、倫理学のエッセンスが、深い哲学的洞察を基礎にしながら語られています。

西洋において、倫理という言葉は、ギリシア語の「エートス(Ethos, θος, θος)」に由来します。エートスとは、もともと「いつもの場所」を意味し、動物の「住みか」を意味していたといわれます。転じて「習慣・習俗」を意味する言葉として用いられ、ひとはそれを身につけることによって安心して暮らしていくことができると考えられた概念です。いうなれば、人はエートスによって他の人々と協同して生活できると考えられたわけです。

また道徳を意味する「モラル(moral)」という言葉も、ラテン語の「モレス(mores)」に由来し、これも「習慣・習俗」を意味する言葉です。こうしてみると習慣や習俗が、倫理の語源だとすれば、人間が本来、社会的存在(共同体的存在)であることを指し示しているとも言えます。他の生き物と違って、先鋭化した器官をもつわけではない。2キロ先まで見通したり、匂いをかいだりすることが不可能です。いわば、生物学的には、ある程度の幅しかもたないという「多元的な欠陥」ゆえに、協同して生きてゆかざるを得ない……そうした部分があるのでしょう。だからこそ、「世界開放性がもたらす多様な危険」に対して、そのあり方を見つめ直さざるを得ない。そこに倫理が問題となる(もちろん、(自分自身から自分自身に対する態度としての)人間のあり方を規定する側面としての倫理も考えざるをえませんが、ここではひとまず措きます)。

さて、人間は協同して対処せざるを得ない、自然や人的環境という、生活世界へ投げ出されているが故に、一時的でない超個人的な行動パターンの総体が、人間の制度的、政治的・社会的な生活世界を形成する。その意味でそうした生活世界そのものへの反省もあらわれてくるわけで、ふたたび倫理の課題として、法との関係や、制度のあり方、そして個人と共同体とのあり方が検討にさらされる。

生活世界の中で、規範を検討する――そこに倫理学の難点と醍醐味があるのかもしれません。客観的な倫理(規範倫理)といっても、人類の歴史という制約を受けざるを得ない。また方法論や義務に関しても、補足や修正が加えられる場合も多々ある。その意味では、倫理学とは何かできあがった学問というよりも、ひとびとがこれまで積み上げてきた思考や制度、ものやひとのあり方に関して、現実に検討を絶え間なく加えていくという、動的な学問なのかもしれません。

はじめて倫理学に関するまとまった著作(『ニコマコス倫理学』)を著したのはアリストテレスです。彼は師のプラトンのイデア論を批判的に継承する中で、存在者を動態的にみる視点(可能態から現実態への生成)をもちこみ、そのなかで精緻な存在分析を試みますが、そうしたものの見方と密接に関わっているのかもしれません。

さて、教科書の話から、ながくそれてしまいましたが、要点としては、このヘッフェの著作はよく(善く)できています。「訳者あとがき」にはつぎのとおりあります。

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 現実の生活世界が平和や飢餓、原子力、医療、人権などをめぐる社会的、政治的な諸問題が山積している状況において、実践哲学がそのような自己閉塞のままであっていいはずはない。このれが、ヘッフェの出発点にある発想であり、このため彼は、環境保護、医療倫理、遺伝子操作、人体実験について具体的に考察し、経済体制の正義、教育における根本規範、民主制における抵抗権を論ずる。

     ――前掲書。

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原著は1981年に出版されていますが、ヘッフェが取り上げている以上に事態は進展(?)しており、資料についても、もっと新らしいものを材料に議論すべきでは?との感も否めなくもないが、問題意識や基本的な哲学的な構えは古くなく、常に新しい光彩を放っている。

そのうちになることでしょうが……(なればいいのですが)……、大文字の「倫理学」もしくは「倫理学概論」というような概論・入門的講座を終えた学生を対象にするような「倫理学基礎演習」とか「哲学倫理学特殊演習1」学問を担当するようにでもなれば、是非使いたい教科書の一つだと思っています。主軸に、このヘッフェの手になる、「倫理学序説」を措きながら、昨今議論されている現代の倫理の課題と問題点の資料や、アリストテレス、カントの著作の抜粋にも目を通しながら、「倫理学」を一歩深める講座をやってみたいなアなどと実感した本日でした。

さて、最後に例の如くですが、ヘッフェいわく「役割や機能を失った義務もあれば、力を失っていない義務もある」。

だとすれば、現実をみつめなおすなかで、これまで万古不変といわれたようなあり方でも、月並みですが、果たしてそれが妥当するのかどうか議論してみる必要があるのかもしれません。これはおおきな制度や国家というシステムだけに限られたものではありません。たとえば、会社のなかでも、家庭という共同体においても、これまではそれが所与に“あたり前”とされてきたことが、今後もこのままでいいのかどうか、守るにせよ、変更するにせよ、ときどき“点検”は必要かもしれません。

うちで今困っているのは、もうじき到来する“母の日”です。

実母・義母への贈り物はもう準備し、手配済みですが、細君までもが、ここ2年くらい、執拗に、私に対して“母の日”の贈り物を要求してくるのです。

私からすると彼女は“細君”であり“母”ではありません。

今年はどうしましょうかね?

そこで最後に一発!

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 ローマ誕生のときからくり返し述べているように、また近くは「ローマ連合」のところでも述べたように、ローマ人は自国の市民権を他国人に与えるのに、大変に鷹揚であった民族である。それは、ローマの軍団がローマ市民権所有者のみで構成されていたからでもあった。おかげで、アテネやスパルタの軍事力は万の単位にとどまったのに、ローマは十万単位の兵力をもつことができた。

 また、全盛期のアテネでも、両親ともがアテネ人でないとアテネの市民権は取得できない決まりになっており、スパルタでも同様だったが、ローマではずいぶんと後になるまで、しばらくの間ローマに住むだけで市民権を取得できたのである。反対に、アテネでは、長年アテネに住み学校まで開いてアテネの文化の向上につくしたアリストテレスでも、一生市民権はもっていなかった。

 市民権というものに対するギリシア人とローマ人の考え方のちがいは、奴隷の処遇にも示されている。

 ギリシアでは、奴隷は奴隷のままで一生を終わるのが普通であったのに、ローマの奴隷には、別の道が開かれていた。

 ギリシアの哲学者アリストテレスは、奴隷を家畜と比較して次のように書いている。

 「有用さにおいては、両者の間の差は少ない。奴隷も家畜も、彼らの肉体によってわれわれ人間に結うようであることでは同じなのだから」

 アリストテレスよりは二百年以上も前に、ローマ六代目の王セルヴィス・トゥリウスは、次のように言っている。彼自身が奴隷出身ではないかと噂されたという理由もあったにしてもである。

 「奴隷と自由民のちがいは、先天的なものによるのではなく、生を受けて後に出会った運命のちがいであるにすぎない」

 このローマでは、長年の献身的な奉仕に主人が報いるとか、または貯めこんだ金で買ったりして自由を回復できた奴隷は、解放奴隷と呼ばれ、彼らの子の代になればローマ市民権を取得できた。市民権さえ手中にすれば、以後の社会での出世はその人の才能と運しだいである。反対にアテネでは、あのペリクレスでさえ、再婚の相手がアテネ人でなかったために、その結婚から生まれた息子はアテネ市民権を得られず、特例を認めてもらってようやくアテネの市民の資格を得られたという例もある。

 ローマ人の市民権に対する考え方の開放性は、二重市民権、つまり二重国籍だが、それさえ認めた点にも示されている。ローマ連合内の同盟国の誰かが、ローマの市民権も取得したいと思えば、この時期ではそれは完全に認められていた。しかもその人は、自分が属している地方の市民権を捨てる必要もないのである。ナポリ市民でありながら、ローマ市民にもなれるわけだ。この二重市民権の制度もまた、同時代の他国では類を見ない、ローマ独自のシステムであった。

 紀元前七五三年、ローマを建国したロムルスが百人の長老を召集したのが、ローマ元老院のはじまりであった。この百人が率いる家族が、ローマ貴族のはしりであったとされている。

 それが、五百年後には五分の一に減っている。死に絶えたり後継男子に恵まれなかったりして、消滅してしまったのだ。ただし、その間元老院議員の数は三百人に増員されているから、元老院という共和政ローマの心臓部を警世するエリートたちに占める建国以来の名門貴族の割合は、十五分の一に減ってしまったということになる。これほどの現象は、その間ローマがせざるをえなかった絶え間のない戦闘が、指導者階級に属するこれらの人々に、他の誰よりも多い犠牲を強いたからであろう。

 それでいて、ローマの支配階級に属する男たちの数は、増えこそすれ減っていない。政府の要職や元老院の議席を平民にも開放することで、ローマは常に新しい血を供給することができたからである。支配階級に入れる基本的な資格は、ただ単に、ローマ市民権の所有者、であったにすぎないのだから。

    --塩野七生『ローマ人の物語2 ローマは一日にして成らず[下]』(新潮文庫、平成十四年)。

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いつもながら長くてすいません。

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ローマ人の物語 (2) ― ローマは一日にして成らず(下)    新潮文庫 Book ローマ人の物語 (2) ― ローマは一日にして成らず(下) 新潮文庫

著者:塩野 七生
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Tiffanyで日本酒を

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五一
 いかにして仮象が存在になるか。--役者はしまいにはもっとも深い苦痛にさいしても、自分の役の印象や全体の舞台効果など考えるのをやめられなくなる、たとえば自分の子供の埋葬にさいしてすらそうである、彼は彼自身の苦痛やその現われをみて、自分自身の客観として泣く。いつも同じ役割を演じている偽善者は、しまいには偽善者たることをやめる--たとえば牧師は、青年のころは通常意識的にまたは無意識的に偽善者であるが、しまには自然らしくなり、そのときには本当に、全然気取らなくても、まさしく牧師となり、あるいは父親がそこまで達しないときは、その場合には父親の進み出た距離をりようしてその習慣を受け継ぐ息子が、おそらくそこまで達するであろう。きわめて長い間執拗になにかに見えようとするとき、なにかその他のものであることがしまいに困難となる。ほとんどどんな人の職業も、芸術家の職業すら、偽善というもので、外からの模倣で、効果のいちじるしいものを模写することではじまる。いつも親しげな表情の仮面をつけている者は、しまいには、親しさの表情をとってつけるのにないではすまぬ好意的気分というものを左右する威力を獲得するにちがいない、--そしてしまいにはまた、こういう気分のほうが彼を左右する威力を獲得する、彼は好意的な存在である。
    --フリードリッヒ・ニーチェ(池尾健一訳)『人間的、あまりに人間的I (ニーチェ全集5)』(ちくま学芸文庫、1994年)。

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仮象を実体化させ、その物自体に籠絡されている、道学者とはほどとおい宇治家参去です。

さて今日は、アクセサリーの話でもしましょう。ちょうど、修理に出していた手巻きの腕時計が直って戻ってきたので……日常ネタでもひとつ。

機械式の時計を集めているわけですが、そのひとつのが50年代のTiffanyの手巻腕時計です。昨今は、大振りな腕時計が流行っていますが、こ振りでかわいらしい男女兼用の腕時計です。もちろんROLEXやOMEGA、SEIKOの上位機種のようなウン十万円もするような時計ではありませんが、いやらしさを感じさせず、かといってチープではなく、それとなく品性のある腕時計です。

Tiffanyらしいとでもいえばいいのでしょうか--。
オーナーの満足度を充たしつつ、それなりの実用性があるところが気に入っています。そういうTiffanyが比較的、好みですので、アクセサリーは、なるべくTiffanyを使うようにしています。

「男がアクセサリーとは何事ぞ!」

男性諸子の誹りを承知ですが、アクセサリーと言っても、カフスとかボールぺン、キーリングに、本の栞程度です。

なんだかんだほめていますが、Tiffanyでよいところは、数千円から購入可能というリーズナブルさかもしれません。ボールペンなんか何千円で買えますし、ペン軸を交換すれば、何年もつかえる。まさに「物を大切に!」を先取りしたような(?)「お買い得」な買い物です。

さて、そんな中で一番気に入って常用しているのが、Tiffanyのビーンズライターです。

「Tiffanyといえばシルバー925だろ!」

またまた誹りを受けそうですが、珍しい(?)ブラスです。
最初はシルバーを使っていましたが、実は酔っぱらって、どこかに放置してしまったため、シルバーではなく、二号機は、一段劣るブラスです。

でも持ちやすく大変使いやすい一品です。これも2万円はしなかったと思います。

Tiffany宣教日記のようで恐縮ですが、Tiffanyは良いですぞ、世の男子諸君。

さ、今日は、Tiffanyの時を刻む音を肴で、「玉の光」(酒魂 純米吟醸)で酩酊のひとときに入ります。

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Book ニーチェ全集〈5〉人間的、あまりに人間的 1 (ちくま学芸文庫)

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歳時記をどのように応用するか

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ひさしぶりにガッデム!です。

今日(もう昨日ですが)は、日中、レポートの添削に追われ夕方に投函、夕食を挟んで、さあ、博論の手直しをと一服していると、市井の職場から電話が……。

「バイトくんたちが皆休み(1名忌引・1名振代休)なので、出てきてくれないか?」

なんとなく予想はしていたのですが、ネクタイを締めなおす。

業務自体は、問題なく終了させるが、おかげで久し振りの6連チャンになりそうです。

まさに貧乏暇なしですが、「貧しいことは恥ではない。だが、貧しさに安住することは恥である」というペリクレス(Pericles,B.C.495?-429)に深く同感する身としては、こなしていくしかありませんね。

さて……哲学者の鶴見俊輔が面白いことを書いていたので最後に一つ。最近忙しくて考察できずすいません。ま、お土産と思ってください。

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 日本人が日本以外の諸文化に対してもつ関係は、戦前の人たちによってまったく気づかれなかったということはありません。何人かの先人がいました。戦争中に日本軍が占領した南方諸地域において、俳句を作る際に歳時記をどのように応用するかは、戦時の句作者にとって論争の的となりました。かつて東京市長、また拓務、鉄道大臣を務めた永田秀治郎(一八七六-一九四三)は、世界のそれぞれの場所にそれぞれ独自の歳時記が成り立ちうるという立場をとりました。当時彼はシンガポール軍事政府の最高顧問であり、彼のこのような意見は当然に俳句の領域よりも広い政治上の意味をもっていました。それよりもっと早い時代のことですが、戦前の日本の国家主義者のなかに葦津(あしず)耕次郎という人がいまして、この人は大正時代に朝鮮に日本政府が神道の神社をつくる際に、日本の国をつくった女神である天照大神を主神として祭ることに反対しました。昔から日本の神道はその土地の神を敬うことをしてきたのであるから、朝鮮において建設さるべき神社で祭らるべきものは朝鮮の神であるべきだというのです。それが日本の道であると、彼は一九一八年に政府に出した建白書で述べています。このような考え方、それは日本古来の伝統からいえば正統なものなのですが、戦前および戦中の時期に日本を支配していた勢力から顧みられませんでした。
    --鶴見俊輔「旅行案内について」、『戦後日本の大衆文化史』(岩波現代文庫、2001年)。

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とりあえず、あれば、シンガポールの歳時記をひもといてみたいものです。
ギネスでも呑んでとっとと寝ます。

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戦後日本の大衆文化史―1945‐1980年 (岩波現代文庫) Book 戦後日本の大衆文化史―1945‐1980年 (岩波現代文庫)

著者:鶴見 俊輔
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狸と戯れる

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◇文化は非在の記号である
 でも、このところがよく誤解されてしまうんです。今は結論だけ示しておこうと思いますが、、文化は非在*--non-être ということですね--である記号、つまり広い意味での言葉とか用具によって作られた用具連関*という記号であり、イコール共同幻想でしかない。文化は一切の根拠がない記号=空性の世界なんです。
それは具体的な例で言うとこういうことです。ホメオスタシスっていう生物学用語がありますね。生物体の自律的平衡作用のことなんですが、たとえば恒温動物の場合、まわりの空気の温度が変わると、それに対応して体温調節していかないと生きていけません。まわりの温度が上がっても、自分の体温が上がらないように生体を調節するし、下がれば下がらないようにする。そして、三六度なら三六度に常に保っているわけですね。これは、生体が存在している外界の変化に適応しているということなんです。しかし、今、この部屋でぼくらが適応している外界の気温というのは、そもそも存在しなかったものをぼくらが用具連関(この場合は暖房)によって、すなわち文化によって創り出しているわけです。
先日ある雑誌で宇波彰さんがぼくの本をとりあげてくれた時、非常に面白いことを書いていました。「人間は世界の中に家を建てたんではない、家を建てることによって世界を創ったんだ」。まさにそのとおりなんで、言い得て妙だと思ったんです。「文化という記号」というときの記号とは、そういう意味での〈非在の現前*〉なんです。
人間の創り出した文化をこのように見た時、多くの実体論*者から批判が出ました。文化が一切の根拠のない記号であるというのなら、方向性も何もなくなっちゃうんじゃないか、ケセラ・セラだ、なぜそんな不安に我々を落とし込むのだ、お前はヒューマニズムや科学や進歩史観、合目的論を信じないのか、と言うんですね。ぼくは、しかし、何と言われようと、まさにそうした断崖の淵に立つところにしか出発点はないと思うんです。これを恐れている限り、実体論やそれに付随する絶対主義の不自由性からどうしても逃れられないからです。つまり、徹底的な根拠のなさ、ということなんですね。それはレーベン*の無根拠性と言っていいかもしれません。この場合のレーベンというのは、動物の生命といった生物学的な生命だけではなく、一切の存在者というものは本性は生成*devenirであるという意味でのレーベンです。
まさにそういうレーベンとしての存在者であると考えた場合、その無根拠性、あるいは多様性--これは柄谷行人*の言葉でもありますが--、偶然性というレーベンの混沌を直視できるかというと、実はぼくの中にもそうした勇気を持たない弱さはあるんです。それは誰が弱い、誰が強い、ということではなくて、ぼくらの中に何か絶対者を立てて、世界なら世界というものの意味を保証してもらうとか、根源を立てて安心したいという気持ちがあると思うんです。しかし、これがクセノフォビー(異なるものへの嫌悪)とか、異なるものの抹殺の論理に結びついてしまわないか、という問題があります。
実は<文化という記号>の無根拠性にこそ、これを見極めるところにこそ、一つのドンデンが用意されている。後で触れると思いますが、ぼくらの「読み=書き=生きる」行為における<発見>モデルから<解釈モデル>、更には<創造モデル>への転換です。「事実は解釈でしかない」というニーチェ*の言葉がありますが、解釈モデルですらもない。解釈ということは創造すること以外の何物でもないからです。
そういう考え方で、いわゆるレーベンというテクストを生産物として固定しないで、生成あるいは生産性*としてとらえていこうというのが、ぼくの立場です。ただ、一切の根拠はない、とか、文化は共同幻想だ、とか、人間界は空だ、などと言うだけではダメなのです。それが「なぜか」を執拗に問う必要がある。言語の解明からアニマル・シンボリクム*としての人間存在を問題にする所以ですね。

*非在 文化は一定の構造、制度として存在しているが、それには別に強い必然がない。たとえば動物の帰巣本能などは、生理的に決定されているが、人間が故郷をおもう度合いは、ひとによってまちまちで、故郷から遠く離れて、苦にしないで生きていくひともいる。文化の構造は本能のような強い必然性をもたない。
*用具連関 ハイデガー用語。用在性(Zuhandenheit)とも言う。人間が世界の中で様々な関心を持って生きていることによって、潜在的に種々の用具性として現れてくるような物のあり方。たとえば、机は、読書の場所として、文章を書く所として、高い場所に手をとどかせるための台として、現れる。
*非在の現前 われわれは過去の失敗を思い悩み、未来の不確定さに不安を感じる。つまり、今ここで知覚されないものに対しても、今ここに現前しているのと同等の意味づけを行っている。これが非在の現前である。
*実体論 人間の主観にかかわりなくものや構造がそれ自体として存在すると考える立場。実体論に対しては関係論が対立する考え方になる。
*レーベン 生物にのみ固有の属性。いわゆる生命。
*生成 たとえば、赤ん坊のときは、ばくぜんとした情緒的ひろがりの<世界>が存在するが、大人になるにしたがって、はっきりした輪郭と複雑な意味に充ちた<世界>が出てくる。この場合、双方ともそれなりの<世界>だと見なせば、客観的な世界があって、それ自体として存在するのではなく、<世界>は、主観の形に応じて<生成>してくるのだと考えられる。
*柄谷行人 一九四一~ 批評家。「<意識>と<自然> --漱石試論」で一九六九年「群像」新人文学賞受賞。以降、『意味という病』(七五)、『マルクスその可能性の中心』(七八)、『日本近代文学の起源』(八〇)、『批評とポスト・モダン』(八五)と問題作を発表。詳しくは、本シリーズ第一巻『ポスト・モダニズム批判』を参照されたい。
*ニーチェ 一八四四~一九〇〇 独の哲学者。二〇世紀の危機的状況の到来を身を持って予感し、思索した。現代思想の源泉点でもある。
*生産性 生産そのもの。働くことを止めない状態。
*アニマル・シンボリクム シンボル化能力を持った動物、すなわち人間のこと。「もはや<モノ>に反応することを忘れて過剰としての<意味=現象>にのみ反応するアニマル・シンボリクム」(『文化のフェティシズム』)
    --丸山圭三郎・竹田青嗣『<現在>との対話2 記号学批判/<非在>の根拠』(作品社、一九八五年)。

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すでに宇治家参去のGWは終了しましたが、久し振りに江ノ島で学生時代を回顧しましたので、学生時代に良く読んだ、丸山圭三郎(1933-1993)の話でも。

友人からの宣教活動で、丸山圭三郎とその元ネタとしてのソシュールを読み始めたのは大学一年の秋だったと思う。それまで無縁だったフランス現代思想への導きとなるひとつのきっかけになったと思います。

丸山圭三郎といえば、日本におけるソシュール言語学研究の第一人者にして、丸山言語哲学とも呼ばれる独自の思想を打ち出した学者です。哲学・学者としてではなく、哲学者として、考えつづけたという意味では、日本人のなかでは、希有な存在といえると思います。

ほとんどの文化や思想は実体主義に基づいているのではないだろうか--。
丸山は言語学の観点から実体主義を解体し、そこからの転回を試みしたが、その手法の鮮やかには、まさに、“目からウロコ(使徒言行録)”です。

森巣博とはアプローチが違うと思いますが、文化をはじめとする、現在進行中のこの世界の物語を、静止化させ、不動のものと措定させる傾向への、存在論的暴露として、むさぼるように読んだ記憶があります。

文化や文明(あるいは国民国家体制)が幻想に過ぎないとすれば幻想にすぎないわけですが、その指摘だけでは、生きていくことは不可能である。であるとすれば、その幻想とどういう関係を結んでいくのかが重要になってくる。

狸に莫迦されていることを知っていながら、そのことを狸に見破られないようにするのが賢明でしょうかね?

そういえば、市井の職場に、申し訳のない言い方ですが、仕事のできないMgrさんがひとりいます。かけ声だけは大きいのですが、何もしないし、何もできない御仁です。定年前だから仕方がないのかもしれませんが……、いつも、取締役気取りで困ります。
皆からは「裸の王様」と揶揄されていますが、まともとに話し合うと疲れます。だから、皆、あえて彼のテーブルに着きます。そして話をきいてから、デタラメな作業指示を出される前に、こちらで先に処理していく、そうしたヤリクリで流しています。
本質変革ではない、自己防衛と言われればそれまでですが、革命の流血は避けたいモノですから……。

ただそのことが狸には見破られないようにしておかないとマズイですね。
丸山圭三郎についてはまたおいおい話していこうと思いますが、幻想を実体と説き、強要するあり方にはすこし違和感と疲れを感じるある日の宇治家参去でした。

Ferdinand_de_saussure

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存在の醸す恐怖〔おぞましさ〕

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 現代哲学における存在論の復興は、外的世界の実在とはもはやいかなる関係ももってはいない。この存在論的探究は、外的世界の実在と認識に対する優位性とを前提的に肯定してはいないのだ。この探求が肯定しているのは、人間の精神性の本質的事態が、世界を構成する諸事物と私たちとの関係のうちにあるのではなく、人間の精神性は、実存しているという事実からしてすでに、存在があるというこの事実、この単純であからさまな事実と、私たちがとり結んでいるある関係によって規定されている、ということである。この関係は同語反復の粉飾などではなく、ひとつの出来事なのであり、その現実性とある意味で意想外なその性格とは、この出来事を成就する不安のなかに告知されている。存在にともなう悪、観念論哲学における質料の悪は、存在することの禍悪となる。
 自我とその実存との関係が気懸かりになり、実存が引き受けねばならぬ重荷のようにして現れるといった事態は、哲学的分析が通常は心理学に委ねてきたある種の状況のなかでことのほか切実なものとなる。私たちが取り組もうとしているのはそうした状況、つまり疲労や倦怠である。
 私たちの考察が、その発端において少なからず--存在論の概念や人間が存在ととり結ぶ関係の概念に関して--マルチン・ハイデガーの哲学に触発されたものだというのが事実だとしても、この考察は、ハイデガー哲学の風土と訣別するという深い欲求に促されると同時に、しかしながらまた、この風土からハイデガー以前ともいうべき哲学の方には抜け出ることはできまいという確信に導かれている。
 人間の実存に関するハイデガーの解釈を司っているのは、実存を脱自(extase)とみなす考え方、つまりはただ「終わりへと向かう」脱自としてのみ可能なものとみなす考え方であり、その結果、実存の悲劇性をこの有限性のうちに、そして人間が実存するにつれて徐々に身を投ずるこの無のうちに位置づける考え方であるように思われる。無の了解としての不安が存在の了解であるのは、存在それ自体が無によって規定されるかぎりでのことである。だとすれば不安のない存在は無限の存在だということになるのだろうが、それもこの概念が矛盾していないとしてのことである。存在と無の弁証法が依然ハイデガーの存在論を支配しており、そこでは悪はあいかわらず欠陥つまり欠乏であり、存在の欠如すなわち無なのである。
 私たちが問い質(ただ)してみようと思うのは、悪を欠如だとするこの観念である。存在はみずからの限界と無以外に悪性を抱えてはいないだろうか。存在の積極性そのものうちに何かしら根本的な禍悪があるのではないだろうか。不安を前にしての不安--存在の醸す恐怖〔おぞましさ〕--は、死を前にしての不安と同じく根源的なのではないだろうか。存在することの恐怖は、存在にとっての恐怖と同じく根源的なのではないだろうか。いや、それよりいっそう根源的なのではないだろうか。というのも後者は前者によって説明しうるだろうから。ハイデガー哲学のなかでは等価であったり連携していたりする存在と無は、さらに一般的な実存という事実のいくつかの相なのではないだろうか。この実存は、もはやいかなる意味でも無によって構成されたものではなく、私たちが<ある>という事実と呼び、実存哲学の出発点である主観的実存とかつての実在論のこととする客観的実存とが混じり合う、より根源的な事実なのだ。私たちが無や死を軽々しく受けとめることができず、無や死を前にして身震いするのは、<ある>が私たちを全面的に捉えているからである。無に対するおそれは、ただ私たちの存在への関わり合いの深さを示すだけである。実存が死をもっても解消しえないある悲劇性を秘めているのは、その有限性のためではなく、実存それ自体のためなのだ。
    --E.レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』(講談社学術文庫、1996年)。

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レヴィナスによれば「存在」とは「悪」である。
唐突な言い方だが、上にも書いてある。

ハイデガーによれば、「存在」とはあくまで「存在者の存在」である。しかしレヴィナスは、「存在者の存在」の「存在」を練り上げるハイデガーの姿勢にどうも違和感を感じているようだ。『存在と時間』を紐解くまでもなく、ハイデガーにおいては、「存在」への問いの練り上げそれ事態が「存在」開示に通じる道である。しかし、ハイデガーが不問に付した「存在者の存在の優位」という事態をレヴィナスは問題にする。

「存在者の存在の優位」という事態は、レヴィナスにおいて何を意味しているのだろうか。それは、「存在者の存在の優位」するがゆえの、個別の存在者の「存在者性」の喪失である。存在者の「存在者性」が失われてしまえば、(本来交換不可能であるはずの)「存在者性」が失われつぃまうがゆえに、誰でもよい、主語の欠如した「存在する」ものだけがうかびあがる。それは存在することの非人称性という事態である。それをレヴィナスは<ある(il y a)>と呼ぶ。

主体がその主体性を喪失するとき、ひとはだれでもない「ひと」となり非人称性にのみこまれる。この事態は、苦痛として、悲惨として、貧しさとして、あるいは暴力として、主体のない受動性の中で体験される出来事である。

つまり、“悪”として体験されうる出来事である。

主語の欠如したまま「存在」しつづける<ある>は無限である。主語ないがゆえに、遍く広がるのである。その意味でそれは「欠如」としての「悪」ではない。死すら拒否される「存在する」の横溢である。

まさにレヴィナスによれば、「存在」とは「悪」である。
従来、西洋形而上学の伝統は、「存在」の側につねに「善」を思い描いてきた。その意味で、レヴィナスの発想は、形而上学の伝統の根本的な組み替え要求するものである。形而上学をめぐる仮想された理想主義と訣別しながらも、なお「生きる」こと、そして「生きる人」を肯定する力強さがレヴィナスにはあるのかもしれません。

さて--稚拙なレヴィナス論は暫し休閑。

本日(正確には昨日より)市井の仕事再開で、GWも終了。
学問で食えないところがいささかサビシイ部分ですが、そうした「存在者性」を自覚しつつ、業務にとりくまざるを得ません。

今日は月末の棚卸しがあり、すこしキツイことが予想されていたのですが、出勤すると、よく働いてくれる学生のバイトくんが忌引で突発休。しかたなく、本日休みの別のメンバーへ急遽出勤要請を依頼してなんとか乗り切りました。

ま、そのとき、ふと思ったわけですが、忌引の彼は御祖母様が亡くなったとのことだそうです。そのこと事態には冥福を祈りたいわけですが、そのことを思うよりも先に、宇治家参去としては……、

「今日の業務はヤバイなア、どうするか?」--

そのことを心配しておりました。
またそのことをめぐり自己と自己が対話しているというか、観察しているのも把握しておりましたが、「死」を巡る倫理の立ち上がりの困難さを痛感した一コマでした。

おそらく、彼は……、

「今日、休むと職場も大変だよなア、やっぱ出ようか!」

とはならなかったハズ。

倫理学を説く身ではありますが、どうも道学先生とはほど遠い、徳のない・宇治家参去ですので、「存在」における「悪」を実感しておかないと、身動き取れませんね。

欠如を悪と想定しがちな通念(西洋形而上学の前提)から目覚めさせてくれるレヴィナスの冷や水は、どこか心地よい。

そういえば、実父の葬式のおり、親類から次のように言われたことがあります。

「参列者の殆どは、いわばつき合いで来ているから、葬儀そのものには関心がない。だからきょろきょろする。恥を見せぬよう、清新な環境と立ち居振る舞いを」

……こう助言された記憶があります。

そりゃそうだな、と、自宅を清め、上等なドレスシャツに着替えた記憶です。

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