« 甘ったれ、横着、邪悪な精神。 | トップページ | さらば新潟 »

「それでは説明してみたまえ」

01_dscn7585

02_dscn7620

-----

類似のもの--理解することと説明すること
 すでに述べたように、厳密な意味での思考は、理解し説明することを目ざしている。これらの動詞を正確には何と理解すべきであろうか。

<語源的に> これらの動詞は相異なる二つのイメージを呼び起こす。理解する〔comprendre〕とは、共に捉える〔prehendere cum〕ことである。即ち、部分を全体と共に、結果を原因と共に、行動を動機と共に、結論を前提と共に、捉えるというわけである。これに反して、説明する〔expliquer〕とは、すぐには現われて来ないものを現われさせるように、包みこまれて〔implicatum〕いるものを繰り拡げ、展開し、のばすことである。--これらのイメージは相異なる心的作用を暗に示している。即ち、折り曲げられたものの内側へのまなざしは分析を呼び起こし、幾多の事物を見渡す一瞥は綜合を呼び起こす。
<普通の用法で> ここ数十年前までは、<<説明する>>と<<理解する>>とは殆ど同義であり、同じ心の作用の二つの相を表わしていた。直観によって理解し、次に諸々の論弁的(デイスキユルシフ)なやり方で説明する、というわけである。だから説明とは、理解したことの理性的確認である。理解したと言っている生徒に対して、数学の教師がしばしば「それでは説明してみたまえ」と言うのはそのためである。だから、このようなものとして解された説明と理解とは、二つの補足しあう過程と見なされる。

<現代の対立意見> 人文諸科学の方法を自然諸科学の方法と同一線上に並べようとした前世代の実証主義(コント、デュルケム)に対して、フランスの新歴史学派(L・フェーヴル、I・マルーなど)の激しい反撥があったが、その結果として現在では、ドイツの哲学者ディルタイ(一八三三-一九一一)がうち立てた verstehen 〔理解する〕と erklären 〔説明する〕との間の区分が一般的に行きわたるようになった。「我々は自然を説明し、心的生活を理解する」(『精神の世界』)というのである。
我々は、科学者に法則を定式化させる一致や継起の関係をうち立てることによって、ついで、そのようにうち立てられた法則に特殊的事実を結びつけることによって、自然を説明する。
 我々は人間や心的事象を、正真正銘の経験を通して、つまり思考により相手の立場に立つことによって理解する。理解は、一人称の認識形式であって、説明の場合のように三人称の認識形式ではない。
 このような区別は、科学的実証主義の支持者たちによって反対される。彼らは、この区別が認識されるものに代えて経験されるものを置くものだとして、非難する。しかし、正真正銘の経験が同時に思考された経験、しかも正真正銘なるがゆえにいっそう十分に思考された経験である、ということは全く明らかである。
 それでもやはり、理解が可能なところ、つまり人間諸科学では、理科には常に説明が混ざり合い、また逆に説明も常に理解によって裏づけられる、ということは真である。やがて次の第二巻の方法論の部分で述べるように、説明と理解とは補い合うのである。
    --ポール・フルキエ(中村雄二郎・福居純訳)『哲学講義I 認識I』(ちくま学芸文庫、1997年)。

-----

日本の高等学校に相当する、フランスの後期中等教育機関をリセ(Lycée)と呼ぶ。3年制の学業過程と、2年制の職業訓練過程に分別されるが、その哲学科の教科書として使われているのが、冒頭に引用した『哲学講義』(“cours de philosophie”)である。

ちょうど、新年度の哲学の講義から一ヶ月過ぎましたが、年度初頭に一度は読み直す書物です。およそ似るに似ない科目であるにもかかわらず、日本の高等学校で相当する科目を指摘せよといわれれば、いわゆる社会科学系の科目としての「倫理」である思います。

ここでは、人名と概念をクロニクルに覚えることが、まずもって第一の課題とされるわけですが、お国違えば教科書も大きく違うものです。

ゆとり教育以降、大学における学力低下も叫ばれていますが、そうした問題群以前の、“考える”ということを等閑視ししてきた本邦の教育界のドン詰まりがあらわになってきた……そんなかんじがします。

この教科書は、もちろん高等学校の学生向けに作られていますが、よくできています。
カントのいう「哲学を学ぶのではなく、哲学することを学ぶ」のが哲学であるとすれば、こうした考える、概念を整理する、論理とは何か……そうしたことを積み上げていくことが本当に必要なのでは?と実感せざるを得ません。

大人にこそ読んでほしい一冊です。

さ、今日は考えすぎたので、一杯飲んで寝ます。

ちなみに蛇足ながら……フランスの高等学校はリセ(Lycée)と呼ばれますが、いうまでもなく、アリストテレスが創設した学園のリュケイオン(Lykeion)にちなんで名付けられています。

女性哲学者として名高いシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)の恩師として知られる、あの『幸福論』のアランも、リセの教師でした。

そのへんから手をいれていかないと、学校は工場になってしまいますね。

Simoneweil2

Book 哲学講義〈1〉―認識〈1〉 (ちくま学芸文庫)

著者:ポール フルキエ
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 甘ったれ、横着、邪悪な精神。 | トップページ | さらば新潟 »

哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「それでは説明してみたまえ」:

» 保育士のやりがい [保育士のやりがい]
保育士のやりがいについての議論です。よろしくおねがいします。 [続きを読む]

受信: 2008年5月 8日 (木) 11時03分

« 甘ったれ、横着、邪悪な精神。 | トップページ | さらば新潟 »