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生活世界そのものへの反省

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二 政治的・社会的生活の地平における人間行為

 人間は、生活様式を自分で決めることができるだけでなく、多元的な欠陥と世界開放性がもたらす多様な危険に対して、そうせざるを得ない。人間には、本能によって与えられた固定的な行動パターンというものはない。また、ある種の行動の素質や才能、ある程度の幅しかもたないが、人間は、特定の行動様式だけに拘束されているわけではない。まさにこういう理由から人間は、生物として成長すれば、それだけで生存できたり、善き生活ができる具体的な人間になるわけではないのである。

 人間は自ら、行為可能性の広範な範囲にわたって、ある種の行為パターンを発展させ、実現しなければならない。つまり、生命の必要や問題に応え、しかも単に飢え、渇き、睡眠、セックスという生理的な欲求だけでなく、天候とか他の動物や他の人間から身を守る必要に応じられるような行動のパターンと、とりわけ自分自身による内的な脅威を除くという問題に応え得る行動を実現しなければならない。

 このような問題の大部分は、他の人間との共同作業でしか解決できない。これ以外にも、共同作業でやれば、もっとうまく、安全かつ容易に解決できるものがある。出産や育児、衣食住や経済的物質の調達および内外からの危険の防止の場合がそうである。共同作業で解決する場合は、その解決は個人だけのものでなく(政治的)社会的な活動である。

 生命の必要、関心ならびに問題の解決は、個人やグループ、さらには全人類にとっても重要なことであり、個人が努力しても多少は偶然的なものであり、当人や他の人々を危険にさらしがちでもあるために、問題解決のための努力を個人から十分に除いてやらなければならない。そこで、問題の解決を、永続的な解決に仕上げる必要がある。これが可能になるのは、各個人や個別的状況を超えて妥当する社会的な行動パターン、すなわち制度の形である。

 一時的でない超個人的な行動パターンの総体が、人間の制度的、政治的・社会的な生活世界を形成する。これは、善いものと適切なものと正しいものの統一、つまり、慣習と習俗と法との元来分かちがたい統一である。このさい、慣習や習俗や法は広い意味で理解しておかなければならない。慣習や習俗の法は行為の規則、価値基準、制度を表している。これらは、歴史的・社会的に生成しかつ変化するが、個人の恣意とは完全に引き離されたものである。ある意味では言語もそれに入れてよい。言語には、自然的世界や社会的世界や自分自身と取り組む人間特有の様式、認識や思想が含まれているからである。認識や思想は、歴史的に変化するが、個人を超えている限りで、個人には規範的に与えられている永続的な形象である。

 人間の制度的(客観的)な生活空間である多種多様な政治的・社会的生活世界が存在していなければ、新生児の生存も、子供の成長も、また成人にとっての心理的、社会的、政治的、自然的な危険を克服することも不可能である。要するに、生活世界がなければ、生存も不可能であり、ましてや長期にわたる快適な善き生活などまったく不可能である。それゆえ、本章表題のテーゼを致命的に極限し、道徳だけに切り詰める主観的な解釈とも反対に、次のことが重要なのだ。それはつまり、(無制約的な善によってまだ確定されていない広い意味での)政治的・社会的倫理が、人間行為の地平なのだということである。ここで地平というのは、原理的に世界に対して開かれている空間におけるあらゆる具体的行為の行為空間を、歴史的・社会的に限定する視野という意味においてである。あらゆる人間行為はつねに、習俗や制度、とくに法や国家によってすでに規定されている範囲で行われる。行為がなされるのは、個人の裁量を超えた規範的な生活世界においてであり、しかもこの生活世界に属するものは、もともと、狭い意味で倫理的、社会的、法的な命令や禁止だけではない。むしろ--ニーチェが言っているように「ありとあらゆる養生や健康法、結婚、濃厚、戦争、弁舌や沈黙、人々や神との交わり」(『曙光』第一巻、九節)が、生活世界に属しているのである。

 たしかに、客観的な倫理は、人類の歴史を通じてさまざまな発展を遂げてきた。規範的義務にも、内容ばかりでなく<方法論的に>も変化したものが多い。超個人的、規範的な生活世界から、個人的な恣意の領域に移しかえられたものもある。また、礼儀作法や慣習や習俗、あるいは法のうちに区分されたものもある。これらの広い領域のどこにおいても、さらに細かな区分がなされている。そのような場合には、補足や修正が加えられている。したがって、役割や機能を失った義務もあれば、力を失っていない義務もある。しかしながら、法や国家、そして言うまでもなく、多様な社会慣習が示しているように、人間行為が規範的な生活世界において行われるという根本的事実は、変わることなく存在している。上に述べた人間存在の一般的条件を見れば、この根本的事実が消え去ろうとは考えられない。

    --オトフリート・ヘッフェ(青木隆嘉訳)『倫理・政治的ディスクール 哲学的基礎・政治倫理・生命倫理』(法政大学出版局、1991年)。

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いつもの如く長い冒頭です。

スイスのフライブルク大学で、倫理学、社会哲学、法哲学を講じ、精力的に活躍しているオトフリート・ヘッフェ(Otfried Höffe1943-)の、いわば「倫理学序説」とも表現できる著作の一節から。

学生の頃、たとえば、A教授が「社会学」という科目の講座を行う際、教科書というか参考書で、そのA教授が編んだ教材が使われるというとき、なんとなく違和感というかむず痒さを感じていました。

いわく……商売するなよ!

……みたいな部分です。

しかし

いざ逆の立場になってみると、自分で組み立てる授業の場合、もちろん、いろんな参考教材を利用したり、目を通したりすることは可能なのですが、細かい部分では、自分で編んだ教材や、自分の学問の師匠筋にあたるような人物の著作を利用する方がはるかに組み立てやすいし、講義の進行がスムーズにいくことを身を持って痛感するようになりました。

もちろん、それだけで総てをカバーすることは不可能ですので、それを主線におきつつ、様々な文献を指示し、読ませて、ふくらませていくという作業が、実はそれよりも重要なわけですが、そうした部分が実際にはあります。

さて、上の著作の本の数頁分ですが、倫理学のエッセンスが、深い哲学的洞察を基礎にしながら語られています。

西洋において、倫理という言葉は、ギリシア語の「エートス(Ethos, θος, θος)」に由来します。エートスとは、もともと「いつもの場所」を意味し、動物の「住みか」を意味していたといわれます。転じて「習慣・習俗」を意味する言葉として用いられ、ひとはそれを身につけることによって安心して暮らしていくことができると考えられた概念です。いうなれば、人はエートスによって他の人々と協同して生活できると考えられたわけです。

また道徳を意味する「モラル(moral)」という言葉も、ラテン語の「モレス(mores)」に由来し、これも「習慣・習俗」を意味する言葉です。こうしてみると習慣や習俗が、倫理の語源だとすれば、人間が本来、社会的存在(共同体的存在)であることを指し示しているとも言えます。他の生き物と違って、先鋭化した器官をもつわけではない。2キロ先まで見通したり、匂いをかいだりすることが不可能です。いわば、生物学的には、ある程度の幅しかもたないという「多元的な欠陥」ゆえに、協同して生きてゆかざるを得ない……そうした部分があるのでしょう。だからこそ、「世界開放性がもたらす多様な危険」に対して、そのあり方を見つめ直さざるを得ない。そこに倫理が問題となる(もちろん、(自分自身から自分自身に対する態度としての)人間のあり方を規定する側面としての倫理も考えざるをえませんが、ここではひとまず措きます)。

さて、人間は協同して対処せざるを得ない、自然や人的環境という、生活世界へ投げ出されているが故に、一時的でない超個人的な行動パターンの総体が、人間の制度的、政治的・社会的な生活世界を形成する。その意味でそうした生活世界そのものへの反省もあらわれてくるわけで、ふたたび倫理の課題として、法との関係や、制度のあり方、そして個人と共同体とのあり方が検討にさらされる。

生活世界の中で、規範を検討する――そこに倫理学の難点と醍醐味があるのかもしれません。客観的な倫理(規範倫理)といっても、人類の歴史という制約を受けざるを得ない。また方法論や義務に関しても、補足や修正が加えられる場合も多々ある。その意味では、倫理学とは何かできあがった学問というよりも、ひとびとがこれまで積み上げてきた思考や制度、ものやひとのあり方に関して、現実に検討を絶え間なく加えていくという、動的な学問なのかもしれません。

はじめて倫理学に関するまとまった著作(『ニコマコス倫理学』)を著したのはアリストテレスです。彼は師のプラトンのイデア論を批判的に継承する中で、存在者を動態的にみる視点(可能態から現実態への生成)をもちこみ、そのなかで精緻な存在分析を試みますが、そうしたものの見方と密接に関わっているのかもしれません。

さて、教科書の話から、ながくそれてしまいましたが、要点としては、このヘッフェの著作はよく(善く)できています。「訳者あとがき」にはつぎのとおりあります。

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 現実の生活世界が平和や飢餓、原子力、医療、人権などをめぐる社会的、政治的な諸問題が山積している状況において、実践哲学がそのような自己閉塞のままであっていいはずはない。このれが、ヘッフェの出発点にある発想であり、このため彼は、環境保護、医療倫理、遺伝子操作、人体実験について具体的に考察し、経済体制の正義、教育における根本規範、民主制における抵抗権を論ずる。

     ――前掲書。

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原著は1981年に出版されていますが、ヘッフェが取り上げている以上に事態は進展(?)しており、資料についても、もっと新らしいものを材料に議論すべきでは?との感も否めなくもないが、問題意識や基本的な哲学的な構えは古くなく、常に新しい光彩を放っている。

そのうちになることでしょうが……(なればいいのですが)……、大文字の「倫理学」もしくは「倫理学概論」というような概論・入門的講座を終えた学生を対象にするような「倫理学基礎演習」とか「哲学倫理学特殊演習1」学問を担当するようにでもなれば、是非使いたい教科書の一つだと思っています。主軸に、このヘッフェの手になる、「倫理学序説」を措きながら、昨今議論されている現代の倫理の課題と問題点の資料や、アリストテレス、カントの著作の抜粋にも目を通しながら、「倫理学」を一歩深める講座をやってみたいなアなどと実感した本日でした。

さて、最後に例の如くですが、ヘッフェいわく「役割や機能を失った義務もあれば、力を失っていない義務もある」。

だとすれば、現実をみつめなおすなかで、これまで万古不変といわれたようなあり方でも、月並みですが、果たしてそれが妥当するのかどうか議論してみる必要があるのかもしれません。これはおおきな制度や国家というシステムだけに限られたものではありません。たとえば、会社のなかでも、家庭という共同体においても、これまではそれが所与に“あたり前”とされてきたことが、今後もこのままでいいのかどうか、守るにせよ、変更するにせよ、ときどき“点検”は必要かもしれません。

うちで今困っているのは、もうじき到来する“母の日”です。

実母・義母への贈り物はもう準備し、手配済みですが、細君までもが、ここ2年くらい、執拗に、私に対して“母の日”の贈り物を要求してくるのです。

私からすると彼女は“細君”であり“母”ではありません。

今年はどうしましょうかね?

そこで最後に一発!

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 ローマ誕生のときからくり返し述べているように、また近くは「ローマ連合」のところでも述べたように、ローマ人は自国の市民権を他国人に与えるのに、大変に鷹揚であった民族である。それは、ローマの軍団がローマ市民権所有者のみで構成されていたからでもあった。おかげで、アテネやスパルタの軍事力は万の単位にとどまったのに、ローマは十万単位の兵力をもつことができた。

 また、全盛期のアテネでも、両親ともがアテネ人でないとアテネの市民権は取得できない決まりになっており、スパルタでも同様だったが、ローマではずいぶんと後になるまで、しばらくの間ローマに住むだけで市民権を取得できたのである。反対に、アテネでは、長年アテネに住み学校まで開いてアテネの文化の向上につくしたアリストテレスでも、一生市民権はもっていなかった。

 市民権というものに対するギリシア人とローマ人の考え方のちがいは、奴隷の処遇にも示されている。

 ギリシアでは、奴隷は奴隷のままで一生を終わるのが普通であったのに、ローマの奴隷には、別の道が開かれていた。

 ギリシアの哲学者アリストテレスは、奴隷を家畜と比較して次のように書いている。

 「有用さにおいては、両者の間の差は少ない。奴隷も家畜も、彼らの肉体によってわれわれ人間に結うようであることでは同じなのだから」

 アリストテレスよりは二百年以上も前に、ローマ六代目の王セルヴィス・トゥリウスは、次のように言っている。彼自身が奴隷出身ではないかと噂されたという理由もあったにしてもである。

 「奴隷と自由民のちがいは、先天的なものによるのではなく、生を受けて後に出会った運命のちがいであるにすぎない」

 このローマでは、長年の献身的な奉仕に主人が報いるとか、または貯めこんだ金で買ったりして自由を回復できた奴隷は、解放奴隷と呼ばれ、彼らの子の代になればローマ市民権を取得できた。市民権さえ手中にすれば、以後の社会での出世はその人の才能と運しだいである。反対にアテネでは、あのペリクレスでさえ、再婚の相手がアテネ人でなかったために、その結婚から生まれた息子はアテネ市民権を得られず、特例を認めてもらってようやくアテネの市民の資格を得られたという例もある。

 ローマ人の市民権に対する考え方の開放性は、二重市民権、つまり二重国籍だが、それさえ認めた点にも示されている。ローマ連合内の同盟国の誰かが、ローマの市民権も取得したいと思えば、この時期ではそれは完全に認められていた。しかもその人は、自分が属している地方の市民権を捨てる必要もないのである。ナポリ市民でありながら、ローマ市民にもなれるわけだ。この二重市民権の制度もまた、同時代の他国では類を見ない、ローマ独自のシステムであった。

 紀元前七五三年、ローマを建国したロムルスが百人の長老を召集したのが、ローマ元老院のはじまりであった。この百人が率いる家族が、ローマ貴族のはしりであったとされている。

 それが、五百年後には五分の一に減っている。死に絶えたり後継男子に恵まれなかったりして、消滅してしまったのだ。ただし、その間元老院議員の数は三百人に増員されているから、元老院という共和政ローマの心臓部を警世するエリートたちに占める建国以来の名門貴族の割合は、十五分の一に減ってしまったということになる。これほどの現象は、その間ローマがせざるをえなかった絶え間のない戦闘が、指導者階級に属するこれらの人々に、他の誰よりも多い犠牲を強いたからであろう。

 それでいて、ローマの支配階級に属する男たちの数は、増えこそすれ減っていない。政府の要職や元老院の議席を平民にも開放することで、ローマは常に新しい血を供給することができたからである。支配階級に入れる基本的な資格は、ただ単に、ローマ市民権の所有者、であったにすぎないのだから。

    --塩野七生『ローマ人の物語2 ローマは一日にして成らず[下]』(新潮文庫、平成十四年)。

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いつもながら長くてすいません。

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60 名無しの心子知らず sage 2008/02/05(火) 14:59:59 ID:tbBhh/0x子宮口9cmくらいあいてあとちょっとでいきめるってとこで痛くて叫んでしまった そしたらいつもクールな先生がクールに 「叫ぶと喉痛めますし力が逃げますよ」 と言われ我慢したのだが いざいきむ時に無意識にまた叫んでしまったのだが自分は間髪入れずに 「あ、すみません叫んじゃいました」 と、なぜか冷静に謝っていた... [続きを読む]

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» 小学校でやっと言葉も追いついた [育児・子育てファイト!]
128 名無しの心子知らず sage 2007/12/23(日) 16:31:23 ID:uWuU8mfP通りすがりです。 うちの子も言葉が物凄く遅くて、幼稚園に年中で入園しても赤ちゃん語。 何を言っているのか親でもよくわからなかった。 卒園する時には園の先生に 「○○ちゃん、入った時は真剣に施設に入れられたほうが・・・と思ったのですが 何とか卒園できましたね」 と言われたのですが、今は普通に女子高生してます。 小学校でやっと言葉�... [続きを読む]

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