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人類と言ったとき、君は誰かの顔が浮かぶか?

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書き殴ります。
少し飲んで書いています。
何かを中傷しようとか貶めようとかそういう発想ではありません。
自覚して動くしかないよってことかもしれません。

理想論かもしれません……
激論かもしれません……

何もやっていないひとにはついていけないし、やっているひとを揶揄するあり方には違和感がある。

臆病者と卑怯者は大嫌いです。

では……。

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団体が個人を世界へ導く時代は終わったのかもしれない。
団体は個人を導くのではなく啓発する機関であり権威であるにすぎない。

国家や地域社会、そして家庭と世代……。
制度宗教や政治権力、そして営利組織(会社)と同好の集い……。

平和を目指す国家。
平和を説く宗教。

平和の実現を模索する政治(権力)。
平和を説く家庭。

そうした組織や権威に“リードしてもらう”時代は終わったのかもしれない。
リードするのは組織や権威ではなく、代替不可能な自己自身である。

そういう実感があります。

お世話になった大先輩(芸術家)とのやりとりの中でつぎのようなフレーズが出てきました。

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議題は次の通り……。
戦争や平和の問題がクローズアップされると、平和を目指したり、説いている団体ないしは宗教が、そうした問題に対してなぜ黙っているんだ! ……との批判。

こういう声をよく聞く。
それに対してその芸術家は次のように感じたそうである。

>煽りに相対した時感じた気持ち悪さ。
>まだ、職業革命家的なヒロイズムに身を置いていられる感性に呆れた。

現実にそうしたところに所属する“心根の良い”若い学生は、「じゃ、どうすればいいんですか?」って聞いてきた……。

>「ちゃんと生きればいい」と答えた。
>彼は不服そうだった。

>この、『不服』感みたいな青年の感性がある種の勢力やベクトルに利用されちゃうんだな~みたいな危機感が私にはいつもある。

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批判するひとびとと、そしてそのことに対して「不服」を抱くひとびとに、何か違和感を感じるのは当の芸術家ひとりではあるまい。
宇治家参去もそのひとりである。

宇治家参去は芸術家に次のように答えた。

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ただ、いえることだけ要点を列挙すると……
①善意の青年の不満も理解できなくない。
②過去の革命運動の悲劇は、そうした心根に付けいった点がある。
③「じぁあどうすればいいんですか?」っていうなら、ひとりの人間としてお前が自己自身で動けばよい。お前が動けば時代はかわる。組織や団体に“自分のおもっている善”を託したり、その実現を夢想したりするなという点です、厳しい言い方ですが。
④平和も人類も抽象化してしまうと、実現不可能である。夏目漱石のいうように“足下を掘る”しかない。それが平和や人類へ至る道であり、一足飛びに平和や人類という流れ・発想パターンは観念の籠絡にすぎない。

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強烈な個人主義的な発想かもしれませんが、③でいうように「そう思うならお前がやれ」というのが常識的な導き方ではないかと思う。

冒頭でぼやいたように、宇治家参去自身は、団体とか組織とかに何かリードしてもらう時代は終わったと思っている。具体的指示(例えば平和にするための具体的行動)をア・プリオリな権威が、号令をかける時代は終わったのだと思う。

宗教もおなじかもしれない。
宗教的叡智は、具体的実践指示をだすのではなく、そうした自他のために動ける人間を薫育する力であり源泉にすぎない。
同じ発想(例えば平和にしよう)でも、その動き方は人によって違ってくるはずだ。

ただ、そう思うだけです。

思えば、戦前ドイツの国防軍のベルトのバックルには、国称である鷲の周りを“GOTT MIT UNS”という言葉が刻まれていた。「神我らと共にあり」とでも訳せばよいのでしょうか……。そのベルトを締め、国防軍は兵士たちはヨーロッパ各地を駆けめぐったものである。キリスト教批判などには毛頭意味がない。ひとつの例に過ぎないことだ。

端から言えば、具体的な実践事例をア・プリオリな権威は説くことができないのだ。

具体的な行動は、そう思った人が、その人自身の現場で、試行錯誤しながらやっていけばよい。そこで同じ志をもった人がふえていけば、それが波となる。
ただそれだけでよいのだ。

「不服」は「不服」なのでしょう。
でも行き場のない「不服」は単なる個人から団体へ向けられたルサンチマンに過ぎないし、そう思うなら、まさに「自分でやれ」です。
信念や団体や権威に“頼る”時代は終わったのである。
平和にしたいのなら、そう思う君がやれ。
厳しいようだが、そう考えざるをえない。
“頼る”のではなく平和を実現するのは“わたし”であり“君自身”にほかならない。

そして、具体的な実践論は、具体的な生活現場やその個人の個々人性を離れては存在できないし、一様に示されたあり方がすべてのひとにあてはまるわけでもない。

一足飛びに、「人類」を目指すマヤカシの“具体的な実践論”の指示こそ、現実にそぐわない抽象論の籠絡にすぎないのではないだろうか。

平和を求めている人類は、どこにいるのだろうか?
イラクにもいるだろう。
チベットにもいるだろう。
そしてミャンマーにもいるのだろう。

ひとは「平和のために」とか「人類のために」となってしまうと、どうしてもセンセーショナルな話題に飛びつきがちだ。

たしかにイラクにもチベットにもミャンマーにも平和を求め、苦しんでいる人は存在する。

だがしかし、同じように、宇治家参去のとなりにも、そして乗り合わせた電車で向かい合ったおじさんにも、そして、一緒に暮らす家族すらも「人類」の一人であり、平和を求め、それぞれが現実の場で苦しんでいる。

たぶん宇治家参去がイラクやチベットにいっても何もできないだろう。

かえって足を引っ張るにすぎない。

できるところから世界や平和に繋がる回路を開くしかないのだ。できるひとはいけばよい。できないひとは、できる現場でできることをやるのみだ。

人類はどこにでもいる。

不思議なことですが、人間は生きた顔をもった人間の中に、どうやら人類や平和の問題を感じにくいようにできているのかもしれません。あの『カラマーゾフの兄弟』の独白のように……。

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自分は人類を愛しているけれど、われながら自分に呆(あき)れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮らすことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしはわずか一昼夜のうちに立派な人を憎むようにさえなりかねない。ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、別の人は風邪をひいていて、のべつ洟(はな)をかむという理由だけで、わたしは憎みかねないのだ。わたしは人がほんのちょっとでも接触するだけで、その人たちの敵になってしまうのだろう。その代わりいつも、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対する私の愛はますます熱烈になってゆくのだ。
    --ドストエフスキー(原卓也訳)『カラマーゾフの兄弟(上)』新潮文庫、1978年。

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「平和」にしようと思った自己自身が動けばよいと思います。 そして自分自身にしかない環境への自分自身の関与こそ「平和」への第一歩である。

人類と言ったとき、君は誰かの顔が浮かぶか?
ただそれだけだ。

顔が浮かばないのに、動けるはずはないよな?
ただそれだけだ。

人類のために……大いに結構である。
平和のために……大いに結構である。
やりましょうよ!ともに。

最後にレヴィナスの言葉にでも耳を傾けよう。

-----

 自由な存在に加えられる暴力とは、もっとも一般的な意味での戦争である。戦争はたしかに労働とは異なっているけれども、この違いはただ単に、戦争の場合、屈服させるべき力が遥かに複雑であることや、これらの力および力の方式の予想不可能な性格によるのではない。違いは、行為者が自分の敵に対して新しい態度をとることにも由来しているのである。事実、そこでは敵もまた自由として認められているのではないだろうか。しかしこの自由は獣的で野蛮で、それは顔を欠いている。敵の自由は、力と化すことなき全体的抵抗たる顔としてではなく、私の恐怖やその恐怖を乗り越える勇気として私に与えられるのだ。勇気とは他なるものと対面する態度ではなく、自己に対する態度なのである。闘いの相手としての自由に対して、私は正面から近づくのではない。私は盲目的に飛びかかっていく。戦争は二つの実体の衝突でもなければ、二つの意図の衝突でもない。戦争とは、二つの実体、二つの意図のうちの一方が他方を不意うちや待ち伏せによって支配しようとする試みなのだ。戦争とは待ち伏せ、奇襲である。それは、他なるもののうちなる弱点にもとづいて、他なるものの実体を、その強く絶対的な点を捉えることである。戦争とはアキレスの踵を探し出すことなのだ。あるいは、戦争とは、集団と化した他者、敵たる集団を解体するために必要な労力を測定する技師のように、論理計算を行いながら、他者、つまり敵を検討することなのである。戦争における関係を描写すると以上のようになるのだが、かくして戦争は労働による暴力に近づくことになる。
 換言すれば、暴力的行為や圧政を特徴づけているのは、この行為の相手となる者を直視しないということなのだ。もっと正確に言えば、相手を正面に見いだすのではなく、この他なる自由を力として、野蛮なものとして理解し、他なるものの絶対性をその力と同一視してしまうことなのである。
 正面や顔とは一個の実在が私に対立しているということである。ただし、正面や顔としての現れによってではなく、その存在の仕方によって、こう言ってよければ、存在論的に対立しているのである。それはみずからの対立によって私に抵抗するのであって、その抵抗によって私に対立するのではない。つまり、この対立は私の自由と衝突することでみずからを示すのではなく、私の自由に先立つ対立であり、この対立が私の自由を発動させるのである。私がそれに対して対立するところのものではなく、私に対してみずから対立させるところのものなのだ。正面や顔が私に対して現前すること、そこにすでに、この対立は書き込まれている。それは私の介入に後続するものではまったくない。そうではなく、この対立はみずからが私のほうを向く限りにおいて、私と対立するのである。
 力による対立とは異なる顔の対立、それは敵意ではない。顔の対立とは平和的対立であり、しかもそこでは、平和は中断された戦争や、単に暴力が抑制されている状態などではまったくない。反対に、暴力とはこの対立を無視すること、存在の顔を無視すること、視線を避けること、斜めから垣間見ることに存するのである。顔に書き込まれた否、それもまさに顔が顔であるがゆえに顔に書き込まれた否は、このように斜めから見られることによって、敵対的な力と化したり、あるいは逆に、従順な力と化してしまう。
 暴力とは、あらゆる存在、あらゆる自由に大して斜めから近づきつつ働きかける仕方である。暴力とは不意打ちすることによって存在を捉え、その不在を起点として、厳密に言えば当の存在ならざるものを起点としてその存在を把握する仕方である。モノとの関係、モノに対する支配、モノを超えたこの存在様式の本義はまさしく、決して個体性としてのモノには、近づくことがないという点に存している。モノの個体性、このもの(トデ・ティ)、指示され、おのれ自身で存在しているように思えるものといえども、実を言うと、一般性、普遍的なもの、観念、法則を起点とすることによってしか接近できない。モノは概念を起点として与えられるのだ。
 暴力とはある存在への力の直接的行使であるかに見える。が、実際には暴力は、この存在を自分の計算の要素として、概念の特殊例として把握することで、存在の個体性をまったく拒否している。
 自由な存在に加えられる暴力とは、もっとも一般的な意味での戦争である。戦争はたしかに労働とは異なっているけれども、この違いはただ単に、戦争の場合、屈服させるべき力が遥かに複雑であることや、これらの力および力の方式の予想不可能な性格によるのではない。違いは、行為者が自分の敵に対して新しい態度をとることにも由来しているのである。事実、そこでは敵もまた自由として認められているのではないだろうか。しかしこの自由は獣的で野蛮で、それは顔を欠いている。敵の自由は、力と化すことなき全体的抵抗たる顔としてではなく、私の恐怖やその恐怖を乗り越える勇気として私に与えられるのだ。勇気とは他なるものと対面する態度では
なく、自己に対する態度なのである。闘いの相手としての自由に対して、私は正面から近づくのではない。私は盲目的に飛びかかっていく。戦争は二つの実体の衝突でもなければ、二つの意図の衝突でもない。戦争とは、二つの実体、二つの意図のうちの一方が他方を不意うちや待ち伏せによって支配しようとする試みなのだ。戦争とは待ち伏せ、奇襲である。それは、他なるもののうちなる弱点にもとづいて、他なるものの実体を、その強く絶対的な点を捉えることである。戦争とはアキレスの踵を探し出すことなのだ。あるいは、戦争とは、集団と化した他者、敵たる集団を解体するために必要な労力を測定する技師のように、論理計算を行いながら、他者、つま
り敵を検討することなのである。戦争における関係を描写すると以上のようになるのだが、かくして戦争は労働による暴力に近づくことになる。
 換言すれば、暴力的行為や圧政を特徴づけているのは、この行為の相手となる者を直視しないということなのだ。もっと正確に言えば、相手を正面に見いだすのではなく、この他なる自由を力として、野蛮なものとして理解し、他なるものの絶対性をその力と同一視してしまうことなのである。
 正面や顔とは一個の実在が私に対立しているということである。ただし、正面や顔としての現れによってではなく、その存在の仕方によって、こう言ってよければ、存在論的に対立しているのである。それはみずからの対立によって私に抵抗するのであって、その抵抗によって私に対立するのではない。つまり、この対立は私の自由と衝突することでみずからを示すのではなく、私の自由に先立つ対立であり、この対立が私の自由を発動させるのである。私がそれに対して対立するところのものではなく、私に対してみずから対立させるところのものなのだ。正面や顔が私に対して現前すること、そこにすでに、この対立は書き込まれている。それは私の介入に後
続するものではまったくない。そうではなく、この対立はみずからが私のほうを向く限りにおいて、私と対立するのである。
 力による対立とは異なる顔の対立、それは敵意ではない。顔の対立とは平和的対立であり、しかもそこでは、平和は中断された戦争や、単に暴力が抑制されている状態などではまったくない。反対に、暴力とはこの対立を無視すること、存在の顔を無視すること、視線を避けること、斜めから垣間見ることに存するのである。顔に書き込まれた否、それもまさに顔が顔であるがゆえに顔に書き込まれた否は、このように斜めから見られることによって、敵対的な力と化したり、あるいは逆に、従順な力と化してしまう。
 暴力とは、あらゆる存在、あらゆる自由に大して斜めから近づきつつ働きかける仕方である。暴力とは不意打ちすることによって存在を捉え、その不在を起点として、厳密に言えば当の存在ならざるものを起点としてその存在を把握する仕方である。モノとの関係、モノに対する支配、モノを超えたこの存在様式の本義はまさしく、決して個体性としてのモノには、近づくことがないという点に存している。モノの個体性、このもの(トデ・ティ)、指示され、おのれ自身で存在しているように思えるものといえども、実を言うと、一般性、普遍的なもの、観念、法則を起点とすることによってしか接近できない。モノは概念を起点として与えられるのだ。
 暴力とはある存在への力の直接的行使であるかに見える。が、実際には暴力は、この存在を自分の計算の要素として、概念の特殊例として把握することで、存在の個体性をまったく拒否している。
    --エマニュエル・レヴィナス(合田正人・谷口博史訳)「自由と命令」、『歴史の不測』(法政大学出版局、1997年)。

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しかし、まあ、なんでこんなに久し振りに書き殴ったのだろう?

原因や事実をどこか他人事とする物の見方……

そして安全地帯から、文句だけ言って自分を慰める、ないしは“正当化”するあり方……

そしてかけ声だけかける人……。

宇治家参去は、卑怯者と臆病者が大嫌いです。

慈悲は勇気が契機にならないと発動しないとか。

自分が現在存在する現場を大切にすることで人類へ繋がるはず。

誰にも顧みられませんが、ただ歩くのみ。

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