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存在の醸す恐怖〔おぞましさ〕

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 現代哲学における存在論の復興は、外的世界の実在とはもはやいかなる関係ももってはいない。この存在論的探究は、外的世界の実在と認識に対する優位性とを前提的に肯定してはいないのだ。この探求が肯定しているのは、人間の精神性の本質的事態が、世界を構成する諸事物と私たちとの関係のうちにあるのではなく、人間の精神性は、実存しているという事実からしてすでに、存在があるというこの事実、この単純であからさまな事実と、私たちがとり結んでいるある関係によって規定されている、ということである。この関係は同語反復の粉飾などではなく、ひとつの出来事なのであり、その現実性とある意味で意想外なその性格とは、この出来事を成就する不安のなかに告知されている。存在にともなう悪、観念論哲学における質料の悪は、存在することの禍悪となる。
 自我とその実存との関係が気懸かりになり、実存が引き受けねばならぬ重荷のようにして現れるといった事態は、哲学的分析が通常は心理学に委ねてきたある種の状況のなかでことのほか切実なものとなる。私たちが取り組もうとしているのはそうした状況、つまり疲労や倦怠である。
 私たちの考察が、その発端において少なからず--存在論の概念や人間が存在ととり結ぶ関係の概念に関して--マルチン・ハイデガーの哲学に触発されたものだというのが事実だとしても、この考察は、ハイデガー哲学の風土と訣別するという深い欲求に促されると同時に、しかしながらまた、この風土からハイデガー以前ともいうべき哲学の方には抜け出ることはできまいという確信に導かれている。
 人間の実存に関するハイデガーの解釈を司っているのは、実存を脱自(extase)とみなす考え方、つまりはただ「終わりへと向かう」脱自としてのみ可能なものとみなす考え方であり、その結果、実存の悲劇性をこの有限性のうちに、そして人間が実存するにつれて徐々に身を投ずるこの無のうちに位置づける考え方であるように思われる。無の了解としての不安が存在の了解であるのは、存在それ自体が無によって規定されるかぎりでのことである。だとすれば不安のない存在は無限の存在だということになるのだろうが、それもこの概念が矛盾していないとしてのことである。存在と無の弁証法が依然ハイデガーの存在論を支配しており、そこでは悪はあいかわらず欠陥つまり欠乏であり、存在の欠如すなわち無なのである。
 私たちが問い質(ただ)してみようと思うのは、悪を欠如だとするこの観念である。存在はみずからの限界と無以外に悪性を抱えてはいないだろうか。存在の積極性そのものうちに何かしら根本的な禍悪があるのではないだろうか。不安を前にしての不安--存在の醸す恐怖〔おぞましさ〕--は、死を前にしての不安と同じく根源的なのではないだろうか。存在することの恐怖は、存在にとっての恐怖と同じく根源的なのではないだろうか。いや、それよりいっそう根源的なのではないだろうか。というのも後者は前者によって説明しうるだろうから。ハイデガー哲学のなかでは等価であったり連携していたりする存在と無は、さらに一般的な実存という事実のいくつかの相なのではないだろうか。この実存は、もはやいかなる意味でも無によって構成されたものではなく、私たちが<ある>という事実と呼び、実存哲学の出発点である主観的実存とかつての実在論のこととする客観的実存とが混じり合う、より根源的な事実なのだ。私たちが無や死を軽々しく受けとめることができず、無や死を前にして身震いするのは、<ある>が私たちを全面的に捉えているからである。無に対するおそれは、ただ私たちの存在への関わり合いの深さを示すだけである。実存が死をもっても解消しえないある悲劇性を秘めているのは、その有限性のためではなく、実存それ自体のためなのだ。
    --E.レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』(講談社学術文庫、1996年)。

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レヴィナスによれば「存在」とは「悪」である。
唐突な言い方だが、上にも書いてある。

ハイデガーによれば、「存在」とはあくまで「存在者の存在」である。しかしレヴィナスは、「存在者の存在」の「存在」を練り上げるハイデガーの姿勢にどうも違和感を感じているようだ。『存在と時間』を紐解くまでもなく、ハイデガーにおいては、「存在」への問いの練り上げそれ事態が「存在」開示に通じる道である。しかし、ハイデガーが不問に付した「存在者の存在の優位」という事態をレヴィナスは問題にする。

「存在者の存在の優位」という事態は、レヴィナスにおいて何を意味しているのだろうか。それは、「存在者の存在の優位」するがゆえの、個別の存在者の「存在者性」の喪失である。存在者の「存在者性」が失われてしまえば、(本来交換不可能であるはずの)「存在者性」が失われつぃまうがゆえに、誰でもよい、主語の欠如した「存在する」ものだけがうかびあがる。それは存在することの非人称性という事態である。それをレヴィナスは<ある(il y a)>と呼ぶ。

主体がその主体性を喪失するとき、ひとはだれでもない「ひと」となり非人称性にのみこまれる。この事態は、苦痛として、悲惨として、貧しさとして、あるいは暴力として、主体のない受動性の中で体験される出来事である。

つまり、“悪”として体験されうる出来事である。

主語の欠如したまま「存在」しつづける<ある>は無限である。主語ないがゆえに、遍く広がるのである。その意味でそれは「欠如」としての「悪」ではない。死すら拒否される「存在する」の横溢である。

まさにレヴィナスによれば、「存在」とは「悪」である。
従来、西洋形而上学の伝統は、「存在」の側につねに「善」を思い描いてきた。その意味で、レヴィナスの発想は、形而上学の伝統の根本的な組み替え要求するものである。形而上学をめぐる仮想された理想主義と訣別しながらも、なお「生きる」こと、そして「生きる人」を肯定する力強さがレヴィナスにはあるのかもしれません。

さて--稚拙なレヴィナス論は暫し休閑。

本日(正確には昨日より)市井の仕事再開で、GWも終了。
学問で食えないところがいささかサビシイ部分ですが、そうした「存在者性」を自覚しつつ、業務にとりくまざるを得ません。

今日は月末の棚卸しがあり、すこしキツイことが予想されていたのですが、出勤すると、よく働いてくれる学生のバイトくんが忌引で突発休。しかたなく、本日休みの別のメンバーへ急遽出勤要請を依頼してなんとか乗り切りました。

ま、そのとき、ふと思ったわけですが、忌引の彼は御祖母様が亡くなったとのことだそうです。そのこと事態には冥福を祈りたいわけですが、そのことを思うよりも先に、宇治家参去としては……、

「今日の業務はヤバイなア、どうするか?」--

そのことを心配しておりました。
またそのことをめぐり自己と自己が対話しているというか、観察しているのも把握しておりましたが、「死」を巡る倫理の立ち上がりの困難さを痛感した一コマでした。

おそらく、彼は……、

「今日、休むと職場も大変だよなア、やっぱ出ようか!」

とはならなかったハズ。

倫理学を説く身ではありますが、どうも道学先生とはほど遠い、徳のない・宇治家参去ですので、「存在」における「悪」を実感しておかないと、身動き取れませんね。

欠如を悪と想定しがちな通念(西洋形而上学の前提)から目覚めさせてくれるレヴィナスの冷や水は、どこか心地よい。

そういえば、実父の葬式のおり、親類から次のように言われたことがあります。

「参列者の殆どは、いわばつき合いで来ているから、葬儀そのものには関心がない。だからきょろきょろする。恥を見せぬよう、清新な環境と立ち居振る舞いを」

……こう助言された記憶があります。

そりゃそうだな、と、自宅を清め、上等なドレスシャツに着替えた記憶です。

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