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無力であるべき哲学の“力に対する説得の勝利”

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月曜は例の如く、短大での哲学の講義を行う。
5月というのに蒸し暑い一日。久し振りにスターバックスで一杯。
喫煙者にとって鬼門のスターバックスですが、気候がよいので、そとのベンチで一服。
リフレッシュしていざ大学へ。
気温は20度オーバーですが、木陰にそよぐ風が心地よい。

さて……。
担当している講座は、立ち上げ当初から「なるべく“西洋哲学史I”とか“西洋哲学概論”のような内容ではなく、それを踏まえたうえで、考えたり、本を読みたくなるような講座にしてほしい」との意向があり、「哲学入門」は、いわゆるクロニクルな哲学史の解説というスタイルをとらず、哲学の主題と概要(哲学の史的流れ)をザァーっと第1部で行い、次いで第2部、残りの2/3ほどの回数をテーマ別で攻めるようにしています。例えば、キーワードを列挙するならば、文学、民主主義、暴力(と可能性としての非暴力)、人間主義(人間とは何か)、技術時代の科学と哲学、そして哲学の活かし方……だいたいそういうテーマで組み立てています。

言うなれば、人文諸科学と社会思想(史)の領域に渡って、哲学的知見の可能性を問う……そうした領域で講座を組み立てています。市販の教材が使えない分、自分で組み立てる苦労と悩みもありますが、先哲の言葉に耳を傾けながら、“個”としての自分自身も“全体”のなかで“考える”醍醐味を味わわせて頂いている喜びとその恩に感謝の日々であります。

本日は1部のしめくくり……実践と概念としての「対話」と「真理論」の可能性に関して、プラトンからアリストテレスの知的営み概観する。

ケセラセラと吹聴したソフィストたちの考え方に違和感を感じたソクラテスは、「だれにでもあてはまる(もしくはそう考えざるを得ない)ような普遍的な真理はあるはずだ」と考え、一冊の著作も遺さないかわりに、ひたすら“対話”に明け暮れた。

対話を行うことによってひとは、自分が何を知っているのか、そして何を知らないのか、そのことを把握できる。知らないからこそ、その対象への知への愛が芽生える。
知への愛……Philo-Sophia,ここに哲学の語源が存在する。

で……。
対話を行うことでソクラテスは自己自身の“無知の知”を把握するとともに、結果として、対話者の“無知”を暴き出すことになってしまった。ソクラテスの対話とは、まさに、当人を刺激してドクサ(臆見;真実に対して,当人の思い込みにすぎない事柄のこと)を知らしめる営みであり、そうしたソクラテスの姿を、当時のアテナイの人々は、“虻(あぶ)”のようだと表現した。

ソクラテスにその虚構が見破られたひとびとは、いわば当時の有名人たち……。虻に差されて黙っていようはずはない。差された痛みはルサンチマンと化し、“恥をかかされた”怨念は、やがてソクラテスを刑死へと導く。

ソクラテスは、「何らかの普遍的な真理はあるはずだ」……そう発想した。
しかし、「真理とは何か」このことに関しては語らずじまいとなってしまった。

それが弟子プラトンの大きな課題となる。プラトンは、「真理とは何か」という問いの探究のなかで、真理とはイデアである、というイデア論を組み立てる。生成変化する現実世界の背後には、永遠普遍のイデアという理想的な雛型があり、イデアこそが真の実在であると主張した。

永遠不変のイデアは実在するのか?

イデア論に違和感を感じていたプラトンの弟子アリストテレスは、師の学説を引き継ぎながらも、イデアが個物から離れて実在すると考えたことを批判し、師のイデアと区別して独自の存在論(真理論)を切り拓く……。

ま、そういう宇治家参去もなんとなくイデア論には違和感がありますが……。
そのあたりの話を哲学史的には本日の講義で行う。

学生さんには、負担をかける側面もあるが、ひとつ、双方向の試みとして、毎回出席カードのかわりに、リアクション・ペーパー(授業の感想カード)を書いてもらっています。
ある一人の学生さんのコメントから……。

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プラトンのイデア論にはすっきりしない部分が多々ある。正義とは何か、善とは何か、なんて一言では言い表せるものではないし、私が生きているのは現実世界であり、理想的に想定されたイデア界ではない。発想として具体的な善の行為をひな形を為す善そのものはなんとなくありそうにも思えるが、イデア(界)という言い方をされるとなんとなく躊躇する。結局は、私が今いる現実の中で、正義や善の行為を一人一人が悩みながら産み出していく方向を考える必要があるのではないだろうか。移ろいやすいかもしれないけれども、変わっていく世界だからこそ、たとえ悪いものだったとしても善いものへ変わっていけるのではないでしょうか。善と悪が完全に決まっているイデア界では、悪なるものはいつまでたっても悪のままで和解は存在しない。つまり「問答無用」と同じです。不完全だからこそ良い方向へ変わることもできるのではないでしょうか。

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実感の吐露だと思います。
彼女の言葉の前では、ここでイデア界の是非や、プラトンとアリストテレスの存在論の差異は意味をなしていないのだと思います。
彼女自身が“考え”はじめているからです。
イデアがあるにせよ、ないにせよ、結局は彼女自身が“悩み”“考える”プロセス抜きには獲得できないシロモノだからです。

その意味で、“自画自賛?”ですが、考えるヒントの提供という意味で「哲学入門」が“虻”としての機能を果たしていることに安堵する。

哲学なんか……語っていると、ついその無力さを実感するときがあります。
特に現代ではそうですが、これまで諸学の王として君臨してきた哲学は、その学としての先験的なリーダーシップ性のゆえに、大きな過ちも犯してきたものである。通俗的な言い方で極めて恐縮ですが、誤った発想、考え方のもとに沢山の流血が流れてきたものであります。そうした暴力性の反省から、現代の世界において、いわば“前衛革命家”じみた哲学の発想のつつしむべき方向性なのでしょうが……哲学の立場から提言を自戒する傾向が強い。

しかしながら、哲学者はかたらずにはおれない“ミネルヴァのフクロウ”たちです。

そうした自戒を含めつつ、何かへ善導しようという思い上がりは毛頭ありませんが、考える糸口、実際の著作へ手を伸ばすきっかけだけは失いたくないものです。動執生疑さえできれば……、そんな実感です。

技術時代と高度に先端化した学術世界において、古典的な哲学の言説は、ある意味で無力かもしれません。ミネルヴァのフクロウの羽ばたきは“すすり泣き”かもしれません。しかしその歩みを辞めることは決してない。善を説かないとしても、善を見出したいからかもしれません。

人間は何度も同じ歴史を繰り返してきました。その意味でひとは歴史から何も学んでいないのかもしれません。しかし、どこかで学ぶきっかけをつくりたい。
考え方の“強要”ではなく“共学”を目指したい。その意味でいつまでも学生としての自覚が宇治家参去には必要不可欠かもしれません。学生と教師……立場違いますが、共に議論し、学び合うなかで、“力に対する説得の勝利”をこの地に実現したい今日このごろです。

最後に哲学者にしてプロセス神学者・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead, 1861-1947)の言葉でもひとつ。

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 人間の生は、既存の言葉では表わせないほど一般的な想念を、漠然と感知することによって推進される。このような一般的な諸観念は、一つ一つ切り離して単独には把握できない。それには、人類が相互に解明し合う諸観念の体系を思考しうるよう、事物の一般的な本性を感知するにあたって前進することが必要である。しかし、感知の一般性の成長はあらゆる進化する変化のうちでもっとも緩慢なものである。精神性におけるこの成長を促進するのが哲学の仕事である。それが首尾よくいくかぎりにおいて、偉大な観念の特殊な適用は野蛮な空想との粗雑な結びつきをまぬがれるのである。カルタゴ人は偉大な文明的な貿易国民だった。彼らは人種的には、人類のうちで偉大な進歩的部分の一つに属していた。彼らが貿易を行ったのは、シリアの沿岸から、地中海全域を通り、ヨーロッパの大西洋岸を北上し、イングランドのコーンウォール錫鉱山にまで及んでいた。彼らはアフリカを周航し、スペイン、シシリー、北アフリカを支配した。だがしかし、プラトンが思弁にふけっていた時に、この偉大な国民は、宗教的な贖罪の行為としてモレク神に子どもをいけにえにするというしかたで、<宇宙>の至高の力を考察した。理解の一般性の成長は、今日のこれに対応する文明ではこういう蛮行を不可能にする。<人身御供>や<人間奴隷>は、偉大な宗教上の直観や文明の諸目的が、本能的行動として継承された野蛮さによって表現されている例である。直接的な宗教的直観は、その起源がいかに純粋なものであっても、既存の社会に実際に偏在している低級な悪習や情緒と結託する危険性がある。宗教は哲学に推進力を与えている。しかし一方<思弁哲学>は、流布している行動様式の諸事実にかかわらない究極的な意味を示唆することによって、われわれの高度な直観が低劣なものと結託することを防いでいるのである。
 観念の歴史は誤謬の歴史である。しかしあらゆる誤謬を通じて、それはまた、次第に行為が浄化される歴史でもある。好ましい秩序の展開に進展がある時は、意識的に抱懐された観念の働きが増すことによって、行為が野蛮へと逆行しないように守られているのがわかる。この点で、プラトンの次の言い分は正しいことになる。世界--すなわち、文明的秩序の世界--の創造は、力に対する説得の勝利である。
    --ホワイトヘッド(山本誠作・菱本政晴訳)『ホワイトヘッド著作集 第12巻 観念の冒険』(松籟社、1982年)。

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