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「社会の窓が開いている」

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 ヘーゲルは、「それぞれの意識は、他者の死を追求する」と語った。わたしたちの意識は、わたしたちが把握することのできるすべての対象に意味と価値を与えるものであり、その自然の状態において、<めまい>のうちにある。他者の意識は、自己の意識のもつ特権を奪おうとするものであり、自己の意識は他者の意識の犠牲のもとに、自己を確証したいという永久の誘惑に駆られている。しかし意識というものは、身体なしには何もすることができず、他者の身体に働きかけなければ、他者に対して何もすることができない。意識が他者を奴隷にするためには、自然のうちから自分の身体の付属物を作り出し、それを自分に同化し、そこに自分の力の道具を確立する必要がある。歴史は本質的に闘争--主人と奴隷の闘争、階級闘争である。それが人間の条件の必然性であり、人間が分かち難い形で意識でもあり、身体でもあること、無限でもあり有限でもあるという基本的な逆説によるものである。受肉した意識の体系においては、それぞれの意識は他の意識を対象に還元しなければ、自己を肯定することができない。
 人間の歴史というものが存在するのは、人間が外部に向かって自らの力を発揮する存在であり、自己を実現するためには、他者と自然を必要とする存在であり、特定の財を所有することによって、自らを個別の存在とするものであり、そのために他者との闘いに進む存在だからである。
    --メルロ=ポンティ(中山元訳)「プロレタリアから人民委員へ」(『ヒューマニズムとテロル』から)、『メルロ=ポンティ・コレクション』(ちくま学芸文庫、1999年)。

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フランスのユニークな哲学者の一人がモーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)です。もともと現象学から出発した哲学者ですが、デカルト以後の近代哲学が主体と客体という二元論に収束していくなかで、そうした論調とは一線を画し、二元論ではどうしても捉えられないもの、二元論から横溢してしまうもの、すなわち、主体でもあり、かつ客体でもあるような人間の存在を探究した人物としてして知られています。

そのメルロ=ポンティのいう、いわば、主体でもあり客体でもある「曖昧な」“人間の存在”とは何かといえば、すなわち、それは人間の「身体」である。人間は「身体」をもつことにより主体でありうることが可能になり、同時にこの「身体」をもつことによって、客体となる。こうした人間の両義性、曖昧さにメルロ=ポンティは注目したわけですが、その所為か、彼の言葉は、言い得ないことをいおうとする試みであるが故に、よどみがあり、迂回があり、歯切れの悪さがある。しかしそれを真摯に追求しようとするひとつひとつの言葉に大きな魅力を持たせているようです。

さて、デカルト以降の近代の人間論は、身体に対する先験的な優位を保つ存在として、精神とか意識を措定し、対峙させますが、人間は意識だけでは存在することが不可能です。身体を通さないと意識は発現しないし、身体をもつ主体は意識だけの存在であることも不可能だ。だから、人間は自然に影響を与え、他者に具体的な影響や関わり(それが暴力のときもある)を与えながらでしか、人間にはなりえない。その意味で、人間は何らかの影響を与えることで、文化を形成し、歴史を生み出してきた存在というこも可能である。

だとすれば、身体を持つ人間が生きるということは、形と力を伴った固有の影響を自然や他者に与えてしまうということだ。自然に働きかけ、他者に影響を与えてしまうことであり、たとえば、それが暴力としての機能を果たしてしまうことは不可避の状況である。

メルロ=ポンティ曰く……

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歴史が存在するということは、各人が自らの行為において、たんに自分の名において行動するのではなく、自分だけを処理するのではなく、他人を巻き添えにし、他人を処理しているということである。だからわたしたちは生まれたときから、善意志というアリバイを失っているのである。わたしたちは、他人に対して行う行為によって規定されているのであり、「美しい魂」として尊敬される権利を喪失しているのである。他者を尊敬しない人物を尊敬するということは、結局は他者を軽蔑するということである。暴力に対する暴力を控えるということは暴力の共犯となるということである。わたしたちは、純粋さと暴力のどちらかを選ぶべきなのではなく、異なった種類の暴力のどれかを選ぶべきなのである。受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である。誘惑なしの説得というものはない。すなわち結局は、軽蔑なしの説得というものはないということだ。暴力は、すべての体制に共通した出発点である。生も、議論も、政治的な選択も、この土台の上で行われるのである。重要なこと、そして議論する価値あることは、暴力そのものではなく、暴力の意味とその未来である。人間の行動の法則とは、未来に向かって現在をまたぎ越え、他人に向かって自己をまたぎ越えることである。この闖入は、政治的な生の事実であるだけでなく、私的な生においても起こる。恋愛においても、愛情においても、友情においても、わたしたちはすべての瞬間において絶対的な個人性を尊重できる「意識」に直面しているのではなく、規定された存在--「わが息子」「わが妻」「わが友」--に直面しているのである。そしてわたしたちは彼らを共同の企図に巻き込む。ここで彼らは(わたしたちとともに)一定の権利と義務のある規定された役割を引き受ける。同じように、集団的な歴史に置いても、<魂をもつ原子たち>は、背後に固有の歴史を引きずっているのであり、互いに自らの行動の糸によって結ばれているのである。それだけではない、彼らは意図して行動するかどうかを問わず、自分が他者と世界に対して行う行動の全体と自分を同一視する。主体の複数性が存在するのではなく、間主観性が存在する。他者に対して加える悪と、他のすべての人々のため引き出す善についての共通の尺度というものが存在するのはそのためである。すべての暴力を断罪するということは、正義と不正の存在する領域の外に出るということであり、世界と人間性を呪うことである。これは偽善的な呪いである。
    --前掲書。
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まさに「受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である」。だから人間が人間になるということは、不可避的に暴力と関わざるを得ないのである。
戦場から遠く離れた作戦室に引きこもり、まさに“神の視座”から「すべての暴力を断罪するということは、正義と不正の存在する領域の外に出るということであり、世界と人間性を呪うことである」。

人間が生きるということは善かれ悪しかれ、何らかのかたちで、自然や他者に影響を与えているということなのだろう。またそうした人間の共同体もひとつの影響を行使する<身体>なのだろう。

意識というものは、身体なしには何もすることができない。しかし「他者の身体に働きかけなければ、他者に対して何もすることができない」のも事実である。

さて、本日、出勤前に、細君から「社会の窓が開いている」と指摘を受ける。
「社会の窓」とは、即ち、男性のズボンの前ファスナーの俗語であり、「開いている」とはそれが開いた状態への指摘である。

身体をもつ宇治家参去という人間存在が影響を与えてしまったようだ。

とはいえ、そのまま外出しなくてよかった。

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