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狸と戯れる

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◇文化は非在の記号である
 でも、このところがよく誤解されてしまうんです。今は結論だけ示しておこうと思いますが、、文化は非在*--non-être ということですね--である記号、つまり広い意味での言葉とか用具によって作られた用具連関*という記号であり、イコール共同幻想でしかない。文化は一切の根拠がない記号=空性の世界なんです。
それは具体的な例で言うとこういうことです。ホメオスタシスっていう生物学用語がありますね。生物体の自律的平衡作用のことなんですが、たとえば恒温動物の場合、まわりの空気の温度が変わると、それに対応して体温調節していかないと生きていけません。まわりの温度が上がっても、自分の体温が上がらないように生体を調節するし、下がれば下がらないようにする。そして、三六度なら三六度に常に保っているわけですね。これは、生体が存在している外界の変化に適応しているということなんです。しかし、今、この部屋でぼくらが適応している外界の気温というのは、そもそも存在しなかったものをぼくらが用具連関(この場合は暖房)によって、すなわち文化によって創り出しているわけです。
先日ある雑誌で宇波彰さんがぼくの本をとりあげてくれた時、非常に面白いことを書いていました。「人間は世界の中に家を建てたんではない、家を建てることによって世界を創ったんだ」。まさにそのとおりなんで、言い得て妙だと思ったんです。「文化という記号」というときの記号とは、そういう意味での〈非在の現前*〉なんです。
人間の創り出した文化をこのように見た時、多くの実体論*者から批判が出ました。文化が一切の根拠のない記号であるというのなら、方向性も何もなくなっちゃうんじゃないか、ケセラ・セラだ、なぜそんな不安に我々を落とし込むのだ、お前はヒューマニズムや科学や進歩史観、合目的論を信じないのか、と言うんですね。ぼくは、しかし、何と言われようと、まさにそうした断崖の淵に立つところにしか出発点はないと思うんです。これを恐れている限り、実体論やそれに付随する絶対主義の不自由性からどうしても逃れられないからです。つまり、徹底的な根拠のなさ、ということなんですね。それはレーベン*の無根拠性と言っていいかもしれません。この場合のレーベンというのは、動物の生命といった生物学的な生命だけではなく、一切の存在者というものは本性は生成*devenirであるという意味でのレーベンです。
まさにそういうレーベンとしての存在者であると考えた場合、その無根拠性、あるいは多様性--これは柄谷行人*の言葉でもありますが--、偶然性というレーベンの混沌を直視できるかというと、実はぼくの中にもそうした勇気を持たない弱さはあるんです。それは誰が弱い、誰が強い、ということではなくて、ぼくらの中に何か絶対者を立てて、世界なら世界というものの意味を保証してもらうとか、根源を立てて安心したいという気持ちがあると思うんです。しかし、これがクセノフォビー(異なるものへの嫌悪)とか、異なるものの抹殺の論理に結びついてしまわないか、という問題があります。
実は<文化という記号>の無根拠性にこそ、これを見極めるところにこそ、一つのドンデンが用意されている。後で触れると思いますが、ぼくらの「読み=書き=生きる」行為における<発見>モデルから<解釈モデル>、更には<創造モデル>への転換です。「事実は解釈でしかない」というニーチェ*の言葉がありますが、解釈モデルですらもない。解釈ということは創造すること以外の何物でもないからです。
そういう考え方で、いわゆるレーベンというテクストを生産物として固定しないで、生成あるいは生産性*としてとらえていこうというのが、ぼくの立場です。ただ、一切の根拠はない、とか、文化は共同幻想だ、とか、人間界は空だ、などと言うだけではダメなのです。それが「なぜか」を執拗に問う必要がある。言語の解明からアニマル・シンボリクム*としての人間存在を問題にする所以ですね。

*非在 文化は一定の構造、制度として存在しているが、それには別に強い必然がない。たとえば動物の帰巣本能などは、生理的に決定されているが、人間が故郷をおもう度合いは、ひとによってまちまちで、故郷から遠く離れて、苦にしないで生きていくひともいる。文化の構造は本能のような強い必然性をもたない。
*用具連関 ハイデガー用語。用在性(Zuhandenheit)とも言う。人間が世界の中で様々な関心を持って生きていることによって、潜在的に種々の用具性として現れてくるような物のあり方。たとえば、机は、読書の場所として、文章を書く所として、高い場所に手をとどかせるための台として、現れる。
*非在の現前 われわれは過去の失敗を思い悩み、未来の不確定さに不安を感じる。つまり、今ここで知覚されないものに対しても、今ここに現前しているのと同等の意味づけを行っている。これが非在の現前である。
*実体論 人間の主観にかかわりなくものや構造がそれ自体として存在すると考える立場。実体論に対しては関係論が対立する考え方になる。
*レーベン 生物にのみ固有の属性。いわゆる生命。
*生成 たとえば、赤ん坊のときは、ばくぜんとした情緒的ひろがりの<世界>が存在するが、大人になるにしたがって、はっきりした輪郭と複雑な意味に充ちた<世界>が出てくる。この場合、双方ともそれなりの<世界>だと見なせば、客観的な世界があって、それ自体として存在するのではなく、<世界>は、主観の形に応じて<生成>してくるのだと考えられる。
*柄谷行人 一九四一~ 批評家。「<意識>と<自然> --漱石試論」で一九六九年「群像」新人文学賞受賞。以降、『意味という病』(七五)、『マルクスその可能性の中心』(七八)、『日本近代文学の起源』(八〇)、『批評とポスト・モダン』(八五)と問題作を発表。詳しくは、本シリーズ第一巻『ポスト・モダニズム批判』を参照されたい。
*ニーチェ 一八四四~一九〇〇 独の哲学者。二〇世紀の危機的状況の到来を身を持って予感し、思索した。現代思想の源泉点でもある。
*生産性 生産そのもの。働くことを止めない状態。
*アニマル・シンボリクム シンボル化能力を持った動物、すなわち人間のこと。「もはや<モノ>に反応することを忘れて過剰としての<意味=現象>にのみ反応するアニマル・シンボリクム」(『文化のフェティシズム』)
    --丸山圭三郎・竹田青嗣『<現在>との対話2 記号学批判/<非在>の根拠』(作品社、一九八五年)。

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すでに宇治家参去のGWは終了しましたが、久し振りに江ノ島で学生時代を回顧しましたので、学生時代に良く読んだ、丸山圭三郎(1933-1993)の話でも。

友人からの宣教活動で、丸山圭三郎とその元ネタとしてのソシュールを読み始めたのは大学一年の秋だったと思う。それまで無縁だったフランス現代思想への導きとなるひとつのきっかけになったと思います。

丸山圭三郎といえば、日本におけるソシュール言語学研究の第一人者にして、丸山言語哲学とも呼ばれる独自の思想を打ち出した学者です。哲学・学者としてではなく、哲学者として、考えつづけたという意味では、日本人のなかでは、希有な存在といえると思います。

ほとんどの文化や思想は実体主義に基づいているのではないだろうか--。
丸山は言語学の観点から実体主義を解体し、そこからの転回を試みしたが、その手法の鮮やかには、まさに、“目からウロコ(使徒言行録)”です。

森巣博とはアプローチが違うと思いますが、文化をはじめとする、現在進行中のこの世界の物語を、静止化させ、不動のものと措定させる傾向への、存在論的暴露として、むさぼるように読んだ記憶があります。

文化や文明(あるいは国民国家体制)が幻想に過ぎないとすれば幻想にすぎないわけですが、その指摘だけでは、生きていくことは不可能である。であるとすれば、その幻想とどういう関係を結んでいくのかが重要になってくる。

狸に莫迦されていることを知っていながら、そのことを狸に見破られないようにするのが賢明でしょうかね?

そういえば、市井の職場に、申し訳のない言い方ですが、仕事のできないMgrさんがひとりいます。かけ声だけは大きいのですが、何もしないし、何もできない御仁です。定年前だから仕方がないのかもしれませんが……、いつも、取締役気取りで困ります。
皆からは「裸の王様」と揶揄されていますが、まともとに話し合うと疲れます。だから、皆、あえて彼のテーブルに着きます。そして話をきいてから、デタラメな作業指示を出される前に、こちらで先に処理していく、そうしたヤリクリで流しています。
本質変革ではない、自己防衛と言われればそれまでですが、革命の流血は避けたいモノですから……。

ただそのことが狸には見破られないようにしておかないとマズイですね。
丸山圭三郎についてはまたおいおい話していこうと思いますが、幻想を実体と説き、強要するあり方にはすこし違和感と疲れを感じるある日の宇治家参去でした。

Ferdinand_de_saussure

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