お前は、なぜ、この男に福音を語らなかったのか
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ニーメラーの夢
いま一人、罪責告白との関わりで興味深い悪夢を見たのはマルティン・ニーメラーである。
ニーメラーは、ナチ政権成立前後から、ドイツ《教会闘争》の指導者としてヒトラーと対決し、強制収容所に入れられた。戦後は核武装反対の平和運動家として世界的に著名であった。一九四三年の初め、ドイツの教会指導者たちがヒトラーにたいして抗議の覚書を手渡すために首相官邸に出掛けたときのこと。最後の場面では、激昂するヒトラーとニーメラーとのあいだに激しく論争がくり広げられるにいたった。
「ドイツ国民のことは私に任せてほしい」とあなたは言われたが、それにたいして私は、こう言わねばなりません。「あなたであれ、この世のいかなる権力であれ、キリスト者として、教会としての私たちから、神が私たちに課したもうた国民にたいする責任を取り去ることはできないのです」。
このようにヒトラーと面と向かって論争した人間は、ナチ・ドイツの全期間を通じて、おそらくニーメラーただ一人だったと思われる。この激しいやりとりの代価を、彼は、ヒトラーの復讐の形で支払わねばならなかった。一九三七年夏、ニーメラーは、国家反逆罪の容疑で逮捕された。世界の注視を浴びたこの裁判では、驚くべきことに無罪判決をかちとった。しかし、彼が釈放されて裁判所を出ると、玄関で待ちうけていた秘密警察は、そのまま彼を<<保護拘禁>>した。ニーメラーは《ヒトラーの特別囚人》として、敗戦の日までダッハウの強制収容所につなぎとめられていた。
一九四五年五月にナチ・ドイツは降伏し、自宅に帰ったニーメラーは、この年の六月から七月半ばにかけて、こんな夢を見た。
私は、白雲から発する眩しいばかりの明るい光をじっと見詰めていなければならなかった。首を回したり、目を動かしたりすることはできない。光とともに一つの声が響いてくる。それは、私の傍らをかすめて誰か別人に向けられている。しかし、私は、首を曲げて、それが誰であるかを見ることができない。その声はこう尋ねている。「お前は何か申し開きをすることがあるのか」。そして、それに答えている声を聞いたとき、私はすっかり仰天した。「はい。私には、かつて何ぴとも福音を語ってはくれませんでした」と答えるその声は、まさしくアードルフ・ヒトラーのものだったから。
私は驚きのあまり目覚めたが、雲間から聞こえてくる次の声が、私に向かってこう尋ねているのを、はっきりと予感できた。「お前は、なぜ、この男に福音を語らなかったのか。お前は、かつてたっぷり一時間もこの男と一緒にいて、口論し、罵倒しあったではないか。それなのに、お前はこの男に福音を告げはしなかったのだ」と。
(「M・ニーメラーとの対談」宮田光雄『日本の政治宗教』朝日選書、所収)
この夢をニーメラーはくり返し何度も見たという。それを通して、彼は、ヒトラーに抵抗した自分もまたナチス・ドイツの成立と支配の全過程にたいして共同責任があることを自覚せざるをえなかった。
この年の秋、世界の教会代表者たちがドイツを訪ね、告白教会指導者たちと会合をもった。その人たちにたいしてニーメラーはこう言った。
「われわれは、教会としても、ナチ・ドイツの罪責から決して逃れていない。あなた方はわれわれを正しいドイツ人として話し相手にするつもりで来られたかもしれないが、それは間違っている。むしろ、われわれを、ドイツ民族とドイツ国民の罪責に、全面的に、おそらくは決定的に関与した人間として扱うべきである」。
ドイツの教会は、このとき会合を開いて有名な《シュトゥットガルト罪責宣言》を発表した。この中には、次のような言葉が入っている。
「大きな痛みをもって、われわれは告白する。われわれによって、限りない苦難が多くの諸国民や諸国の上にもたらされたことを。……われわれは、われわれ自身を告発する。われわれは、もっと勇敢に告白しようとはしなかったこと、もっと誠実に祈ろうとはしなかったこと、もっと喜ばしく信じようとしなかったこと、もっと熱烈に愛しようとしなかったことを」。
当時、世界の教会の代表者たちを前にして、ナチと闘ったドイツの教会が、このような自分たちの罪責を告白したことは画期的であり、逆に世界の人びとの注目を浴びた。「大きな痛みをもって、われわれは告白する」以下の文章は、この宣言の作成過程において、ニーメラーの強い要求にもとづいて加えられたものだったことが知られている。
--宮田光雄『ナチ・ドイツと言語 --ヒトラー演説から民衆の悪夢まで--』(岩波新書、2002年)
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かつて、マーチン・ルーサー・キング.Jr(Martin Luther King, Jr,1929-1968)と公民権運動を闘ったハーバードの神学者ハービー・コックス(Harvey Gallagher Cox, Jr. ,1929- )が、キングの精神を指摘して、“悪と戦いながら、しかも戦っている相手の悪に自分は陥らないという信念”と語ったことがある。
非暴力とは、あれかこれかと単純に善悪を立て分け、一方に極悪非道な体制を設置し、そして一方に、純粋無垢な無辜の民を措定して、その攻防に専念する、いわば一昔前の革命家の構造とはかけ離れたあり方なのだろうと常々思っています。キングの足跡を辿ると「悪に抵抗する」非暴力を構想し、悪には陥らないという信念を体現したことが伺えます。
歴史のなかで、何度も繰り返されてきたことですが、解放(軍)が往々にして、圧制者に変貌する。そのことで善悪の表裏一体性を指摘したり、真理の相対性を主張することはたやすいことですが、キングの跳躍は、そうした二元論を粉砕する人間の全人性を提示しているように思えます。真理論の立場から善悪を措定することが無意味とまではいわないものの、善にせよ、悪にせよ、おのれ自身の中に内在する。そうした急所を踏まえない限り、人間という生きものは善になれば、悪にもなり、解放者が圧制者になり、圧制者が解放者になりうるのだと思います。
うえで、引用したフリードリヒ・グスタフ・エミール・マルティン・ニーメラー (Friedrich Gustav Emil Martin Niemoller、1892-1984)は、ドイツの著名な神学者でルター派教会の牧師で、もともとは保守派の人物で、アドルフ・ヒトラーの支持者だったという。しかし、ドイツのプロテスタント教会のナチ化に違和感を覚え、対決の末、引用の通り、1937年から1945年までの間をザクセンハウセン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容され、まさに命からがらホロコーストをまぬがれ収容所から生還した人物です。
国家やシステム、そして共同体といった論理は、構成員に無限の責任を要求するようつくられている。その主体が空虚で仮想であったとしても、そこが要求する無限責任は、かたちをもった暴力として機能する。
しかしその暴力も、そして連帯、癒しも人間自身に内在する。
その自覚が、おそらく人間における無限責任の自覚なのかもしれない。要求された無限責任は滑稽であり、暴力に過ぎない。しかし、無限責任の自覚は、人間の全人性の肯定であり、手探りの作業であるにもかかわらず、根本的な再構築が可能になるのだと思います。
そこに倫理(学)が、自己自身に対して立ち上がる瞬間があるのだと思います。
ニーメラーが夢のなかで対話したエピソードは決して他人事ではないかもしれません。
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ナチ・ドイツと言語―ヒトラー演説から民衆の悪夢まで (岩波新書 新赤版 (792)) 著者:宮田 光雄 |
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The Best American Spiritual Writing 2007 (Best American Spiritual Writing) 販売元:Houghton Mifflin (P) |
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