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「自分が困らなければ、それでよい」。

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青銅貨は使うことによって輝き、よき衣服は着られることを求める。人の住まぬ家は不快に朽ちて汚れる。
aera nitent usu,vestis bona quaerit haberei, / canescunt turpi tecta relicta situ.
    オウィディウス『恋の歌』第一巻8.51
    --柳沼重剛編『ギリシア・ローマ名言集』(岩波文庫、2003年)

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哲学や倫理学などの話の中で、「利」という言葉を口にすると面食らう人間がまだまだ沢山居る。ここでいう「利」とは、「利益」の「利」であり、「利己」主義の「利」のことである。万巻の書を読破した「倫理学者」に期待される説教とは、高邁な隣人愛の教えとか、仏教の慈悲心とか、そういったたぐいの「倫理的なお話」のことである。

「利益」や「利己」の話では、「非倫理的なお話」になってしまうのであろう。しかし人間という生きものは、「倫理的なお話」を実践するときもあれば、「非倫理的なお話」を実践してしてしまう部分もある。

人間が生きると言うことは、まずもって「自己」の保存の安定的確保がどうしても必要になるから、どうしても「利己」的にならざるを得ない部分がある。自己保存の放擲は、物理的・存在論的な喪失である。

自己保存を安定的に確保し続けるためには、糧が必要になるから、「利益」を考え、打算的に動いていかざるをえないのも事実である。

さて、面食らう人間が当惑するのは、おそらく「利己」とか「利益」に悪いイメージや低俗なイメージを抱いているからであろう。「利己主義者」や「エゴイスト」というと、他人の迷惑などはおかまいなしに「自分のため」に邁進し、身勝手に振る舞う“困った人”や、法の網の目をくぐりぬけて不逞な利殖に励む“あくどい人”を想像するのだろう。そうした人は確かに存在するし、“困った人”であり“あくどい人”たちである。

“困った人”や“あくどい人”を高みの存在から、安全地帯から批判したり非難するのは単純なことだが、それだけでは問題は一向に解決しないし、非難している当人も“困った人”であったり“あくどい人”であったりもする。批判者と被批判者を薄皮一枚で分けているの程度の問題に過ぎないかもしれない。

生きていくうえでは、食料も必要だし、金も必要だし、住む家も必要だ。だからこそ、基本的な衣食住から始まり、高価な嗜好品に至るまでの“物”と“己”の関係、そしてその“物”を取り持つ“利”と“己”の関係を実は考えざるを得ないのだ。
倫理学は“倫理的なお話”よりも“非倫理的なお話”にコミットする。
「倫理的なお話」を説教して「利己主義」や「利益」を批判することは単純で簡単なことだが、どこかヒューマニズムの美名に隠された偽善や欺瞞の匂いがぷんぷんする。また人間の利己的な側面や利益の部分をすべて否定してしまうと、生活はどこか潤いのない、空虚な営みになってしまうだろう。

ま、このことは、倫理学を講ずる中でそうした話をする宇治家参去自身が、酒をこよなく愛し、生臭い・物欲と日々“適当”に仲良くしている、“利己主義者”だから仕方がないのかもしれません。よく細君に、「貴方の一番大切なものは貴方自身だ!」と恫喝されていますが、その通りです。

さて話がそれましたが、いずれにしましても、人間誰もが利己主義者であり、利益を考えて生活する生きものであることは間違いない。

己のなかの利己主義が消滅し、利益を考えなくて生きていける生き物がいるとすれば、それは神か野獣しかいない存在しない。しかし、不思議なことに世界の人々すべてが、いわゆる“困った人”や“あくどい人”ばかりでないことも確かなことだ。どちらかといえば、大多数の人間が、ごく少数の“困った人”や“あくどい人”たちを“倫理的なお話”で批判し、社会的に糾弾されると、ときおりスッカと爽快感を味わい、一人悦に浸っているというのが現状だ。

すべての人間が利己主義者だが、いわゆる“あくどい人”や“困った人”にはなりたくない(時折小さな程度でなることはあるのでしょうが)。だからこそ“利”を考えよう。
倫理学は“非倫理的なお話”に注目する。
そのひとつが、合理的な“利己主義者”として生きていていきましょうという発想だ。

合理的な利己主義者は、ただ単に自分の幸福(欲望・目的etc……)を追求して「自分のため」になることをしようと考える人である。その意味では、“困った人”や“あくどい人”という、いわば素朴な利己主義者と同じである。
では何が両者を分かつのであろうか?
おそらく共同するのか、孤立するのか……そこが大きな分岐点になっていると思われる。

合理的な利己主義者は、合理的な利己主義者同士で共同するのに対し、素朴な利己主義者は孤立してことを為す。

素朴な利己主義者たちは、ひとりで全部やらないといけないし、自己以外はすべて手段であるし、自己自身も手段である。共同者がいないから“あくどい”こともできるし“困った”ことも実践できる。他者に対しても自己に対しても。
しかし合理的な利己主義者は、孤立するよりも、他の人々と共同して暮らすほうが「自分のため」にあると考える。たがいに迷惑をかけあっていたのでは、お互いに“損”になるし、「自分のため」にならないと考える。だからルールに従ったり、他人に迷惑をかけないように配慮しようと考える。合理的な利己主義者は、「自分のため」と利己的になればなるほど、「自分のため」から遠ざかる……不思議な“利己主義のパラドックス”にはまっている。

「自分が困らなければ、それでよい」。

そのために、合理的な利己主義者は、「自分のため」から遠ざかることで「自分のため」を実現する。発想が清新な発露であろうが、打算であろうが、合理的な利己主義者は、利己主義の冠を被っているが、利他主義の規範を受けて入れている。

情けは人のためならず。
A kindness is never lost.

最後にカントの言葉でもひとつ。

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 第四に、他人に対する功績的義務について言えば、およそ人間のもつ自然的目的は、自分自身の幸福にほかならない。なるほど他人の幸福に寄与しないまでもこれを故意に損ないさえしなければ、人間性は支障なく存立し得るであろう。しかし各人が、他人の目的をできるだけ促進するに努めないとしたら、目的自体としての人間性と消極的に一致するだけで、積極的に一致するものでない。目的自体であるところの主体のもつ諸種の目的は、もし例の表象〔目的自体としての人間性という〕が私において十分な効果を挙げることになれば、それはまた私の目的にもなり得るからである。
    --カント(篠田英雄訳)『道徳形而上学原論』(岩波文庫、1976年)。

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コメント

実はこの考え方も自分ではまだまだ整理していないまま吐露した感があり、まだ煮詰まっていないところがあるので、あいまいな日本の私になってしまいました。

要点だけ箇条書くと……。

①利(利益、利己etc)は真剣に考えざるを得ないテーマである。
※もちろんここには利・美・善が関わってきます。

②人間は利己的動物である。そこを踏まえる必要がある。
※暗部を見据えた上での展開。

③利己主義の問題
<1>利己主義とは「自分のため」にという本能的欲求である。
<2>展開によって二つに変わる
(1)素朴な利己主義者
・他者だけでなく、自己すらも「自分のため」の手段となして活用
・他者も自己も「手段」に過ぎないから“孤立”する(せざるを得ない)
⇒ゆえに“こまった人”に
・考え方も固定的

(2)合理的な利己主義者
・「自分のため」に何かをする場合、どう振る舞うのが一番か。
・孤立してことを運ぶよりも、対話と合意で工夫しながら共同するのが賢明だ。
⇒「自分のため」にお互いにセーブしながら、かえって「自分のために」を実現する
※極端に言えば、「ひとを殺しても目的実現のためにはよい」と発想する人は、自分が「殺されてもよい」という相手側の要求も受けざるをえないが、そうすると、素朴な利己主義者は「自分のため」にがむしゃらに目指しながら、かえって実現できない可能性が大きくなるのに対して、合理的な利己主義者は、「ひとを殺しても目的実現のためにはよい」ということを断念するかわりに、共同することで、「自分のため」にを一緒に実現できる可能性を見出す。

⇒いささか共同体形成や、合意のプロセスを見てみると関しては社会契約的、共同体を幻想と理解した上で、(良い方向への)変更も可能にする。その分、ドライかも。

こんなところです。

志が高く、高邁で堅忍不抜の倫理的な話を持っている人間だけが道徳的にふるまう・そして道徳的な指導を占有する社会よりも、弱い人間でも人間の道を踏み外さずに済む社会の方が社会として実はできがいいのではないかと思うことがあります。

完全無欠の聖人君主がいたとして(しかも複数)、彼ら(もしくは彼女らが)道義的な正しさを振りかざして、魔女をあぶりだすように、「人間的としてあるまじきふるまいをするな」と声高な告発をする社会よりも、「人間としてあるまじきふるまい」をしてしまうかもしれないという自分の耐久性の弱さを自覚した「弱い人間」たちが、お互いを補い合いながら、そして、フェアの罪責性をもって、自尊心をもって生き延びることのできる社会のほうが、社会としてのできがよいのではと思うのです。

むろん、絵空事かもしれませんが、そうした意味では、「高みの立場」に立って「道義的な正しい意見」を主張し、「私は最後まで闘う」と宣言する「強い人(聖人君主)」の理説や運動であるよりも、信条的に内面化されていなくとも、戦略的に「合理的な利己主義者」として振る舞うほうが、価値的なのではないかと思う次第です(もちろん、戦略以上にひとつの公共のエートスとなるのが自然でいいのでしょうが)。

かつて“強い人”が“前衛”して率いた革命運動の全てが血を流しているのをみるとそう思われて他ならないので……。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年5月15日 (木) 00時54分

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