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避けながら手探りで歩く

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学問や探求においてその当事者は、自己の認識論的関心や主観的関与をできうる限り排していく、ないしは制限すべきだという発想がある。個々人の主観的な関与が、学や真理の客観性の確立に大きな影響を与えるからである。しかし、個々人の認識論的関心や主観的関与を完全に滅却するのは現実には不可能である。そもそも、何かしらへの探求を生じさせる、原因や関心は当事者個人の主観的関心として発生するものである。そうした主観性と客観性の隘路を厳粛に整理し、「価値自由(Wertfreiheit)」の概念として定式化したのはマックス・ヴェーバーである。社会事象の認識にあたってはその前提となっている自己自身の価値基準を鋭く冷静に自覚しなさいとのテーゼである。当事者の価値基準をあいまいにしたまま認識してもそれは科学的な認識とはいえない。

しかし、いわば、この(個人の実存的な)価値と(対象の)事実性との弁別は、ヴェーバーの精緻な探求とは裏腹に、俗流の事実/価値の二分法として通用しているようである。
事実/価値の二分法とは何か。
すなわち、その根底にある考え方は、事実認識は客観的でありうるが、価値判断は主観的であるという発想である。事実認識はたしかに価値判断とは異なるが、この区分が膨張してしまえばしてしまうほどひとつの悪辣なドグマに化してしまう。価値判断は、主観的な臆見にすぎないものであるとするなら、すべての道徳的言辞は無意味なものとなってしまう。道徳と道徳、そして規範と規範の衝突は、根拠を欠いた主観と主観の衝突に過ぎないという価値相対主義をもたらしてしまう。

もちろん、これまで道徳の言語や、倫理の言語は、そうした価値相対主義と対極にある、いわば価値絶対主義の訓令として機能し、人間という生きものを律する側面も有すれば、おなじように人間という生きものを束縛してきたのも事実である。その意味で反省されてしかるべきであり、どのように道徳や倫理の言語が、いわば“生きたもの”として立ち上がるべきなのか、メタレベルでの探求は非常に必要である。

しかし、事実/価値の二分法の最も恐ろしい点は、そうした道徳や倫理におけるオプションの提示ではなく、そもそも道徳的言辞や倫理的言辞に「意味がない(ナンセンス)」と最後通牒を突きつけた点である。

たしかに、事実(事実)と意見(価値)は明確に区別して扱うにこしたことはない。
無意味というよりも、有害なものも存在する。
事実と意見の混同や混合は、道の見えない深い暗闇に人を誘い込んでしまうのであろう。

洪水のように溢れ出すメディアの言説はほとんどがナンセンスだ。
事件が起こり、ワイドショーが後を追う。
傍若無人なカメラは“事実”とやらを“暴き出す”。
そして、評論家と称する“物知り顔”の連中が悦に浸りながら語り出す。
「心に闇があったからです……」。

主観的な価値判断にすぎない臆見が、公共メディアの波にのる過程で一定の公共性=客観性を確立する。そうだとすれば、主観的言辞は「ナンセンス」にほかならない。

しかし事実は事実であったとしても、意見(価値)がすべて“主観的であるがゆえに無意味なもの”であるはずもないのも事実である。「あれかこれか」の二者択一を迫る事実/価値の二元論は強力な破壊力を秘めているが、何か決定的な胡散臭さをもっている。

これまで伝統的な事実の実在論は、基本的には事実については真理の対応説というスタンスをとってきた。真理の対応説とは、ある文が真であるのは、その文に対応する事実が存在するときのみという物の見方である。鏡像モデルといってもよかろうが、この考え方には、真である事実を映し出す鏡として主観は存在していなくても、その存在とは独立に客観的に真である事実は存在することが可能であるという発想が潜んでいる。人間は事実をありのまま映し出す鏡であり、鏡に映される真である事実こそ客観的で価値あるものだという発想である。真である事実は真である事実にすぎないし、それ自体で“正しいもの”である。しかし、真である事実を写した主観の見解は、真である事実を真である事実でないものにしてしまう。しかしこの考え方は極端に煮詰めていってしまうと、進歩の発展の最終局面に至っても、鏡は真理を映し出すことはできないという逆説も内包している。単純な話だが、本物とコピーには差異があるからだ。カントは慎ましい言い方で「物自体」と表現したが、真の実在性の優位の発想は、極端に主張すればするほど自壊してしまう。
いずれにせよ、批判の矢面にさらされている道徳の言辞や倫理の言辞の先験的・独断的な価値絶対主義の道も避けなければならないが、現代にあるような価値相対主義の道も避け成ればならない。

「十分とは十分ということである。十分とは全てのことなのではない」。

「価値判断」を保証された主張可能性と保証された否認可能性を両手にひっさげて、手探りで共通了解を立ち上げていくしかないのかもしれません。

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私は、倫理の場合でも法律においても、あるものがある価値性質を持つことをわれわれは非神秘的な仕方で観察できる、と論じた。例えば、あるワインに「こくがあり」、「ふくよかな芳味」を持つことを、ある人が「すがすがしく自然である」あるいは「思いやりがある」ことを、ある訴訟趣意書が「ぞんざいに纏められている」ことを、われわれは観察できる。これは、ときどきの色知覚について推定されているような(それについては、現在まだ多くの議論が続行中であるが)配線済みのニューロンの集団だけに基づくような知覚ではなく、概念の適用を含むところの知覚である。私は、すべての知覚がこの種のものだ、と主張したのである。するとさらに、すべての知覚が概念を含み、概念はつねに批判を免れないという事実によって、知覚自体も、不可謬の「所与」なのではなく、批判を免れえないものだということになる。探求は知覚をもって終わるわけではない。しかし、知覚がときどき間違っていることがあるという事実は、知覚を信頼することは決して正当化されない、ということを意味するわけではない。プラグマティストは、疑うことは信じることと同じだけ正当化を要求する、と考えるのであり、また、疑うべき真の理由がないような知覚も多く存在する。(可謬主義と反懐疑主義とのこの結合こそが、実際、アメリカのプラグマティズムの主たる特徴である。)デューイの説明によれば、何ごとかに価値があるという判断は、彼が価値づけと呼ぶ種類の経験を必要とするだけでなく、彼が「批判」(「鑑定」という言葉もデューイは使っている)と呼ぶ活動も必要とするのである。さらに私は、批判においては、「では、どうすればよいのか?」という問いは、ときどきそう思われているような「無理難題のふっかけ」なのではない、と論じた。われわれは探求がどのように導かれるべきかについていくぶんかは知っているし、探求一般に妥当することは価値探求という特殊領域にも妥当するという原理は、一つの強力な原理である。それに関連して、私は可謬主義の原理(いかなる探求の成果であろうと、それが批判を免れていると見なすな)、実験主義の原理(問題状況を解決する種々の異なった方法を試してみよ、もしそれが実行不可能ならば、別の方法を試した人たちを観察し、その帰結を注意深く反省せよ)、それに、私が「探求の民主化」と呼んだものを構成することによるような諸原理、に言及した。私はさらに、現実の生活においては、われわれは少なくとも時々は(価値判断を含めて)保証された判断と保証されない判断とを区別することができるし--もちろん、困難なケースや論争の余地のあるケースは存在するし、存在し続けるであろう--、また、保証された判断と保証されない判断とをわれわれが区別できるというその事実で十分なのだ、と示唆した。(ジョン・オースティンの有名な評が言うように、「十分とは十分ということである。十分とは全てのことなのではない」。)ここには認識超越論的な真理は存在しない。「価値判断」を真や偽でありうるものとして扱うためには、われわれが「価値判断」を保証された主張可能性と保証された否認可能性を持ちうるものとして扱うことができ、現にそのように扱っている、という事実以上にすぐれた根拠は、必要ではないのである。
     --ヒラリー・パトナム(藤田晋吾・中村正利訳)『事実/価値二分法の崩壊』(法政大学出版局、2006年)。

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