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ファイナル・ボキャブラリーを断念する

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 わたしは、プラグマティズムの第一の特徴は、「真理」、「知識」、「言語」、「道徳」といった観念、ならびに哲学的理論化の同様の諸対象に、反本質主義を適用するところにあると考える。このことを「真理」を「信念としてもつとよいもの」とするジェームズの定義によって説明してみよう。この定義は、彼の批判者たちにとって、的はずれで非哲学的であり、まるでアスピリンの本質は、それが頭痛にきくということであるといった類いの議論のように思われた。しかしジェームズの主眼は、真理とは本質をもつようなものではないという点にあったのである。彼にはそれ以上言うべきことはなかった。もっともはっきり言えば、彼の眼目は、真理は「実在への対応」であると語ることは無益であるという点にあった。なるほど、もし世界にについてのある言語とある見方が与えられれば、人はたしかに、その言語の一部分と世界のなかで人がとりあげる一部分とを対応させることができる。そしてそのことによって、人が真であると信ずる文は、世界における事物の関係と同型の内部構造をもっているのだと信ずることができる。われわれは、「これは水だ」、「あれは赤い」、「あれはぶかっこうだ」、「それは不道徳だ」といった日常のなにげない報告をふと口にだす。このときこういった短い定言文は、容易に映像として、あるいは地図をつくるのにかなったシンボルとしてみなしうる。こういった報告は、たしかにほんのわずかの言語の細片を、同じくほんのわずかの世界の細片に対応づけている。否定的全称仮説かそれに類する文の場合は、そのような対応付けは混乱した場当たり的なものとなるだろう。しかしそれでもその対応づけをなしとげることはおそらく可能である。だがジェームズの論点は、こうした対応づけを仮に果たしたとしても、そのことによっては真理がなぜよいと信じられるものであるのか、じつはあきらかにならないということなのだ。それは、世界についての現在の見方が、なぜわれわれが保持すべき唯一の見方であるのか、あるいはそれは事実保持すべきものなのかどうかについて、なんの手がかりも与えてくれないのである。もし仮に人々がこの問いに答えたいと思わなかったならば、だれも真理の「理論」など求めなかったであろう。しかし、真理が本質をもつことを要求する人々は、認識、合理性、探求、思考と対象との関係もまた本質をもっているはずであると考えたのである。しかも彼らは、そういった本質についての知識をつかって、彼らが間違っていると考える見解を批判できるようになることを望んだ。そしてより多くの真理の発見にむかって、進歩を方向づけようとしたのである。だが、ジェームズは、こういった希望は無駄であると考えた。こういった領域においてはどこにも本質など存在しない。すなわち、探求の過程を方向づけ、それを批判ないし保証してくれるような包括的な認識論的方法などまったく存在しないのである。
 むしろ、プラグマティストたちによれば、真理において何か有益なことを語ることができるとすれば、それは理論よりも実践、観想よりも行為のボキャブラリーにおいてである。
(中略)
デューイによれば、こういった文(引用者注;例えば「愛は唯一の法である」)に対する自然なアプローチは、「それらが正しいか」と問うことではない。そうではなくそれは、「それを信じるとはどういうことなのか、もし信じたとしたらどうなるのか、わたしは何に関与していることになるのか」と問うことである。われわれが観察よりも理論、インプットよりもプログラミングにかかわるとき、まさにわれわれは、観想、見ること、テオーリアのボキャブラリーから立ち去るのである。観想的精神が瞬間の刺激からはなれて、大きな視野でものをながめようとするとき、その活動において決定されていることは、ある表象が正確であるということよりも、何をすべきかということであるように思われる。それゆえジェームズの真理についての箴言に従えば、実践のボキャブラリーが不可欠となる。
(中略)
 プラグマティズムの第二の特徴は、何であるべきかについての真理と何であるかについての真理の間には、いかなる認識論的相違もないとする見解にある。すなわち、プラグマティズムによれば、事実と価値の間にはいかなる形而上学的相違もなく、道徳と科学の間にはいかなる方法論的相違もないのである。プラグマティストでない人たちですら、プラトンが道徳哲学を善の本質の発見とみなしたことや、見る説かんとが道徳的選択を規則に還元しようとしたことを誤りだと考えている。だがそれが誤っていると言うためのどんな理由も、認識論的伝統が学問の本質を求めたり、合理性を規則に還元しようとする点で間違っている根拠となるはずなのである。プラグマティストにとって、探求のパターンとは--科学的なものであれ道徳的なものであれ--さまざまの具体的選択肢がもつ相対的魅力について熟考することにほかならない。科学や哲学においては、思考のさまざまの選択肢の帰結を熟慮するかわりに「方法」をたてることができるとされる。しかしこの考え方は、単にそうなればいいということにすぎない。こういった考え方は、道徳的賢者は自己のディレンマを、<善のイデア>についての記憶を参照することによって、あるいは道徳律の関連する項目を調べることによって解決するものだと信ずる考え方に似ている。それは、合理性が規則によって制御されうるという神話である。このプラトン的神話によれば、理性的生活は、ソクラテス的対話にもとづく生活ではない。それは、状況の記述と説明の可能性を汲み尽くしたかどうかもはや決して問う必要がない、光に照らされた意識の状態なのである。人は機械的な手続きにしたがうことによって、いとも簡単に真なる信念にたどりつくというわけである。
 認識論に中心をおく伝統的なプラトン的哲学は、そのような手続きの探求にほかならない。それは、対話と熟慮の必要を回避し、容易に事物のあり方を確認できるような方法を求める。この考え方は、興味ある重要な事柄についての信念を、可能なかぎり視覚的知覚と同じ仕方で--ある対象の前に立ち、プログラムされている通りにそれに答えることによって--獲得しようとする。
    --リチャード・ローティ(庁茂訳)「プラグマティズム・相対主義・非合理主義」、室井尚ほか訳『哲学の脱構築』(御茶の水書房、1985年)。

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ちょうど月曜の講義では、アメリカを代表する思想家・哲学者にしてプラグマティスト、ジョン・デューイ(John Dewey, 1859-1952)の哲学観、教育思想と社会の関わり(可能性としての民主政治)を論じた。その必要上、この半月間、デューイの文献やプラグマティストたちの文献を再度紐解いていましたが、上に引用したリチャード・ローティも「デューイの忠実な支持者」でありたいと常々述べている現代アメリカの哲学者です。

さきにデューイの話からすると、その理論や考え方に注目するよりも、まず驚くのはその長寿。

生まれた年は、スエズ運河が開通し、黒船来航から六年後の江戸末期。

亡くなるのがサンフランシスコ平和条約が締結された年である。

92歳で亡くなるまで、南北戦争、アメリカの産業革命、そして二つの大戦とロシア革命……20世紀の全ての事件を経験した人物と言っても過言ではないと思います。哲学を語るだけでなく、広く教育への応用、平和提言、現実の政治への助言など様々な活躍をした人物です。

伝統的な哲学(西欧形而上学)者たちは、デューイやプラグマティズムの発想を軽んじる傾向が強いですが、彼の人生の歩みそのものがひとつの哲学的足跡ではなかったのかと思いますし、七転八倒しながら、現実の教育プログラムの改善に尽力した姿は決して軽視出来ない迫力を持っています。近年、“デューイ・ルネサンス”とでもいうべき再評価の機運が高まっているのは嬉しい限りです。

さて……
デューイやその後継を自認するローティにとって、プラトンに代表される伝統的な哲学のあり方が提示する真理観はどうも現実に即して考えるとうさんくさいという直感がある。それがプラトンに代表される真理のいわば実在論という思考法への批判である。
デューイの発想や、それをラディカルに押し進めたローティの発想の特徴とは何か……。言葉として哲学概念を拾い上げるとすれば、反基礎づけ主義、可謬主義、多元主義がそれに当たるだろう。

どの概念にも共通するのが、伝統的な哲学のあり方に対する挑戦である。

例えば、上に引用したローティによれば、「理性」や「人間性」を現実の現在の現存在としての人間に対して超越的に、そして先験的に措定する哲学的立場は「プラトン的禁欲主義」と呼ばれる。永遠不滅にして不変、そして普遍としての真理は、世界の存在とは関係なく、どこかに存在するはずだと考える発想である。イデア論に見られるプラトニズム的二元論がその典型的な立場であり、伝統的な哲学のメインストリームともいえよう。そうした立場を批判する形で登場したのが「プラトン主義のニーチェ的転換」と呼ばれる立場である。同様にこの立場も伝統的な哲学のメインストリームのもう片方の雄とでもいうべきあり方で、たとえば、真理を“覆い隠す”現実の葛藤や社会的疎外を解消すれば“本質的”な「人間性」や「自然」といった真理が現出するという立場である。

両者に共通しているのは、「真理」や「自然」、そして「理性」や「人間性」なるもの……そうした大文字のいわば「ファイナル・ボキャブラリー」の先験的実在を認めるスタンスである。

「ファイナル・ボキャブラリー」とは、所与の概念として先験的に実在するのだろうか……そうした感覚に対する違和感、そしてその概念から溢れ出すあり方への暴力性に、プラグマティストたちはなにか“胡散臭さ”を感じるのであろう。

プラグマティストによると、真理という概念を、実在や本質と照合する思索の構えはナンセンスな知的自慰(大杉栄)に過ぎないのであろう。

真理とは、伝統的な哲学の語りで語るなら、「どこの誰にでも当てはまる普遍的なあり方・状態・法則」のことであろう。プラグマティストたちは、そうした考え方に対するレコンキスタを目指し、真理に対する「死亡宣告書」を出しているのであろうか……。そうであるとするならば、われわれに残された状況とは「どこの誰にでも当てはまる普遍的なあり方・状態・法則」の存在しない世界となる。この世界ではケセラセラなるがゆえに、熾烈な物取りゲームの掟しか存在しないあり方となってしまう。

しかし、そうでもないようである。
デューイにしても、ローティにしても、相対主義の絶対化を主導しているようではなさそうだ。

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……「それらが正しいか」と問うことではない。そうではなくそれは、「それを信じるとはどういうことなのか、もし信じたとしたらどうなるのか、わたしは何に関与していることになるのか」と問うことである。われわれが観察よりも理論、インプットよりもプログラミングにかかわるとき、まさにわれわれは、観想、見ること、テオーリアのボキャブラリーから立ち去るのである。観想的精神が瞬間の刺激からはなれて、大きな視野でものをながめようとするとき、その活動において決定されていることは、ある表象が正確であるということよりも、何をすべきかということであるように思われる。それゆえジェームズの真理についての箴言に従えば、実践のボキャブラリーが不可欠となる。
    --前掲書。

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デューイとローティの核として共通している点は「対話」によって「他人に危害を加えない限りの干渉されない自由」の確立である。
所与の絶対的な真理なるものを前提として確立する、乃至は観照することを放棄する代わりに、対話による相互認識によって共通了解としての“小文字”の“真理”立ち上げていくことである。
「真理」とはものごとの精確な表象や普遍的実在ではない。
自由で開放的な意見の交流から生じた信念なのではなかろうか……。

プラグマティストたちの言葉に耳を傾けるとどうもそう思わざるを得ない。
所与の真理が前提条件として“強要”されることよりも、自由に探求するひとびとが立ち上げた“共通了解”(それを「真理」と小文字でいってもよいのかもしれませんが)のほうが“魅力的”で“素敵な”真理かもしれません。しかし、それが権威にならないよう「ひとつの「有望な実験」として構えを手放してはならないだろう。
その実験を無限に続けてゆく中で、本物の真理が、汗を流し、悩み、そして人の言葉に耳を傾け、自分の体験をかたる賢衆のなかから立ち上がるのだと思います。

真理に何か絶対的な所与の“相手を観念させてしまう”価値はないのかもしれません。
真理に“価値”を見出し“創り出す”、そして真理を真理たらしめるのは、ひととひとの語り合いから始まるのではなかろうか……そう思えて他なりません。この意味で、もう一度、伝統的な西欧形而上学の構築した「真・善・美」を再検討する必要はあるのでしょう……。なかなかそれを行う時間のない寂しい宇治家参去です。

と・わ・い・え……
ご破算にするようで恐縮ですが……
プラグマティストたちの刺激的な言い方(これがフランスの現代思想家だと“戦略的”な言い方になるのでしょうが)に惹かれる一方で、伝統的な哲学者であるカントのような発想(真理(カントの言葉では「物自体」ですが、そうしたものがあったとしても有限な人間存在はそれを確認できないという考え方)にもどこか惹かれるの現実です。

真理とは難しいですね……。

ということで、まだ続きます。

ま、今日は講義の中で、教材だけに集中せず、宇治家参去の「きわめてごく私的な考え方ですが……」と断りをいれた上で、真理論とか価値の問題に関してすこし突っ込んで話してみました。

それはそれで良かったのかも知れませんが……学生さんのリアクション・ペーパーを読んでみると次のようなコメントが出てくる。

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先生はよく「私の哲学を語ってしまって申し訳ないですが……」と言いますが、宇治家参去先生はご自身の哲学(観)以外に何か語れるものを持っているのですか?

一般的な見解や哲学史を勉強するならわざわざ大学に来なくても本を読めば事足りると思います。「この授業でしかできないこと」を考えると、宇治家参去先生の哲学以外に学ぶべきものはないように思います。「個人的(プライベート)なことを公的(パブリック)なところで話てはいけない」というのは日本人の一般的な傾向性として悪い癖の一つだと思います。
確立した「個人」のないところに哲学も宗教もないのではないですか?

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まさにその通りですね。
哲学の歩みなるものを語る際、それを自分の営みとは別次元にある、どこか余所の物、できあがった物、ファイナル・ボキャブラリーとして語ることとを“公的”語りとし、そして自分が哲学を語ることを何か“私的な”語りとして自然に選り分けていたようです。
そしてプラグマティストたちが批判し、自分が自戒せねばと思っていた惑溺に対して、“冴えた”学生さんが冷や水を浴びせくれました。

くどいようですが、カントは次のように言いました。

「ひとは哲学を学べない。学べるのは“哲学する”ことだけだ」
「自分の知性を用いる勇気を持て」

学問とは、どこか別の世界にできあがったものとして存在し、われわれがそれを“観照”することが、学問を学ぶということではないのかもしれない。

先人の言葉に耳を傾けながら、逃げることの出来ない・共約不可能ないまこのとき・この場所で考えながら、そのことを他者とすり合わせていくしかありません。

そうでないと学問という営みは次のようなつまらない営みになってしまうのだろう。自戒をこめつつ……、すこし自分に自信をもちつつ、自惚れないようにしながら……。

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対話と熟慮の必要を回避し、容易に事物のあり方を確認できるような方法を求める。この考え方は、興味ある重要な事柄についての信念を、可能なかぎり視覚的知覚と同じ仕方で--ある対象の前に立ち、プログラムされている通りにそれに答えることによって--獲得しようとする。
    --前掲書。

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蛇足ですが……語句解説。
【プラグマティズム(Pragmatism) 】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0

更に蛇足……自分でURLを指示していながら、なんですが、レポートでwikipediaをコピーアンドペーストしてしまうと一発でばれますので、ご用心を(再提出になります)。

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