われわれが維持している日常的な感情
万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男
五月とは思えぬ暑さの続く毎日です。
今年の夏は炎夏との予想……。嚥下しそうです。
さて今日は、日中、たまったレポートを添削し、その後はこれまたたまった博論の資料に目を通しながら整理する。一段落して来週の授業の準備……。
夕食を取ると、細君が小一時間ばかり外出するとのことで、子供と二人でお留守番。
当初は、私が休みですので、存分にウルトラマンごっこをすると公言してはばからなかったわけですが、10分くらい“闘う”と、絵本に熱中する。
気まぐれといえば気まぐれですが、好きな方向や感性の集中には大いに敬意を払いたい。育つ新緑のように、育つ我が子が絵本を音読する姿を眺める宇治家参去でした。
さて……。
入浴の時間になったので、風呂へいれてやる。
細君より洗うのが上手だとほめられる。
たまにしかしないので、それが却って念入りになっているのでしょうか……。
不条理といえば不条理な世の中。
そして世知辛い風潮。
そうした現実を吹き飛ばす“生命力”を子供は秘めていることを実感する。
やがては彼もそんな“世間”にもまれるのでしょう……。
そうしたなかで、自己自身を見失わない基礎を作り、そしてひとびとを手放さない慈愛を選択する勇気を培うのがこの時期かもしれません。
微力ながら尽力したいと思う宇治家参去でした。
ちょうど、カミュ(Albert Camus,1913-1960)の手記を読んでいたので、ひとつ。
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世界を明るくし、それに耐え忍べるようにしているのは、世界とわれわれの絆から--また、より個別的には他者とわれわれを結びつけているものから、われわれが維持している日常的な感情だ。他者との関係は、たえず持続をわれわれに働きかける。というのは、そうした関係は常に発展を、未来を予想しているからだし--またわれわれも、あたかもわれわれの唯一の務めは、まさしく他者との関係を維持することであるかのように生きているからだ。だがやがて、それがわれわれの唯一の務めではないことに気がつきはじめ、またとりわけ、われわれの意志だけがこうした他者を手もとにひきつけているのであって--たとえば、書くこともしゃべることもやめ、たった一人になってみたまえ、他者は周囲から消え去ってしまうだろう--実際多くは相手に背を向けているのであり(悪意からではなく無関心から)、あとの連中にしたところで、いつかは別のもに関心を寄せる可能性を常にもっていることがわかりはじめると、ひとは、われわれが愛とか友情とか呼んでいるものに突然訪れる不慮の出来事や、偶然のいたずらを頭に浮べる。すると世界は夜に変じ、われわれはまたわれわれで、人間の温かい情愛がせっかくそこから救いあげてくれたのに、またもとの冷たい世界に帰ってしまうのだ。
--カミュ(高畠正明訳)『反抗の論理 カミュの手記2』(新潮文庫、昭和五十年)。
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ひととかかわること、そして世界とかかわることは勇気が必要なのかもしれません。
自己自身と他者を結びつけている絆をこちらか切断しないようにしたい。
その絆を吟味してひとを励まし、存在の自覚を促すのが存在論的倫理学の使命かもしれません。
シーシュポスの神話 (新潮文庫) 著者:カミュ |
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