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収集し分類する人間 そして片づける人間

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 リンネ--この視覚の天才については、エラズマス・ダーウィンについてと同じように、人間の行動の観察が外界に集中しているにしても、彼の眼差しは気持ちよく整理された可視的な自然に向けられていた、ということができるだろう。つまりリンネはたんなる観察者、たんなる傍観者にして収集家なのである。彼は『神罰』という本にならなかった著作物の作者ではなく、万物の造物主に由来する原理の告知者にすぎない『神罰』の提示する事例集には、動機と行動結果との比較考量をうながす懐疑論的なところがいっさい見当たらない。しだいに台頭しつつあった、人間の内面についての動機論や気質論に比べれば、リンネの可視的なものの道徳は古めかしい印象を与える。植物学や動物学のような、可視的なものを対象とする学問に影響を受けているだけに、彼の道徳経済学においては、妥協のない明瞭さが主調をなしているのである。
 アダム・スミスは、個人の行動は意図せぬ結果をもたらす「見えざる手」によって導かれていると信じていたが、リンネの場合、このような考えはその片鱗すら見られない。リンネの確信するところによれば、神は人間を被造物の基準としてつくった。それゆえに人間が自然の道徳的均衡に違反することは、とりわけゆゆしいことなのである。人間は「自然」のなかであまりにも高い地位を占めているため、「社会」における個人は、自分の行動結果など予見できないといったからとて、その行動結果から逃れることはできない、とリンネは考えていた。
 一九世紀の進化論が社会科学の分野で主導的理論となったのは、進化論が人間を最終的に優位におかなくなったからでもある。「人間も例外ではない」とチャールズ・ダーウィンはノートに記している。精神科学の歴史のはじまりが、自然神学と弁神論の範囲内で設定された諸問題から自然および道徳が取り除かれたときだったとしたら、精神科学の前進は、個人の排除を特徴とする。そして最後に、社会は個人によって構成されているのではなく、個人の相互関係の総体なのだという、マルクスの公式化した認識にいたる。鈴年がこのような思考の方向をとれなかったのは、なによりも、生物の学問(博物学)から生命の学問(生物学)を生みだすために貢献した比較解剖学の「平行進化」について、あまりにも知識がなかったせいである。一八世紀末葉と一九世紀の社会学が、社会的なものを対象とする自然科学に移行する途上で、まず最初に自然を、つぎに道徳を、そして最後に個人までも視界から消し去ったのに対し、リンネの視線は変わることなく具体的な個人に向けられていた。抽象化をおびた「平均的人間」には向けられなかったのである。
    --ヴォルフ・レペニース(小川さくえ訳)『十八世紀の文人科学者たち』(法政大学出版局、1992年)。

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近代の学問は、それ以前のドグマ的な思考から脱し、なによりもまず「観察」に基づく「経験」に沿って「記述」することをその大きな特色としている。前時代のあり方から、実証的な近代の学問への以降過程である十八世紀に活躍した人物のひとりがリンネ(Carl von Linné、1707-1778)である。

「現世の整理好き」だったリンネは「分類学(Taxonomy)の父」とも呼ばれる。自然界に存在するものを収集し、分類に情熱をかけ、近代博物学(Natural history)の礎を築いた存在である。情熱的な集中で、収集と整理、そして分類にあけくれた……。
いわゆる近代の科学技術なるものが爆発的な勢いで開花するのは、リンネの没後のことになる。従って、その前夜に活躍したリンネの業績は、科学技術の圧倒的な成果に対してみせると、一見無力で誤りに満ちあふれたものとして、すでに「乗り越えられた」感も否めなくはない。しかし、冷徹な科学技術者としてリンネの業績を検討するのは愚かな試みかもしれない。

リンネは確かに客観的な観察をこころがける科学者であった。
しかし、科学者という存在だけに終始したわけではない。当時は高名を馳せた文筆家としての顔ももっていた。リンネとは、冷静な研究をこころがける科学者でもありながら、想像力に満ちあふれた文士であったという希有な存在なのである。もちろん、文人としての姿にひとびとは注目すればするほど、リンネの博物学やその科学性を中途半端な“イカガワシイ”ものとして早計することは簡単だが、文人でありながらも科学を志向したその歩みを振り返って見るならば、単なる技術屋とか冷酷な実験室の科学者とは異なる、ひとつの全体人間の見本を見ているようである。
深い信仰心も兼ね備えたリンネの歩みは、あれかこれかの独断と億見を跳ね返す、「具体的な個人」としての「科学者」という、ヒポクラテスの誓いにも似た、理想的なあり方を示しているようだ。

さて--
リンネや博物学を論じるのが主ではありません。
子供の遊びを「客観的」に「観察」してみると、実におもしろい動きをしている。
うちの子供もリンネではありませんが、どうやら収集癖と(彼の中での自律した概念に基づく)分類が存在する。

ポケモンカード、ウルトラマンや動物のフィギュア、そしてウルトラ大怪獣バトルゲームカード……様々集めているようですが(過剰に与える細君の姿勢も問題ですが)、そのカードなんかを音読しながら、時折テーブルの上に並べています。

どういうルールや基準があるのかわかりません。

しかし彼のなかでの自律的な基準によって並べ、整理しているようです。
宇治家参去が手を出す(=助ける)とエライ剣幕で拒否されます。

邪魔するな!とのこと。

人は何かを収集し、自分の基準に従って分類したり、整理するのが大好きな生きものかもしれません。

そうした生きる力がひとつの形になり、彼における博物学という学問が、もしも誕生したというのであれば、こんなにうれしいことはないかもしれません。

どうも学問や科学というと、ひとは自分の実存とかけ離れたものとして相対しがちですが、むしろそうではなく、自己の営みと反省する中でそうした対象と関わることで、対象の実存的な意味合いが確立するのかもしれません。

ただ問題なのは……
並べたり、分類したりした後、それを片づけないことが問題である。
これはおそらくうちの子に限られた問題ではなかろうかと思う。

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Book 十八世紀の文人科学者たち―リンネ,ビュフォン,ヴィンケルマン,G.フォルスター,E.ダーウィン (叢書・ウニベルシタス)

著者:ヴォルフ レペニース
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