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傍観する人間は「非人間的」か?

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人間の生の現実とは大きく分類すると公共的な領域と、ごく私的な領域にその活動を分類することができるのであろう。前者はいわば政治参加や経済活動、広い意味での社会参加により社会正義とは何かを探求する分野であるとすれば、後者は、たばこが好きだとか、酒はやっぱり日本酒だとか、髪の長い女性が好きだとか……そういうプライベートな側面であろう。

伝統的な形而上学や神学は、その両者の統合をいわば目指して、神や自然、真理、理性というものを描きだすことに知的リソースを注ぎ込んできたのがその歴史である。たとえば、人間の本質とは理性的生き物である。個人の生を理性と描くことによって、ひとつの社会像を提示し、理性的であるとされる人間の道徳的規定が整備され、自己-他者論という物語が作られた。

そのほかにも人間の本質とは○○である……と論じ、いわば様々な個人の私的な領域と公共的な領域を体系づける試みが何度となく繰り返されてきたが、どうもうまくできていない……それが現状かもしれません。

そうした試み自体が無駄とかヨタ話に過ぎないと退けることは不可能です。またそこで議論し熟慮の末提示された人間像や社会観を全て廃棄せよ、と主張するつもりも毛頭無い。
そうではなく、“大文字”で表現される公共性と“小文字”で表現されるプライベートな部分を体系化し根拠づけ、正当化する思惑をあきらめたとき、実は、個人の生と他者との共生の新しいあり方が考えられるのではなかろうか……。

そう考えたのが、およそ一年前に惜しまれて亡くなったアメリカの哲学者リチャード・ローティ(Richard Rorty ,1931-2007)です。

ローティの考え方は明確だ。
人間の生の現実は私的な部分と公共的な部分にはっきりと分かれている。しかし両者をひとつにまとめあげるような理論や枠組みはない、というものです。人間は、自己を創造しようとする私的な企図--例えばそれが趣味や思考の問題から、精神的に高めていこうという側面まで--を追求しながら生きている。しかし、他方では同時に、他の人間がこうむる苦しみ(suffering)をできるだけ少なくしようと“生きることができる”。
ただ注のように付言すれば、ローティの言う私的とは、personalなではなく、solitudeにおいて行う“私的”活動です。

さて……
ローティの人間観といってもよかろうが(本人はおそらくそうよばれるのを一番嫌ったと思うが)、人間の生とは、私的な自己創造と公共的な連帯という相反する側面を併存させる位相から成り立っているということだ。プライベートな要求と連帯の要求はいずれも等しいもので、いずれかが他方に対して先験的に優位をしめるものではない。

これまでの全体的人間-世界観においては、単純化をおそれずにいえば、たとえば、人間存在における公共性をその本質と見るもの見方に従えば、プライベートな部分は恐ろしく制限され、極端にはしれば“滅私奉公”へ通じる回路となる。またその逆も然りで、公共性を破壊する“野獣”の疾走する“滅公奉私”へ通じる回路となる。

その両端を避けるローティの考え方の根本にあるのは、いわば本質実在論の拒否である。例えば、「共通の人間本性」なんかを想定し、そこから、私的なものと公共的なものを公共の優位に統合する欲望(例えばプラトニズムやキリスト教主義)、また逆に、私的な言語・発想が公共的な実存を決定するかのように考える傲慢さ(例えばニーチェ)は、ローティが批判して止まない発想である。

人間の生やその歴史がなんらかの制約を受けざるを得ない事実は論を待たないが、そうであるとすれば、そこで提示されてきた人間像や本質論はすべてなんらかの制約を受けている。そうであるとすれば、そうした普遍的な核心を「想定」し、そこから秩序づけるあり方は、「プロクルテスの寝台」に他ならない。
崇高なものを求める努力や営みは必要だが、それは“私”の営みである。私的な領域と公的な領域になにか“普遍”な“本質”やら“真理”が顔をのぞかせるとろくなことがないのかもしれません。

だからといってケセラセラの相対の絶対主義をローティは主張しているわけではない。
新たな語彙を創造せよ……である。
真理を発見したり、正しく記述することではなく、そうしたものを、より魅力ある仕方で描きなおすことの競争が必要なのではなかろうか……。
普遍でないということは変化するということである。
「より魅力ある仕方で描き直す」競争が続いていけば、最高とはいわないまでも、快適さと信頼は実現不可能ではないと思います。

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 もしあなたがアウシュヴィッツへと列車が通じている時代のユダヤ人だったとすれば、非ユダヤ系の隣人に匿ってもらえる見込みは、ベルギーではなくデンマークかイタリアに住んでいる場合の方が高い。この違いは通常、デンマーク人やイタリア人の多くは、ベルギー人の多くが欠いていた人間の連帯の感覚を示したという仕方で描かれる。オーウェルが示した見通しは、そのような人間の連帯が――用意周到な計画によって意図的に――不可能なものとされた世界だった。
 「人間の連帯」という言葉が意味しているものを伝統的な哲学のやり方で説明するなら、それは、私たち各人のうちには、他の人間存在のうちにも存在するそれと同一のものと共鳴する何か――私たちの本質的な人間性――がある、と述べることである。連帯という観念をこうした仕方で説明することは、コロシアムの観客たち、ハンバード、キンボート、オブライエン、アウシュヴィッツの親衛隊、そして、ユダヤの隣人たちがゲシュタポに引きたてられていくのを傍観するベルギー人は「非人間的」だ、と口にする私たちの習慣とも符合している。それは、こうした人びとは皆、まともな人間存在にとって本質的な構成要素を欠いているという観念である。
 そのような構成要素があることを否定し、「自己の核心(コア・セルフ)」のような何かがあることを否定する――第二章で私がそれを否定したように――哲学者たちは、いま述べた観念に訴えることはできない。私たちは偶然性を強調し、したがって「本質」「自然」「基礎づけ」といった観念に反対してきたが、そのことによって、何らかの行為や態度は自然に照らして「非人間的」だという観念を維持することができなくなる。というのも、このように偶然性を強く主張することは、どのようなあり方がまともな人間存在とみなされるかは歴史的な環境によって相対的であり、それは、どのような態度が正常であり、どのような慣行が正義にかなっているか否かについての一時的な合意に依存する、ということを含意するからである。とはいえ、アウシュヴィッツのような時代には、つまり歴史が大きく揺れ動き、伝統的な制度や行動パターンが瓦解するときには、私たちは、歴史や制度を超えた何かを求めるものである。人間の連帯、互いに共通する人間性についての私たちの認識を除くとすれば、それ以外に何がありうるだろうか。
――リチャード・ローティ(齋藤純一ほか訳)『偶然性・アイロニー・連帯』(岩波書店、2000年)。

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あらかじめ人間とはこうだ! 世界とはこうだ! と決めつけることこそ傲慢なのかもしれません。

そういえば、今日、市井の職場で、万引き者が巡回中の警官に現行犯逮捕。
詳細は省きますが……そのお方は「わたしにも守るものがある!」と叫んでいました。
犯罪者とはこうだ!……そういう見方はしたくないものですが、「わたしにも守るものがある」。
だから「守る者」同士の衝突をさけうるべく、あらかじめ、人間とはこうだという人間本質実在論をさけながら、変更可能な「魅力ある」ものの見方を競争し、連帯したいと切に念願する宇治家参去でした。

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偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性 Book 偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

著者:リチャード ローティ
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