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2008年6月

旨いもの・酒巡礼記:高松編 「串揚 ゴン太」

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旨いもの・酒巡礼記:高松編 「串揚 ゴン太」

さてスクーリング初日目。
21時まで会場で学生さんたちと懇談。
その後、やはり飲兵衛の血の騒ぎがおさまらず、学生さんの自動車で市内まで送ってもらう。あとは感をたよりに、適当に徘徊すると素敵な店を1軒発見する。

串揚 ゴン太
ひなびた感じの、古くからある感じの店構えだが、店内は比較的清潔で、席はカウンターのみ。

野菜・肉・海鮮といった定番な物から創作された珍しいメニューや地産の一品まで串はどれでも1本150円。サイドで冷や奴やなめ茸おろしなど小鉢類。ビールはモルツプレミアムで、地元の酒が並んでいる。

野菜、肉、海鮮、ひととおり注文するが、目の前で揚げてくれ、そのままだしてくれる。熱いのをふうふういながらほおばり、ビールですかっと流すと爽快感は百倍だ。

定番メニュー以外にもその日限りの素材も楽しめるし、宇治家参去のような一見さんにも温かく出迎えてくれる雰囲気がなによりよい。

お薦めは、明太子串。
明太子と言えば、そのまま食べるか、何かと合わせるイメージが強いが、明太子に串をさし、衣を付けてあげただけの一品だが、食べると明太子観を一新させること間違いない。

近くにお立ち寄りの際は、どうぞ。

串揚 ゴン太
香川県高松市古馬場町6-18
087-822-6725
PM18:00~AM3:00/Lo.AM2:30(定休日、日曜日)

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学とは人と人との間の局面的面受の関係

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 方法の問題において我々がまず顧慮しておかなくてはならないことは、総じて学問すなわち「問うこと」がすでに人間の存在に属することである。元来「学」とは「まねぶこと」「模倣すること」を意味した。すなわちすでに為し得る他の人についてその仕方を習得することである。それは第一に作用、行為であってノエーマ的な知識ではない。第二にそれは他の人との間に行われるのであって孤立人の観照ではない。学が特に知識に関する場合でも、すでにできあがった知識を単に受け取って覚え込むのは学ぶことではない。学ぶのは考え方を習得して自ら考え得るに至ることである。だからこの際ノエーマ的契機を抜き去ってノエーシス的計にのみ即するならば、学とは人と人との間の局面的面受の関係であるとも言い得られる。同様にまた「問う」とは訪(とぶら)いたずねることである。人を訪ねる、人を訪(と)う、というごとき好意的連関において、その人に安否を問うというごときことが行われる。安否を問うのはその人の存在の有りさまを問うのであり、したがってその人を問うことにほかならぬ、このような間柄の表現が問いの根源的意味である。
    --和辻哲郎『倫理学 (一)』(岩波文庫、2007年)。

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本日、倫理学@高松スクーリング、無事終了する。

実は体調があまりよくなかったのですが、無事に終了する。
熊本に引き続き、4名の受講。
ほとんどゼミ状態です。

非常勤なのでゼミはもてませんが、実質宇治家参去ゼミナール。
まずもって、皆様お疲れ様でした。

単位的には、およそ半年分の分量を2日でやるわけですが、その濃縮された授業に、我ながらお疲れ様でした。また聞かれる皆様のお疲れ様でした。

高松のOさん……草創期に苦労された壮年ですが今もってその厚い魂を滾らせ、学びに向かうあり方に最敬礼。

高知のSさん……スポーツインストラクターをされながら、モンスターペアレントと対峙されるあり方に感動、親子で通信教育を受講されているが、その学ぶココロに感動する。

大阪Wさん……倫理学のスクーリングが最後の面談授業の科目とのコトで、卒業は9月予定。倫理学のレポートを2通出せば終了です。その前に一生を決定づける教員採用試験が来月ひかえているとのこと。働きながら学び、自身の夢を一歩一歩を進まれる姿がまぶしい程輝いている。

大阪の御婦人Hさん。
かつて通信教育を学ばれていたそうですが(最初の学籍番号は81××)、出産・育児でいったん中断、本年より1年計画で再入学。現実との苦闘の中で、日常生活をふかく反省されるあり方に圧倒される。

そして現役の学生と怒濤の荒野を彷徨うヘタレ教師を温かく応援してくださった地域の卒業生の応援団の皆様ありがとうございました。学生も教師もいい刺激になり、自分としても鉢巻きを締め直したところです。

さて……
うえに和辻の文章を引用しましたが、改めてですが、真剣に学ぶ学生さんの姿に、ひとが学問に向かいあう発見と喜びの姿に“感動”する。

やはり学問とは無力ではない。

学問とはなにかできあがったものを学ぶのではなく、「学とは人と人との間の局面的面受の関係」なのであろう。もちろん、ひとりで教材に向かい合い、レポートを書き思索を深めることもそれと同様に重要だが、その両者が車輪の両輪となって有機的に結合したとき、本来の力を発揮するのであろう。

さて、恒例の深夜徘徊(?)のご報告はまた後日。

今日は授業終了後、そのまま空港へ向かい、そこで生ビールを一気に二杯仰ぎ、瓶ビール1本流し込む。飛行機で爆睡。帰っても何もないだろうなーと思っていたので、国分寺で降りて生ビール2杯、日本酒2合。

疲れた体にしみこむ、しみこむ。

自分自身へもご苦労様。

また皆様ありがとうございました。

もう寝て居るんだろうなーとドアを開けると細君がまだ起きていた。
簡単に今回の出張の内容を報告し、自室へもどると、レポートの山。
さ、現実、現実。
明日からもがんばろう!!

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エビスを轢き殺す

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十五、六歳の頃、ブルックリンの通りを、わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた。その一部を読んで、余りよく理解できなかったけれども、わたしは感激し、なんとくなくすばらしさを感じていた。年上の人がこの本を抱えているわたしに気がつき感心して、肩をぽんとたたいて、何か言ってくれないかとわたしはどんなに望んでいたことだろう。でも何を言ってもらいたかったのかたしかなところは分からなかった……
 時折わたしが思うことは、不安がないわけではないが、十五、六歳の若者は大人になったら何になりたいと考えているのだろうかということだ。この本が若者の気に入ってくれることを望みたい。
 今ふとわたしの心に浮かんだのは、若い頃に探し求めていた認識と愛が、大人になったらなりたいと思っていたのと違った結果になったのではないかということである。もしわれわれが成人に達するのはわれわれの親の親になるのことによってであるなら、そしてわれわれが成熟するのは両親の愛に代わる適当なものごとを見出すことによるのであるならば、われわれ自身がわれわれの理想的な親になることによって、最終的に円環は閉じられ、完全さに到達することになるだろう。
    --ロバート・ノージック(井上章子訳)『生のなかの螺旋 自己と人生のダイアローグ』(青土社、1993年)。

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倫理学とは、和辻哲郎の表現を語るならば、人間関係の在り方、ないしは人間関係の在り方を根源的に規定する人間の在り方を問う学問ということに帰着する。そうであるとすれば、自己と共同体の問題は、倫理学の大きな対象となるわけで、そこに政治学と倫理学の接点が見出される。

政治学は、ロバート・ダール(Robert A. Dahl, 1915年-)が図式化したとおり、①統治・権威・権力に関する領域、②領土(地域性)に関する領域、③主権・自足性・至上性に関する領域をカヴァーする社会科学のひとつの領域という意味合いがつよいが、そこに人間という存在が住まう以上、その関係性は大問題となる。マスコミという文脈で語られる政治学がパワーゲーム追っかけに終始し、その道筋を読み解くことに専念するイメージが定着しているのに対し、倫理との接点を考えると、現代(といってもこれも30数年来の伝統という意味ではすでに現代ではないのかもしれないが)英語圏の政治学が、パワーゲーム終始しない倫理と政治(倫理の展開)をめぐる議論を活況に呈しているのは、実り豊かな、人間学の業績として評価できる(といっても宇治家参去のようなヘボに評価されても意味はないのでしょうが……)。

さて、共同体と国家の距離観と経済感覚についての議論では、ジョン・ロールズ(John Rawls,1921-2002)の『正義論』に代表されるリベラリズム(liberalism)やチャールズ・テイラー(Charles Taylor,1931-)やアラスデア・マッキンタイア(Alasdair MacIntyre,1929-)に代表されるコミュニタリアニズム(共同体主義、communitarianism)、そして、ロバート・ノージック(Robert Nozick, 1938-2002)に代表されるリバタリアニズム(libertarianism)の思想がその大きな潮流をなしている。

海の向こうで、共同体と個々人のリアルな在り方に関してはまさに喧々諤々の議論が繰り広げられ、豊かな議論や方向性が提示されているのに対して、現実として本邦では議論の紹介はなされても、リアルな言論として展開されず、結局パワーゲームに終始するか、もしくはすべてを飲み込むエモーショナルな議論に陥ってしまうのがチト寒いところである。

さて……。
冒頭はリバタリアンの代表的論客とされるノージックの自伝的論集のあとがきのような部分からの一節です。
リバタリアンとは、神学的には決定論に対して自由意志の存在を唱える立場であり、政治学に置いては、他者危害の原則を金科玉条となす考え方である。すなわち、他者の権利を侵害しない限りおいて、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする政治思想である。この考え方の行き着くところは、無政府資本主義(anarcho capitalism)であり、現実的には自由放任(レッセフェール,laissez-faire)な夜警国家であろう。立場的に俯瞰するなら、リベラルを中心軸におくとすれば、その左右にリバタリアニズムと共同体主義が鎮座することになる。

ま、宇治家参去は、その両者の間をゆれうごく存在といいますか、リバタリアニズムのすっきりさには惹かれる部分があるわけで、倫理学的関心(発想の現実的適応)から徳倫理学の政治学的展開に興味があるわけですので、ノージックも読みます。

夜警国家、ないしは国家の介入の最大限の排除は、すなわち、具体的には小さな政府である。個人は他者に危害を及ばさない限りにおいて外部からの介入がまったくない……ある意味では理想です。それを内実たらしめる努力はいかなる政治思想をとるにせよ必要ですが、そうした人間の自由の尊厳を具体的な在り方として守る言説には妙にひかれるものです。

もちろん、ロールズの『正義論』で説かれる“無知のヴェール”や、共同体主義者の説く、共同体の在り方に大きな意味を持たせつつも、全体主義・国家主義とは異なる政策レベルを追求する言説にも惹かれるわけですので、その間を漂うしかありませんが、彼らの言説で興味深いのは、人間のこれまで来歴(成功と失敗、古典研究)を踏まえた上で現実のリアルポリティクスとの不断の対話を行っている点である。ゆえに、いかなる立場をとろうとも、そこに人間が見出されているがゆえに、思想の持つダイナミズムとリアリズム、そしてイデアルな方向性が示唆されていることに驚くばかりである。

政治学の世界はともすると(ともしないか……)、現実のリアルポリティクス一辺倒で終わる不毛な椅子取りゲームの記述で終わりがちだが、そうした不毛さを乗りこえる成熟した議論が必要かも知れません。

ノージックは、国家の正当性と限界を説くわけですが、まったく冷徹な権力議論を説いていない。そこには、引用文に吐露されているように、現実の人間に根ざした眼差しが存在している。

だからプロパーの倫理学者が読んでも面白いのであろう。

さて……。
土曜日からスクーリング講義で高松へ。
原則、前日現地入りでないと授業に間に合わないので、本日朝一のフライトです。
市井の仕事を終えてから、とっとと寝ようとビールを買って帰ったわけですが、自宅直前で落下、自転車で轢いてしまう。内部は爆発しませんでしたが、おおきな傷痕が残る。空けるのが怖いですが、飲んで寝ないと朝になる。

皆様もお気を付け下さいませ。
帰宅中、自宅間近になるとどうも気が抜けるのです。

ああ、もう家だ。

これが一番怖いですよ。今日のビール缶のように。

以前も三度、両腕を骨折しておりますが、すべて自転車での転倒。
そして、三回とも、自宅から200M圏内です。

ご用心あれ!

……って思ったけど、あんまり泡の逆噴射はありませんでした。
でも早く寝ないと起きられない。

ひとまず雨があがって良かった。

最後に蛇足ですが、高松でお会いする皆様方宜しくお願いします。

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でもそんなこと、案外よけいな事じゃないんじゃないかな

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例の如く、地獄のような市井の仕事に翻弄され、ベトナムのジャングルのなかを行軍する初年兵のような宇治家参去です。
パトロールが終わり兵舎へ戻り、冷たいビールで一息つく彼らの気持ちが我がことのように理解できる。

さて……地獄の職場から帰宅し、昼過ぎに届いていたDVDを鑑賞する。
小津安二郎の『お早よう』(松竹、1959)である。
ビデオテープはもっていたが、自分の部屋で鑑賞できないので、DVDを購入した。
風呂から上がり、一杯やりながら鑑賞する(自分の姿はまるでおっさんのようだ)。

これまで何十回となく小津作品はみているがこの『お早よう』もズバ抜けて痛快であり、思想的に深いものがある。

話の筋はこうだ。
舞台は昭和30年代の東京郊外の新興住宅地。
五軒の建て売り住宅が軒を連ねるのどかな、どこにでもあるような一角で、平凡で日常的なエピソードの断片をつなぎ合わせた作品だ。筋はあるようでない話だが、子供のコミュニケーション理論と大人のコミュニケーション理論が交錯し、小津一流のコメディセンス(完成と崩壊の同居)が通底をなしており、楽しくも考えさせる映画である。

映画の冒頭……。
多摩川の土手をあるく四人のこどもたち。
おでこをおすと、“おなら”で応える(=おならを出す)ゲームに興じている。
ときどき、“おなら”で応えることができず、“実”を出してしまう子供も居て面白い。
この子どもたちの家族がそれぞれの住宅に暮らしているわけだが、そのうちの1軒が林家のお宅。林家は、サラリーマンの主人(笠智衆)、その妻(三宅邦子)、妻の妹(久我美子)、小学生の息子2人の6人家族の構成だ。

映画の核ともいうべき事件がこの林家で勃発する。
林家の子供である実と勇の兄弟がキレて「挨拶を拒否する」のである。
きっかけはテレビ。
テレビが一般家庭にはいまだ普及していない昭和30年代前半のこと、大相撲のファンである子どもたちは、テレビをもつ近所のお宅(丸山家)へテレビを見に行く。ご近所からは素性がイカガワシイと揶揄されるウワサの立つ丸山家だから、そこへ子供があつまることを母親たちはよく思っていない。実と勇も、「英語を習いに行く」という口実で外出しながら、丸山家へテレビ鑑賞に出かけていた。集まった子どもたちは隣家の奥さんに見つかってこっぴどくしかられてしまう。

だが実も勇も、いくら叱れてもみたいものは見たいのだ。
そのあげく「テレビを買ってよ」とうるさくねだる。

笠智衆演じる父親は、ここにいたって雷様となってしまう。

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「だいたい、おまえは口数が多い。おしゃべりだ。やめろと言ったら、やめろ。だいいちお前たちは何だ。一つことをいつまでも。女の腐ったのみたいに。子供のくせによけいなことを言い過ぎる。少し黙ってみろ」
「よけいなことじゃないやい。欲しいから欲しいって言ったんだ」
「それがよけいだって言うんだ」
「だったら、大人だってよけいなことを言っているじゃないか。『こんにちは』『おはよう』『こんばんは』『いい天気ですね』『ああそうですね』『あら、どちらへ』『ちょっと、そこまで』『ああ、そうですか』。そんなことで、どこにゆくかわかるかい!! 『ああ、なるほど、なるほど』。 な~にが『なるほど』だい!」

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テレビが欲しいからダイレクトなメッセージを主張し、ねだりつづけた子どもたちにとっては、大人たちのメッセージのやり取りはどうしても、意味がないものに映ったのだろう。実と勇は、父親のいう「少し黙ってみろ」を文字通り実践し始めるのである。

 実と勇はすべてのコミュニケーションを拒否する。母親の呼びかけにも、隣人からの挨拶も、そして果ては学校の先生の問いかけに対しても。

そして実と勇の叔母である節子(久我美子……これがまた清楚で美しいのですが)とふたりの兄弟の家庭教師である平一郎(佐田啓二)とのやりとり。

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「どうしたんです、いったい?」
「よけいなこと言うなって言われたら、大人だって言うじゃないかって。『おはよう』『こんばんは』『こんにちは』『良いお天気ですね』って」
「ああ、なるほど。そりゃそうだ。だけどそれは、誰だって言うな」
「そうですわ。誰だって言います」
「でもそんなこと、案外よけいな事じゃないんじゃないかな。それを言わなかったら、世の中、味も素っ気もなくなっちゃうんじゃないかな」

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挨拶は「案外よけいな事じゃない」。
コミュニケーションが実用本位の有用価値の交換にだけ終始するとすれば、それ以外のコミュニケーションは、「よけいな事」になってしまう。
しかし現実にはそうではなさそうだ。
「よけいな事」がなくなっちゃえば、「世の中、味も素っ気もなくなっちゃう」のである。

ただし、「よけいな事」を発信しつづけると誰も受信せず交換不可能となってしまう。この部分が現実には難しいのですが。

嬉しいことに、細君がどこからか酒をもらってきていた。
八海山×3,久保田(千壽)×3(それぞれ720ml)。
起きたら「ありがとう」ということにします。
この酒を呑みながら、「お早よう」を見ながら、レヴィナスを読んでいたので、ひとつ最後に紹介します。

人間は他者の顔を見、眼差しを覚知したとき、よけいな事で世の中を味も素っ気もあるものにしているのではなかろうかと思いました。それが他者に対する責任であり、言葉の働きであるのかもしれませんね。
呑みながら書いているので説得力はありませんが、ひとつ。

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 倫理とは他者との、隣人との関係です(隣人の近さが空間的な意味での隣接と混同されることはない)。「隣人」、それはまずこの関係の偶然的な性格を浮き彫りにしています。なぜなら、他者、隣人は最初に到来した任意の者だからです。この関係は近さであり、近さは他者に対する責任です。脅迫的な責任であり、脅迫としての責任です。というのも、他者はまさしく私を包囲しつくすものであり、そのため他者は私の対自を問いただし、私を人質たらしめるほどなのです。人質であるという無条件は、それなしには「どうぞお先に」とさえ決して言えないような条件であります。(ということはつまり、道徳の昨今の危機において生き残ったのは、他者に対する責任のみであるということだ。尺度なき責任であり、それはいつでも完済することのできる借金とは似ても似つかない。なぜなら、他者から解放されることは決してないからだ。)このような責任は自我の分裂、その核-分裂にさえ至るものです。そしてそこにこそ、自我の主体性があるのです。
 意味すること、それはある者が他の者に対して意味することです。ここでは、「ある者」〔一者〕のほうが先行しています。<他者>への直接的曝露、一人称の曝露のほうが先立っているのであり、それは<自我>という概念によって庇護されることさえないのです。なぜなら、合法的な社会のなかで、いわばその概念によって構成され庇護される自我、そのような自我がいうまでもなく存在するからです。ところが、この私は<自我>の外に、概念の外にあるのです。「私」はすでにして<自我>として思考されているのですが、しかし「私」は、ほかの人間から逃げ隠れすることの不可能性ゆえに唯一の者にとどまります。ほかの人間から、要請をつきつける顔としての他の人間から私は逃げ隠れできないのですが、そのような他の人間は極度の曝露、直接的な曝露であり、全面的な裸出であり、それはあたかも、他者がただちに無防備な不遇者であり、そのような者としてただちに私に委ねられるかのようです。
    --エマニュエル・レヴィナス(合田正人訳)『神・死・時間』(法政大学出版局、1994年)。

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蛇足ながらに、最後にひとつ。
実はこの家庭教師・平一郎と実と勇の叔母の節子は恋仲でが、お互いに好意を言い出せない。映画のラストは、駅のホームで空を見上げながら、天気や雲の形の話でおわります。
実にコレは、子どもたちの言う「大人たちの無駄な会話」。
でもこれこそがふたりの「愛の言葉」であったりする。

くどいような持論ですが、人間世界まだまだ棄てたもんではありませんよ。

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【覚え書】鈴木範久「新渡戸稲造と対話の精神」

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学問の恩師の文章がありましたので、ひとつ【覚え書】として紹介しておきます。
先生のところへ伺ったときも、おっしゃっていましたが、新渡戸の真骨頂は、講演・対話にあるとのことでしたが、その現代的な意味をわかりやすくまとめた一文です。
鈴木先生の文章を読むと、本当に、無限にある豊富な引き出しから、1つを紹介していても、読みやすくかつ、論点をはずさずまとめ、資料的裏付けも決して手放していないところです。研究と教育はひとつものの裏表とよく言われますが、そうした真摯な研究と深い教育的配慮(情熱)が言語になるとこうなるのか……といつも唸らされています。

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 ところで対話の相手は人間ばかりかというと、そうでない。著作を通じてみられることは、しばしば自己自身に対する反省である。つまり自己自身も対話の対象になっているのである。それを深める方法のひとつに読書がある。読書をとおして著者との深い対話がかわされ、それが自己自身との対話へと進んでいく。こうして新渡戸の対話の相手は、宗教的な存在である「天」にまでいたる。
 このように新渡戸の対話の相手は広いが、人々との直接の対話も好んだ。学生食堂に出向いて学生に話しかけたり、路上で出会った幼児とも会話を楽しんでいる。
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このあたりなんかを読んでいますと、ソクラテスを尊敬した新渡戸がソクラテスに重なるように、宇治家参去にとっても鈴木先生がソクラテスに重なります。
通俗的な部分でも、歴史を振り返ってみると、その道を究める(=極める)うえで師弟関係は大切だとつねづね実感します。また極める上だけでなく、自身の人格を修養するうえでも不可欠の相対(あいたい)であると思います。

最後の薫陶をうけ、最後の弟子となった宇治家参去自身の、弟子としての本当の学問の研鑽・闘いをいやまして勢いよく開始せねばと反省しました。

それが学恩ある師への誓いであり、弟子の道なのだと思っております。

それでは、ひとつ。

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◇ 鈴木範久「新渡戸稲造と対話の精神」

 新渡戸稲造の『武士道』は、妻メリーの日本の思想や風習に対する質問が契機となっている。言い換えれば、『武士道』は新渡戸と妻との家庭内の対話にもとづく。
 新渡戸には、家庭外の各所で語った話で、いまだ全集に収録されずに残っているものも多い。それらをふくめ、最近、新渡戸の思想をよく語っていると思われる文章を集め『新渡戸稲造論集』(岩波文庫)を公刊した。
 同所を編集して気付いた点のなかで、「解説」に書きもらしたことがある。それは、新渡戸が、なによりも対話の達人であるという点である。同書の題名も『新渡戸稲造論集』とはせずに『新渡戸稲造対話集』にしたほうがよかったかと反省している。
 講演や講話をもとにした新渡戸の著作は、当然、だれかを相手にして語られたものである。それも高い壇上からの一方的講義でなく、ひとりひとりを前にして語りかける調子の対話といってよい。
 その対話の相手となると、札幌農学校、第一高等学校をはじめ多くの学校で教師をつとめたから、まず学生である。話を聞いた学生たちの回想によると、教室のみならず、自宅においても、せんべいを食べながらの談話の会が設けられている。新渡戸は女子教育にも力を注ぎ、いくつかの女性雑誌に連載するなど、女性相手の対話もしきりと行っている。
 国際連盟の事務局次長として外国人を相手に国際間の紛争の調停に尽力した活動はいうまでもない。アメリカでは交換教授として短期間に100回を超す講演をし、日米関係が悪化したときは、渡米して新渡戸なりの打開をはかろうとした。戦前の日本で、外国人と最もよく対話した日本人の一人であった。
 ところで対話の相手は人間ばかりかというと、そうでない。著作を通じてみられることは、しばしば自己自身に対する反省である。つまり自己自身も対話の対象になっているのである。それを深める方法のひとつに読書がある。読書をとおして著者との深い対話がかわされ、それが自己自身との対話へと進んでいく。こうして新渡戸の対話の相手は、宗教的な存在である「天」にまでいたる。
 このように新渡戸の対話の相手は広いが、人々との直接の対話も好んだ。学生食堂に出向いて学生に話しかけたり、路上で出会った幼児とも会話を楽しんでいる。他人との直接の対話にあたり、「応対談話の七要件」と題した心構えが語られている(『世渡りの道』)。その七要件を内容に即して書き改めると、次のとおりになる。
 ①気取るな②ありのままであれ③商売気を出すな④お世辞をいうな⑤卑下するな⑥人により言葉をえらべ⑦相手から学ぶように心がけよ
 これらの心構えを読むと、まるで新渡戸の尊敬するソクラテスの精神である。新渡戸は、ソクラテスを尊敬する理由として、第1に己をかえりみること、第2に人を区別しないこと、第3に高ぶらないこと、第4に修養を持続すること、第5に世評に頓着しないこと、の5点をあげる。
 新渡戸が日ごろ説いていることを参考にすると、このほかの大切な心構えとして、個々の人格の尊重と多様性を認める寛容さを加えたい。これらの心構えは修養によって養われる。対話を重んじた新渡戸は、対話の心構えを磨くために一生修養に心がけたといえる。
 新渡戸の対話の精神は、決して一夜にして形成されたものではない。さかのぼれば、札幌農学校時代、寄宿舎の集会において、級友の内村鑑三らと激しい議論を交わしている。友人らとの議論と反省、さらに読書のなかから、あの「太平洋の橋」たらんとの使命が兆(きざ)したといってよい。
 近年、札幌農学校の教育が顧(かえり)みられている。それは、教養と対話の精神である。卒業後、内村は英文『代表的日本人』を著し日蓮を最初に海外に紹介する。後輩の志賀重昂(しげたか)は世界中に広く足跡を残す地理学者になる。新渡戸稲造、内村鑑三、志賀重昂の著書と精神に、同じ北の大地に強い影響を受けた人物に教師・牧口常三郎がいた。ここに対話の精神の太い系譜が見いだされる。(立教大学名誉教授)

すずき・のりひさ 1935年生まれ。立教大学教授をへて、2002年、定年退職。主著に『明治宗教思潮』『内村鑑三』『日本宗教史物語』『聖書の日本語』。訳書に『代表的日本人』(内村鑑三)など。専門は宗教学、日本宗教史。

(出典)『聖教新聞』(2008年06月24日(火)付)。

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苦闘を無駄と呼んではならぬ / ‘Say not the struggle nought availeth’

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六月二十三日。

我が子が五歳になった。ちょうど、織田信長と同じ誕生日だ。
織田信長なんかにならなくてもよい。

人間と、そして人間の住まう世界を自分から手放さない人間になってほしい。
五濁悪世が人の世の常である。嘆いてもはじまらない。
今、君の踏み立っている大地だけが大地である。しかし天空には星々がきらめき、無限へと誘う。
大地が美しければ、天空も美しいように、大地に踏み立ち天空を仰ぎ見る君の姿も美しい。
そして、君と視線を交わしあわせるほかの人の姿も美しい。

貧乏な父さんは君に何もあげないよ。
なぜなら母さんからもらっているから。

そして間抜けな父さんは何も教えることは出来ない。だから、一つの詩を贈ろう。

読めるようになったときに読めばよい。

君のうまれた日にもあじさいがさいていたよ。
あじさいは雨に濡れた姿が一番美しいんだよ。
人間もおなじだよ、苦闘を無駄と叫んではいけないよ。

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苦闘を無駄と呼んではならぬ
     アーサー・ヒュー・クラフ

悪戦苦闘しても無駄だ、
  骨折り損だし、怪我をするだけだ、
敵は一向に怯(ひる)まないし、逃げる気配もない、
  結局元の木阿弥だ、などと言ってはならない。

希望を抱いて馬鹿をみるなら、心配が杞憂(きゆう)に終わることもある。
  もしかしたら、ここからは見えない戦場の一隅で、
まさに今、君の戦友が逃げる敵を追っているかもしれない、
  君さえいなければ、勝利は味方のものかもしれないのだ。

疲れきった様子で浜辺にうち寄せている波も、
  いくら苦労しても一歩も前進してはいないように見える。
それでも、ずっと彼方の湾や入江では、じわじわと、
  そして、黙々と、大きな潮がみちかけているのだ。

夜明けの時にしても、東側の窓からだけ、
  光が射してくるのではない。
東の空に太陽が昇るのが、どんなに遅々としていても、
  西の方を見るがいい、天地はもう明るくなっているのだ。

‘Say not the struggle nought availeth’
     Arthur Hugh Clough

Say not the struggle nought availeth,
    The Labour and the wounds are vain,
The enermy faints not, nor faileth,
    And as things have been, things remain.

If hopes were dupes, fears may be liars;
    It may be, in you smoke concealed,
Your comrades chase e'en now the fliers,
    And, but for you, possess the field.

For while the tired waves, vainly breaking,
    Seem here no painful inch to gain,
Far back through creeks and inlets making
    Came, silent, flooding in, the main,

And not by eastern windows only,
    When daylight comes, comes in the light,
In front the sun climbs slow, how slowly,
    But westward, look, the land is bright.
    --平井正穂編『イギリス名詩選』(岩波文庫、1990年)。

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「宇治家教授様」

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六月二十二日
 立派に人生を生きぬき、とくに、平凡にただ生活を維持するだけでなく、より偉大な人生の目的を見失わないためには、どうしてある種の感激が必要である。実際、人生を空しいものにすまいと思うならば、ぜひとも人生をそのような偉大な目的にささげなければならない。
 けれども、このような感激には、なお健全で冷静な良識の相当量が結び付いていなければならない。この両者の混和・強力から、世に役立つような人間の性格がうまれるのである。
    --ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫、1973年)。

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大学の授業とはいえ、基本的な知識というか共通了解というか基礎体力というか、そうしたところも話さないといけない。しかし、それを踏まえた上での、展開というか、血肉化させる部分というか、そうしたところも突っ込んで議論しなければならない。そのバランスが実に難しい。単純に外国語をひたすら輪読するとか、何かを覚えさせるのであれば葛藤は少しは少ないかもしれないが、実体のないような学問である哲学とか倫理学などを話す場合、そのあたりが非常に難しくなってくる。

先週も授業終了後、帰り始めた学生さんに「授業の内容は難しいか?」と確認したところ、「難しいのは当たり前だと思います。ただ、みんなおそらく、先生の話が聞きたくてきているので、多少難しかったとしても、きちんと聴いているのだ思います」とのこと。

ことしの受講生は、人数は少し減ったが意識が極めて高い。そうした意志と意志のやりとりのなかで、教室の中で語られる言説としての学問を“健全で冷静な良識”に変換していかなくてはと実感する。

さて、メールを確認していると、今日の授業で教材のプレゼンテーションをお願いしていた学生さんからメールが来ていた。パワー・ポイントのファイルでも早速送付してくれたのかと思い、確認してみるとたいへんなことに。

複数名で一つの発表を依頼してるのですが、段取りがうまくできず、またパートナー同士の意志疎通がうまくいかず、頓挫したとのこと。

きちんと時間に集まらない。
  分担個所をやってこない……。

「私は真剣に取り組んだ課題だったので、あの発表には悔しさを感じてなりません」

胃の腑をぎゅっとつかまれたようです。

ただ、うれしいことは、これでおわらせず、再度チャレンジさせてくださいとのことだ。
授業の組み立ては少し工夫すればしのげるので、お互いにパートナーと話し合うなかで、価値的な取り組みができるように助言しよう。終わったことを責め合ってもしょうがない。おたがいに傷つくだけだ。しかしそのことを忘れてもいけない。そのことを踏まえた上で、次の歩みを踏み出さない限り、価値など創造できないからだ。

……と、書いているといい時間ですね。早く寝ないと明日も早いので。
おやすみなさい、お月様。

で……。蛇足ついでに。
メールの宛名が「宇治家教授様」になっていた。
教授ではありませんが、すこし嬉しさを感じたダサイ宇治家参去でした。

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「参りました」

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知人からもらったカブトムシの幼虫が成虫になった。
動物とは不思議なもので、生まれ落ちた子馬がすぐにその足で大地にたつように、基本的にはすぐに生きてゆくことができるようになっている。それに対して、人間の赤ん坊は、生まれたおちたままの放置は不可能である。動物には本能があるが、倫理はない。しかし、人間には、本能もあれば倫理も必要となる。そうした一瞬をカブトムシに学ぶある日の宇治家参去です。

先日学生さんが提出したレポートを日課のごとく添削する中で、「これぞ」という作品に出会いました(返送する前にコピーしとけばよっかた)。

剣術の試合なんかでよくあるわけですが、立ち会いのすえ、破れて、まがうことなき真心で「参りました」と観念するシーン、これがレポートを読んでいるときどきあります。

まさに「参りました」です。

倫理学とは、人間のあり方とは何か(ないしは人間を含む様々な対象との関係はどうあるべきか)を探求する学問といってよかろうが、そのありかたを探求する現場は、戦場から遠く離れた作戦室とか実験室ではない。その生きる現場のなかで、また葛藤の中で、探求するのが倫理学のアクチュアリティである。

以前にも引用したが、日本を代表する倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)は主著『倫理学』の冒頭で次のように述べている。

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倫理そのものは倫理学書の中にではなくして人間の存在自身の内にある。倫理学はかかる倫理を自覚する努力に他ならない。道は邇(ちか)きに在りとは誠に至言である。
    --和辻哲郎『倫理学 (一)』(岩波文庫、2007年)。

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メーテルリンクの『青い鳥』ではないが、ともすれば、どこかに真実は存在すると人は考えがちだがそうではない。倫理学を学ぶとは自分自身の生活を深く反省・点検し、雄々しく生きゆく人間の智慧に他ならない。

さて、話がすっ飛びましたが、レポートの話。
現在、課題として出題されているレポートのひとつが、上述したような倫理学における問題意識をふまえた上で、筆者自身の日常生活での経験をその観点から叙述せよ……そういうスタイルの課題ですが、ひさびさに本当に「参りました!」というレポートを読んだ。

著者は、昨年の夏期スクーリングで宇治家参去の授業を受講された方で、介護関係のビジネスを展開されている人物です。老人福祉施設を実際に運営されているわけですが、介護の陥穽を問う経験を述べられておりました。

曰く……。
逆説的ですが、介護サービスにおいては介護してしまうと寝たきりになってしまう。そうならない介護は可能かどうか……そのことです。
介護といえば、デイサービスといった食事の世話から始まり、ショートステイから特別養護のありかたまで、様々な取り組みとサービスのレベルがあるわけですが、基本的には“生きること”をサポートするのがその任務である。

ただし、サポートとは、すべてこちらが援助してしまうことではないのだそうだ。

長年、施設を経営するなかで、筆者が実感していたのは、サポートをしていくうちに、対象者が寝たきりになってしまうという事実であった(おそらくこのことは当該者の施設だけに限定される問題でもないし、被サービス受給者の老化も一員を買っているわけですが)。たしかにサポートは提供しなければならない。食事を自分で口に運べない方や入浴ができない方に食事や入浴の世話を行い、継続的な機能訓練を実施することは大切だ。しかし、逆説的ですが、サポートに熱が入れば入る程、本人の機能が低下していく……そうした悪循環に葛藤されたようです。

そこで、筆者は、「生きること」を“サポート”する意味を問い直す。そのなかで、海外での福祉施設のレポートの実例をかたっぱしから取り寄せ、学習する。そして介護現場の臨床事例も学習する。何が本当の「生きること」の“サポート”なのか……。

そしてその苦闘の向かい合いの中で、一つ発見があった。
極めて日常的かつ卑俗な話題で恐縮ですが、排泄のサポートに実は核心にあったことを発見する。

高齢で入所する方のほとんどが、排泄を自分で出来ない状態で入所するわけではない。また入所して年月を経るなかで、自分で排泄が行えないようになるのも、老化ということは踏まえれば致し方ない。しかし、サポートすることがそれを加速させているのであれば、本末転倒である。そのことであった。

欧米の施設(※宇治家参去も典拠は確認していないので何ともいえないのですが)では、比較的排泄は自己で最終的に行わせるサポートのあり方を丹念に追求し、ぎりぎりまで実施させているとのことだそうです。排泄ほど、プライベートでかつ自然の要求はない。しかしこれを他人にまかせるようになると、人間という生きものはどうしても、当人の当人性が棄却されてしまうのである。排泄という一点が契機になり、どんどん症候が進展し、結局寝たきりを余儀なくされる……そういう流れのようである。

だからこそ、筆者の施設では、ほんとうにぎりぎりになるまでは、排泄の全サポートは行わず、逆に自分自身でふんばれるところまではぎりぎりでサポートするようになったそうである。その結果、入所して寝たきりになる高齢者の方がめっきりへったそうである。自分でできたときには、最大限にほめたたえ、苦難におちいったときは最大に励まし、自分自身の生きる力を引き出す介護の実例なのであろう。

生きることはお互いにサポートが必要であるが、自分で出来るところは自分でやるべきだし、そのぎりぎりまでのサポートは提供しなければならない。このことは福祉施設にかぎられたことではない。

卑俗かつ日常に根ざしたところからの発見の報告でした。
問題は高齢者福祉に限定された事象ではない。
生活を深く点検し、そこから智慧を湧現させる……現実には試行錯誤の連続かもしれないが、そこにしか盲点を突く突破口は存在しない。そう考えさせられた学習報告でした。

まさに「参りました」です。ハイ。

さて、こんなときに、一番読んですっきりするのは福沢諭吉の独立自尊論です。
最後に『学問のすゝめ』の一節からでもどうぞ。

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 独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを言う。自ら物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵に依らざる独立なり。自ら心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財に依らざる独立なり。人々この独立の心なくしてただ他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがるの人のみにて、これを引受くる者はなかるべし。これを譬えば盲人の行列に手引きなきが如し、甚だ不都合ならずや。
(中略)
 独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者は次第にこれに慣れ、その面(つら)の皮鉄の如くなりて、恥ずべきに恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる習い性となるとはこの事にて、慣れたることは容易に改め難きものなり。
(中略)
    福沢諭吉『学問のすゝめ』(岩波文庫、1978年)。

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きわめて蛇足ですが、同じレポートは出してはなりませぬぞ。念のため。

さ、さ、今日も疲れたので、マイルス・デイビスでも聴きながら、KIRINの『ザ・プレミアム無濾過<リッチテイスト>』でも飲んで寝ます。カブトムシも旨そうになにやら餌を舐めています。

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機嫌がよいこと、丁寧なこと、寛大なこと、等々……

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 人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは人格になるということである。
 幸福は肉体的快楽にあるか精神的快楽にあるか、活動にあるか存在にあるかというが如き問は、我々をただ紛糾に引き入れるだけである。かような問に対しては、そのいずれでもあると答えるほかないのであろう。なぜなら、人格は肉体であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。そしてかかることは人格というものが形成されるものであることを意味している。

 今日ひとが幸福について考えないのは、人格の分解の時代と呼ばれる現代の特徴に相応している。そしてこの事実は逆に幸福が人格であるという命題をいわば世界史的規模において証明するものである。

 幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎ捨てるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃(たお)れてもなお幸福である。

 機嫌がよいこと、丁寧なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
    --三木清「幸福について」、『人生論ノート』(新潮文庫、昭和六十年)。

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来週末スクーリング講義なので、その予習を午前中行う。
これまで授業では扱わなかった部分をやろうかと(ということはやっていたことを一部割愛することになるのだが)思案しており、ひとまず教材を読み直し、関連文献をさやさやとめくる。

教材では「道徳と幸福をめぐって」という表題で、倫理学の対象としての幸福論を扱っている。今日はその愁眉ともいえるカントの道徳的幸福論を確認するために『実践理性批判』(Kritik der praktischen Vernunft)と『人倫の形而上学』(Die Metaphysik der Sitten)を読み直す。特に後者の『人倫の形而上学』は面白い。

カントは「(自分自身にとって)同時に義務である目的とは何か」という問いを提起し、「それは自己の完成と他人の幸福である」と断言している。まず一般的な通念としてはあり得ないよな……と思いつつも、カントにおいてはそうではない。一般的に義務とか道徳的命令は、他者からの命令のカタチをとることを想定しがちだが、カントはそう考えない。他者からの命令に従うダケの生きものであれば、人間は、自然界の法則から自由でないように、自由な存在ではない。それは他律である。しかし、自分自身が“そうする”と決めて自己自身に対してそれをうち立て、内面の声の命令に従うならば、それがカントにおいては自由である。それが自律である。

発想が逆なのです。
通常道徳とかルールという他律をイメージしがちだが、他律においては真にルールは機能しない。しかし、自律においては、まさに自分で決めて守るのだがら、自由であり、ルールは真に機能する。だからカントは義務とか目的にこだわり続ける。幸福論に適用された場合、自己(人格)の完成と他者の幸福の促進が義務かつ目的の真の幸福論というカタチになる。

カントの幸福論を読みながら、幸福に浸っていたのですが、時間です。

市井の仕事へ行かなくては……。
サビシイ市場経済の間隙を漂うマルクスくんなので、

「おっ、マルクスくん、しごとですか。せっせ、せっせ」

市井の仕事へ向かう。

その休憩中に読み直すが、三木清の『人生論ノート』。
ちょうど、今一本かいている論文が、戦間期の近代批判をめぐる言説なので、同時代人としての三木清のエッセーを読みかす。

三木の文章を読む中で、実感するのが、三木もカントの影響を多大に受けているのではないかということ。もちろんカントよりは言い方がダイレクトで生々しい部分はあるのですが。戦前の大正・昭和の思想家は、例にもれずカントの影響(ないしは新カント派)をかなりうけていますので、指摘するまでもないのですが、「幸福を武器として闘う者のみが斃(たお)れてもなお幸福である」という言い方にはシビレますね。内面で想念するだけでなく、そこからその幸福を染み出させ(=実現させ)、「鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福」にしたいものです。そこに人間の人間らしさがあるのかもしれませんね。

人間という生きものは、とかく真の幸福とは何かと論じた場合、快楽や相対的な幸福をのりこえた、観照的な幸福を思い描きがちだが(それはそれで大切なのですが)、快楽や相対的と呼ばれる部分が滅却してしまっても、生活はどこか潤いがなくなってしまうのも現実である。

だとすれば、カントがよくいうように「あるべき」という理想を抱きながら、現実とがっぷり四つに組む中で苦闘するしかないのでしょう……。他人の幸福も自己自身の人格の完成もそうした浮世にしかないわけですから。ただ、その浮世を相対化させる視点としての「あるべき」という矜持も手放すわけにもいきませんが……。

さて……最後に日常ネタ。日常を彩り豊にする宇治家参去の好物の話題でも。
今日は細君が、宇治家参去が大好物である「トラピストクッキー」を買ってきてくれた。
見つけると購入するようにと指示を出してあるので、財布はこちらもち。濃厚なバターが口の中で拡がる、拡がる。ご存じの通り、北海道名物で、ローマ・カトリックの「厳律シトー修道会」(Ordo Cisterciensium Strictioris Observantiae)が製造している。日本では、宗教法人燈台の聖母との呼び名のほうがなじみがあると思います。

このクッキーを噛みしめるたびに思い出すのが、修道院そのもののモットー。すなわち「祈り働け」(Ora et Labora)です。祈りと働きの調和と統合を通して神を賛美する理念は、神を信じるとか信じないとか、私はキリスト者じゃないとか、そうだとか、そうした垣根をとっぱらってみた一人の人間として(何に祈るかは、ここではといませんが)、そうした人の祈りや労働を純粋に見つめ直す視点は、こんな現代だからこそ大切な考え方だと思います。

宇治家参去も「祈り働き」ます。

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蛙の子は蛙にならないでよろしい

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きょうは
バイトです。
生活がけっこう,
きついのでね。

さーてと,
商品をならべようーっと。

せっせ,せっせ。

いらっしゃーいませ。

レジもうたなきゃ。
ありがとうございましたー。

給料もらったよ。

えーと,
時間給800円で
8時間,はたらいたから
6400円か。

さ,これでやっと
好きなことができる
……

うん?
なんかヘンだな。

ボクははたらいているとき
ほんとの自分じゃないのかな。
でも,
はたらくことって
人間にとってたいせつなことだよね。

そうか

ボクは
はたらくこと,
つまり自分の本質を
切り売りしているんだ。

だから,はたらくことが
イヤイヤになり,
仕事がおわったときに
自分をとりもどす
なんて
ヘンなことになるんだ。

こんな社会は変えなくちゃいけないよね。
でもそのためには,もっと勉強しなくちゃね。

よーし,がんばるぞ。
    --植村光雄「マルクスくんの『労働からの疎外』」、『哲学のえほん』(PHP研究所、2006年)。

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こういうのを読んでいるとマルクスくんもピュアな人なんだなって思う宇治家参去です。絵本での劇中のマルクスくんのまんまの市井の仕事ですが、月末に出張を控えており、その休みの代替出勤がかさなり水曜から6連勤です。痛風で足がいたのいのですが、ま、やることはやらねば……と今日も汗だくの一日です。

さて、上で引用した絵本ですが、いわば大人向けの絵本です。
プラトン先生(イデア論)、デカルトくん(絶対的な確実性の探求)、カントさん(定言命法と自由の問題)、マルクスさん(労働と疎外)、サルトル氏(実存論)が収録されており、読んでみると面白い。教材研究のため購入した一冊だが、読み直してみると面白い。

そう……“読み直す”と表現したとおり、購入後手にとっていなかったのだが、ふと子供さんがみつけたことをきっかけに紐解いたわけです。

私の書架からこの本を見つけ出し、熟読している子供さんですが、当然漢字は読めません。細君の助けを借りて、何度も読み直しておりますが、ときどき覚えた言葉なのでしょうが、「イデア」とか「われ思う、ゆえにわれあり」と連呼してみたり、「ジブンデジブンニメイレイスル」(多分カントの自律の問題でしょう)とか叫んでいます。

何が面白いのか訊いても精確には答えてくれません。

ただ“哲学はオモシロイ”とのこと……。

嗚呼、息子さんよ、哲学を研究するとかは辞めてくれ給え。
お金になりませんから。
絵本で紹介されているマルクスくんのようなぼやきを出さざるを得ませんよ。

ただダサイのは、「絵本のなかでのマルクスくんは、パパと同じだね」と息子さんがいってくれるところ。チョイ違うのだが、境遇は同じなので、脱力です。

ソウイウシテキハシナイホウガヨロシイ。

蛙の子は蛙にならないでよろしい……そう断言したいのですが、細君曰く、本人がなりたいものになればよい……とのこと。ただし、宇治家参去が受けたような財政投融資を彼にかけることは出来ないので、ま、自然科学か社会科学にしておいてほしいところです。

さて、マルクスさんはピュアだった。
働くなかで労働の意味を問い、その自己自身から疎外を論じ、変革する方途を探求した。
本当にピュアなひとだったんだなあと思います。
『資本論』は大学2年の夏休みになんとか読み倒したし、『ドイツ・イデオロギー』は優れた名著だと思う。

ただ、その歩みを顧みるに、「私はマルクス主義者ではない」とのマルクスの嘆声も聞こえてきそうです。ま、マルクスには限らないことですが……。

さ、ぼちぼち寝ます。
最近、考察ができずすいません。

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『私に矛盾が多い、それは私が大きいからである』

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 内村は晩年に近く「矛盾について」(『聖書之研究』大正十三年八月、原英文)という一文のなかで、「詩人ワルト・ホヰットマンが曰(い)うた事がある『私に矛盾が多い、それは私が大きいからである』と。其の如くに神は最も大きい方であるから、矛盾の最も多い者である。彼は愛し給ふ、又憎み給ふ。彼は愛であると同時に又焼尽す火であり給ふ。そして彼の真の子供はいつでも克く彼に肖(に)る者である。パウロ、ルーテル、クロムウェル、彼等孰れも何たる矛盾の組合せでありしよ」といっているが、これは内村が問わず語りに己れを語った言葉とも見られる。内村にして然り、たえず状況的発言をしてきた福沢や、ロマンティックな詩人岡倉から相矛盾する命題をひろい出すのはいとも容易である。しかしまったく崩れを見せない人間が人間としての魅力に乏しいように、形式論理学の教科書のように整然とした思想が必ずしも思想として価値が高いわけではない。といってその場の思いつきのたんに雑然とした集合からは、どんなにその思いつきが斬新でも、オリジナルな思想家は生まれないだろう。この三人の言論と行動には、あらゆる矛盾を貫いて執拗に響きつづけるある基調音があった。まさにその何ものかが、彼等の矛盾にかえっていきいきとした生命力とはりつめた緊張を与えている。本当に個性的な思想とはそういうものではないか。もっとも個性的であることによってもっとも普遍的なものを蔵する思想こそ学ぶに値する思想である。と同時にまたそれは「学ぶ」に容易ならぬ思想でもある。もっとも思想家らしい思想の亜流に、往々にしてもっとも思想家くさい思想業者がうまれる所以であろう。
 「魂(ゼーレ)が語りはじめたとたんに、ああ、魂はもはや語らない」とF.シラーがいっている。思想がひとたび思想家の骨肉をはなれて「客観的形象」と化した瞬間に、それは独り歩きをはじめる。しかもそれが亜流の手にわたって、もてはやされ「崇拝」されるようになると、本来そこにたたえられていた内面的緊張は弛緩し、多角性は磨かれて円滑となり、いきいきした矛盾は「統一」され、あるいは、その一側面だけが継承されることによってかえってダイナミズムを喪失して凝固する。内村がその遺稿で「私は今日流行の無教会主義者にあらず」といったように、福沢や岡倉も今次の戦中戦後に生きていたならば、必ずや「今日流行の」福沢主義、また天心主義にたいして、憤りと若干の諦観をもって、同じ感慨をいだくにちがいない。著名なマルクスの嘆声(「私はマルクス主義者ではない」)は、かくしてあらゆる偉大な思想家が己の思想のとどめがたい運命的な歩みを目撃した時に洩らすつぶやきではなかろうか。
    --丸山眞男「福沢・岡倉・内村」、『忠誠と反逆』(筑摩書房、1992年)

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思想家とその思想を対象とする思想史ほど、方法論とか記述の仕方が曖昧なジャンルの人文科学はないのかと思うのですが、そうした思想なり思想家なりを扱う際の心がけを上の丸山眞男(1914-1996)の文章は語っている。

いつかは忘れたが、多分、修士課程のころ、今の指導教官が教えてくれた丸山の言葉ではないかと思う。ちょうど、日本におけるキリスト教受容の問題と神学思想の展開を追跡した頃で、(今でもそうなのですが)様々な問題群に興味をひかれるあまり、なかなか1点に集中できない悪癖があるのですが、そうした移り気に釘をさされるなかで、出てきた言葉ではないかと思う。どの思想家の思想をやってもよいのだが、根本的には、それをどうして扱うのか踏まえた上で、その対極がはっきり見えていなくても、関心としては自分の中での青写真(ヴェーバーのいう価値自由の自覚)が必要だ、そして最初はできるだけ、“大物”から研究しなさい、といわれたものです。なかなかそれがひとつの大きな成果にならないところが申し訳ないのですが、今年はひとつ提出する流れになっているので、よそ見をせずにまとめていきたいところです。

功罪あわせもつ大人物と呼ばれる思想家ないしは神学者ないしは哲学者たちは、うえの文章でも触れられているとおり、『私に矛盾が多い、それは私が大きいからである』を地の通り歩んだ人物が多い。最初はマイナーなほうがいいよな……なんて思っていましたが、そういわれ、大物を読むようになると、その矛盾に魅力を感じて読み耽るようになったものです。

さて……。
丸山眞男といえば、戦後日本の論壇をリードし、民主主義を擁護した進歩派知識人のひとりであり、左右両者から批判をあびながらも、確立した個人のあり方と歴史としての共同体との関わり方(あるべきあり方)を論じたその軌跡は、今なお光彩を失っていないと思う。もちろん、通俗的な左右からの丸山批判だけでなく、ポストコロニアル批評の立場からの丸山批判も散見されるが、やはり知の巨人であることには変わりない。宇治家参去ぐらいの世代までは比較的、丸山の名著とかベストセラーは読まれたものですが、最近ではどうでしょうか……。

大学で教鞭をとるようになってちょうど今年で5年目に突入するが、つくづく実感するのが、ゆとり以後の学としての基礎体力の低下と、ナショナルアイデンティティの自明化ないしは刷り込みの強化とでもいえばいいのでしょうか……、“日本は美しい国ですよ、貴方の言うようなことはないはずでは……?”のような雰囲気を“以後”の学生たちには顕著に感じるようになっている。時期的にも教科書問題以後の義務教育の学生さんたちということになるのだろうが……、そういうところには、デモクラシー(民権)とナショナリズム(国権)の緊張的なバランスを模索した丸山の歩みの入り込む隙間はないのかもしれませんね。そういうところには、少し寂しい部分を感じ取る宇治家参去ですが、逆からみれば、そう感じる宇治家参去は、一昔前の知識人のスタイルであると、ポストモダンの批評世界からは批判されそうですが。

いずれにしても、ナショナルアイデンティティの問題は、当人がどのようにそれに対する関係を結んでいくのかという意味では至極個人の信念系の立て方の問題になってくるが、それにしても、たえずその関係を問い直していかない限り、「本来そこにたたえられていた内面的緊張は弛緩し、多角性は磨かれて円滑となり、いきいきした矛盾は「統一」され、あるいは、その一側面だけが継承されることによってかえってダイナミズムを喪失して凝固」してしまうのであろう。このことは何もナショナルアイデンティティだけに限定される問題ではない。

宇治家参去の専門とする神学思想史の世界でも様々な論者を扱うが、たえず、テクストと向かい合うなかで、そうした陥穽に陥らぬ自覚と努力が必要であろう。もちろん陥穽に陥らぬ保証は全くない。現在の批判理論の指摘からも明らかである。しかし、そうしたアンチノミーを自覚しつつも、その対象を了解し、自らの自己認識を高めていく創造的過程を緊張的に継続していくほかあるまい。

「もっとも個性的であることによってもっとも普遍的なものを蔵する思想こそ学ぶに値する思想である。と同時にまたそれは「学ぶ」に容易ならぬ思想でもある。もっとも思想家らしい思想の亜流に、往々にしてもっとも思想家くさい思想業者がうまれる」ようにはならないようにしないといけませんね。

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Book 忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)

著者:丸山 眞男
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ビールはご自分でお注ぎになったほうがうまいと思います

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火曜は休みだったので、仕事を早めに切り上げ、夕方から家族で外へでる。
最初はファミリー・レストランか何かで済まそうと思ったのだが、あいにく改装中。
そこで、“仕方なく……”(?)飲み屋へ行ってしまう。

ビールの旨い季節になりました。
自宅で風呂上がりの一杯、また仕事を終えての一杯も捨てがたいが、やはり外で飲むのが一番旨い。できれば一風呂浴びてから外で飲むのが最高だ。
何しろ片づけをしなくていいし、ほしいものがどんどんくる(財布との相談にはなるが)。

さて、ビールにはやはり揚げ物が似合う。
旬の鰹の唐揚げでビールを飲む。

夏の暑さは大嫌いだが、暑ければ暑い程、ビールは旨い。

今年は炎夏との予想。
ビールが旨い夏になりそうだ。

最後にお土産……ビールの旨い飲み方でもひとつ。

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 ビールというのはね、料理屋の仲居でもそうだけど、本当の料理屋でない限り、まだ残っているうちに注ぎ足してしまう。これは愚の骨頂で、一番ビールをまずくする飲みかたなんだよ。
 ビールというのは成分がある程度飛んじゃうわけですよ、時間がたつと。そこへ新しい成分を入れるでしょう。せっかくの新しいあれがまずくなっちゃうんだよ。
 それに、ちょっと飲んだのを置いておくと、冷えてたのがある程度温かくなってきちゃうわけだ。そこへ冷えたのを入れても、本当に冷えた感じにはならないでしょう。中和されちゃうから。
 だから、ビールの本当の飲みかたというのは、まずお酌で一杯飲むのはしようがないね。それでグーッと飲んだからビールをまず自分のところへ置いとくんですよ。そして自分の手でやらなきゃビールというのはうまくないんだ。
 コップになみなみ注がないで、三分の一くらい注いで、それを飲みほしては入れ、飲みほしては入れして飲むのがビールの本当のうまい飲みかたなんですよ。
 欲を言えば、栓を抜くだろう、抜いた栓も上に乗っけてきてくれると一番いい。一杯注いじゃこうして栓をしておけば、気が抜けないだろう。
 なみなみと注いでグーッと一気にやるときのうまさはむろんあるけど、何回も何回もビールばかり一気に飲めないでしょう。だから、そういうときは、コップに三分の一ぐらい注いで、そのたびに一気に飲むようにしなきゃうまくないんだよ。
 それなのに、ちょっと飲むとすぐ仲居や何かが注ぐでしょう。接待のときもそれをやるからいけないんです。悪循環で全部飲めないからコップに半分残るでしょう。そうするとそのまま放っておくと何が気がつかないみたいでね、怠慢のように思われやしないかということになる。
 だからそういうときは、たとえば客を接待したとき、まず、
 「ありがとうございました……」
 と挨拶して、みんなと乾杯して飲んだら、新しいビールを客のそばに置いて、
 「ビールはご自分でお注ぎになったほうがうまいと思いますので、ここへ置かせて頂きます……」
 と、言えばいい。まあ、ばかにされた、沽券にかかわると思う客もいるかもわからないけどね。
 ちゃんとした一流の店で出すビールのコップは小さくて細いでしょう、だいたい。小さいコップでシューッとなっている、あれはビールの本当の飲みかたを考えているから小さいわけですよ。別にお体裁ぶって小さいわけじゃないんだよ。合理的なんだ、そのほうが。
    --池波正太郎『男の作法』(新潮文庫、昭和59年)。

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この世界には、あまたの悦びがあるのです

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 人間よ、人間的であれ。それがあなたがたの第一の義務だ。あらゆる階級の人にたいして、あらゆる年齢の人にたいして、人間に無縁でないすべてのものにたいして、人間的であれ。人間愛のないところにあなたがたにとってどんな知恵があるのか。子どもを愛するがいい。子どもの遊びを、楽しみを、その好ましい本能を、行為をもって見まもるのだ。口もとにはたえず微笑がただよい、いつもなごやかな心を失わないあの年ごろを、ときに名残り惜しく思いかえさない者があろうか。どうしてあなたがたは、あの純真な幼い者たちがたちまちに過ぎさる短い時を楽しむことをさまたげ、かれらがむだにつかうはずがない貴重な財産をつかうのをさまたげようとするのか。あなたがたにとってはふたたび帰ってこない時代、子どもたちにとっても二度とない時代、すぐに終わってしまうあの最初の時代を、なぜ、にがく苦しいことでいっぱいにしようとするのか。父親たちよ、死があなたがたの子どもを待ちかまえている時を、あなたがたは知っているのか。自然がかれらにあたえている短い時をうばいさって、あとでくやむようなことをしてはならない。子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい。いつ神に呼ばれても、人生を味わうこともなく死んでいくことにならないようにするがいい。
    --ルソー(今野一雄訳))『エミール (上)』(岩波文庫、1962年)。

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昨日は早く寝れば良かったのだが、気になっていたルソー(Jean-Jacques Rousseau,1712-1778)の『エミール』を読み直すと、明け方になっていた。ルソー自体は、苦手な哲学者のひとりで、正直好きではない。『エミール』は近代教育学を、そして『社会契約論』などは国民国家の問題や一般意思の問題を考えるうえでは避けては通れない翠点となっているため、向かい合わざるをえない。
ただ、ルソーの著作を読みながら実感するのは、「読ませる」哲学者だなというところです。本人自身も破天荒な人生を歩んだ人物ですが、常識や通念に囚われない斬新な発想と考え方は、自由な思考の翼を読み手に与えてくれる。朝まで読んでいたお陰で、今日の授業はキツかった。

ただし、今日の「哲学」の講義は、哲学(?)のプロパーというよりも、ゲーテに関する講義(哲学と文学)でしたので、ルソーを読んでいたのがちょうど良かったのかも知れません。『若きウェルテルの悩み』には間違いなくルソーの影響があるし、18世紀の精神といってよい啓蒙思想と、19世紀に迸るロマン主義という相反する二つの潮流が、ふたりのなかでは、対立的にではなく有機的に流れている部分もありますので、両者を読み比べてみるとなかなか面白い。

さて……。
ルソーはエミールのなかで「子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい」といっているが、この部分で思い出したのが、ゲーテの母親エリーザベト・ゲーテ(Catharina Elisabeth Goethe,1731-1808)の家庭教育のエピソードである。

『ゲーテ伝』には次のようにある。

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 この世界には、あまたの悦びがあるのです!
 その探し方に通じていさえすればいいので、そうすればきっと悦びが見つかります。
    --ハイネマン(大野俊一訳)『ゲーテ伝』(岩波書店、1983年)。

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ゲーテの母親は慈悲深く聡明な女性だったのでしょう。
この世界は、悲しい世界ではない。苦しい世界でもない。喜びにあふれた素晴らしい世界なのだという、おおらかな人間賛歌の励ましのようである。その人間賛歌をうけたゲーテだからこそ、世界へ開かれた普遍への回路と優しさを貯えた作品が生み出されたのでしょう。偉大な人物には偉大な母親ありです。

現実には、悲しい、苦しい、喜びに溢れていない世界である。だからこそ、その世の中に価値や意味を見出し、それを創造していく……そうした喜びを見出す癖が必要かも知れません。自分たちは価値ある存在なのだ……とともどに讃え合える社会は理想であるが、夢想ではない。

「口もとにはたえず微笑がただよい、いつもなごやかな心」を子どもたちは自然にもっている。「にがく苦しいことでいっぱい」にする必要はないのだろう。

そんなことを授業で感じながら、帰宅する。
今日は幼稚園が休みのため、時季はずれですが、子どもさんが七五三の写真を撮りにいっていた(時季はずれだとべらぼうに安いので)。

変わり者(?)なのか、血は争えぬのか(?)、狩衣か直衣を着て撮影したようだ。
ま、実に嬉しそうに写ってはいるのだが……。

 「この世界には、あまたの悦びがあるのです!
 その探し方に通じていさえすればいいので、そうすればきっと悦びが見つかります」

子どもたちだけではなく、大人たちも世界へ向かって「悦び」を見出すようにしていきましょう。

さ、大学の仕事も市井の仕事も終わったところですので、一杯飲んで寝ます。必ず「悦び」が発見できるので……。

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著者:ルソー
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【ご案内】6/28-29:地方スクーリング、高松へ(倫理学)

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【ご案内】6/28-29:地方スクーリング、高松へ(倫理学)

すこし告知が早いですが……。

来週末の土日、地方スクーリング(高松)にて、倫理学を講じます。
受講される学生さん方がいらっしゃいましたら、どうぞ宜しくお願いします。

で……。
例の如く定型文のような内容ですが……

できれば……といいますか、学生さん方へのお願いです。

これまでの、教科書に目を通した上で受講される方が、全体の2-4割前後です。
※昨年12月の高松での地方スクーリングでは逆に、それなりに教科書に目を通してきてくれた学生さんが8割で、スムーズに授業が進行しました!

さて……。
忙しいとは思いますが、目を通さずに、授業に望まれてしまうと、これはきわめて“モッタイナイ”状態です。

もちろん、こちらは、読んでいない学生さんの存在を前提に講義をすすめますが、できれば、全編を読んできて!とは申しませんので、序章から1章(できれば2章まで)ぐらいは、ザァーっと目を通してきて頂くと、うれしいです。

さて今回も、熊本の事例につづき、履修予定者6名。
またも宇治家ゼミとなっています。お互いに気の抜けない過酷な(?)ロードレースです。こちらも万端の準備と仕込みで乗り込んでいきますのでどうぞ、よろしくお願いします。

で……。

ここからが重要(?)

宿泊は、スクーリング会場とおなじ、高松テルサですが、近くに安くておいしいところがありましたら皆さん是非教えてください!

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善さは、集合的なありかたという匿名的なもののうえに光をはなつのではない

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善さは、集合的なありかたという匿名的なもののうえに光をはなつのではない。集合的なありかたなら、俯瞰的なかたちで呈示されることで、匿名的なもののうちに吸いこまれてしまう。善さがかかわるのは顔において啓示される存在であって、他方で善さはそれゆえ、はじまりのない永遠性をもつことがない。善さには始源(プリンシプル)、起源(オリジン)があり、一箇の<私>から発する主体的なものである。
    --レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限 (下)』(岩波文庫、2006年)。

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土曜は少しゆっくり休んでから市井の仕事へ行こうとおもっていたのだが、前日になって、細君から「明日は幼稚園の父親参観日だから早く起きて」といわれる。

「聞いてない」と答えたのだが、先月言っておいたとのこと。

例の如く、細君の話を“黙って聞いてない”宇治家参去です。

さて、当日。
朝一番で起きて、息子さんと登園する。
園庭での訓辞(?)のあと、各教室へ分かれ、前半は授業様子を観察し、後半は父子の共同作業となる。12時前に終了し、帰宅する。

細君と過ごす時間よりも、父親である宇治家参去と過ごす時間の方が、極めて少ないため、終始ご機嫌であったが、帰宅すると、日曜が「父の日」なる共同幻想の記念日であるため、細君と息子さんよりプレゼントを頂く。

息子さんからは、(幼稚園の授業で作ったものらしいが)ペットボトルを利用して作ったなんらかの入れ物。そして細君からは日本酒のプレゼント。

先(まず)は……
「ありがとうございます」

山口県の「特別純米酒 山猿」(永山酒造合名会社)……。
聞いたことのない酒だが、どういう基準で選んだか聞くと、「八海山」と同じ値段の数本から息子さんが選んだとのこと。どうせなら山形県産「十四代」を希望したいところだが、予算オーバーになってしまう。

ひとまず感謝する。
※と……いっても私が“強引”に“母の日”なる日にプレゼントを“強要”された額の方が高いのですが……それは言えませんよね。

記念日なんてあらかじめ造られた“幻想”にすぎない区切りである。
しかし、その“幻想”を廃棄した革命的社会には潤いがない。
だとすれば、こっちから“幻想”を楽しむしかない。

いうまでもなく、夫婦という関係も、その関係性においては、単なる作為的な人間関係にすぎないし、単なる両者の“幻想”関係だ。

革命家は“幻想”よりも“真実”を!……と探求し、あらゆる“幻想”を廃棄するラディカルなアクションを継続した。のこされたのは殺伐とした不毛な荒野である。しかし、そのアクションすらもうひとつの“幻想”であるにもかかわらず……。

で……あるとするなら、“幻想”にのりかかり、内実を豊かにした方が、価値的だ。

財布と相談しつつも、こういう機会だからこそ、“幻想”を“戦略的”に、そして“作為的”に、“善い”方向へスライドさせた方が心地よい。今回は細君の戦術に乗る。
幻想を回避・廃棄するよりも、それを幻想であることを把握した上で、利用したほうが潤いある生活を送りやすいからである。

挨拶すらもその意味では一つの幻想だが、それが関係における“潤滑油”となる。

「ありがとう」
「どういたしまして」

「おはよう!」
「おはよう!」

存在論的には、無制限の倫理的要求を突きつける顔と顔をつきあわせながら、“幻想”を“戦略的”に利用しながら、よりよき内実を手にしようとするある日の宇治家参去です。

とわいえ、幼稚園にいく際は、哲学者の矜持をまもり、上等なブルックスのスーツで登園したのだが、ネクタイをしめていたのは、宇治家参去ただ独りだった。終わってから、細君に聞くと、「軽装でよいとのこと」って指示があったとのことだそうだ。

それは、「聞いていない」。
……マジで。

匿名かつ集合的な視点から俯瞰せず、個別的かつ特殊的な視点から、普遍的なありかたを探求する宇治家参去の哲学性は、また内面に後退していくのであった。

ぐだぐだいっても始まらないので、とりあえず、『山猿』を賞味して寝ます。明日も早いので。

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愛煙家の沈黙

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対話の話をしたので、もうひとつ別の側面からみてみましょう。

最近、うちの子供さんがよくしゃべるようになった。
若干モゴモゴ言っていたり、幼稚園業界の専門用語を連発されると理解不能なところもありますが、まあ、よくしゃべったり歌ったりするようになりました。

非常勤って、研究室とかあるわけではないので、図書館にいないときは、必然的に自宅で作業をせざるを得ません。狭い家ですが、そういう作業場が必要になりますので、倉庫のような六畳一間をあてがわれていますが、そこで、書架の資料に眼を通したり、コピーをとったり、PCで入力したり作業をしています。

自宅で作業する場合、比較的午前中~昼過ぎぐらいまで、宇治家参去も家に居ることになってしまうので、細君とか、子供さんが、ま、つまり、乱入してきます。

こちらは、授業の仕込みをしたり、紀要の論文を書いたり、博論の資料を整理したり、そしてレポートを添削したり……、様々課題がつまっているわけですが、どうもそこを理解してくれません。

PowerPointでプレゼンの準備をしていると、細君が入ってきては、なにやらしゃべり出す。

Amazonで文献を購入しようと見ていると、子供さんが入ってきては、PCを奪い取り、円谷プロダクションのWebを閲覧し始める。

「仕事だ!」といっても……、無力です。

とりあえず、そういうときは一服します。

さて話がずれましたが、市井の仕事は夕方からですので、大学や図書館にでも行かない場合や、アポでもない限り、比較的家にいますので必然的に絡まれるだけでなく、話を聞かされます。

めんどくさいときはスルーするのですが、相手としてはそれがムカツクようですね。

「話を聞いていない!」

細君の場合は、「えっと、何だっけ?」でもう一度聞き返せば、それで済む(本当はそれでもよくないのでしょうが)のですが、子供の場合はそうはいかない。

言葉とジェスチャーが渾然一体となっていますので、まともとに“黙って”向かい合わないといけないということです。これをスルーすると、細君が激怒ります。

「子供の反応には、きちんと黙って応対し、きちんとほめたり、しかったりするように」
基本中の基本ですが、ときどきすっとばすので激怒られます。

語り手に対して、この黙って耳を傾ける。
そしてその上で、応対する。

ここが実は対話の肝要な部分かも知れません。

なかなか実践できませんが、心がけるようにしたいものです。

そういえば、社会学者にして平和運動家のクェーカー、E.ボールディング女史(Elise M. Boulding,1920-)の講演を聞いたことがあるのですが、次のようなことを語っていた。趣意ですがすなわち……

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人の意見に耳を傾けることから「平和の文化」は始まる。
自分と異なる差異に心から耳を傾けなければ、相手が何を考え、何を悩んでいるのかを知ることは出来ない。
意見の対立は善い学習材料である。
対立意見に耳身を傾ければ、見えなかった本質が浮かび上がる。
聞くことこそ、平和の実践の美しい模範にほかならない。

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対話というとなにか語らなければという気負いが先立つがそうではない。訊ねることと、沈黙し聞くこととは表裏一体だ。まずは気負わず向かい合うことが先決か。
単なる、一方的な言葉の発信は、独白にすぎない。

最後に愛煙家の哲学者ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin, 1892-1940)が対話の沈黙について語っていた部分がありますのでひとつどうぞ。

ちなみに、東京では7月より、TASPOの導入が始まります。愛煙家の宇治家参去も遅ればせながら投函する。6月末にスクーリングで高松市(香川県)へ行きます。今回は前回の新潟のように流れず一安心ですが、高松市は5月よりTASPOが導入されているはずなので、それまでに届けば良いのですが……。

さ、1本呑んで、1本吸って寝ます。

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 いかなる対話であれ、それが内容としているのは、過去を若さとして認識し、るいるいと拡がる精神の廃墟に対しておののきの眼をみはることである。これまでわれわれは、父祖たちに対して「私」を駆り立てたあの声なき闘いの場に眼を向けたことがなかった。だがいまや、眼の前に開けてくるのは、われわれが知らず知らずのうちに打ち砕き、葬り去ってきたものの姿である。対話は、失われた偉大なものを惜しみ、嘆くのだ。

 対話がめざすのは沈黙であり、そこでは聞き手は、聞くというよりむしろ沈黙する者である。意味を受け取るのは、むしろ語り手のほうであって、沈黙する聞き手こそ、汲めども尽きぬ意味の泉に他ならない。対話は、この沈黙する者に向かって言葉を差し向けるが、その言葉は、自ら意味を求めて手をのばす言葉、いわば空(から)の水瓶にすぎない。語り手は、かつてあったおのが力の思い出を言葉にこめ、聞き手がさまざまなかたちで現われ出てくるのを待つ。なぜなら、語り手が語るのは、おのれを改めんがためだからだ。語り手は、自ら言葉を発しているにもかかわらず、聞き手の言わんとすることを理解する--すなわち、語っている自分が言語を冒涜しているのに対して、そのような自分の眼の前にいる者の表情には、真摯さと善良さがぬぐいがたくしみついているということだ。
 しかし、たとえ語り手が空虚な過去をほしいまま色づけして語る場合でも、聞き手が理解するのは、この眼の前の語り手の発する言葉ではなくて、彼の沈黙である。なぜなら、語り手の魂はすでに霧散し、その言葉は空疎きわまりないとしても、彼は現にいま聞き手の眼の前におり、その顔はすぐ手の届くところにあって、しきりに動く唇の動きもはっきり見えているからだ。聞き手は真の言語を用意し、語り手の言葉を自らのうちに消え入らせながら、同時にこの語り手をじっと見つめているのだ。
 語る者は、この耳を傾けている聞き手のなかへと消え入ってしまう。だからこそ対話からは、おのずと沈黙が生まれ出ることになる。偉大なる者にとっては、対話はただひとつしかなく、その行きつく果てには、沈黙という偉大なるものがひかえている。これまでも、力がよみがえったのは、この沈黙においてであった。すなわち、聞き手が対話を言葉の果てまで導いてゆき、語り手はあらたな言語としての沈黙をつくり出したということだ。語り手とはつまり、このあらたな言語にまず最初に耳を傾ける者のことに他ならない。

沈黙とは、対話の内なる終極点である。創造を知らぬ者は、けっしてこの終極の点にまでいたることはなく、おのれの対話を独白とみなす。そのような者は、対話に背をむけて日記のなかへもぐりこむか、さまなくばカフェーへと踏み込む。
     --ヴァルター・ベンヤミン(道籏泰三訳)「若さの形而上学」、『来るべき哲学のプログラム』(晶文社、1992年)。

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人間が一人でいるというのは、よくないことだ

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 自分は所謂「同志」に紹介せられ、パンフレットを一部買はされ、さうして上座のひどい醜い顔の青年から、マルクス経済学の講義を受けました。しかし、自分には、それはわかり切つている事のやうに思はれました。それは、さうに違ひないだらうけれども、人間の心には、もつとわけのわからない、おそろしいものがある。慾、と言つても、言ひたりない。ヴァニティ、と言つても、言ひたりない、色と慾、とかう二つ並べても、言ひたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるやうな気がして、その怪談におびえ切つてゐる自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるやうに自然に肯定しながらも、しかし、それに依つて、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向つて眼をひらき、希望の喜びを感ずるといふ事は出来ないのでした。
    --太宰治『人間失格』(岩波文庫、1988年)。

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いつも若い者たちからよくいわれるのが、宇治家さんは、“同じ事しか言わない”ということです。“同じ事”しかないので、“同じ事しか言わない”わけですが……。

“同じ事”とは、以前にも書いたように、途中を端折ってファイナル・ボキャブラリーとして表現するならば、“ちゃんと生きる”しかないということだ。

しかし、この“ちゃんと生きる”ことが一番ムズカシイ。

人間とは不思議なもので、昨日できなかったが、今日頑張れた、しかし明日はがんばれないかもしれない。そうした不確定な現実のなかで、生の実存としては一人投げ出されたままである。そして実際に、動くの考えるのも、その意味ではアトム的な一個の個人しかその当体はありえない。決意しても長続きしないし、ぐだぐだが永遠に続くわけでもないのだが、一人で歩まざるを得ないが、歩みを進めるのは現実には困難な側面の方が多い。

しかし、存在としては“独り”の人間は、状況に投企された一個の究極的な実存に過ぎなかったとしても、事態としては決して“独り”ではない。

言葉があるからだ。
人間は言葉によって繋がることができる。
そして言葉によって自分自身を見直すことができる。
そして人間は、手を取り合って前に進むことが出来る。

だから思いや考えを“言葉”によって表現したい。思いや考えが、鏡に映し出されるように100%そのままに表象できないことなんてわかっている。また言葉というものが、実体と乖離した過剰としての幻想を生み出すことも重々承知だ。
だけど言葉によって表現したい。

※言葉だけでなく、音楽や造形美術もその表象のひとつだが、ここでは“言葉”に集中する。

一人の実存として“思う”ことは簡単だ。
しかし“思っている”だけでは繋がれない。
繋がれないと自己は闇に飲み込まれてしまう。
繋がることは勇気もいるし生命力が必要だ。
しかし人間は繋がりがないと生きていけないし、成長もない。

人生、一人では勝てない。成長できない。
だから友人がいる。学校がある。そして、人と人の間にいるのが「人間」だ。

文豪・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)は次のように語っている。

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人間が一人でいるというのは、よくないことだ

ことに一人で仕事をするのはよくない。むしろ何事かをなしとげようと思ったら、他人の協力と刺戟が必要だ

    --エッカーマン(山下肇訳)『ゲーテとの対話』(岩波文庫、1969年)。

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一人でコツコツやることは大切だ。その労作業なくして何事も成就できない。
しかし、それだけでは、大業は成し遂げられない。人間が人間となることも不可能だ。

思うことがあれば言葉にしてみる。
そしてひとと向き合う勇気を選択する。
そしてやることをやる。

人間よ、繋がりなさい。
決して、孤立してはいけない。

孤独の世界と、共同の世界を入ったり来たりする反復運動の中で、人間は人間となることが出来るはずだ。

今日は太宰治(1909-1948)の命日だ。
ちょうど亡くなって、60年たつ。

人間の闇と弧を見つめ続けたその作品は正直言って苦手である。ここで太宰論をぶちまくつもりは毛頭ないが、太宰がそうしたように、時には限界状況(キェルケゴール)として“孤独”する部分を確認したり、闇を見つめ直すことは必要だ。

しかし、孤立だけで終わらせてはいけない。
しかし、闇だけで終わらせてはいけない。

そして、孤立や闇に飲み込まれてはいけない。

人間よ、繋がりなさい。
美しくも、愚かである人間よ、繋がりなさい。

そして……
決して、軽々しく、“死”という言葉を口にしてはいけない。

※ “しらふ”で書いていますが、感傷的ですいません。

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地獄は克服できる

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水曜日はいつも書いているとおり、戦場のような……、そしてダンテ(Dante Alighieri,1265-1321) が『神曲』で鮮やかに描いて見せたように地獄のような市井の職場です。

市井の職場は、GMS(「ゼネラルマーチャンダイズストア(GMS)」)……。
衣食住を扱う小売業ですが、哲学者にとってはチト辛い現実との直面です。
食えないので、しょうがないのですが、仕事は仕事でめいっぱいします。
それが形而上学的な職業倫理というものですから……。

ちなみにいうならば、人間の生存と直結した衣食住を扱うが故に、人間の“むき出しの欲望”が横溢します。それをさらりと眺めながらいつも悪戦苦闘する毎日です。

さて……そうしたときに……市井の人間のむき出しの欲望の渦という地獄と対峙するとき……、いつも思い出すのが、ドイツの文豪でノーベル文学賞を受賞したヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse,1877-1962)の次の言葉です。
※蛇足ですが、日本ではヘッセは『車輪の下』のイメージでどこか青春小説としての文化受容ですが、ドイツではそうでなく、『デミアン』以降の深く精神を見つめ直す作品の作家として受け容れられています。

さてそのヘッセの言葉から……。

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地獄を目がけて突進しなさい。地獄は克服できるのです。
    --ヘルマン・ヘッセ(フォルカー・ミヒェルス編、岡田朝雄訳)『地獄は克服できる』(草思社、2001年)。

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どうやら、人間の世界において、人間に解決不可能な難事はまったく存在しないのです!地獄を避けるのが通例ですが、それに突進すると克服できる。真摯かつおおらかな人間宣言であり、現実の不条理を乗りこえるヘッセの言葉に励まされています。ヘッセは少年期から家族や社会や人生に“折り合い”を付けることが苦手で、たびたび挫折や苦悩を繰り返した人物です。たびたび自殺願望やうつにとらわれながらも、したたかに生き延びた人生でした。その心の苦しみからの脱出と現実への回帰をしたため言葉です。ナチの絶滅収容所を生き延びたユダヤ系心理学者・フランクル(Viktor Emil Frankl,1905-1997)に言わせれば、“それでも人生にイエスと言う”との響きでしょうか……、辛酸をなめた人物の言葉がゆえに、真摯な響きと本物の励ましを持っている。

さて、
今日は特に……“あり得ません”……でした。
ちょうど忙しい時間……、細君から電話がかかる。
こんな時に電話をといらつくのだが、話を伺うと、今日は息子様の剣術仲間のお宅へ遊び伺ったようなのだが、鍵を忘れて伺ったようで、今から宇治家参去の職場まで取りに来るとの要件だ。

「で……、今どこにいるの?」と訊ねると、
「売り場に居るとのこと」

「マジですかぁ~」

「早く持ってこい!」

今の職場に存在論的かつ目的論的な価値は全くない。
“ただ自宅から近いから(逆に言えばその分自分の時間をもてる)という意味”で就業しているわけですが、それがアダになる。

自転車で自宅から15分という近さが“アダ”となった……。

フロアでそれとなく、わが細君と息子様を目撃、他のお客様から不審な誤解をうけられないように、鍵を渡す。

で……例の如く、タイミングが悪いというかベストというか……内線のPHSが鳴り響く。
「すいません。お客様をお待たせしているので……レジお願いします」

「マジですかぁ~」

働いている宇治家参去の顔を嬉しそうに見上げる息子様へ“さらば”と告げ、レジに入る。

何人かサバクと、並んでいるのは細君と息子さんだった……。

先日、鍵を忘れて深夜に帰宅し、無辜の民の睡眠を邪魔した、“意趣返し”のひとときが始まる……。

さあ、パーティの開始だ。

細君の不気味な笑顔が、そう告げている。

他のお客様と同じ対応でスキャンする。

「ありがとうございました~。またお越し下さいませ」

金銭授受をし、次のお客様へ挨拶する。

やおら、息子さんが、私の背後にたち、「パパ、サヨウナラ!」という。

他のお客様への対応もあり、片手で商品をスキャンしつつ、もう片方の手でバイバイする。

恥ずかしさの血が駆けめぐる。

そのときのお客様曰く……

「かわいらしいお子様ね」

「ありがとうございます」

瀟洒なおばさまでした。

……やられた。
……自爆です。

細君に仕組まれた。

ある日のダサイ宇治家参去でした。

で……。

最後にヘッセの言葉にでも浸みてみましょう。

今生きているその現場にしか天国も地獄(仏教的言説なら穢土も寂光土)もありませんから……。
そこをレコンキスタするしかないですね。

トホホのホ。

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 私たちの今日の文化が貧しくみすぼらしいものであり、私たちの生活が堕落していて、私たちの精神的、および道徳的な資質がひどく貧弱なものであること、そしてたとえば中世に見られたようなはっきりとして単純な中心をもつ、信仰にもとづいた、健全な生活秩序と生活感情のほうが、私たちのものよりもはるかによく、純粋で、望ましいものであることを私は少しも疑っておりません。けれどこのように断言したところで、何の役にも立ちません。このような表明は言葉にすぎず、それどころか空しい言葉であり、したがって罪でさえあります。なぜなら、私たちは誰でも私たちの生きている時代の特定の形の中で生活しているのですから。私たちの誰もがさまざまな任務と問題の前に立っています。それらは一回限りの、はかないものですが、私たちにとっては全生涯に関わるものなのです。それは普遍的で理論的な問題ではなくて、私たちひとりひとりの、差し迫った問題なのですから。
 そしてこのような問題は、私たちが「解決する」ためにあるのではなく、耐え忍び、味わいつくすためにあるのであり、それらは私たちに課せられた苦しみであり、そして苦しみというものは、私たちが苦しみに耐え、苦しみを味わい尽くすというつらい道を通ることによってのみ、生きる力となり、よろこびとなり、人生に価値をもたらすものになるのだと私は言いたいのです。
 私はあなたに、これ以上のことを申し上げられません。一般的な言葉はすべてすぐにくだらないおしゃべりになるからです。
    --ヘルマン・ヘッセ(フォルカー・ミヒェルス編、岡田朝雄訳)『地獄は克服できる』(草思社、2001年)。

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ただし、帰宅すると、冷蔵庫に、銀河高原ビールと、サントリープレミアムモルツ<黒>が購入されていた。

なんか、“予定調和”(カルヴィニズム)されていたようで忸怩たるものですが、とりあえず、Thank you !

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前期西田のultimate concern

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余は現時多くの人のいう如き宗教は自己の安心の為であるということすら誤っているのではないかと思う。かかる考をもっているから、進取活動の気象を滅却して小欲無憂の消極的生活を以て宗教の真意を得たと心得るようにもなるのである。我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的其者であって、決して他の手段とすべき者ではないのである。
    --西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫、1979年)。

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『善の研究』をひもときながら、現存在としての人間の自己発展を求める人間生命の本然的要求こそが「宗教的要求」なのではあるまいか……後期西田にはみられぬ前期西田の溌剌とした発想に感動する。

日本で最初の独創的な哲学書と評された西田幾多郎の『善の研究』ですが……最近ではあまり読まれなくなっているのでしょう。そのへんが知的土台を支える基礎体力の喪失として悲しい部分です。(ときどき紹介しておりながらナンデスガ……)先端の批判理論やポスト・モダンの学際的叡智に耳を傾けることも大切なのではありますが、古典には、そうした知的流行とか趣味に左右されない脈動的な〝生命力〟がたしかに存在すると思われます。その意味では、まさに、先端と古典に両足を突っ込みながら、日々引き裂かれた自己の中で慎ましく思索するある日の宇治家参去です。

さて……、西田の話へ戻りましょう。
西田の発想に従うと、人間は、現在の存在状態よりも善く成長したいという要求を持っている。そして宗教とは、そうしたより善い(ないしはより大いなる)方向性を可能にするものである。ゆえに、安心立命を否定するわけではないが、それが目的ではないが、それだけにおさまりきらないダイナミズムを宗教の中に見出すことは可能である。それはいうならば、単なる現在の悩みの解決という〝消極的生活〟への展望ではなく、積極的な意義をもつべきものと考えなければならない。

その意味では、宗教は何か利益をもたらすわけではない。
カント的な目的論に従うならば、宗教が単に利益をもたらす手段でしかななかったならば、宗教に対峙する人間の自分自身はナニモカワラナイことになってしまう。宗教が人間の自己変革、成長を可能にするものと西田は認めた故に、「宗教は人間の目的其者であって、決して他の手段とすべき者ではない」と喝破したのであろう。もちろん利益を否定するわけでは決してない。それが目的ではなく結果としてもたらされるものにすぎないとの視点である。

ただなかなかここまで到達するのも困難なのが現実ですが……。

ちょうど今日NHKの報道番組を見ていた。
クローズアップ現代の「加熱する スピリチュアル・ブーム」(2008年6月10日(火)放送)である。

NHKのWEBに解説があるのでそのまま紹介します。

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占い、ヒーリング、デトックス・・・。いま。いわゆるスピリチュアルに関する マーケットが急成長している。書籍や家電製品、雑貨やゲームなど市場規模は 一兆円に達したという見方もある。目立つのは、これまでの10代、20代に加えて 30代以上での広がり。背景には成果主義の導入などで、不安や孤独を抱えていることあると見られている。一方でブームを悪用した悪質商法や詐欺も急増。全国の消費 生活センターに寄せられた相談は2006年だけで3000件を超えた。過熱するスピリチュアルブームの舞台裏に迫る。
(NO.2595)
スタジオゲスト : 香山 リカさん (立教大学教授)

http://www.nhk.or.jp/gendai/

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既成の(歴史)宗教が魅力と力を失ってから久しくなる。その過程でひとびとの魅力を掴んだのが疑似宗教(quasi-religon / ティリッヒ)としての共産主義とか民族主義といった宗教的な革命運動ないしはイデオロギーであるが、そうしたものももはや過去のものとなった感がある。そうした間隙を突くように伸張しているのが、占い、ヒーリングに代表されるスピリチュアルなる市場である。

スピリチュアルとはspiritual。邦訳するなら〝霊性〟とでもいえようか。
そうしたものへひとびとを惹き付ける社会的な背景とコンテクストも理解できる。成果主義や営業競争に疲れ果て不安や孤独を抱える人々が増産される社会システムの問題である。そしてその一方で加熱するブームに便乗したトラブル……。

個人的な見解を先に述べるなら、占いもスピリチュアルなるものも、その人間の救済や贖罪には全く無関係でナンセンスなものであると宇治家参去は思っている。

ちょうど南方熊楠が面白いことを言っているのでひとつ。

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 最後に、この俗信が天体ないしは気象現象に起因すると説明すると説明した人々にたいして、ある老婆がギリシャの哲学者に忠告したように、つぎのようにお尋ね申しあげたい。「この俗信については、地上にこのように(比較的)直接に辿ることのできる諸原因があるのに、それでもわたしらは、遠くかけはなれた天体に、間接的な曖昧模糊とした原因を探らねばならんのですか」と。

Lastly, to those explainers of the myth, who claim to have traced its origin in certain astronomical or meteorological phenomenon, I would, as an old woman's advice to a Grecian philosopher, like to ask,“while there exsits so ( comparatively ) directly traceable causes of the myth on the earth, must we seek for its indirect and vague origin in the very remote heavens ? ”

    --南方熊楠「燕石考」、『南方熊楠全集 別巻I』(平凡社、1972年)。

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 ここで南方がやり玉に挙げているのは、神話的俗信の「アストロノミカル・ミソロジスト」的仮説への批判であるが、占いもスピリチュアルも同じ根を持っている。

スピリチュアルを信じる、信じないは、極限的には個人の問題であり、そこに容喙する必然性と当為は全くない。

ただ、共通しているのは、それが「手段」となっているし、営業サイドも相手を「手段」としている点である。報道でもあったが、お互いに「手っ取りばやく」何かをもたらしてくれるのである。

どうやら「手っ取りばやく」癒しや救い、ないしは進路が確定されるようなのだ。

宗教学を対象とする学徒としては、そこまで踏み込む必要もないのだが、何かが違うのだ。

ついでにいうならば、宗教学でもこうしたスピリチュアルブームの分析が盛んで、そのフィールドワークも盛況である。そして比較的成果も出しやすい……。ただ、哲学的解釈学の影響と教義学の狭間で、思想史を記述する者としては何か、すこしそうした実証的研究にたいしてすこし違和感を感じているのですが(それが無意味ということではなく、それですべてを代表してしまうと言うことにですが)……話が再度ずれたようです。

で……手っ取り早さには、つまるところ、人間の生命論的な全人性に対する救いは約束されていないはずである。西田が論じたようにそれは「小欲無憂の消極的生活を以て宗教の真意を得たと心得る」ようにもなるのである。頼る心を足蹴にするのではない。人間の全人性の回復には何が必要なのだろうか……。

かつて神学者ティリッヒは、主著である『組織神学』のなかで、宗教を定義して「究極的関心事(ultimate concern)」と表現した。宗教団体の数ほど宗教の定義はあると俗に言われるが、その中では正鵠を得た表現であると思われる。人間を目的にし、その救済を可能にするのが宗教であるとすれば、まさに宗教の使命が今問われていると思われて他ならない。

ティリッヒが、「究極的関心事」に関わる宗教と、その宗教を装った現象を「疑似宗教」とを峻別に批判したように、疑似宗教では「究極的関心事」を代替することはいずれにしても不可能である。

「宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である」

逆説的ではありますが、宗教者はこの部分をもう一度再考する必要があるように思われる。

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“有機的知識人”の創出を願う

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 そのような(引用者註……M.フーコーに代表されるフランス現代思想家たちの主体/他者の戦略的認識図式)認識の暴力(epistemic violence)についての利用可能なもっとも明確な実例は、植民地的主体(colonial subject)を他者として構成しようとする、遠く隔たったところで編成された、広範囲におよぶ、そして異種混交的な企図である。この企図はまた、当の他者が危うくも主体-性を獲得するかにみえるときには、これと非対照的に、その痕跡を抹消しようとする。よく知られているように、フーコーは、ヨーロッパの一八世紀末における正気の再定義のうちに認識の暴力がはたらいていたことを確認している。そこではエピステーメーの徹底した分解検査がおこなわれたというのだ。しかし、その正気というそれ事態としては特殊な概念にかかわる再定義がヨーロッパならびに植民地における歴史のナラティヴの一部でしかなかったのだとしたら、どうだろう。この二つの認識の分解検査の企図が遂行されたのが、あるひとつの巨大な二人用エンジンの、分離された、それとは認められていない二つの部分としてであったとしたら、どうだろう。これはおそらく、パリンプセスト〔元の字を消してその上に別の字句を記した羊皮紙〕のような形態をとった帝国主義のナラティヴのサブテクストを「服従させられた知識」、「かれらの仕事にとっては不適切だとか十分に練り上げられていないという理由で知識としての資格を剥奪されてきた一組の知識、すなわち、ヒエラルキーの下方、認識ないしは科学性のレヴェル以下のところに位置づけられた、素朴な知識」(PK,82)として認知するように求めるということでしかないのではないか。
 こういったからといって、なにも「事態は実際にはどのようであったか」を記述しようとか、歴史を帝国主義の歴史として解釈しようとする歴史のナラティヴを歴史についての最良の解釈であるとして特権視しようというのではない。そうではなくてむしろ、現実についての説明とかナラティヴと称されるものがどのようにして規範的な性格の説明ないしナラティヴとして確立されたのか、その経緯を明らかにしようというのである。
    --G.C.スピヴァク(上村忠男訳)『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房、1998年)。

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冒頭は、フェミニズムとポスト・コロニアル批評の問題圏の交差するフィールドで活躍する批評家にして、社会活動の実践家でもあるインド人女性、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)の代表作『サバルタンは語ることができるのか』からの一節。

捕捉するならば、ポスト・コロニアル批評(Postcolonialism)とは、パレスチナ系アメリカ人研究者、エドワード・W・サイード(Edward Wadie Said,1935-2003)によって確立された批評理論で、手法としては『オリエンタリズム』に詳しい。第二次大戦後、それまで西欧列強の植民地だった国々は次々と独立を果たしたが、こうした旧植民地地域にのこる様々な課題を把握するために始まった文化研究のことである。対象としては文学作品やルポルタージュが集中的に論じられることが多い。
旧宗主国で、旧宗主国の言語で書かれた文学作品やルポルタージュなどで、植民地地域がどのように描かれているのか……。
まさにその言語によって表象されていること精緻に分析することで、旧植民地の文化がいかに抑圧されてきたのか(現在進行形として)を冷徹に解き明かす分野である。通俗的にいえば、西洋化とはすなわち文明化という名の科学技術テクノロジーと経済的合理性の勝利という名の押しつけなのだが、その構造や暗黙知の構造を暴き出し、植民地地域の文化の再評価のみならず、西欧の文化自身がローカルな文化にすぎない事実を問い直す物の見方を提供した。

サバルタンといった用語やスピヴァクの経歴に関しては、過去の日記の記載にゆずるが、今日、哲学の授業で、新しい試みとしてスピヴァクの言説を紹介した。

関連エントリは以下のURL
http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_e3d4.html

一番多かったのは……「ムズカシイ」でした、やはり。
それもそのはず、スピヴァクが批判の対象とするフーコー(Michel Foucault,1926-1984)やドゥルーズ(Gilles Deleuze,1925-1995)の理論や思想が、これまた輪をかけて難解だからだ。

ふたりの思想の、キー・概念となる「脱構築」にしても自己言及的な性格からその内奥が掴みにくい。プラトン以来の伝統的な形而上学が静止的な物の見方を前提に、そこから真理を想起的に発見するという在り方に対する異議申し立てである。古い構造を破壊し、新しい構造の生成がその思想運動の中核にあるといえようが、その場合、問いを発する哲学者自身の哲学の営みそのものも反省の対象となる。静止的な物の見方に対する異議申し立てとしての意義は理解できるのだが、それを地でやるのは哲学的達人でもない限りはなはだ困難である。

さて……。

今日は、平和についての議論の中で、静止的な物の見方に対する「脱構築」の話をさらりとながし、そのうえで、そうした批判理論に対峙する知と実践の在り方としてスピヴァクの考え方とその取り組みを紹介したわけです。

モノゴトを、アレかコレかと断ずることはたやすい。そして言語によって表象された在り方をそのまま認識し、構造化することはたやすい。しかし、その断じる行為、そして構造化すること自体、その瞬間に現実から乖離してしまう。そしてひとびとの声を奪っていく……。

考え方としてはストンと理解し、そうあるべきだよな……なんて思うわけですが、これを地でいくのは甚だムズカシイし、それを無限に自己言及していくことは、実にムズカシイ。

しかし、そうした矛盾に充ちたダブルバインドとしての現状のなかで、批評家風に安全地帯から訓戒をたれず、ひとりひとりが動いていくしかないのかな……などとも思ってしまう。

そうしたダブルバインドという現実に、宇治家参去も引き裂かれているわけですが……。

ただ嬉しいのは、そうした話を少しでも理解してくれる学生がいたところ。
大げさな言い方ですが、彼女たちが第二、第三のスピヴァクとして、それぞれの現場で奮闘する“有機的な知識人”となりゆくことを心より祈るのみ。

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Book スピヴァクみずからを語る―家・サバルタン・知識人

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実在の本性をめぐる対話から。

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ちょいと忙しく考察する暇がないのですが、アインシュタイン(Albert Einstein,1879-1955)とタゴール(Rabindranath Tagore,1861-1941)の真理概念をめぐる対話を再度読み直していたので、【覚え書】として自分自身に残しておきます。

ひとりは、理論物理学者の大家、そしてひとりは詩聖と讃えられた卓越したインド的知性の文学者。

真理をあらかじめ存在する所与の真理性として把握するのか、人間との関わりとの間で価値機軸として真理を見出していくのか……論者によって様々なとらえ方ができるかと思いますが、現状としてはその中間状態でしょうか……私の場合。

アインシュタインが真理の実在性(リアリティー)を信じるとき、「この点わたしは、自分の考えが正しいことをうまく証明することはできませんが、それがわたしの宗教的信念なのです」と答えているが、ここが真理の実在主義の難点かもしれない。

熱力学の考え方では、熱というものは、熱い方から冷たい方に向かって流れて逆には流れない。では、何故熱は高い方から低い方へ向かうのか?
このことは「解らない」。
単に経験的に知っているのが現状だろう(だれか捕捉してください)。

そうした法則性の覚知(発見)と、その実存的な意味レベルの難問をアインシュタインは、そう表現したのかも知れない。

ただ真理にせよ、人間論にせよ、先験的な本質実在論にはいささか警戒している宇治家参去ですし、タゴールのいうような部分だけでもないのでは……とすこし足踏みする宇治家参去です。

本質実在論も避けつつ、多元主義とは異なった真理相対主義をも避けつつ、真理を語るとはなにかを今一度考えないといけないのですが……、こうしたポストモダンの思想空間の中で、そもそも「真理とは何か?」などと関心を抱いている時点で、西洋形而上学のドグマに囚われているのかもしれません。

とぼそぼそしゃべってもしょうがないので、どうぞ。
すこし長いです。

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対談--実在の本性について

(以下は、一九三〇年七月十四日の午後に、カプト[ベルリン市]のアインシュタイン邸においておこなわれた、タゴールとアルバート・アインシュタイン教授の対話の記録である。)

 アインシュタイン(E) あなたは神を、この世界から遊離した・超越したものとして信じておいででしょうか?
 タゴール(T) 神は世界から遊離・超越してはいません。人間の無限のパーソナリティー[人間の宇宙的本性・人間の内奥の本来の自己・真我]は宇宙を包含しています。人間のパーソナリティーによって包摂されえないものはなに一つ存在しません。そしてこのことは、宇宙の真理はとりもなおさず人間的真理であることを証明しています。このことを例証するために、わたしはひとつの科学的事実を示しました--つまり、物質は陽子(プロトン)と電子(エレクトロン)から成り、両者の間には間隙(ギャップ)がありますが、物質は固体のように見えます。同様に人類は個々の人間から構成されていますが、彼らは互いに人間関係という相互連携をもっていて、それが人間の世界に生きた結合の固さを与えているのです。同じようにして、全宇宙がわたしたちとつながりをもっています。ですからそれは、人間の宇宙といえましょう。わたしはこの考えを、芸術や文学や人間の宗教意識をとおして追求してきたのです。
 E 宇宙の実体について、二つの違った考え方があります。すなわちその一つは、人間性とかかわりをもつ全体的統一(ユニティー)としての世界であり、他は人間的要因とは無関係に独立した実在(リアリティー)としての世界です。
 T わたしたちの宇宙が、永遠なものである人間と調和してあるとき、わたしたちはそれを真理として認識し、美として感じるのです。
 E それは、宇宙にかんする純粋に人間的な把握の仕方です。
 T これをおいて、ほかに把握の仕方はありえません。この世界は人間の世界です。この世界にかんする科学的な見方というのもまた、しょせんは科学者の見方にすぎません。それを真理たらしめている理性やよろこびにもある規範があります。それは永遠なる人間の規範であり、しかもその経験は、わたしたち個々の人間の経験をとおしてあるのです。
 E ということは、人間の存在の実体を実感するということですね。
 T そうです。一つの永遠なる実体を、です。わたしたちは、わたしたちの感情や行為をとおしてそれを実感し把握しなければなりません。わたしたちは、人間の人格的限界をもたない超人間性を、わたしたちの限界をとおして実感するのです。科学は、個人に限定されないものと関係をもっています。いわばそれは、諸真実の非個人的な人間世界と申せましょう。宗教もそうした真理を実感するのですが、それをわたしたちのより深い要求と結びつけてするわけです。そこでは、わたしたちの個人的な真理意識が、普遍的な意味をもつことになります。宗教は真理に価値を与えるものであり、わたしたちは、わたしたち自身を真理と合致させることによって、真理を善として識(し)るようになるのです。
 E それでは、真理や美はにんげんとは無関係に独立して存在しないというのですね?
 T そのとおりです。
 E としますと、もし人間が存在しなくなれば、ベルヴェデーレのアポロ[ヴァティカン美術館所蔵の有名なアポロ像]はもはや美しいとは言えなくなるのでしょうか?
 T そのとおりです。
 E 「美」についてのその考え方にはわたしも同感ですが、こと「真理」にかんしては承服いたしかねます。
 T どうしてでしょう? 真理は人間をとおして実感されるものです。
 E この点わたしは、自分の考えが正しいことをうまく証明することはできませんが、それがわたしの宗教的信念なのです。
 T 美は、世界の存在のなかにある完全な調和の理想のうちにあります。また真理は、世界の精神の完全な理解のうちに存在します。わたしたち個としての人間は、わたしたち自身の過ちやつまずきをとおして、またわたしたちの経験の積み重ねをとおして、さらにまた悟りをとおして真理に近づくのです。--でなければ、どうしてわたしたちに真理が認識できましょう?
 E 真理は人間性とは無関係に、確かな実在の根拠をもつ真実として理解されなければなりません。このことを、わたしは科学的に実証することはできませんが、固く信じています。たとえば、幾何学におけるピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なくほぼ真実といえるなにかを表していると、わたしは信じています。ともあれ、人間とは無関係に独立して実在(リアリティー)があるとすれば、この実在に関係する真理もまた存在するはずです。そして同じように、最初のものを否定することは、後者の存在をも否定する結果になります。
 T 世界的存在と一体である真理は、本質的には人間的なものでなければなりません。さもなければ、わたしたち個々の人間が真理として認識するどんなものも、すべて真理と呼ばれえなくなります。少なくとも、科学的なものとして記述され、論理の過程を経てのみ到達されるような、言いかえれば、人間の思考の機関をとおして認識される真理にかんしては、インド哲学によりますと、絶対的真理としてのブラフマン[梵=宇宙の最高原理]は存在します。しかしそれは、孤立した個人の理性によっては理解されることはありませんし、また言葉によっても表現されることはありません。ただ個我を完全にその無限性のなかに没入させることによってのみ実感されるのです。しかしながら、このような真理は科学の領域には属しません。わたしたちがいま議論している真理の性質は、目に見え、感じることのできる現象です--すなわち、人間の知覚に真実であるとして映じるものであり、それゆえに人間的なものと申せましょう。それはマーヤー、すなわち「幻影」と呼ばれてよいものです。
 E それでは、あなたの概念規定によりますと、そしてそれはインド的発想なのでしょうが、マーヤーは個人の幻影ではなくて、人類全体が見る幻影ということになりますが。
 T 科学においてわたしたちは、わたしたち個々の人間のこころのはたらきという個人的な制約を排除する試練を経、そして、普遍的な人間のこころのなかにある真理を理解・把握するに至ります。
 E そこで、真理がわたしたちの意識とかかわりなく存在するかどうかという問題が生じます。
 T わたしたちが真理と呼んでいるものは、実在(リアリティー)の主観的な面と客観的な面との間の合理的な調和のうちに存在しているのです。そして、その両者ともに、個を超えた人間に属しているのです。
 E わたしたちの日常生活においても、わたしたちが使用する物は、わたしたちにんげんとは関係なく存在する実在(リアリティー)であると考えざるをえない気持になります。わたしたちはこのことを、理性的・合理的な方法をもってわたしたちの感覚的な意識の経験に結びつけます。たとえば、この家にだれ一人いないとしても、机はあるところにあるといったことです。
 T たしかにそのとおりです。その場合、机は個人の意識の外に現存していますが、普遍的な意識の外側に在るのではありません。わたしが知覚する机は、わたしがもっているのと同じ種類の意識によって知覚されるのです。
 E 人間性から離れて存在する「真理の存在」にかんするわたしたちの生来そなわった見解は、言葉で説明したり証明したりすることはできません。けれどもそれは、だれも欠くことのできない信念です--どんな原始的な人間にも。わたしたちは真理を、人間を超えた客観性に属するものと考えています。この信念はわたしたちには絶対不可欠です。わたしたちの存在や経験や知性とはかかわりなく存在するこの実在(リアリティー)--それがどういう意味をもつかは言葉では言い表わせませんが。
 T 形をもった客体としての机が一つの現象であるということを、科学は証明しました。そしてそれゆえにこそ、人間の意識が机として知覚するものは、もしその意識そのものが無であるとするならば存在しないことになります。同時に、机の究極的な物理的実在(リアリティー)が、それぞれ分離して回転する無数の電力の中心の集合にすぎないという事実もまた、つまるところ人間の精神の作用に帰属するのだということが認められなければなりません。
 真理を理解するにあたっては、普遍的な人間の精神(こころ)と個人に限定された同じ精神(こころ)との間に、果てしない葛藤があります。その両者を調整しようとする絶え間ない努力の過程が、わたしたちの科学や哲学や倫理においてすすめられているのです。いかなる場合においても、人間性と絶対的に関連をもたない真理があるとすれば、それはわたしたちにとって絶対的に非存在です。
 その人の精神(こころ)にとっては、事物の連鎖反応が空間のなかで起こるのではなく、音楽における音符のつながりのように時間のなかだけで起こるといった、そうした一つの精神作用を想像することはむずかしくありません。このような精神(こころ)にとっては、実在(リアリティー)の概念は、そこではピタゴラスの幾何学もなんらの意味をもたないような音楽のリアリティーと似ています。文学のリアリティーとは無限に異質のものである、紙のリアリティーというものがあります。その紙を蝕むシミのもっているような、文学を理解しないといった精神(こころ)にとっては、文学は完全に非存在です。しかも人間の精神(こころ)にとっては、文学は紙そのものよりもはるかに大きな真理としての価値をもっているのです。これと同じように、人間の精神(こころ)と感覚的または理性的な関連性をもたないなんらかの真理があるとすれば、わたしたちが人間であるかぎりにおいて、それは永久に無にひとしいのです。
 E それでは、わたしはあなたよりずっと簡単に物事を信じているということになりますね!
 T わたしの宗教は、わたし自身の個としての存在のなかに、至高のパーソナルな人間、すなわち普遍的な人間精神を融和させることにあります。それが、「人間の宗教」と題したわたしのヒッバート記念講演の主題だったのです。
     --R.タゴール(森本達雄訳)「対談--実在の本性について」、『人間の宗教』(第三文明社レグルス文庫、1996年)。

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ありふれたものをわたしは歌う

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数ヶ月に一度はやってしまうのですが……。

外出時に自宅の鍵を持参するのを忘れてしまった。

仕事が済んで帰宅すると25時前。
非常に恐縮で申し訳ないのだが、細君を起こして扉を開けてもらう必要上、自宅へ電話する。無言で切られ、暫くすると扉が開いた。

無言のまま彼女は去っていった……。

当然と言えば当然なのですが、自分の愚かさを反省すると同時に、細君の慈愛に感謝することも忘れてはいけない。

「ありふれたもの」を“ありふれたもの”と感じてしまった瞬間、「ありふれたもの」の持っている生き生きとした本来的な価値が減ずる結果となってしまう。
「ありふれたもの」はたしかに“ありふれたもの”なのだが、「ありふれたもの」であるが故に、自分自身に対してそれは必要不可欠の交換不可能な価値なのだ。
そこに対する敬意と感謝を忘れないようにしたいと再度思い直す宇治家参去でした。

ホイットマン(Walter Whitman,1819-1892) がちょうど善い詩を残しているので最期にひとつ。

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ありふれたもの

ありふれたものをわたしは歌う、
健康であるに金はかからぬ、気高くあるにも金はかからぬ、
摂生をこそ、虚偽や、大食、淫欲はお断りだ、
晴れやかな大気をわたしは歌う、自由を、寛容を、
(ここからもっと主要な教訓を学び取れ--学校からでも--本からでもなく)、
ありふれた昼と夜とを--ありふれた土と水とを、
君の農場、君の仕事、商売、職業、
そして万物を支える堅牢な地面さながら、それらのものを支えている民主的な知恵を。
    --W.ホイットマン(鍋島能弘・酒本雅之訳)「ありふれたもの」、『草の葉 下』(岩波文庫、1971年)。

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Leaves of Grass: A Textual Variorum of the Printed Poems, 1870-1891 (The Collected Writings of Walt Whitman) Book Leaves of Grass: A Textual Variorum of the Printed Poems, 1870-1891 (The Collected Writings of Walt Whitman)

著者:Walt Whitman
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「我々は甚だ不快なる機械であるであろう」はずはない

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 人間を思惟的存在として規定することはいうまでもなく正しい。けれどもそれは一面的な見方に過ぎぬ。なぜなら「人間は明らかに考えるために創られている」(146)が、しかし愛はまた彼の本性に属し、このものを欠いては彼の存在性は完成されないからである。むしろ情念は知的作用と同等の権利をもって主張されねばならぬ。パスカルは情念の権利を批判的必然性としての理性に基けている。彼はいう、「情念は過度であることなくしては美しくあることが出来ない。そこでひとは世間の評判を顧みない、というのは彼は世間が我々の行為を、それが理性から出ているが故に、すでに非難し得ぬことを知っているからである」(III,135)。しかしながら情念の意義は我々の存在の本質なる状態を反省するとき最も明瞭になって来る。けだし動性は人間の根本的規定である。したがって「彼は一様な生活に自己を適合させることが出来ない。彼は運動と活動とを要する、言い換えるならば、その生々したそして深い源を彼の心臓において感ずるところの情念によって彼が時々動かされることが必要である」(III,119)。思惟は人間の本性に属しながら、しかも純粋な思惟はあまりに永きにわたるときひとを疲れしめ、気を落とさせる。これに反してそれ自ら特殊なる動性としての情念は、一般に動性を本質とする人間の存在の全体に最も適わしき魂のはたらきである。自覚的思惟は人間にとって「自然的」であるけれども彼の自然でなく、彼にとって「自然」であるのはむしろ情念である。情念の生に対する優越なる意味は根本的に我々が運動的存在であるところに存すると考えられねばならぬ。この情念を断念し否定することは生そのものを断念し、否定するの謂である。生の目的は生の自然を滅すことでなく、かえってこれを浄め、これに光を与え、かくしてこれを深めるにある。
 思惟と愛とは人間の二つの本性であるばかりでなく、それらはまた相互の間に密接な関係を保っておる。一方において純粋な思惟が我々の存在の全部を満足させぬことは勿論であるが、他方において愛が詩人の考えるが如く盲目的でないのは明らかである。もしひとが愛から知性を除き去るべきであり、また除き去り得るとしたならば、「我々は甚だ不快なる機械であるであろう」(III,136)。
    --三木清『パスカルにおける人間の研究』(岩波文庫、1980年)。

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月曜から細君の母親が所用で上京しているため、今朝も早くから起こされる。
今日は美術館へいくとのことで、子供さんのお迎え任務を仰せつかり着任する。

13:40……。

若い(?)お母様方の乱立する園庭で我が子を待つ。
ひとり浮いたオッさんがひとり……。
面倒だが子供さんから私が分かりやすいように迎えに行くときはいつもスーツを着用する。夏のような暑さを暫し我慢、やがて子供さんと再会する。

座席をあつらえたママチャリで一路コンビニへ爆走する。幼稚園帰りにコンビニ寄るのが習慣になっているからだ。燃料も千円もらっている。

子供さんがウルトラ関係のフィギュアを物色し、レジを通して帰宅する。

「パパ、改造パンドン(ウルトラセブンの怪獣)好き~?」

「好き」

「パパ、パンドン(ウルトラセブンの怪獣)は?」

「好き」

「パパ、ゼットン(ウルトラマンの怪獣)は?」

「ふつう~」

「ふつう~?なにそれぇぇ?」

ふつうがまだ分からない子供さんでした。

うちの子供さんはまだ好きのランク付けができません。好きかor嫌いかです。
好きという行為自体のなかに、実は排他的なランク付けの暴力が発動する事実を鮮やかに暴いて見せたのレヴィナスですが、そうした問題とか、幼児の感情発達を問題にしようとしているのではありません。

子供さんとふれあうなかで、感じる「感情」ないしは哲学的に言えば「情念」の問題です。
彼はランク付けができないし、「嫌い」といいたくないのか、「全部好き」と言います。本当にニコニコしながら「全部好き」です。だから、玩具屋さんで、一個を選ぶと言うことができません。親も甘いので、ときどき二つ買ってしまうのですが……(それはそれで問題なのですが)。

まさに「全部好き~」を五体を振るわせながら表現しております。

こうした交流をやりとりするなかで実感するのは、アタリマエのことなのですが、そうした人間論的事実を真摯に受けとめる必要があるようなア~という部分です。

もちろん感情に振り回されるのは忌避すべきなのでしょうが、人間が感情を持つという事実をきちんと整理しない限り、人間とは何かという全人性を追求することが不可能だからです。

伝統的な哲学とか思想の世界において、感情とか情念と言った問題は、人間の人間たる人間性を損なうシロモノと見られる傾向が顕著でした。なぜなら永遠不滅の真理なるものを探求する哲学に対して、感情とか情念は判断を過たせる、一時的な、まさに激昂にすぎず、人間の理性的な判断を惑わせるイカガワシイ在り方とされてきたからです。

上に引用したのはその全人性を冷静に探求したフランスの思想家ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal,1623-1662)の人間論を整理した日本の哲学者・三木清(1897-1945)の名著から一節です。

解説にそうした情念をイカガワシイ在り方と見る伝統的な哲学の隘路を指摘した部分があるのでついでにひとつ。

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 哲学は生の自覚にほかならず、自覚的意識として生そのものに属している。ところが生はそれ自身のうちに自己逃避の傾向をもっているから、哲学はとかく自己の本来の地盤を離れて、単に議論のために議論する慰戯に陥りがちである。このように哲学が自己逃避の慰戯にすぎなくなるとき、「我々は決して事柄そのものを訊ねずしてかえって事柄の議論を訊ねる」こととなる。これは単なる論理の遊戯、論理の斉合のみを追求する抽象的な思弁でしかない。
 しかも現実にはこれが哲学と称される多くのものの営みなのである。だから著者はパスからとともにいう、「哲学を嘲ること、それが真に哲学することである」と。
    --枡田啓三郎「解説」、前掲書。

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人間の全人性を取捨し、議論のための議論、懐疑のための懐疑を哲学は重ねた結果自らその魅力を失ってしまった。広く哲学の議論が人口に膾炙されなくなった原因もここにある。

感情も情念もイカガワシイものではない。
ときにタガがはずれるとそれはイカガワシイものなのかもしれないが、それも人間の現実である。そうしたところを切り捨てて、人間を論じても、それは人間を論じたことにはならないであろう。「我々は甚だ不快なる機械であるであろう」はずはないはずだ。

大感情を振るわせて喜べ!
大感情を振るわせて怒れ!
大感情を振るわせて哀しめ!
そして大感情を振るわせて楽しめ!

人間であることを「全部好き!」になりたい。
そのためには感情の何たるかを看過することは不可能だ。
その喜びも怒りも哀しみもそして楽しみも知らない限り、人間は善に対しても悪に対しても本源的には躊躇してしまう臆病な存在になってしまうのだろう。

そうしたシニカルさとはどこかで訣別する勇気が必要だ。

ただ……しかし、息子さんは「全部好き」ではなく、「こっちを今回買う」というようになってほしい。

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いつから人は理想を口にしなくなったのだろうか……。

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女子教育に就て
 左は京都大学講師農学博士新渡戸氏が梅花女学校卒業式に於て演説せられしものの大要なり、文責は記者にあり。

 百姓にとっては花より果(か)が大切である。何事も実用的でなければならぬ。教育に於ても実用を主とせねばならぬというは一般に人の主張するところである。私も二十年前はしか思うておった。殊(よく)に女子教育はしかあるべきものと論じた事もあった。然れど今に及んで考うれば、それは間違っておった。すべて中等の教育は実用などということは寧ろ棄てておいて、それよりは理想を高くするということが必要である。
 元来日本の教育は独逸(ドイツ)に倣(なら)ったために、すべてが規則的で、学科を多くして、能(あた)う限り多くの芸術を教えようとしたのである。これは教育の方針を誤ったものである。教育はつとめて自由で、芸術を教ゆるよりは、その趣味理想の脳力を養うべきである。多くの人の経験によれば、最も楽しい時は、学校である。ちょっと考えると学校を出(いで)て働く時の方が楽しかるべきはずのようなれど、実際はそうでない。今日の社会では悲しい事だが、過程よりも学校の方が寧ろ楽しいのである。これは何故であろう。私思うに学校時代は最(もっとも)理想の高い時であるからであろう。理想さえ高ければ、如何(いか)なる困難に遭(あ)っても楽しむ事が出来る。社会に出(い)でると実際の事実が理想のようにないために失望して失敗するものが多い。然れど常に理想を固く以(もっ)ているものは、その中に於てよく耐忍してこれに勝つことができる。
 この理想を養う所は学校である。私の友人に大学を卒業して立派な官吏となっておる者がある。ある時この人が私に曰(い)うに、ぼくは学校に於て教(おそわ)ったことは何も役に立たなかった、しかし少しばかり学んだ哲学がぼくに非常な利益を与えたと。然からば学校にいる時に最注意することは、技能芸能でなくて人生の理想を養うことである。飯をたいたり漬物をつける位は何処(ほか)でも習える。然れど理想は学校でなくば容易に得られぬ。それ故に学校にある間に善(よ)い詩や文やまたは聖書などによって大(おおい)に理想を養わねばならぬ。なお卒業して社会に出る人にすすめたときことは、事に当ってその養われた理想を思い出して、考えることである。兼ねて聞いた事、思うておった事は「ここだ」と思いかえして誤らないようにすることである。真剣の勝負をする時は、先ず一歩退(しりぞ)いて「ここだ」と心を静めてなすべきだというが、学校を出て実際の社会の立とうとするものはこの事が最必要である。〔一九〇四年四月七日『基督教世界』一〇七五号〕
    --新渡戸稲造(鈴木範久編)『新渡戸稲造論集』(岩波文庫、2007年)。

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いつから人は理想を口にしなくなったのだろうか……。
理想を語ると青臭いとなじられる。
理想を語るとその構成の甘さを指摘される。
そして理想を語ると、その実現不可能性が完膚無きまでに破壊されし尽くされてしまう。
ひとはひとに対して自分の理想を語るとき、現実という大きな壁のまえに立ちすくむ居心地の悪さを感じてしまうものだが、人間から理想を奪ったとき、人間は、「シカタガナイ」と零(こぼ)しつつ、諦めと居直りの日々を歩むほかあるまい。

理想を封じ込めてしまう……殺伐として寂寥感……が時代を覆う重い空気となっているのでは?と感じるある日の宇治家参去です。

理想をかたる人間は空気が読めない訳ではない。
理想を目指す人間は、風車に突進するドン・キホーテではない。
理想を願うひとびとの祈りは、何もうごかせないわけではない。

ただ、理想を語るな……という空気を読めよとでもいうべき無言の圧力がひとびとから前進するチカラを奪いつつあるナと実感するある日の宇治家参去です。

古来ひとびとは様々な理想を語り、そしてそれをめざし前進してきた。
理想を目指して前進する人の姿は実に美しい。しかし理想が人々を醜くする側面も実は持っていた。想定された理想が、ひとびとへ“強要”されるとき、理想は地に墜ち、ひとびとを“解き放つ”どころか、ひとびとを“破壊”する魔性として機能してきたことも歴史の事実である。

20世紀の歴史を振り返ると、それは革命と暴力の世紀であったといっても過言ではない。様々な理想が語られ、ひとびとを動員し、ひとびとがひとびとへ手を挙げる歴史の連続であった。その意味でも、まさに“理想”が“動員”されるとき、何かオカシナ事態が生じてしまうのであろう。

現在において“理想なるもの”が大声で語られることに対して敬遠されるムードが醸し出されているのは、そうしたものに対する反省と嫌悪の結果なのかもしれない。それはそれで反省され嫌悪されてしかるべきであろう。

ただしかし……
それと同時に、個々の人々が理想を目指す部分まで廃棄してしまうことは不可能である。産湯を棄てるときに赤ん坊まで流してしまう必要はあるまい。

理想は人に語らなくてもよいし、自分の語る理想を問答無用で、動員させなくてもよい。ただ、自分自身に向ければよい。
それによってそのひとは成長することが可能になる。
相手にも理解して欲しいのであれば、対話すればよい。相手がそれで採用するならそれでよかろう。ただそれだけだ。

「日本人だから、これこれこういう理想を目指しなさい」……なんて言わない方がよい。
「平和にしたいという理想を実現したいのであれば、今すぐこれをしろ!」……なんて言わない方がよい。

ともすると人は、理想を持つことで最終解答を手に取ったと錯覚してしまう。
理想が理想であるとすれば、その最終解答はいまだ証明不可能であることはずだ。しかしどうやら人は、それが完成された最高作品だと事態を錯覚してしまう。当人においてはそれでよいのだが、他者にむけるとき、それはひとつのイデオロギーの強要と化してしまう。

自覚が必要だ。
そしてなおかつ理想を抱くことも必要だ。
そしてそれに向かって自分一人が歩んでいく勇気と努力が必要だ。

そうした心根を欠落してしまうと、気が付いたときは、「シカタガナイ」とぼやく哀れな自己自身しか存在しない。

さて……
その意味では(ちょい跳んだかな)、「理想を養う所は学校である」というのはたしかなことだ。しかし新渡戸稲造のすごいところは、「理想をたたき込む所」としていないところであろう。あくまでも「理想を養う所」としての「学校」である。
学校がそうなったとき、すこしだけ私とあなたの幸せが増進しそうな気がした、またまたある日の宇治家参去です。

理想を語るのは少しこっ恥ずかしい現実社会であり、どうも言葉をつぐんでしまう部分も多々あるが、やはり学校は「理想を養う所」である。そこから現実へ躍り出たとき、まさにひとは理想と現実のギャップに直面する。しかし現実しかないならば、それはおそらく潤いのない不毛な生活しかないことに「シカタガイ」と生きていくしかないのだけれども、どこか自分自身が自分自身に対する「理想」の炎をどこかで消さずに持ち続けた場合、そこには何か潤いと彩りがあるように思われる。

ぐだぐだな現実ですけれども、学校で養った自分自身の「理想」の炎を消したくないものです。
そして、学校をそういう空間であるようにスライドさせていくことを固く決意した、またまたある日の宇治家参去です。

ちょうど今日は、仕事の休憩中に、『新渡戸稲造論集』を読んでいたで……。
本書が上梓されたおり、鈴木先生から頂いたものなのだが、再度読み返していたわけですが、現実と理想のギャップが甚だしいものであったとしても、それは他者におけるその両者の関係ではなく、自己と現実、自己の理想の関係であるから、そこをきちんと見つめ直さない限り、どうにもこうにもならないと読みながら自覚しました。

で……、現実。

市井の職場の休憩時間、それはすなわち宇治家参去の学問の時間なのですが、これまでその入力作業にスマートフォンを利用していた。しかし入力スピードにはそもそも限界がある。時々、VistaのノートPCを持ち込み仕事をすることもあったがいかんせん持ってきてまた持って帰るのが面倒である。そこで会社においておくパソコンを!と思っていた矢先、いい物件を発見した。
もちろんそれは、Windows Vistaがバリバリ動くような先端の“理想”的なマシンではない。ヤフオクでたったの1500円。PentiumII 266Mhz、メモリ160MBというひと世代もふた世代も前の骨董的なノートPCである。とりあえずWindows2000をぶち込んでみるが、テキストの入力、メールのやり取り、ちょい表示にいらつくがインターネットも問題ない。今日から職場に導入し、論文の下書きや授業の準備用に使い始めた。
おそらく、使用しているスマートフォンの方が“頭は良い”のだろうが、やはりフルキーボード、XGA表示では、スマートフォンに勝ち目はない。骨董品の方が優秀だ。

“理想”的な先端マシンではないけれども、“現実”に即した骨董品で、仕事を始めましょう。

写真のパソコンがそれですが、一緒に写っているのが、論文の資料のひとつ。
Harry Harootunian,Overcome by Modernity: History, Culture,and Community in Interwar Japan (Princeton Univ Press,2002).ですが邦訳も既に出ています(H.ハルトゥーニアン(梅森直之訳)『近代による超克―戦間期日本の歴史・文化・共同体』(岩波書店、2007年))。ただし邦訳の方が“高い”ので原著で済ませることにした。論文の〆切は九月なんですが、今月に片づけ、別の課題を夏にやっけようと思っています。

なんとかこの地に“理想”を実現させたいものですから……。

でもなんか最近疲れているなア。

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Overcome by Modernity: History, Culture, and Community in Interwar Japan Book Overcome by Modernity: History, Culture, and Community in Interwar Japan

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ロマンのない倫理学者をうちのめす現実の一言

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欲求は依存であるのだから、自由として特徴づけることはできない。欲求を他方、受動性として特徴づけることもできないのは、欲求が、すでに親しまれ、秘密をもたないもの、欲求を従属させるのではなく、歓喜させるものによって生きているからである。徹底した孤独を言いたてる実存の哲学者たちは、《私》とその喜びとのあいだにひろがる対立について見あやまっている。この対立が--感受性にとって本質的であるような、未来の未規定的なありかたに脅かされた--享受のうちに入りこむ不安に由来するものであれ、労働に内属する労苦に由来するものであれ、実存の哲学者たちは、それを見あやまっているのである。どのようなかたちであれ、問題の対立のなかで存在がその全体性において拒否されることはない。存在との対立にさいして<私>が避難所をもとめるものは存在にほかならない。自殺が悲劇であるのは、生まれてきたことで生じる問題のいっさいが死によって解決されることはなく、地上のさまざまな価値をおとしめる力が、死にはそなわっていないからである。ここから、死をまえにしたマクベスの最期の叫びが生じる。マクベスが死に打ち負かされるのは、マクベスの生とおわりと同時に宇宙が崩壊することなどないからである。苦しみが生じるのは、存在に釘づけにされていることに絶望するとともに、苦しみがそこに打ちつけられている存在を愛していればこそなのだ。生からはなれることは不可能なのである。なんという悲劇であり、なんという喜劇であろうか。生の倦怠(taedium vitae)は、その倦怠が拒む生への愛に浸されていることになるのだから。絶望によってすら、喜びという理想と手を切ることができない。じっさいこのペシミズムはエコノミー的な下部構造がある。ペシミズムが表現しているのは明日の不安と労働の労苦である。このような不安と労苦が形而上学的な渇望においてはたす役割については、のちに示すことになるだろう。ことなった視界からのものであれ、マルクス主義の見解はここでもその力を失っていない。欲求の苦しみが鎮められるのは欲求の減退においてではなく、その充足によってなのである。欲求は愛され、人間には欲求があるがゆえに幸福である。欲求を欠く存在は、欲求をいだく存在よりも幸福なのではない。そうした存在はただ幸不幸の埒外にあるにすぎない。貧しさによって充足の快楽がしるしづけられることがありうるということ、私たちは純粋で単純な充満のうちにとどまるのではなく、欲求と労働とをかいして享受に接近するということ、そこにこそ分離の構造そのものに由来するむすびあいがある。分離とはエゴイズムによって達成されるものである。けれども、始原的なものがそこへと逆流して、そこで失われることになる無の沈黙のざわめきに、分離され充足した存在が、つまりは自我(エゴ)が耳をかたむけないとするならば、その分離はたんなる空語にすぎないことになるだろう。
 労苦が乗り越えることができる貧しさは、欲求によって存在にもたらされたものではない。それをもたらすのは、未来の不確かさである。
 本来という無は--あとで見るように--時間と時間の間隔に転じる。そこに所有と労働が挿入されるのである。瞬間的な享受はものの加工に移行してゆく。この移行が住まうこと、エコノミーにかかわり、すむこととエコノミーは他者を迎えいれることを前提している。徹底的な孤独にまつわるペシミズムは、だから癒されないものではない。人間の病いの治薬を二本の手でつかんでおり、薬が病いに先だっているのである。
 労働によって私は自由に生き、生の不確かさに抗して私は守られる。けれども労働そのものによっては、生に究極的な意味がもたらされることはない。労働もまた、むしろそれによって私が生きるものとなる。私の生のすべての内容によって生きる。未来を保証する労働そのものによって生きている。私は大気によって、光によって、パンによって生きるように、私の労働によっても生きる。欲求が享受を超えて課せられるような極限状況、呪われた労働を強いるプロレタリアの条件、避難所も余暇もわが家にないような身体的存在の貧しさがあるとすれば、被投性(Geworfenheit)という不条理な世界がそれに当たることになるのである。
    --レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限 上』(岩波文庫、2005年)。

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日々の労働のなかで、哲学者のコトバをかみしめるある日の宇治家参去です。
相変わらず市井の職場は、ハァァァァァァァァァァァァ~と深いため息をつかせてくれる毎日です。

しかし、ため息もカメハメ波の如く、気合いを入れて放出すると却ってすっきりします。ご存じのない方は是非おためしアレ。500m先の食卓まで響くくらいの気合いでやってみることが肝要かと思います。

で……
ため息もでないほど忙しいというのが実情ですが、本来自分がやるべき仕事まで手が回らず、残業禁止令も出ているため、いい仕事ができないのが現実です。
当然いい仕事ができないと、連動したほかの部門にも迷惑がかかってしまう。まさに“引き裂かれた自己”のなかで仕事を続けるということは大変ですが、仕事をするということではそれがアタリ前というのもまた実情なのでしょう。
気を引き締めてできるところから手をつけ、あまり深刻に引っ張らない様にするのが要諦かもしれません。

今日は久しぶりに店長へ現況の状況報告を直接行った。
前年比の売上比の数値、客数の変動、売り場面積に対する人員の配置と対人件費効率の問題……。
現状に対する対案を示し、その内容をしごく理解はしてくれるのですが……、ムズカシイとのこと。

「じゃあ、いつもの詩人とか、学者の言葉でまとめて見てよ」

というので……例の如く、学問の言説で戦略的にパロールする。

自分が配下で使っているメンバーは業務の性格上、マルチロール(複数業務兼任)が必須となるのですが、応援業務がいまやその全域をしめつつあり、本業が専念できなくなっているので……

二人のやりとりから……。

「会社とは営利の共同体だと記憶しておりますが、宇治家参去の部隊は他部門への応援業務がそのほとんどを占め、本来やるべきと規定されております業務が殆どできておりません。もちろんそのことで連動する部門へは迷惑をかけてしまい、それに対する有限責任も自覚しております。しかしこれが積み重なっていくと有限責任が天文学的数値にまで発展する恐れもあることをまず理解頂きたい。その上で、応援ということに関して附言するならば……」

「その、共同体という言い方やめてよ~」

「で……、応援ということに関して引き続き述べるならば、現状の人員態勢で他部門への応援をせざるを得ないという現状はまず理解できます。その現状が異常事態であることはまず把握してほしいと思います」

「わかった」

「しかし、本来異常事態であるべきはずの状態が連日となり、それが恒常化した場合、われわれは応援だけで終わってしまい、本来の業務へ手を付けられなくなってしまうおそれがあると共にもうひとつ大きな倫理的難問(アポリア)を個々の成員が抱えてしまう結果になってしまうと思います」

「その難問とは」

「本来、企業という共同体……、共同体という言い方が好みではないようなので、組織でもよろしかろうかと思いますが、企業という組織は、前述したとおり営利を第一目的にした組織であり、たとえば、倫理的訓戒をダイレクトに受容するような、任意の団体、意志の団体とは異なるはずです。そのことはテンニエンスが『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』のなかで鮮やかにその特色の差異を描いて見せたように……」

「てんにえんすの解説はしなくともよい、続けて」

「すなわち企業は営利を目的とした組織であるとすれば、そこに集う人々は営利を目的に、人為的に組織化された人々ということになります。であるとすれば、そこに形而上学的な訓戒としての倫理的側面が顔をのぞかせた場合、人為的に組織化された人工の共同体は崩壊の一穴をつくってしまうということです」

「なるほど」

「要するに、われわれは応援する。人為的に応援するとしても、その応援は双務的であらねばならないはずです、たとえばそれが空語の条文であったとしても建前では必要です。俺たちも応援するが、俺たちが苦況に陥ったとき、誰かの応援もあるはずだと。なぜなら、おれたちは無償の愛を差し伸べる、目的論的共同体の一員ではなく、共通利害と目的をもった人員的な団体の構成員であるはずだから、利益を紡ぎ出すという共同目的に対しては双務的にあらざるを得ないはずだからです。」

「で……?」

「しかし現状を翻ってみるに、われわれは“無償の愛”を提供するのみで、だれもわれわれに対して、人為的なレベルでも“愛”を注いでくれません。応援が常務するなかで、それが常の“業務”となっている。しかしだれも応援はしてくれない」

「応援だけで終わっているというのが現状だもんな」

「これでは企業という人為的組織における応援・協力という範疇を超越した在り方になってしまいます。われわれは使命を帯び、未開のジャングルの奥地に、イエス・キリストの御言葉を伝えること誓い集った宣教師たちではありません。このまま“無償の愛”の提供を“要求”される場合……心理的負荷が大きくなってしまうと思うのですが……」

「わかった。たいへんなとき助け合うのは、人為的な組織だけでなく、人間の普遍的な在り方でもあるというのはまず大前提だ。そのうえで、そうした任意の奉仕を強要する在り方は、この世俗化された産業社会では敬遠するべき事項だな。利益共同体において、任意の奉仕には当然対価が必要になる。いわゆるサービス残業禁止という奴だ、ひとつには。無償の奉仕は宗教団体だけで十分だ。そうしたことを踏まえた上で……、だ。」

「おっしゃいますと……」

「その……(すこし言葉を選びながら)、まずもって応援することが、宇治家さんとその部下の、仕事なんだよ。で……(そう思いなさい)」

「………………」

「宇治家参去の仕事と思えばよいのか?」

「………………」

(何か違うような……間違いなく違うよな)

「たいへんなのは承知だが、がんばってよ~。お願いしますよ~。だって君は夜の店長なんだから」

「聞いてないですよ~そんこと! だったら給料上がりませんか?」

「ちょいムズカシイ」

道理を試みた倫理学者のソラ言はむなしく虚空にこだまするのみ……。

ただひとついえるのは、現状は厳しい現実です。
しかし、それをこうしたかたちで相対化できているという自分は、まだまだ余裕があるのか、もしくは、自分自身をも対象化しネタとして活用できている判断してもよいのかもしれません。

別に店長を責めようとかそういうのではありませんが、このままではいずれこの会社は左前になってしまうのがチト悲しい。自分はいつまでもいませんが、縁といえば縁……、なんとかしたいと思う今日この頃です。

ロマンのない哲学者は細君に学問の鉄槌をうちつけるつもりで、地面にキッスという大惨事を演じてしまった。
現実を深く冷静に相対化し、ふたたび現実に替えるその在り方をかえることを模索する倫理学者の試みは、現実の一言でフイにされてしまった。

さていよいよ神学者として言葉を発する時期に至ったのか(謎)。

(そのうちの次回に続く……)。

で……、おいおいくどいなと言わないでください。
本日発売というか暦の上では昨日になってしまう新発売の第3のビールを飲んでみた。

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その手のビールの中ではうまいが、やはり限界はあるなと自覚する。やっぱり本物のビールの方がうまい。

田村正和が「ビール歴44年の私が不覚にも、ビールと間違えてしまいました」とCMでやっていますが、「間違わない」とつっこみをいれそうです。
その筋のその他の雑種としては群を抜いて“ウマイ”ですが、ビールとは違うだろう……とウルトラ怪獣たちがウルトラマンとこなきじじいに詰め寄っています。

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遅れてきた国民 を 巡る諸問題

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 ドイツはカルヴィン主義にも啓蒙主義にも心をとらえられたことがなかった。ルター主義が両者の流入をはばみ、ドイツの近代史は、近代的デモクラシーを基調にした国家意識の形成に関与することを許さなかった。その埋め合わせとして、ヨーロッパ一般の風潮であった政治的なものの世俗化の傾向のなかで、国家の本来の担い手であり、最終的には国家目的でさえある民族の意識が形成された。しかしそのため、っぎかいせい民主主義に対する関心は薄れたのだった。民族、諸種族及びその地域の歴史的特殊性を表現するにいたっていない憲法はすべて、真の民族性から見れば、根底において偶然的なものに見えるのと同じで、議会制民主主義に対する関心も薄れていくのである。文明化し、法となったもの一切の総体としてのローマ的なるものに対する反抗を呼びさますのは容易であり、えてして政治的普遍性を目指すもの一切に対する不信がこれに結びついてくる。なかんずくドイツ民族が国家としてそのような“コスモポリタン的”普遍性への使命を持ったり能力を持ったりすることへの不信が結びついてくる。
 ドイツ人がみずからの進むべき道を定めえないのは、歴史的に容易に説明のつくことだが、この不安定さゆえにドイツ人は、純粋な法手続きを通じての人間の価値転換をいわば不変の原則とする、あらゆる種類の国家に不信の念を抱いた。まさにどのような国家伝統の中にいても落ちつかないし、政治上の理念形成にあっていささかも静止状態に達し得ない。さらに危険なことには、歴史の古い民族のいずれよりも徹底して見捨てられているので、ドイツ人は歴史の中にそれだけしっかりした支えを求める。しかもその支えを歴史の中には見出せないので、歴史をさらにさかのぼった深層を探し求めていくのだ。
 それゆえドイツ人は一昨日の国民であり、明後日の国民であって、今日の国民ではない。ドイツ人が立っているのは、真の現在にたどりつく可能性を持たない不断の運動の場なのである。法の存在がその自由の中で人間に与える、虚構ではあるが理想的な根源である代わりに、ドイツ人は測りがたい太古の闇に包まれた歴史的存在の中に、神話的でありながら現実味のある始まりを求めている。ドイツ人の国家意識も現実味のある始まりを求めつつ歴史の中に根をおろそうとする。しかし根をおろすための地盤として現われるのは、いつも素朴な根源性ばかりである。つまり国家意識が永遠のバーバーリズムを誇りつつ、より古く、より幸福で、より分別のある西側に対して身を守る態勢に入ると、ドイツ史の大いなる反抗のすべて、対ナポレオン戦争、ルターの宗教改革、ヴィドゥキントのカール大帝への反乱などすべては、ヒェルスカ人アルミニウスが始めたローマに対する巨人族の戦争と同じものであるかの観を呈するのである。
    --H.プレスナー(松本道介訳)『ドイツロマン主義とナチズム 遅れてきた国民』(講談社学術文庫、1995年)。

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英語以外の原書で、短編とは異なる一冊をまるまる読み通した本が、プレスナー(Helmut Plessner,1892-1985)のDie versäptete Nation(邦訳はヘルムート・プレスナー『ドイツロマン主義とナチズム 遅れてきた国民』)である。

プレスナーは、M.シェーラーに代表される哲学的人間学の系譜に属する哲学者で、いわば、伝統的な哲学が主題とするガチガチの存在分析とか認識論に属する形而上学者ではない。その意味では、本書によってひとの存在認識とか真理概念に関して“大きく”モノの見方を変える一冊ではない。

確か……大学2年の裏(留年しているので)の秋だったと思う。
誰が進めてくれたのかは覚えていないが、友人か教員だっと思う。
2年の裏だから、3年次のゼミ以外の専門科目を履修しても通常の学生さんより比較的自由な時間が多かった。翻訳がでていなかったのでいきなりドイツ語で読み始めたが、面白かった。

三田の秋は心地よい。
オフィス街に浮き立つ丘陵地のキャンパスの図書館で借りて2ヶ月かかって読み倒した。図書館に返却する頃には、すでにX'masソングが巷に流れていたことを覚えている。

ドイツ精神史もしくはヨーロッパ精神史を主題とした本書が最初に出版されたのは1935年のこと。ヒトラーが政権を取ってから2年後のことだ。著者は非アーリア系のゆえ、33年にケルン大学を追われ、翌年オランダの大学でポストを得た。ここでの一般学生向けの講義が本書の土台となっている。最初のタイトルは「市民時代末期のドイツ精神の運命」。ナチズムに対しても、またその双子のひとつであるスターリニズムに対しても、まだひとびとの目が覚めきらない当時、プレスナーはドイツ精神史を深く紐解く中でそのその本質が何なのか納得ゆくかたちで見抜いて批判した書物として登場したことは意義深い。なぜならヒトラーのファシズムに関してそれなりに危惧を抱いた知識人はソレナリニは存在したが、そうした人物であってもスターリン支配下のソヴィエト連邦の在り方には比較的好意的な期待をかけていたからだ。

さて……
プレスナーによると、ドイツは“遅れてきた国民”ということだ。この遅れは近代国家としての“遅れ”ではない。プレスナーが強調するのは精神の“遅れ”である。この精神の“遅れ”とは近代精神のひとつの象徴といってよい啓蒙の精神の“遅れ”である。
※通俗的にはアドルノやホルクハイマーが指摘したとおり啓蒙主義にも問題がないわけではないが、ここでは主題ではないのでひとまず措く。

啓蒙の精神とは、すなわち人間的理性と自然的理性の尊重の精神である。これをひとびとが手に取ることにより時代は大きく変化する。例えば、人権という概念が形而下の概念として基礎づけられ、古典的な市民社会から現代的な市民社会へ大きくシステム変更が可能になった。また対象知の発達は自然科学の大きな興隆を産み出し現代社会の動力源のひとつとなる。

近代史の流れを振り返ってみると、啓蒙の精神が溌剌たるものとして輝くためにはひとつの条件が必要である。それは教権的な中世的思考からの脱却である。そのためには、信仰が制度から個々人の人間精神に内面化されることと寛容の精神の解き放ちの契機が必要となる。そのひとつのきっかけが宗教改革であり、そのことによってひとは常識や平衡感覚をそなえた近代的ヒューマニズムを身につけることが可能である。信仰は世俗化される運命にあったとしても、個々人の内面において新たな領域を見出し、再活性化していく。中世的な社会から個々人に信仰が関わるのではなく、個々人の信仰の立場から社会へ通じる回路が開けてくる。

しかし、考えてみればドイツは宗教改革の先鞭をつけた地域であり、ヨーロッパをリードした国である。どうして啓蒙の精神に“遅れ”てしまうのだろうか。

たしかにドイツは宗教改革が起きたし、プロテスタンティズムの教会がマジョリティである。その問題は、プレスナーによれば、宗教改革は起きたが、その宗教改革の精神が個人の内面に根付かなかったことに起因すると指摘する。

考えてみればその通りだ。
1517年、ルターが始めたローマ・カトリック教会との抗争は、アウグスブルクの宗教和議で一連の混乱に収拾がつく。この和議は、領主が宗教を選ぶことが定められた。個人が選ぶのではなく、領邦国家単位で宗教を領主が選択するのである。この制度はドイツの伝統となり、教会は一種の国教会のようになり官僚的性格を持つようになる。同じように宗教改革の影響を受けながら発展するフランスでは厳しいカタチでの政教分離が発展し、イギリスでは国教会は制度として設立されるが、成立と同時にそれを相対化させる試みも同時にたちあがる。

不思議なものです。
結局ドイツでは、ルターの改革以降成立する官僚的な教会制度が強固に維持されていくわけですが、そのなかで個人としてのドイツ人は宗教的情熱に心を傾けることが難しくなり(もちろん敬虔主義の流れなど例外もありますが)、そのエネルギーが哲学と芸術に振り向かれることとなる。ドイツを評して「哲学者と詩人と音楽家の国」と称されるゆえんがここにある。

同じく宗教改革の影響を受けたイギリス、フランス、そしてオランダでは、血で血を争う宗教戦争の影響を大なり小なり受ける代わりに、宗教を個人に還元する代わりに、その個々人間の共存を目指す発想が芽生え、やがて啓蒙の精神も誕生する。
さきに「中世的な社会から個々人に信仰が関わるのではなく、個々人の信仰の立場から社会へ通じる回路が開けてくる」と表現したが、まさに英仏系の教会(信仰)では、個々人の立場から社会へ関わるカタチでの宗教運動が盛んに育っていく。例えば、キリスト教が禁酒禁煙の宗教という俗流のイメージが日本ではまだまだ存在するが、その嚆矢となるメソジストの運動はイギリスで誕生し、フランスではカトリック系の神学者たちが自然科学と信仰に関して熱い議論を繰り広げた。その分、哲学的な大きな展開は20世紀を迎えるまで華々しい活躍はほとんどみられない。対照的にドイツでは、宗教的なエネルギーの代替物となった哲学が大きく発展する。それに比べると神学の世界における議論は少し控え目な印象がどうも拭いきれない。
どちらがエライとか優れているといった議論ではなく、プレスナーのもつ危機意識とその根源探求の末に提示されたひとつの物の見方は、ひとつの歴史認識のよい見本をみせてくれるようだ。

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教会に対してごく浅い関係しか持てない、あるいは活発な関係などまったく持たない教養層が拡がり、分化していけばいくほど、宗教から解放された精神性を説く書物が大きな影響を持つようになり、従来は満たされることのなかった宗教的関心をより強力に引きよせるようになる。しかし、拠り所を失った信仰の埋合わせを形成するプロセスは、なにも哲学にとどまりはしなかった。十九世紀になると、普遍史(むろん最初は哲学の衣をまとっていた)が哲学にとって代わり、ついで社会学や生物学が歴史を押しのけていった。哲学の神学に対する攻撃、ついで歴史の哲学に対する攻撃、社会学の歴史に対する攻撃、そしてついには、これは今日もきわめてアクチュアルなかたちで展開しているのだが、生物学の社会学に対する攻撃において、これまで揺らぐことのなかった権威に疑いを向け仮面を剥いでゆくときの、いつも同じ手口の論理が、新しくて奇抜な学問的考察方法を手段としてくりかえされる。
    --前掲書。

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 「きわめてアクチュアルなカタチで展開」しているのは1935年当時にリアルタイムで信仰していたナチズムの人種理論のことである。
 信仰の体力という裏打ちがない教養層は、ナチスという哲学を装った“キワモノ”理論を歓迎してしまった。このことはドイツの教養層に限られた現象ではない。
 以前にも書いたが、制度としての教会(団体)から発想するのか、それとも個人から発想するのかで大きく代わってしまう現実が存在する。いうまでもなく、国家や制度、そして共同体からの発想から信仰をみることは不毛だ。しかし、現実には個への極度の信仰集中はおそらく、宗教的達人(たとえばトルストイやエマソン)のような本物の自由人でないと不可能だろう。しかし、一個人の信仰者としてのスタンスからものを考え、共同体を構築していくものの見方を人間は取らない限りその生存は難しくなる。いずれにしても、そうしたディレンマのなかでの薫陶をうけないかぎり、人間もその信仰も磨かれないのは事実である。

さて……いうまでもありませんが、プレスナーが本書で問いかけようとしたのは、ナチズムを産み出したひとつの温床としてのドイツ・ロマン主義という現実ですが、彼の宗教史に関するものの見方、ダイナミズムに共感する宇治家参去でした。

 思えば、この時代、ナチス政権に対する教会闘争を指揮した人物のひとりにカール・バルト(Karl Barth,1886-1968)という神学者が存在する。仮象のものを神と見なしてしまうこの世性を激しく批判し、神の言葉に忠実たれとバルトは論じ、聖書自身に個々人が向かい合うことを諭し、ひとつの反ナチ運動の原動力となった。このバルトの神学は日本でも比較的早くから紹介されていたが、不幸にも、バルトを紹介した神学者や牧会者たちが、昭和16年以降、宮城遙拝を説き、動員態勢を押し進めていったこともひとつの悲劇である。

本当はきちんと、その、ロマン主義とナチズムの問題を論じるつもりだったのですが、のっけから脱線し、スケッチのようなかたちになり申し訳ございません。
プレスナーが鮮やかに分析したロマン主義とナチズムの問題に、実は宇治家参去がロマン主義を“自覚”的に敬遠するようになった経路もあるわけですが、それはまた後日……。

この本の思い出からはじめたわけですが、当時、大学の正門を南へくだると「ラーメン二郎」という学生に人気の店があった。
通称「三田二郎」。もしくは「二郎ラーメン」。
今は亡くなったあのラーメン屋のラーメンがなんだか無性に食いたくなった。

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Sweet joy befall thee !

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ちょいと自分自身も疲れており、疲れている人も巷に多いので、詩でも紹介します。例の如く考察がなくすいません。
本当に今度は考察するので許してください。

でわ……。

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幼児の喜び
    ウィリアム・ブレイク

「ぼくには名前がないんだ。
生まれて二日しかたってないからかなあ」
なんて呼んで欲しいの?
「ぼく、幸せなんだ、
ジョイ(喜び)って名前がいいよ」
そうね、素敵なジョイがお前の上にありますように!

素晴らしいジョイ!
生まれて二日たったばかりの素敵なジョイ!
素敵なジョイって呼んであげるわね。
まあ、可愛い笑顔だこと--
母さんが子守唄を謳ってあげるわね--
素敵な喜び(ジョイ)がお前の上にありますように!

Infant Joy
        William Blake

‘I have no name :
I am but two days old.’
What shall I call thee ?
‘I happy am,
Joy is my name.’
Sweet joy befall thee !

Pretty joy !
Sweet joy but two days old,
Sweet joy I call thee :
Thou dost smile,
I sing the while,
Sweet joy befall thee !

     --平井正穂編『イギリス名詩選』(岩波文庫、1990年)。

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月曜日は大学の仕事のあとそのまま、糊口を凌ぐ市井の仕事へ。一番キツイ一日ですが、なんとか終わって帰宅すると、息子さんが寝ていた(当然こんな深夜ですから)。

無邪気に寝ている。

善性と悪性を彼もぼくも内在させているのだろう。
誰も責めたくないし、自分を貶めたくもない、なんだかそうした人間の生命の原初の輝きが彼の顔に光っている。

その光が疲れを希望へ転換する。

そうであるとすれば、人間とは、たしかに愚かな存在だが、それだけではない、joy(喜び)に溢れた存在なんだ、と実感する。

そこを忘れてはいけない。

人間でよかった。論理的にこれが人間、そしてこれが非人間という境界をつくろうというそれではない。ただ生の実感である。
その実感を感じないと、人間を論じることも、本質を論じることも不可能だろう(もとより先験的本質論には違和感があるが……)。

Japnese Sake を舐めつつ、そうした人との相対(あいたい)を決して忘れてはいけないと自覚したある日の疲れた宇治家参去でした。
なんかこの詩に曲がつくといいなア~。

ほんとうに考察不足で、哲学者とは対極にある印象批判で申し訳ございません。

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ロマンのない哲学者はウルサイらしい

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 「してみると、われわれの夢は完全に実現されたわけだ、ほら、われわれは国家の建設を始めるとすぐに、何らかの神の導きによってか、<正義>の原理を示すようなある形跡のなかに踏みこんだらしい、と言っていたあの推測のことだよ」
 「ほんとうにそうですね」
 「ただし実際には、グラウコン、それは--だからこそ役にも立ったわけだが--<正義>の影ともいうべきものだったのだ。生まれついての靴作りはもっぱら靴を作って他に何もしないのが正しく、大工は大工の仕事だけをするのが正しく、その他すべて同様であるという、あのことはね」
 「そのようです」
 「真実はといえば、どうやら、<正義>とは、たしかに何かそれに類するものではあるけれども、しかし自分の仕事をするといっても外的な行為にかかわるものではなくて、内的な項にかかわるものであり、ほんとうの意味での自己自身と自己自身の仕事にかかわるものであるようだ。すなわち、自分の内なるそれぞれのものにそれ自身の仕事でないことをするのを許さず、魂のなかにある種族に互いによけいな手出しをすることも許さないで、真に自分に固有の事を整え、自分で自分を支配し、秩序づけ、自己自身と親しい友となり、三つあるそれらの部分を、いわばちょうど音階の調和をかたちづくる高音・低音・中音の三つの音のように調和させ、さらに、もしそれらの間に別の何か中間的なものがあればそのすべてを結び合わせ、多くのものであることをやめて摂生と調和を堅持した完全な意味での一人の人間になりきって--かくてそのうえで、もし何かをする必要があれば、はじめて行為に出るということになるのだ。それは金銭の獲得に関することでも、身体の世話に関することでも、あるいはまた何か政治のことでも、私的な取引のことでもよいが、すべてそうしたことを行なうにあたっては、いま言ったような魂の状態を保全するような、またそれをつくり出すのに役立つような行為をこそ、正しく美しい行為と考えてそう呼び、そしてまさにそのような行為を監督指揮する知識のことを知恵と考えてそう呼ぶわけだ。逆に、そのような魂のあり方をいつも解体させるような行為は、不正な行為ということになり、またそのような行為を監督指揮する思わくが、無知だということになる」
    --プラトン(藤沢令夫訳)『国家 (上)』(岩波文庫、1979年)。

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宇治家参去です。
日曜は、どうやら熱が下がったので、細君と息子が行たがっていた『大三国志展』(東京富士美術館)へ行って来る。
電車のなかで、久し振りに、プラトンの『国家』に目を通す。
プラトンの真理把握と哲人政治の理想にはすこしツイテイケナイ部分もあるのですが、哲学書なるものを読んでいて、内容もさることながら、読み物としても一流のものはやはりプラトンの著作なのだろうと改めて思った。

そのうえで、プラトンの生涯は現実には苦闘の連続だった。しかし、決して彼は理想を見失わなかった生涯だっという。その歩みが思想的に結実したのがプラトンの哲学であるとすれば、そこに、美的なロマンティシズムと真理の永遠性(善)が調和を持って手を取り合ったのだと思う。

プラトンはいつも永遠不変な真理を時ながらも、どこかロマン主義が漂っている。そうしたロマン主義に少し馴染めない宇治家参去なので、どことなくプラトンの主張を全面的に賛同できないのかも知れません。

さて--
そのロマンと言えばロマン。
『三国志』がひとびとを何世代にも渡り魅了するのは、歴史ロマンとその英雄譚なのでしょう。
日曜のせいか、館内は満員御礼。
当時の貴重な発掘物や文献をしばし堪能する。

美術館へよるまえに、道路を挟んだ勤務校でかるく昼食をとり一休みしてから、銘品を鑑賞しましたが、いつもおなじ結論ですが、やはり本物はいいですね。うちの子供も分かっているのかどうかそれすらこちらは把握できませんが、そうしたものに触れさせる機会は失いたくないものです。

ひとしきり鑑賞したあと、帰途へ。
自宅へ戻る前に、これも久し振りにデパートで買い物し、その足で軽く飲んで帰宅です。

これで終わると哲学をやる意味(?)がないのでひとつ。
帰りに細君からどうだった?と訊かれるので--

「『三国志』は英雄譚であり、ロマンはあるが、結局はガチンコの戦争で殴り合いの殺し合いの記録だろ?」

「そういうことではなく--」

「戦争にロマンがあったのは、19世紀までの話だ。機関銃、戦車、飛行機が登場して以降、戦場からロマンと英雄は消え去った。最後の戦場の英雄はナポレオンの時代で終わりだろう」

「……」

「19世紀以降、文芸運動においても、ロマン主義と自然主義が堪えず拮抗するが、ロマン主義が興隆したとき……」

「もういいや」

とのことだそうです。

ロマンのない哲学者はウルサイらしい。

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崩壊する象牙の塔を悼む

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大学の専門学校化が進む中で、哲学やら宗教学(神学)を専門とする人間にとっては、その隙間に忍び込むスキマが皆無に等しい。たしかに就職と直結した職業教育は大切だが、こうしたあり方が注目をあびるようになってきたのもここ十年ぐらいのできごとであろう。

当事者のひとりとして過去を振り返ってみるならば、90年代の学生は就職活動をいわば“自主的”に行ったものである。就職活動の支援を学生に行ったのは大学ではない。リクルートをはじめとする人材サービス業が学生に直接情報提供を行い、そのノウハウで直接就職活動したものである。学生自身が、自発的に企業説明会の出席ハガキを出し(早い人間は3年生の11月頃から出し始めていたと思う)、リクルートスーツを着こなした。学生たちは、(ゼミや学閥を軸とする)先輩後輩のネットワークを介して、ひとつ、ふたつと内定を取っていた。

再び、自分の過去を振り返るならば、当時、宇治家参去は慶應義塾の文学部に所属していたが、就職活動を全くやっていなかった。しかし就職活動をやっていないからといって大学側から注意や指導をうけたことはなかった。その代わり、リクルートから再三、企業紹介の冊子(リクルートブック)と説明会案内の分厚い書類の束が何度も送付されてきたものである。

しかし長引く不況は、学生たちの自主性に頼った就職活動だけの限界を露呈させた。大卒のフリーター、“第二新卒”の登場の前に、大学側も何らかの手を打たざるを得なくなった……それがここ10年来の大学をとりまく現況であろうと思う。キャリアセンターが設けられ、何から何まで大学が面倒を見るようになってきた。そのことが悪いというわけではない。

では、にわかに活況を呈してきた職業教育とはいかなるものであろうか……。
基本的には、専門学校の講座をモデルとした専門・職業教育である。そのままのスライドといってもよかろうが、従来の一般教養科目を削る形で肥大化しつつある一郡の講座である。
たとえばIT教育もそのひとつである。ワードやエクセルの使い方、インターネットの基本的な考え方とスキルといったものである。非常勤仲間を見ていても、本来の専門は全く別のところに存在するが、こうした分野で糊口を凌ぐ教員はたしかに多い。それだけ需要と供給があるということだろう。

なぜ大学でパソコンやソフトウェアの使い方を教える必要があるのだろうか……。
たしかに、現代の“読み・書き・そろばん”の基礎ともいうべきIT技術に関するメディア・リテラシーをきちんと教えることは大切である。しかし“ソレダケニスギナイ”との観も否めなくない。もちろんそれが無益であり、革命的改廃が断固必要だというわけではない。ほんとうにただ“ソレダケニスギナイ”という実感です。

教養科目のなかでも比較的実学志向が強いのが語学教育だが、これまでのアカデミズムの世界では、語学という媒介であったとしても、そこにどこか哲学とか社会学、そして文学といった大文字の学問や問題意識との繋がりがどこかにあった。語学以外の科目であるならばなおさらその傾向は強かったものである。

今でも覚えているのが、Y教授の一般教養の「社会学」という科目であった。人間を社会をどのような視座(パースペクティブ)から理解していくのか、そのヒントが社会学にあるというようなことを語っていた記憶がある。授業も2/3くらいしか出席しなかったし、結局は社会学を専攻することもなかったが、どことなく何か心のなかにのこっている。

語学の話でいえば、1年のとき、女性の年輩の教員(名前は失念したが、米文学の専門だったと思う)の英語Iかなんかの必修の授業も思いで深い。それまでアメリカ文学とは無縁で、通俗的な言い方ですが、どちらかといえば、独仏露の文学の方が“価値”が“高い”と何となく思っていたものだが、そうしたドクサから目を覚ましてくれたものである。まるまる1年間、ヘミングウェイの原典と向かい合わされるなかで、“新世界”の文学の力強さを発見できたものである。

では現在のIT教育ないしIT教養と呼ばれるものはどんなものだろう……おそらくアカデミズムの持つ奥深さと無限の広がりとのつながりは全くない。社会や大学がどんどん“専門化”するなかで、その土壌を耕す幅広い教養というものはもはや死滅したのか、もしくは、回復不可能なすすり泣きというのが現状かもしれません。

職業教育と大学教育がその当初から別々の機関としてそれぞれが自存してきた西欧の大学の歴史を振り返るならば、大学とか、そこで講じられる教養科目(四年間の大学教育はあくまで教養教育であり、それ以上の専門教育を深めるために大学院が存在した)の役割とはあくまでgeneralであった。技術や方法、さらには人材を配置し、指揮を執るgeneral(将軍)としての全体人間の創造がその眼目にあった。

もちろん、現実には職業教育も必要だ。
しかし、ただそれを、専門学校でおこうな講座をそのままスライドさせただけで、大学の職業教育になるのだろうか。大学と専門学校では、そこで育成すべき人間像がちがうはずだ。単なる一時的な専門学校化は大学の自殺行為に他ならない。

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……ぼく自身の学生時代、本郷で受けた授業で、いまでも忘れ難いのは、中国哲学の赤塚忠先生の「荘子」の講義でした。中国でも、日本でも、西洋でも、古典のオリジナルテクストは普通残っていませんから、読むときはどういうテクストで読むかがまず問題になるのですが、そのとき購読のテクストに使われたのが、これです(香港で印刷発行された、王先謙『荘子集解』を示す)。これは、清の時代に王先謙という学者が過去の注釈本を集めてまとめたものですから、「集解」というわけです。荘子は秦の前の戦国時代の人で、そのテクストにはいろいろ異本があります。その解釈も人によって、だいぶまちまちです。後世沢山の注釈本が出され、やがて、それらの注釈をまとめた集解本というものができます。後世の人が荘子の解釈をするときは、こういう集解本をもとにして、これこれの注釈ではこうなっているし、別の注釈ではこうなっているが、自分はこう考えるというようにやるわけです。
 東洋でも西洋でも、印刷術の普及以前は、古典は筆者して伝えられましたから、必ず写しまちがいがあり、異本が生まれました。そこで古典の研究の第一歩はテクスト・クリティクからはじまります。こういう集解本はテクストクリティクも含んで、この部分はこういう異本もあるが、これこれの理由でこちらのテクストが正しいと思われるといったことが書かれています。
 実際のテクストはこうなっていまして(本文部分を示す)、まず荘子の本文が一〇文字かそこらちょっとありまして、それにつづけて、小さい豆活字で、過去のいろんな注釈がズラッとならぶわけです。簡略化された表記になっていて、古い時代の漢文ですので、その本文部分についてどういっているか、ちょっとやそっとでは読めません。普通の人には注釈の注釈が必要です。赤塚先生の授業では、これを丹念に解読していくわけです。それをびっくりするくらい精密にやります。一つ一つの感じの故事来歴をずっとたどり、しばしば象形文字まで戻って議論する。その議論の内容は諸橋漢和よりはるかに詳しい。碩学とはこういう人をいうのかと、その知識の深さにいつも圧倒される思いでした。そういうことをやっていると、一日一ページぐらいしか進まない。
(中略)
 ぼくは大学の存在意義の一つは、ああいう先生にとことん好きなことをさせておく知的鷹揚さにあると思うんですね。社会的有用性の見地からいったら、赤塚先生の荘子研究はずーっと本としてまとめられることもなく(引用者注、成果が出版されるのは退官して四年後)、毎年五、六人の学生に講じただけで終わってしまうわけですから、意味がないといえばないかもしれない。しかし、人間の文化活動のいちばんすごい部分というのは、たいてい社会的有用性ゼロのところで行われているんです。有用性はゼロだけど、ごく少数でも本当にその価値を認める人がこれはすごいというようなものを、どれだけその社会が支えてやれるか、そういうことがその社会の本当の文化水準を示すと思うんですね。
    --立花隆『脳を鍛える 東大講義「人間の現在」』(新潮文庫、平成十六年)。

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もちろん、宇治家参去が、ここで紹介されているような赤塚先生ほどの学識や専門性を兼ね備えているわけではありません。
しかし、社会的有用性が全て全面に押し出してしまわれると何か違和感もある。赤塚先生の場合、中国の古典哲学の文献学的研究となるわけですが、こうした精緻な研究とかなりの部分で共鳴し合う哲学とか神学といった分野をやっている者としては、どうしても有用性絶対主義にすこしひいてしまう。

もちろん、就職率○○パーセント、法科大学院の卒業生の合格率○○位……そうした部分は大切です。しかし、それだけに収まりきらない、ひろい教養とか、社会的有用性から横溢する部分がたしかに学問には存在する。有用性一辺倒でいくならば研究活動は民間の研究所にまかせればよい。しかしそうならないからこそ大学は存在し、大学の自律がそこにある。

立花の指摘の通り、人間は、ある意味で有用性がゼロの部分から実り豊かな文化を手に入れた。たとえば、音楽や遊びといったものもそうであろう。

であるとすれるならば……そうした有用性ゼロのものを支えることができなくなりつつあるのが日本の大学教育の現状かもしれません。すこし寒いところですが……。

さて……。
とりあえず、来年度の新講座のエントリ及び審査が今月から始まる。
短大に関しては、専門である宗教(学)に関する講座で一つエントリしてみようとおもっている。
何か宗教の基本的知識とその来歴を学べるような入門的な科目で考えてみればどうよ、と細君に言われ、カリキュラム案を組み立てる。カリキュラム案や教材に関してはすんなりまとまると、なかなか講座名が決まらない。
本来、狭義の人文科学と呼ばれる講座は、哲学、倫理学、宗教学の三本柱からその学問が形成されるわけだが、短大でこの三つの講座をカバーした大学はほとんどない。医療倫理の問題がリアルなトピックとして存在する医療系の看護短大なんかはこうした講座が比較的充実している。その意味で挑戦的な取り組みになるが、むずかしい。宗教というものが全面にでるのも嫌煙される風潮がかなり強いので。

文化としての宗教、
人間と宗教の歩み、
国際社会と宗教事情……

どうもしっくりこない。
文献及び活動をいわば記述的に対象化する従来の宗教学に対して、宗教をその宗教として解釈学的立場から理解する必要がもっと大切ではないか考える宇治家参去にとって、宗教を人間の文化現象のひとつとして還元してしまうことには極めて抵抗があるが、細君に言わせると、「ぐだぐだ言っても、食っていけるのか食っていけないのかそのことが大事だ。そんなチンケなこだわりよりも食っていくためには必要なことを講じなさい!」と渇を入れられる。

こうして宇治家参去の学問性は、また己自身の中へ後退していくのであった……。

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