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機嫌がよいこと、丁寧なこと、寛大なこと、等々……

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 人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは人格になるということである。
 幸福は肉体的快楽にあるか精神的快楽にあるか、活動にあるか存在にあるかというが如き問は、我々をただ紛糾に引き入れるだけである。かような問に対しては、そのいずれでもあると答えるほかないのであろう。なぜなら、人格は肉体であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。そしてかかることは人格というものが形成されるものであることを意味している。

 今日ひとが幸福について考えないのは、人格の分解の時代と呼ばれる現代の特徴に相応している。そしてこの事実は逆に幸福が人格であるという命題をいわば世界史的規模において証明するものである。

 幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎ捨てるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃(たお)れてもなお幸福である。

 機嫌がよいこと、丁寧なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
    --三木清「幸福について」、『人生論ノート』(新潮文庫、昭和六十年)。

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来週末スクーリング講義なので、その予習を午前中行う。
これまで授業では扱わなかった部分をやろうかと(ということはやっていたことを一部割愛することになるのだが)思案しており、ひとまず教材を読み直し、関連文献をさやさやとめくる。

教材では「道徳と幸福をめぐって」という表題で、倫理学の対象としての幸福論を扱っている。今日はその愁眉ともいえるカントの道徳的幸福論を確認するために『実践理性批判』(Kritik der praktischen Vernunft)と『人倫の形而上学』(Die Metaphysik der Sitten)を読み直す。特に後者の『人倫の形而上学』は面白い。

カントは「(自分自身にとって)同時に義務である目的とは何か」という問いを提起し、「それは自己の完成と他人の幸福である」と断言している。まず一般的な通念としてはあり得ないよな……と思いつつも、カントにおいてはそうではない。一般的に義務とか道徳的命令は、他者からの命令のカタチをとることを想定しがちだが、カントはそう考えない。他者からの命令に従うダケの生きものであれば、人間は、自然界の法則から自由でないように、自由な存在ではない。それは他律である。しかし、自分自身が“そうする”と決めて自己自身に対してそれをうち立て、内面の声の命令に従うならば、それがカントにおいては自由である。それが自律である。

発想が逆なのです。
通常道徳とかルールという他律をイメージしがちだが、他律においては真にルールは機能しない。しかし、自律においては、まさに自分で決めて守るのだがら、自由であり、ルールは真に機能する。だからカントは義務とか目的にこだわり続ける。幸福論に適用された場合、自己(人格)の完成と他者の幸福の促進が義務かつ目的の真の幸福論というカタチになる。

カントの幸福論を読みながら、幸福に浸っていたのですが、時間です。

市井の仕事へ行かなくては……。
サビシイ市場経済の間隙を漂うマルクスくんなので、

「おっ、マルクスくん、しごとですか。せっせ、せっせ」

市井の仕事へ向かう。

その休憩中に読み直すが、三木清の『人生論ノート』。
ちょうど、今一本かいている論文が、戦間期の近代批判をめぐる言説なので、同時代人としての三木清のエッセーを読みかす。

三木の文章を読む中で、実感するのが、三木もカントの影響を多大に受けているのではないかということ。もちろんカントよりは言い方がダイレクトで生々しい部分はあるのですが。戦前の大正・昭和の思想家は、例にもれずカントの影響(ないしは新カント派)をかなりうけていますので、指摘するまでもないのですが、「幸福を武器として闘う者のみが斃(たお)れてもなお幸福である」という言い方にはシビレますね。内面で想念するだけでなく、そこからその幸福を染み出させ(=実現させ)、「鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福」にしたいものです。そこに人間の人間らしさがあるのかもしれませんね。

人間という生きものは、とかく真の幸福とは何かと論じた場合、快楽や相対的な幸福をのりこえた、観照的な幸福を思い描きがちだが(それはそれで大切なのですが)、快楽や相対的と呼ばれる部分が滅却してしまっても、生活はどこか潤いがなくなってしまうのも現実である。

だとすれば、カントがよくいうように「あるべき」という理想を抱きながら、現実とがっぷり四つに組む中で苦闘するしかないのでしょう……。他人の幸福も自己自身の人格の完成もそうした浮世にしかないわけですから。ただ、その浮世を相対化させる視点としての「あるべき」という矜持も手放すわけにもいきませんが……。

さて……最後に日常ネタ。日常を彩り豊にする宇治家参去の好物の話題でも。
今日は細君が、宇治家参去が大好物である「トラピストクッキー」を買ってきてくれた。
見つけると購入するようにと指示を出してあるので、財布はこちらもち。濃厚なバターが口の中で拡がる、拡がる。ご存じの通り、北海道名物で、ローマ・カトリックの「厳律シトー修道会」(Ordo Cisterciensium Strictioris Observantiae)が製造している。日本では、宗教法人燈台の聖母との呼び名のほうがなじみがあると思います。

このクッキーを噛みしめるたびに思い出すのが、修道院そのもののモットー。すなわち「祈り働け」(Ora et Labora)です。祈りと働きの調和と統合を通して神を賛美する理念は、神を信じるとか信じないとか、私はキリスト者じゃないとか、そうだとか、そうした垣根をとっぱらってみた一人の人間として(何に祈るかは、ここではといませんが)、そうした人の祈りや労働を純粋に見つめ直す視点は、こんな現代だからこそ大切な考え方だと思います。

宇治家参去も「祈り働き」ます。

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