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愛煙家の沈黙

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対話の話をしたので、もうひとつ別の側面からみてみましょう。

最近、うちの子供さんがよくしゃべるようになった。
若干モゴモゴ言っていたり、幼稚園業界の専門用語を連発されると理解不能なところもありますが、まあ、よくしゃべったり歌ったりするようになりました。

非常勤って、研究室とかあるわけではないので、図書館にいないときは、必然的に自宅で作業をせざるを得ません。狭い家ですが、そういう作業場が必要になりますので、倉庫のような六畳一間をあてがわれていますが、そこで、書架の資料に眼を通したり、コピーをとったり、PCで入力したり作業をしています。

自宅で作業する場合、比較的午前中~昼過ぎぐらいまで、宇治家参去も家に居ることになってしまうので、細君とか、子供さんが、ま、つまり、乱入してきます。

こちらは、授業の仕込みをしたり、紀要の論文を書いたり、博論の資料を整理したり、そしてレポートを添削したり……、様々課題がつまっているわけですが、どうもそこを理解してくれません。

PowerPointでプレゼンの準備をしていると、細君が入ってきては、なにやらしゃべり出す。

Amazonで文献を購入しようと見ていると、子供さんが入ってきては、PCを奪い取り、円谷プロダクションのWebを閲覧し始める。

「仕事だ!」といっても……、無力です。

とりあえず、そういうときは一服します。

さて話がずれましたが、市井の仕事は夕方からですので、大学や図書館にでも行かない場合や、アポでもない限り、比較的家にいますので必然的に絡まれるだけでなく、話を聞かされます。

めんどくさいときはスルーするのですが、相手としてはそれがムカツクようですね。

「話を聞いていない!」

細君の場合は、「えっと、何だっけ?」でもう一度聞き返せば、それで済む(本当はそれでもよくないのでしょうが)のですが、子供の場合はそうはいかない。

言葉とジェスチャーが渾然一体となっていますので、まともとに“黙って”向かい合わないといけないということです。これをスルーすると、細君が激怒ります。

「子供の反応には、きちんと黙って応対し、きちんとほめたり、しかったりするように」
基本中の基本ですが、ときどきすっとばすので激怒られます。

語り手に対して、この黙って耳を傾ける。
そしてその上で、応対する。

ここが実は対話の肝要な部分かも知れません。

なかなか実践できませんが、心がけるようにしたいものです。

そういえば、社会学者にして平和運動家のクェーカー、E.ボールディング女史(Elise M. Boulding,1920-)の講演を聞いたことがあるのですが、次のようなことを語っていた。趣意ですがすなわち……

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人の意見に耳を傾けることから「平和の文化」は始まる。
自分と異なる差異に心から耳を傾けなければ、相手が何を考え、何を悩んでいるのかを知ることは出来ない。
意見の対立は善い学習材料である。
対立意見に耳身を傾ければ、見えなかった本質が浮かび上がる。
聞くことこそ、平和の実践の美しい模範にほかならない。

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対話というとなにか語らなければという気負いが先立つがそうではない。訊ねることと、沈黙し聞くこととは表裏一体だ。まずは気負わず向かい合うことが先決か。
単なる、一方的な言葉の発信は、独白にすぎない。

最後に愛煙家の哲学者ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin, 1892-1940)が対話の沈黙について語っていた部分がありますのでひとつどうぞ。

ちなみに、東京では7月より、TASPOの導入が始まります。愛煙家の宇治家参去も遅ればせながら投函する。6月末にスクーリングで高松市(香川県)へ行きます。今回は前回の新潟のように流れず一安心ですが、高松市は5月よりTASPOが導入されているはずなので、それまでに届けば良いのですが……。

さ、1本呑んで、1本吸って寝ます。

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 いかなる対話であれ、それが内容としているのは、過去を若さとして認識し、るいるいと拡がる精神の廃墟に対しておののきの眼をみはることである。これまでわれわれは、父祖たちに対して「私」を駆り立てたあの声なき闘いの場に眼を向けたことがなかった。だがいまや、眼の前に開けてくるのは、われわれが知らず知らずのうちに打ち砕き、葬り去ってきたものの姿である。対話は、失われた偉大なものを惜しみ、嘆くのだ。

 対話がめざすのは沈黙であり、そこでは聞き手は、聞くというよりむしろ沈黙する者である。意味を受け取るのは、むしろ語り手のほうであって、沈黙する聞き手こそ、汲めども尽きぬ意味の泉に他ならない。対話は、この沈黙する者に向かって言葉を差し向けるが、その言葉は、自ら意味を求めて手をのばす言葉、いわば空(から)の水瓶にすぎない。語り手は、かつてあったおのが力の思い出を言葉にこめ、聞き手がさまざまなかたちで現われ出てくるのを待つ。なぜなら、語り手が語るのは、おのれを改めんがためだからだ。語り手は、自ら言葉を発しているにもかかわらず、聞き手の言わんとすることを理解する--すなわち、語っている自分が言語を冒涜しているのに対して、そのような自分の眼の前にいる者の表情には、真摯さと善良さがぬぐいがたくしみついているということだ。
 しかし、たとえ語り手が空虚な過去をほしいまま色づけして語る場合でも、聞き手が理解するのは、この眼の前の語り手の発する言葉ではなくて、彼の沈黙である。なぜなら、語り手の魂はすでに霧散し、その言葉は空疎きわまりないとしても、彼は現にいま聞き手の眼の前におり、その顔はすぐ手の届くところにあって、しきりに動く唇の動きもはっきり見えているからだ。聞き手は真の言語を用意し、語り手の言葉を自らのうちに消え入らせながら、同時にこの語り手をじっと見つめているのだ。
 語る者は、この耳を傾けている聞き手のなかへと消え入ってしまう。だからこそ対話からは、おのずと沈黙が生まれ出ることになる。偉大なる者にとっては、対話はただひとつしかなく、その行きつく果てには、沈黙という偉大なるものがひかえている。これまでも、力がよみがえったのは、この沈黙においてであった。すなわち、聞き手が対話を言葉の果てまで導いてゆき、語り手はあらたな言語としての沈黙をつくり出したということだ。語り手とはつまり、このあらたな言語にまず最初に耳を傾ける者のことに他ならない。

沈黙とは、対話の内なる終極点である。創造を知らぬ者は、けっしてこの終極の点にまでいたることはなく、おのれの対話を独白とみなす。そのような者は、対話に背をむけて日記のなかへもぐりこむか、さまなくばカフェーへと踏み込む。
     --ヴァルター・ベンヤミン(道籏泰三訳)「若さの形而上学」、『来るべき哲学のプログラム』(晶文社、1992年)。

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