« でもそんなこと、案外よけいな事じゃないんじゃないかな | トップページ | 学とは人と人との間の局面的面受の関係 »

エビスを轢き殺す

00_01_00_080627005602_2

-----

十五、六歳の頃、ブルックリンの通りを、わたしはペーパー版プラトンの『共和国』の表紙を外側に見えるようにして歩いていた。その一部を読んで、余りよく理解できなかったけれども、わたしは感激し、なんとくなくすばらしさを感じていた。年上の人がこの本を抱えているわたしに気がつき感心して、肩をぽんとたたいて、何か言ってくれないかとわたしはどんなに望んでいたことだろう。でも何を言ってもらいたかったのかたしかなところは分からなかった……
 時折わたしが思うことは、不安がないわけではないが、十五、六歳の若者は大人になったら何になりたいと考えているのだろうかということだ。この本が若者の気に入ってくれることを望みたい。
 今ふとわたしの心に浮かんだのは、若い頃に探し求めていた認識と愛が、大人になったらなりたいと思っていたのと違った結果になったのではないかということである。もしわれわれが成人に達するのはわれわれの親の親になるのことによってであるなら、そしてわれわれが成熟するのは両親の愛に代わる適当なものごとを見出すことによるのであるならば、われわれ自身がわれわれの理想的な親になることによって、最終的に円環は閉じられ、完全さに到達することになるだろう。
    --ロバート・ノージック(井上章子訳)『生のなかの螺旋 自己と人生のダイアローグ』(青土社、1993年)。

-----

倫理学とは、和辻哲郎の表現を語るならば、人間関係の在り方、ないしは人間関係の在り方を根源的に規定する人間の在り方を問う学問ということに帰着する。そうであるとすれば、自己と共同体の問題は、倫理学の大きな対象となるわけで、そこに政治学と倫理学の接点が見出される。

政治学は、ロバート・ダール(Robert A. Dahl, 1915年-)が図式化したとおり、①統治・権威・権力に関する領域、②領土(地域性)に関する領域、③主権・自足性・至上性に関する領域をカヴァーする社会科学のひとつの領域という意味合いがつよいが、そこに人間という存在が住まう以上、その関係性は大問題となる。マスコミという文脈で語られる政治学がパワーゲーム追っかけに終始し、その道筋を読み解くことに専念するイメージが定着しているのに対し、倫理との接点を考えると、現代(といってもこれも30数年来の伝統という意味ではすでに現代ではないのかもしれないが)英語圏の政治学が、パワーゲーム終始しない倫理と政治(倫理の展開)をめぐる議論を活況に呈しているのは、実り豊かな、人間学の業績として評価できる(といっても宇治家参去のようなヘボに評価されても意味はないのでしょうが……)。

さて、共同体と国家の距離観と経済感覚についての議論では、ジョン・ロールズ(John Rawls,1921-2002)の『正義論』に代表されるリベラリズム(liberalism)やチャールズ・テイラー(Charles Taylor,1931-)やアラスデア・マッキンタイア(Alasdair MacIntyre,1929-)に代表されるコミュニタリアニズム(共同体主義、communitarianism)、そして、ロバート・ノージック(Robert Nozick, 1938-2002)に代表されるリバタリアニズム(libertarianism)の思想がその大きな潮流をなしている。

海の向こうで、共同体と個々人のリアルな在り方に関してはまさに喧々諤々の議論が繰り広げられ、豊かな議論や方向性が提示されているのに対して、現実として本邦では議論の紹介はなされても、リアルな言論として展開されず、結局パワーゲームに終始するか、もしくはすべてを飲み込むエモーショナルな議論に陥ってしまうのがチト寒いところである。

さて……。
冒頭はリバタリアンの代表的論客とされるノージックの自伝的論集のあとがきのような部分からの一節です。
リバタリアンとは、神学的には決定論に対して自由意志の存在を唱える立場であり、政治学に置いては、他者危害の原則を金科玉条となす考え方である。すなわち、他者の権利を侵害しない限りおいて、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする政治思想である。この考え方の行き着くところは、無政府資本主義(anarcho capitalism)であり、現実的には自由放任(レッセフェール,laissez-faire)な夜警国家であろう。立場的に俯瞰するなら、リベラルを中心軸におくとすれば、その左右にリバタリアニズムと共同体主義が鎮座することになる。

ま、宇治家参去は、その両者の間をゆれうごく存在といいますか、リバタリアニズムのすっきりさには惹かれる部分があるわけで、倫理学的関心(発想の現実的適応)から徳倫理学の政治学的展開に興味があるわけですので、ノージックも読みます。

夜警国家、ないしは国家の介入の最大限の排除は、すなわち、具体的には小さな政府である。個人は他者に危害を及ばさない限りにおいて外部からの介入がまったくない……ある意味では理想です。それを内実たらしめる努力はいかなる政治思想をとるにせよ必要ですが、そうした人間の自由の尊厳を具体的な在り方として守る言説には妙にひかれるものです。

もちろん、ロールズの『正義論』で説かれる“無知のヴェール”や、共同体主義者の説く、共同体の在り方に大きな意味を持たせつつも、全体主義・国家主義とは異なる政策レベルを追求する言説にも惹かれるわけですので、その間を漂うしかありませんが、彼らの言説で興味深いのは、人間のこれまで来歴(成功と失敗、古典研究)を踏まえた上で現実のリアルポリティクスとの不断の対話を行っている点である。ゆえに、いかなる立場をとろうとも、そこに人間が見出されているがゆえに、思想の持つダイナミズムとリアリズム、そしてイデアルな方向性が示唆されていることに驚くばかりである。

政治学の世界はともすると(ともしないか……)、現実のリアルポリティクス一辺倒で終わる不毛な椅子取りゲームの記述で終わりがちだが、そうした不毛さを乗りこえる成熟した議論が必要かも知れません。

ノージックは、国家の正当性と限界を説くわけですが、まったく冷徹な権力議論を説いていない。そこには、引用文に吐露されているように、現実の人間に根ざした眼差しが存在している。

だからプロパーの倫理学者が読んでも面白いのであろう。

さて……。
土曜日からスクーリング講義で高松へ。
原則、前日現地入りでないと授業に間に合わないので、本日朝一のフライトです。
市井の仕事を終えてから、とっとと寝ようとビールを買って帰ったわけですが、自宅直前で落下、自転車で轢いてしまう。内部は爆発しませんでしたが、おおきな傷痕が残る。空けるのが怖いですが、飲んで寝ないと朝になる。

皆様もお気を付け下さいませ。
帰宅中、自宅間近になるとどうも気が抜けるのです。

ああ、もう家だ。

これが一番怖いですよ。今日のビール缶のように。

以前も三度、両腕を骨折しておりますが、すべて自転車での転倒。
そして、三回とも、自宅から200M圏内です。

ご用心あれ!

……って思ったけど、あんまり泡の逆噴射はありませんでした。
でも早く寝ないと起きられない。

ひとまず雨があがって良かった。

最後に蛇足ですが、高松でお会いする皆様方宜しくお願いします。

00_02_00_nozick2

Examined Life: Philosophical Meditations Book Examined Life: Philosophical Meditations

著者:Robert Nozick
販売元:Touchstone Books
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Anarchy, State and Utopia Book Anarchy, State and Utopia

著者:Robert Nozick
販売元:Basic Books (Short Disc)
Amazon.co.jpで詳細を確認する

00_01_00_080627005602

|

« でもそんなこと、案外よけいな事じゃないんじゃないかな | トップページ | 学とは人と人との間の局面的面受の関係 »

哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: エビスを轢き殺す:

« でもそんなこと、案外よけいな事じゃないんじゃないかな | トップページ | 学とは人と人との間の局面的面受の関係 »