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「我々は甚だ不快なる機械であるであろう」はずはない

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 人間を思惟的存在として規定することはいうまでもなく正しい。けれどもそれは一面的な見方に過ぎぬ。なぜなら「人間は明らかに考えるために創られている」(146)が、しかし愛はまた彼の本性に属し、このものを欠いては彼の存在性は完成されないからである。むしろ情念は知的作用と同等の権利をもって主張されねばならぬ。パスカルは情念の権利を批判的必然性としての理性に基けている。彼はいう、「情念は過度であることなくしては美しくあることが出来ない。そこでひとは世間の評判を顧みない、というのは彼は世間が我々の行為を、それが理性から出ているが故に、すでに非難し得ぬことを知っているからである」(III,135)。しかしながら情念の意義は我々の存在の本質なる状態を反省するとき最も明瞭になって来る。けだし動性は人間の根本的規定である。したがって「彼は一様な生活に自己を適合させることが出来ない。彼は運動と活動とを要する、言い換えるならば、その生々したそして深い源を彼の心臓において感ずるところの情念によって彼が時々動かされることが必要である」(III,119)。思惟は人間の本性に属しながら、しかも純粋な思惟はあまりに永きにわたるときひとを疲れしめ、気を落とさせる。これに反してそれ自ら特殊なる動性としての情念は、一般に動性を本質とする人間の存在の全体に最も適わしき魂のはたらきである。自覚的思惟は人間にとって「自然的」であるけれども彼の自然でなく、彼にとって「自然」であるのはむしろ情念である。情念の生に対する優越なる意味は根本的に我々が運動的存在であるところに存すると考えられねばならぬ。この情念を断念し否定することは生そのものを断念し、否定するの謂である。生の目的は生の自然を滅すことでなく、かえってこれを浄め、これに光を与え、かくしてこれを深めるにある。
 思惟と愛とは人間の二つの本性であるばかりでなく、それらはまた相互の間に密接な関係を保っておる。一方において純粋な思惟が我々の存在の全部を満足させぬことは勿論であるが、他方において愛が詩人の考えるが如く盲目的でないのは明らかである。もしひとが愛から知性を除き去るべきであり、また除き去り得るとしたならば、「我々は甚だ不快なる機械であるであろう」(III,136)。
    --三木清『パスカルにおける人間の研究』(岩波文庫、1980年)。

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月曜から細君の母親が所用で上京しているため、今朝も早くから起こされる。
今日は美術館へいくとのことで、子供さんのお迎え任務を仰せつかり着任する。

13:40……。

若い(?)お母様方の乱立する園庭で我が子を待つ。
ひとり浮いたオッさんがひとり……。
面倒だが子供さんから私が分かりやすいように迎えに行くときはいつもスーツを着用する。夏のような暑さを暫し我慢、やがて子供さんと再会する。

座席をあつらえたママチャリで一路コンビニへ爆走する。幼稚園帰りにコンビニ寄るのが習慣になっているからだ。燃料も千円もらっている。

子供さんがウルトラ関係のフィギュアを物色し、レジを通して帰宅する。

「パパ、改造パンドン(ウルトラセブンの怪獣)好き~?」

「好き」

「パパ、パンドン(ウルトラセブンの怪獣)は?」

「好き」

「パパ、ゼットン(ウルトラマンの怪獣)は?」

「ふつう~」

「ふつう~?なにそれぇぇ?」

ふつうがまだ分からない子供さんでした。

うちの子供さんはまだ好きのランク付けができません。好きかor嫌いかです。
好きという行為自体のなかに、実は排他的なランク付けの暴力が発動する事実を鮮やかに暴いて見せたのレヴィナスですが、そうした問題とか、幼児の感情発達を問題にしようとしているのではありません。

子供さんとふれあうなかで、感じる「感情」ないしは哲学的に言えば「情念」の問題です。
彼はランク付けができないし、「嫌い」といいたくないのか、「全部好き」と言います。本当にニコニコしながら「全部好き」です。だから、玩具屋さんで、一個を選ぶと言うことができません。親も甘いので、ときどき二つ買ってしまうのですが……(それはそれで問題なのですが)。

まさに「全部好き~」を五体を振るわせながら表現しております。

こうした交流をやりとりするなかで実感するのは、アタリマエのことなのですが、そうした人間論的事実を真摯に受けとめる必要があるようなア~という部分です。

もちろん感情に振り回されるのは忌避すべきなのでしょうが、人間が感情を持つという事実をきちんと整理しない限り、人間とは何かという全人性を追求することが不可能だからです。

伝統的な哲学とか思想の世界において、感情とか情念と言った問題は、人間の人間たる人間性を損なうシロモノと見られる傾向が顕著でした。なぜなら永遠不滅の真理なるものを探求する哲学に対して、感情とか情念は判断を過たせる、一時的な、まさに激昂にすぎず、人間の理性的な判断を惑わせるイカガワシイ在り方とされてきたからです。

上に引用したのはその全人性を冷静に探求したフランスの思想家ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal,1623-1662)の人間論を整理した日本の哲学者・三木清(1897-1945)の名著から一節です。

解説にそうした情念をイカガワシイ在り方と見る伝統的な哲学の隘路を指摘した部分があるのでついでにひとつ。

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 哲学は生の自覚にほかならず、自覚的意識として生そのものに属している。ところが生はそれ自身のうちに自己逃避の傾向をもっているから、哲学はとかく自己の本来の地盤を離れて、単に議論のために議論する慰戯に陥りがちである。このように哲学が自己逃避の慰戯にすぎなくなるとき、「我々は決して事柄そのものを訊ねずしてかえって事柄の議論を訊ねる」こととなる。これは単なる論理の遊戯、論理の斉合のみを追求する抽象的な思弁でしかない。
 しかも現実にはこれが哲学と称される多くのものの営みなのである。だから著者はパスからとともにいう、「哲学を嘲ること、それが真に哲学することである」と。
    --枡田啓三郎「解説」、前掲書。

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人間の全人性を取捨し、議論のための議論、懐疑のための懐疑を哲学は重ねた結果自らその魅力を失ってしまった。広く哲学の議論が人口に膾炙されなくなった原因もここにある。

感情も情念もイカガワシイものではない。
ときにタガがはずれるとそれはイカガワシイものなのかもしれないが、それも人間の現実である。そうしたところを切り捨てて、人間を論じても、それは人間を論じたことにはならないであろう。「我々は甚だ不快なる機械であるであろう」はずはないはずだ。

大感情を振るわせて喜べ!
大感情を振るわせて怒れ!
大感情を振るわせて哀しめ!
そして大感情を振るわせて楽しめ!

人間であることを「全部好き!」になりたい。
そのためには感情の何たるかを看過することは不可能だ。
その喜びも怒りも哀しみもそして楽しみも知らない限り、人間は善に対しても悪に対しても本源的には躊躇してしまう臆病な存在になってしまうのだろう。

そうしたシニカルさとはどこかで訣別する勇気が必要だ。

ただ……しかし、息子さんは「全部好き」ではなく、「こっちを今回買う」というようになってほしい。

Blaise_pascal

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