« 「自由な世界へいたる門」を開く | トップページ | ロマンのない哲学者はウルサイらしい »

崩壊する象牙の塔を悼む

01_dscn7706

大学の専門学校化が進む中で、哲学やら宗教学(神学)を専門とする人間にとっては、その隙間に忍び込むスキマが皆無に等しい。たしかに就職と直結した職業教育は大切だが、こうしたあり方が注目をあびるようになってきたのもここ十年ぐらいのできごとであろう。

当事者のひとりとして過去を振り返ってみるならば、90年代の学生は就職活動をいわば“自主的”に行ったものである。就職活動の支援を学生に行ったのは大学ではない。リクルートをはじめとする人材サービス業が学生に直接情報提供を行い、そのノウハウで直接就職活動したものである。学生自身が、自発的に企業説明会の出席ハガキを出し(早い人間は3年生の11月頃から出し始めていたと思う)、リクルートスーツを着こなした。学生たちは、(ゼミや学閥を軸とする)先輩後輩のネットワークを介して、ひとつ、ふたつと内定を取っていた。

再び、自分の過去を振り返るならば、当時、宇治家参去は慶應義塾の文学部に所属していたが、就職活動を全くやっていなかった。しかし就職活動をやっていないからといって大学側から注意や指導をうけたことはなかった。その代わり、リクルートから再三、企業紹介の冊子(リクルートブック)と説明会案内の分厚い書類の束が何度も送付されてきたものである。

しかし長引く不況は、学生たちの自主性に頼った就職活動だけの限界を露呈させた。大卒のフリーター、“第二新卒”の登場の前に、大学側も何らかの手を打たざるを得なくなった……それがここ10年来の大学をとりまく現況であろうと思う。キャリアセンターが設けられ、何から何まで大学が面倒を見るようになってきた。そのことが悪いというわけではない。

では、にわかに活況を呈してきた職業教育とはいかなるものであろうか……。
基本的には、専門学校の講座をモデルとした専門・職業教育である。そのままのスライドといってもよかろうが、従来の一般教養科目を削る形で肥大化しつつある一郡の講座である。
たとえばIT教育もそのひとつである。ワードやエクセルの使い方、インターネットの基本的な考え方とスキルといったものである。非常勤仲間を見ていても、本来の専門は全く別のところに存在するが、こうした分野で糊口を凌ぐ教員はたしかに多い。それだけ需要と供給があるということだろう。

なぜ大学でパソコンやソフトウェアの使い方を教える必要があるのだろうか……。
たしかに、現代の“読み・書き・そろばん”の基礎ともいうべきIT技術に関するメディア・リテラシーをきちんと教えることは大切である。しかし“ソレダケニスギナイ”との観も否めなくない。もちろんそれが無益であり、革命的改廃が断固必要だというわけではない。ほんとうにただ“ソレダケニスギナイ”という実感です。

教養科目のなかでも比較的実学志向が強いのが語学教育だが、これまでのアカデミズムの世界では、語学という媒介であったとしても、そこにどこか哲学とか社会学、そして文学といった大文字の学問や問題意識との繋がりがどこかにあった。語学以外の科目であるならばなおさらその傾向は強かったものである。

今でも覚えているのが、Y教授の一般教養の「社会学」という科目であった。人間を社会をどのような視座(パースペクティブ)から理解していくのか、そのヒントが社会学にあるというようなことを語っていた記憶がある。授業も2/3くらいしか出席しなかったし、結局は社会学を専攻することもなかったが、どことなく何か心のなかにのこっている。

語学の話でいえば、1年のとき、女性の年輩の教員(名前は失念したが、米文学の専門だったと思う)の英語Iかなんかの必修の授業も思いで深い。それまでアメリカ文学とは無縁で、通俗的な言い方ですが、どちらかといえば、独仏露の文学の方が“価値”が“高い”と何となく思っていたものだが、そうしたドクサから目を覚ましてくれたものである。まるまる1年間、ヘミングウェイの原典と向かい合わされるなかで、“新世界”の文学の力強さを発見できたものである。

では現在のIT教育ないしIT教養と呼ばれるものはどんなものだろう……おそらくアカデミズムの持つ奥深さと無限の広がりとのつながりは全くない。社会や大学がどんどん“専門化”するなかで、その土壌を耕す幅広い教養というものはもはや死滅したのか、もしくは、回復不可能なすすり泣きというのが現状かもしれません。

職業教育と大学教育がその当初から別々の機関としてそれぞれが自存してきた西欧の大学の歴史を振り返るならば、大学とか、そこで講じられる教養科目(四年間の大学教育はあくまで教養教育であり、それ以上の専門教育を深めるために大学院が存在した)の役割とはあくまでgeneralであった。技術や方法、さらには人材を配置し、指揮を執るgeneral(将軍)としての全体人間の創造がその眼目にあった。

もちろん、現実には職業教育も必要だ。
しかし、ただそれを、専門学校でおこうな講座をそのままスライドさせただけで、大学の職業教育になるのだろうか。大学と専門学校では、そこで育成すべき人間像がちがうはずだ。単なる一時的な専門学校化は大学の自殺行為に他ならない。

-----

……ぼく自身の学生時代、本郷で受けた授業で、いまでも忘れ難いのは、中国哲学の赤塚忠先生の「荘子」の講義でした。中国でも、日本でも、西洋でも、古典のオリジナルテクストは普通残っていませんから、読むときはどういうテクストで読むかがまず問題になるのですが、そのとき購読のテクストに使われたのが、これです(香港で印刷発行された、王先謙『荘子集解』を示す)。これは、清の時代に王先謙という学者が過去の注釈本を集めてまとめたものですから、「集解」というわけです。荘子は秦の前の戦国時代の人で、そのテクストにはいろいろ異本があります。その解釈も人によって、だいぶまちまちです。後世沢山の注釈本が出され、やがて、それらの注釈をまとめた集解本というものができます。後世の人が荘子の解釈をするときは、こういう集解本をもとにして、これこれの注釈ではこうなっているし、別の注釈ではこうなっているが、自分はこう考えるというようにやるわけです。
 東洋でも西洋でも、印刷術の普及以前は、古典は筆者して伝えられましたから、必ず写しまちがいがあり、異本が生まれました。そこで古典の研究の第一歩はテクスト・クリティクからはじまります。こういう集解本はテクストクリティクも含んで、この部分はこういう異本もあるが、これこれの理由でこちらのテクストが正しいと思われるといったことが書かれています。
 実際のテクストはこうなっていまして(本文部分を示す)、まず荘子の本文が一〇文字かそこらちょっとありまして、それにつづけて、小さい豆活字で、過去のいろんな注釈がズラッとならぶわけです。簡略化された表記になっていて、古い時代の漢文ですので、その本文部分についてどういっているか、ちょっとやそっとでは読めません。普通の人には注釈の注釈が必要です。赤塚先生の授業では、これを丹念に解読していくわけです。それをびっくりするくらい精密にやります。一つ一つの感じの故事来歴をずっとたどり、しばしば象形文字まで戻って議論する。その議論の内容は諸橋漢和よりはるかに詳しい。碩学とはこういう人をいうのかと、その知識の深さにいつも圧倒される思いでした。そういうことをやっていると、一日一ページぐらいしか進まない。
(中略)
 ぼくは大学の存在意義の一つは、ああいう先生にとことん好きなことをさせておく知的鷹揚さにあると思うんですね。社会的有用性の見地からいったら、赤塚先生の荘子研究はずーっと本としてまとめられることもなく(引用者注、成果が出版されるのは退官して四年後)、毎年五、六人の学生に講じただけで終わってしまうわけですから、意味がないといえばないかもしれない。しかし、人間の文化活動のいちばんすごい部分というのは、たいてい社会的有用性ゼロのところで行われているんです。有用性はゼロだけど、ごく少数でも本当にその価値を認める人がこれはすごいというようなものを、どれだけその社会が支えてやれるか、そういうことがその社会の本当の文化水準を示すと思うんですね。
    --立花隆『脳を鍛える 東大講義「人間の現在」』(新潮文庫、平成十六年)。

-----

もちろん、宇治家参去が、ここで紹介されているような赤塚先生ほどの学識や専門性を兼ね備えているわけではありません。
しかし、社会的有用性が全て全面に押し出してしまわれると何か違和感もある。赤塚先生の場合、中国の古典哲学の文献学的研究となるわけですが、こうした精緻な研究とかなりの部分で共鳴し合う哲学とか神学といった分野をやっている者としては、どうしても有用性絶対主義にすこしひいてしまう。

もちろん、就職率○○パーセント、法科大学院の卒業生の合格率○○位……そうした部分は大切です。しかし、それだけに収まりきらない、ひろい教養とか、社会的有用性から横溢する部分がたしかに学問には存在する。有用性一辺倒でいくならば研究活動は民間の研究所にまかせればよい。しかしそうならないからこそ大学は存在し、大学の自律がそこにある。

立花の指摘の通り、人間は、ある意味で有用性がゼロの部分から実り豊かな文化を手に入れた。たとえば、音楽や遊びといったものもそうであろう。

であるとすれるならば……そうした有用性ゼロのものを支えることができなくなりつつあるのが日本の大学教育の現状かもしれません。すこし寒いところですが……。

さて……。
とりあえず、来年度の新講座のエントリ及び審査が今月から始まる。
短大に関しては、専門である宗教(学)に関する講座で一つエントリしてみようとおもっている。
何か宗教の基本的知識とその来歴を学べるような入門的な科目で考えてみればどうよ、と細君に言われ、カリキュラム案を組み立てる。カリキュラム案や教材に関してはすんなりまとまると、なかなか講座名が決まらない。
本来、狭義の人文科学と呼ばれる講座は、哲学、倫理学、宗教学の三本柱からその学問が形成されるわけだが、短大でこの三つの講座をカバーした大学はほとんどない。医療倫理の問題がリアルなトピックとして存在する医療系の看護短大なんかはこうした講座が比較的充実している。その意味で挑戦的な取り組みになるが、むずかしい。宗教というものが全面にでるのも嫌煙される風潮がかなり強いので。

文化としての宗教、
人間と宗教の歩み、
国際社会と宗教事情……

どうもしっくりこない。
文献及び活動をいわば記述的に対象化する従来の宗教学に対して、宗教をその宗教として解釈学的立場から理解する必要がもっと大切ではないか考える宇治家参去にとって、宗教を人間の文化現象のひとつとして還元してしまうことには極めて抵抗があるが、細君に言わせると、「ぐだぐだ言っても、食っていけるのか食っていけないのかそのことが大事だ。そんなチンケなこだわりよりも食っていくためには必要なことを講じなさい!」と渇を入れられる。

こうして宇治家参去の学問性は、また己自身の中へ後退していくのであった……。

02453pxzhuang_zi_2 03sousi_2

Book 新釈漢文大系〈2〉大学・中庸

著者:赤塚 忠
販売元:明治書院
Amazon.co.jpで詳細を確認する

脳を鍛える―東大講義「人間の現在」 (新潮文庫) Book 脳を鍛える―東大講義「人間の現在」 (新潮文庫)

著者:立花 隆
販売元:新潮社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 「自由な世界へいたる門」を開く | トップページ | ロマンのない哲学者はウルサイらしい »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/21320770

この記事へのトラックバック一覧です: 崩壊する象牙の塔を悼む:

» 語学・留学部門-情報商材・評価ランキング10☆ [語学・留学部門-情報商材・評価ランキング10☆]
語学・留学の注目の情報商材が初心者でもすぐに分かるランキング!!英語、英会話、国語、漢字、イタリア語、留学、TOEIC、TOEFL、イギリス英語、中国語の最新ノウハウ公開◇ [続きを読む]

受信: 2008年6月 1日 (日) 17時10分

» CAD利用技術者試験の出題範囲 [CAD利用技術者試験の出題範囲]
CAD利用技術者試験の資格には2級と1級がありますが、それではCAD利用技術者試験の出題範囲はどのようになっているのでしょうか。 [続きを読む]

受信: 2008年6月 4日 (水) 14時46分

» 【医療倫理】についてブログや通販での検索結果から見ると… [気になるワードを詳しく検索!]
医療倫理 をサーチエンジンで検索しマッシュアップした情報を集めてみると… [続きを読む]

受信: 2008年6月 6日 (金) 13時53分

» 第二新卒について [第二新卒]
第二新卒とは、新卒入社3年以内に退職した社会人のことを言います。 第二新卒とは、一般的には25歳までで、過去に正社員・派遣社員・契約社員のいずれかの経験がある人を指しています。 第二新卒は、現在多くの [続きを読む]

受信: 2008年6月16日 (月) 22時37分

« 「自由な世界へいたる門」を開く | トップページ | ロマンのない哲学者はウルサイらしい »