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「参りました」

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知人からもらったカブトムシの幼虫が成虫になった。
動物とは不思議なもので、生まれ落ちた子馬がすぐにその足で大地にたつように、基本的にはすぐに生きてゆくことができるようになっている。それに対して、人間の赤ん坊は、生まれたおちたままの放置は不可能である。動物には本能があるが、倫理はない。しかし、人間には、本能もあれば倫理も必要となる。そうした一瞬をカブトムシに学ぶある日の宇治家参去です。

先日学生さんが提出したレポートを日課のごとく添削する中で、「これぞ」という作品に出会いました(返送する前にコピーしとけばよっかた)。

剣術の試合なんかでよくあるわけですが、立ち会いのすえ、破れて、まがうことなき真心で「参りました」と観念するシーン、これがレポートを読んでいるときどきあります。

まさに「参りました」です。

倫理学とは、人間のあり方とは何か(ないしは人間を含む様々な対象との関係はどうあるべきか)を探求する学問といってよかろうが、そのありかたを探求する現場は、戦場から遠く離れた作戦室とか実験室ではない。その生きる現場のなかで、また葛藤の中で、探求するのが倫理学のアクチュアリティである。

以前にも引用したが、日本を代表する倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)は主著『倫理学』の冒頭で次のように述べている。

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倫理そのものは倫理学書の中にではなくして人間の存在自身の内にある。倫理学はかかる倫理を自覚する努力に他ならない。道は邇(ちか)きに在りとは誠に至言である。
    --和辻哲郎『倫理学 (一)』(岩波文庫、2007年)。

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メーテルリンクの『青い鳥』ではないが、ともすれば、どこかに真実は存在すると人は考えがちだがそうではない。倫理学を学ぶとは自分自身の生活を深く反省・点検し、雄々しく生きゆく人間の智慧に他ならない。

さて、話がすっ飛びましたが、レポートの話。
現在、課題として出題されているレポートのひとつが、上述したような倫理学における問題意識をふまえた上で、筆者自身の日常生活での経験をその観点から叙述せよ……そういうスタイルの課題ですが、ひさびさに本当に「参りました!」というレポートを読んだ。

著者は、昨年の夏期スクーリングで宇治家参去の授業を受講された方で、介護関係のビジネスを展開されている人物です。老人福祉施設を実際に運営されているわけですが、介護の陥穽を問う経験を述べられておりました。

曰く……。
逆説的ですが、介護サービスにおいては介護してしまうと寝たきりになってしまう。そうならない介護は可能かどうか……そのことです。
介護といえば、デイサービスといった食事の世話から始まり、ショートステイから特別養護のありかたまで、様々な取り組みとサービスのレベルがあるわけですが、基本的には“生きること”をサポートするのがその任務である。

ただし、サポートとは、すべてこちらが援助してしまうことではないのだそうだ。

長年、施設を経営するなかで、筆者が実感していたのは、サポートをしていくうちに、対象者が寝たきりになってしまうという事実であった(おそらくこのことは当該者の施設だけに限定される問題でもないし、被サービス受給者の老化も一員を買っているわけですが)。たしかにサポートは提供しなければならない。食事を自分で口に運べない方や入浴ができない方に食事や入浴の世話を行い、継続的な機能訓練を実施することは大切だ。しかし、逆説的ですが、サポートに熱が入れば入る程、本人の機能が低下していく……そうした悪循環に葛藤されたようです。

そこで、筆者は、「生きること」を“サポート”する意味を問い直す。そのなかで、海外での福祉施設のレポートの実例をかたっぱしから取り寄せ、学習する。そして介護現場の臨床事例も学習する。何が本当の「生きること」の“サポート”なのか……。

そしてその苦闘の向かい合いの中で、一つ発見があった。
極めて日常的かつ卑俗な話題で恐縮ですが、排泄のサポートに実は核心にあったことを発見する。

高齢で入所する方のほとんどが、排泄を自分で出来ない状態で入所するわけではない。また入所して年月を経るなかで、自分で排泄が行えないようになるのも、老化ということは踏まえれば致し方ない。しかし、サポートすることがそれを加速させているのであれば、本末転倒である。そのことであった。

欧米の施設(※宇治家参去も典拠は確認していないので何ともいえないのですが)では、比較的排泄は自己で最終的に行わせるサポートのあり方を丹念に追求し、ぎりぎりまで実施させているとのことだそうです。排泄ほど、プライベートでかつ自然の要求はない。しかしこれを他人にまかせるようになると、人間という生きものはどうしても、当人の当人性が棄却されてしまうのである。排泄という一点が契機になり、どんどん症候が進展し、結局寝たきりを余儀なくされる……そういう流れのようである。

だからこそ、筆者の施設では、ほんとうにぎりぎりになるまでは、排泄の全サポートは行わず、逆に自分自身でふんばれるところまではぎりぎりでサポートするようになったそうである。その結果、入所して寝たきりになる高齢者の方がめっきりへったそうである。自分でできたときには、最大限にほめたたえ、苦難におちいったときは最大に励まし、自分自身の生きる力を引き出す介護の実例なのであろう。

生きることはお互いにサポートが必要であるが、自分で出来るところは自分でやるべきだし、そのぎりぎりまでのサポートは提供しなければならない。このことは福祉施設にかぎられたことではない。

卑俗かつ日常に根ざしたところからの発見の報告でした。
問題は高齢者福祉に限定された事象ではない。
生活を深く点検し、そこから智慧を湧現させる……現実には試行錯誤の連続かもしれないが、そこにしか盲点を突く突破口は存在しない。そう考えさせられた学習報告でした。

まさに「参りました」です。ハイ。

さて、こんなときに、一番読んですっきりするのは福沢諭吉の独立自尊論です。
最後に『学問のすゝめ』の一節からでもどうぞ。

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 独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを言う。自ら物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵に依らざる独立なり。自ら心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財に依らざる独立なり。人々この独立の心なくしてただ他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがるの人のみにて、これを引受くる者はなかるべし。これを譬えば盲人の行列に手引きなきが如し、甚だ不都合ならずや。
(中略)
 独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者は次第にこれに慣れ、その面(つら)の皮鉄の如くなりて、恥ずべきに恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる習い性となるとはこの事にて、慣れたることは容易に改め難きものなり。
(中略)
    福沢諭吉『学問のすゝめ』(岩波文庫、1978年)。

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きわめて蛇足ですが、同じレポートは出してはなりませぬぞ。念のため。

さ、さ、今日も疲れたので、マイルス・デイビスでも聴きながら、KIRINの『ザ・プレミアム無濾過<リッチテイスト>』でも飲んで寝ます。カブトムシも旨そうになにやら餌を舐めています。

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