善さは、集合的なありかたという匿名的なもののうえに光をはなつのではない
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善さは、集合的なありかたという匿名的なもののうえに光をはなつのではない。集合的なありかたなら、俯瞰的なかたちで呈示されることで、匿名的なもののうちに吸いこまれてしまう。善さがかかわるのは顔において啓示される存在であって、他方で善さはそれゆえ、はじまりのない永遠性をもつことがない。善さには始源(プリンシプル)、起源(オリジン)があり、一箇の<私>から発する主体的なものである。
--レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限 (下)』(岩波文庫、2006年)。
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土曜は少しゆっくり休んでから市井の仕事へ行こうとおもっていたのだが、前日になって、細君から「明日は幼稚園の父親参観日だから早く起きて」といわれる。
「聞いてない」と答えたのだが、先月言っておいたとのこと。
例の如く、細君の話を“黙って聞いてない”宇治家参去です。
さて、当日。
朝一番で起きて、息子さんと登園する。
園庭での訓辞(?)のあと、各教室へ分かれ、前半は授業様子を観察し、後半は父子の共同作業となる。12時前に終了し、帰宅する。
細君と過ごす時間よりも、父親である宇治家参去と過ごす時間の方が、極めて少ないため、終始ご機嫌であったが、帰宅すると、日曜が「父の日」なる共同幻想の記念日であるため、細君と息子さんよりプレゼントを頂く。
息子さんからは、(幼稚園の授業で作ったものらしいが)ペットボトルを利用して作ったなんらかの入れ物。そして細君からは日本酒のプレゼント。
先(まず)は……
「ありがとうございます」
山口県の「特別純米酒 山猿」(永山酒造合名会社)……。
聞いたことのない酒だが、どういう基準で選んだか聞くと、「八海山」と同じ値段の数本から息子さんが選んだとのこと。どうせなら山形県産「十四代」を希望したいところだが、予算オーバーになってしまう。
ひとまず感謝する。
※と……いっても私が“強引”に“母の日”なる日にプレゼントを“強要”された額の方が高いのですが……それは言えませんよね。
記念日なんてあらかじめ造られた“幻想”にすぎない区切りである。
しかし、その“幻想”を廃棄した革命的社会には潤いがない。
だとすれば、こっちから“幻想”を楽しむしかない。
いうまでもなく、夫婦という関係も、その関係性においては、単なる作為的な人間関係にすぎないし、単なる両者の“幻想”関係だ。
革命家は“幻想”よりも“真実”を!……と探求し、あらゆる“幻想”を廃棄するラディカルなアクションを継続した。のこされたのは殺伐とした不毛な荒野である。しかし、そのアクションすらもうひとつの“幻想”であるにもかかわらず……。
で……あるとするなら、“幻想”にのりかかり、内実を豊かにした方が、価値的だ。
財布と相談しつつも、こういう機会だからこそ、“幻想”を“戦略的”に、そして“作為的”に、“善い”方向へスライドさせた方が心地よい。今回は細君の戦術に乗る。
幻想を回避・廃棄するよりも、それを幻想であることを把握した上で、利用したほうが潤いある生活を送りやすいからである。
挨拶すらもその意味では一つの幻想だが、それが関係における“潤滑油”となる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「おはよう!」
「おはよう!」
存在論的には、無制限の倫理的要求を突きつける顔と顔をつきあわせながら、“幻想”を“戦略的”に利用しながら、よりよき内実を手にしようとするある日の宇治家参去です。
とわいえ、幼稚園にいく際は、哲学者の矜持をまもり、上等なブルックスのスーツで登園したのだが、ネクタイをしめていたのは、宇治家参去ただ独りだった。終わってから、細君に聞くと、「軽装でよいとのこと」って指示があったとのことだそうだ。
それは、「聞いていない」。
……マジで。
匿名かつ集合的な視点から俯瞰せず、個別的かつ特殊的な視点から、普遍的なありかたを探求する宇治家参去の哲学性は、また内面に後退していくのであった。
ぐだぐだいっても始まらないので、とりあえず、『山猿』を賞味して寝ます。明日も早いので。
全体性と無限〈下〉 (岩波文庫) 著者:レヴィナス |
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