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実在の本性をめぐる対話から。

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ちょいと忙しく考察する暇がないのですが、アインシュタイン(Albert Einstein,1879-1955)とタゴール(Rabindranath Tagore,1861-1941)の真理概念をめぐる対話を再度読み直していたので、【覚え書】として自分自身に残しておきます。

ひとりは、理論物理学者の大家、そしてひとりは詩聖と讃えられた卓越したインド的知性の文学者。

真理をあらかじめ存在する所与の真理性として把握するのか、人間との関わりとの間で価値機軸として真理を見出していくのか……論者によって様々なとらえ方ができるかと思いますが、現状としてはその中間状態でしょうか……私の場合。

アインシュタインが真理の実在性(リアリティー)を信じるとき、「この点わたしは、自分の考えが正しいことをうまく証明することはできませんが、それがわたしの宗教的信念なのです」と答えているが、ここが真理の実在主義の難点かもしれない。

熱力学の考え方では、熱というものは、熱い方から冷たい方に向かって流れて逆には流れない。では、何故熱は高い方から低い方へ向かうのか?
このことは「解らない」。
単に経験的に知っているのが現状だろう(だれか捕捉してください)。

そうした法則性の覚知(発見)と、その実存的な意味レベルの難問をアインシュタインは、そう表現したのかも知れない。

ただ真理にせよ、人間論にせよ、先験的な本質実在論にはいささか警戒している宇治家参去ですし、タゴールのいうような部分だけでもないのでは……とすこし足踏みする宇治家参去です。

本質実在論も避けつつ、多元主義とは異なった真理相対主義をも避けつつ、真理を語るとはなにかを今一度考えないといけないのですが……、こうしたポストモダンの思想空間の中で、そもそも「真理とは何か?」などと関心を抱いている時点で、西洋形而上学のドグマに囚われているのかもしれません。

とぼそぼそしゃべってもしょうがないので、どうぞ。
すこし長いです。

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対談--実在の本性について

(以下は、一九三〇年七月十四日の午後に、カプト[ベルリン市]のアインシュタイン邸においておこなわれた、タゴールとアルバート・アインシュタイン教授の対話の記録である。)

 アインシュタイン(E) あなたは神を、この世界から遊離した・超越したものとして信じておいででしょうか?
 タゴール(T) 神は世界から遊離・超越してはいません。人間の無限のパーソナリティー[人間の宇宙的本性・人間の内奥の本来の自己・真我]は宇宙を包含しています。人間のパーソナリティーによって包摂されえないものはなに一つ存在しません。そしてこのことは、宇宙の真理はとりもなおさず人間的真理であることを証明しています。このことを例証するために、わたしはひとつの科学的事実を示しました--つまり、物質は陽子(プロトン)と電子(エレクトロン)から成り、両者の間には間隙(ギャップ)がありますが、物質は固体のように見えます。同様に人類は個々の人間から構成されていますが、彼らは互いに人間関係という相互連携をもっていて、それが人間の世界に生きた結合の固さを与えているのです。同じようにして、全宇宙がわたしたちとつながりをもっています。ですからそれは、人間の宇宙といえましょう。わたしはこの考えを、芸術や文学や人間の宗教意識をとおして追求してきたのです。
 E 宇宙の実体について、二つの違った考え方があります。すなわちその一つは、人間性とかかわりをもつ全体的統一(ユニティー)としての世界であり、他は人間的要因とは無関係に独立した実在(リアリティー)としての世界です。
 T わたしたちの宇宙が、永遠なものである人間と調和してあるとき、わたしたちはそれを真理として認識し、美として感じるのです。
 E それは、宇宙にかんする純粋に人間的な把握の仕方です。
 T これをおいて、ほかに把握の仕方はありえません。この世界は人間の世界です。この世界にかんする科学的な見方というのもまた、しょせんは科学者の見方にすぎません。それを真理たらしめている理性やよろこびにもある規範があります。それは永遠なる人間の規範であり、しかもその経験は、わたしたち個々の人間の経験をとおしてあるのです。
 E ということは、人間の存在の実体を実感するということですね。
 T そうです。一つの永遠なる実体を、です。わたしたちは、わたしたちの感情や行為をとおしてそれを実感し把握しなければなりません。わたしたちは、人間の人格的限界をもたない超人間性を、わたしたちの限界をとおして実感するのです。科学は、個人に限定されないものと関係をもっています。いわばそれは、諸真実の非個人的な人間世界と申せましょう。宗教もそうした真理を実感するのですが、それをわたしたちのより深い要求と結びつけてするわけです。そこでは、わたしたちの個人的な真理意識が、普遍的な意味をもつことになります。宗教は真理に価値を与えるものであり、わたしたちは、わたしたち自身を真理と合致させることによって、真理を善として識(し)るようになるのです。
 E それでは、真理や美はにんげんとは無関係に独立して存在しないというのですね?
 T そのとおりです。
 E としますと、もし人間が存在しなくなれば、ベルヴェデーレのアポロ[ヴァティカン美術館所蔵の有名なアポロ像]はもはや美しいとは言えなくなるのでしょうか?
 T そのとおりです。
 E 「美」についてのその考え方にはわたしも同感ですが、こと「真理」にかんしては承服いたしかねます。
 T どうしてでしょう? 真理は人間をとおして実感されるものです。
 E この点わたしは、自分の考えが正しいことをうまく証明することはできませんが、それがわたしの宗教的信念なのです。
 T 美は、世界の存在のなかにある完全な調和の理想のうちにあります。また真理は、世界の精神の完全な理解のうちに存在します。わたしたち個としての人間は、わたしたち自身の過ちやつまずきをとおして、またわたしたちの経験の積み重ねをとおして、さらにまた悟りをとおして真理に近づくのです。--でなければ、どうしてわたしたちに真理が認識できましょう?
 E 真理は人間性とは無関係に、確かな実在の根拠をもつ真実として理解されなければなりません。このことを、わたしは科学的に実証することはできませんが、固く信じています。たとえば、幾何学におけるピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なくほぼ真実といえるなにかを表していると、わたしは信じています。ともあれ、人間とは無関係に独立して実在(リアリティー)があるとすれば、この実在に関係する真理もまた存在するはずです。そして同じように、最初のものを否定することは、後者の存在をも否定する結果になります。
 T 世界的存在と一体である真理は、本質的には人間的なものでなければなりません。さもなければ、わたしたち個々の人間が真理として認識するどんなものも、すべて真理と呼ばれえなくなります。少なくとも、科学的なものとして記述され、論理の過程を経てのみ到達されるような、言いかえれば、人間の思考の機関をとおして認識される真理にかんしては、インド哲学によりますと、絶対的真理としてのブラフマン[梵=宇宙の最高原理]は存在します。しかしそれは、孤立した個人の理性によっては理解されることはありませんし、また言葉によっても表現されることはありません。ただ個我を完全にその無限性のなかに没入させることによってのみ実感されるのです。しかしながら、このような真理は科学の領域には属しません。わたしたちがいま議論している真理の性質は、目に見え、感じることのできる現象です--すなわち、人間の知覚に真実であるとして映じるものであり、それゆえに人間的なものと申せましょう。それはマーヤー、すなわち「幻影」と呼ばれてよいものです。
 E それでは、あなたの概念規定によりますと、そしてそれはインド的発想なのでしょうが、マーヤーは個人の幻影ではなくて、人類全体が見る幻影ということになりますが。
 T 科学においてわたしたちは、わたしたち個々の人間のこころのはたらきという個人的な制約を排除する試練を経、そして、普遍的な人間のこころのなかにある真理を理解・把握するに至ります。
 E そこで、真理がわたしたちの意識とかかわりなく存在するかどうかという問題が生じます。
 T わたしたちが真理と呼んでいるものは、実在(リアリティー)の主観的な面と客観的な面との間の合理的な調和のうちに存在しているのです。そして、その両者ともに、個を超えた人間に属しているのです。
 E わたしたちの日常生活においても、わたしたちが使用する物は、わたしたちにんげんとは関係なく存在する実在(リアリティー)であると考えざるをえない気持になります。わたしたちはこのことを、理性的・合理的な方法をもってわたしたちの感覚的な意識の経験に結びつけます。たとえば、この家にだれ一人いないとしても、机はあるところにあるといったことです。
 T たしかにそのとおりです。その場合、机は個人の意識の外に現存していますが、普遍的な意識の外側に在るのではありません。わたしが知覚する机は、わたしがもっているのと同じ種類の意識によって知覚されるのです。
 E 人間性から離れて存在する「真理の存在」にかんするわたしたちの生来そなわった見解は、言葉で説明したり証明したりすることはできません。けれどもそれは、だれも欠くことのできない信念です--どんな原始的な人間にも。わたしたちは真理を、人間を超えた客観性に属するものと考えています。この信念はわたしたちには絶対不可欠です。わたしたちの存在や経験や知性とはかかわりなく存在するこの実在(リアリティー)--それがどういう意味をもつかは言葉では言い表わせませんが。
 T 形をもった客体としての机が一つの現象であるということを、科学は証明しました。そしてそれゆえにこそ、人間の意識が机として知覚するものは、もしその意識そのものが無であるとするならば存在しないことになります。同時に、机の究極的な物理的実在(リアリティー)が、それぞれ分離して回転する無数の電力の中心の集合にすぎないという事実もまた、つまるところ人間の精神の作用に帰属するのだということが認められなければなりません。
 真理を理解するにあたっては、普遍的な人間の精神(こころ)と個人に限定された同じ精神(こころ)との間に、果てしない葛藤があります。その両者を調整しようとする絶え間ない努力の過程が、わたしたちの科学や哲学や倫理においてすすめられているのです。いかなる場合においても、人間性と絶対的に関連をもたない真理があるとすれば、それはわたしたちにとって絶対的に非存在です。
 その人の精神(こころ)にとっては、事物の連鎖反応が空間のなかで起こるのではなく、音楽における音符のつながりのように時間のなかだけで起こるといった、そうした一つの精神作用を想像することはむずかしくありません。このような精神(こころ)にとっては、実在(リアリティー)の概念は、そこではピタゴラスの幾何学もなんらの意味をもたないような音楽のリアリティーと似ています。文学のリアリティーとは無限に異質のものである、紙のリアリティーというものがあります。その紙を蝕むシミのもっているような、文学を理解しないといった精神(こころ)にとっては、文学は完全に非存在です。しかも人間の精神(こころ)にとっては、文学は紙そのものよりもはるかに大きな真理としての価値をもっているのです。これと同じように、人間の精神(こころ)と感覚的または理性的な関連性をもたないなんらかの真理があるとすれば、わたしたちが人間であるかぎりにおいて、それは永久に無にひとしいのです。
 E それでは、わたしはあなたよりずっと簡単に物事を信じているということになりますね!
 T わたしの宗教は、わたし自身の個としての存在のなかに、至高のパーソナルな人間、すなわち普遍的な人間精神を融和させることにあります。それが、「人間の宗教」と題したわたしのヒッバート記念講演の主題だったのです。
     --R.タゴール(森本達雄訳)「対談--実在の本性について」、『人間の宗教』(第三文明社レグルス文庫、1996年)。

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コメント

ツルハさんへ

遅くなりましたが、白米一俵御書を再読しましたが、爾前=プラトン的、法華思想=真理の内在論、という簡単な図式でもなさそうですね。真理が諸法であり、そのエネルゲイアの展開としての現実態である実相が弁証法的に相関しているといえばよいのでしょうか……。あれだ、これだと定義づけを拒むような人間論的真実が垣間見られます。
その意味では、プラトン的な真理の超越論的実在主義でもなく、たんなる現実内在に対する集中的な議論でもないようなきがします。カントは「あるべし」と「ありたい」を幸福論において調停しますが、人間論的にはそうした視座が諸法と実相をめぐる真相ではないかと……そう思うところですが、もう一度考えてみます。

一筋縄ではいかなそうなので……。

ちなみに、おそくなりましたが、アインシュタイン-タゴールの真理を巡る討論の全文をアップしました。ご参考までに。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年6月 9日 (月) 02時01分

宇治家参去先生、こんにちは!
 
いつも、拝見、拝読させていただき大変勉強になり、感謝です。

週末、ちょうど立ち寄った本屋さんで買い求めた本の中に、タゴールの気に入った言葉に出会いました。

「心が怖れをいだかず、頭(こうべ)が毅然と高くたもたれているところ、知識が自由であるところ、世界が 狭い国家の壁で ばらばらにひき裂かれていないところ、言葉が 真理の深みから湧き出づるところ、たゆみない努力が 完成に向かって 両腕をさしのべるところ、理性の清い流れが 形骸化した因習の干からびた砂漠の砂に吸いこまれ 道を失うことのないところ、心が ますますひろがりゆく思想と行動へと、おんみの手で導かれ 前進するところーーそのような自由の天国(くに)へと、父よ、わが祖国を目覚めさせたまえ」 {潮 7月号P160}

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常に詩歌が響く生活は、それ自体が一遍の叙事詩であり、一幅の名画でありますーーーー{P166}

と ありました。
 
  梅雨に入りました。
 お体に、くれぐれも留意なさってください。
 
 ありがとうございます。失礼致します。

 

投稿: サマンサ | 2008年6月 9日 (月) 17時03分

サマンサさんへ

どうもご無沙汰しております。例のゴトクつまらぬ駄文で御茶をにごしてしまい怯懦する宇治家参去です。

タゴールの詩の紹介ありがとうございます。7月号はまだ手元にないので、図書館ででも見てみます。

タゴールの詩は、ご紹介して頂いているとおり、本当にいいですね。アジア人として初めてノーベル文学賞を受賞した、国家や組織といった枠組みをこえた、人間とか人類に真に内在した魂の歌声がたからかに聞こえてきます。

そういえば、昔、創立者へタゴールの研究を進呈した思い出もあります(タゴールは戦前来日しておりますが、その足跡調査)。

サマンサさんもお体にお気をつけください。
夏スクで八王子へ出てくる用向きでもあれば、お声掛くだされてばと思います。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年6月10日 (火) 01時28分

折角URLを貼って下さったのに、

私には難し過ぎました;

タゴールにもアインシュタインにも詳しい方は、

この対話が頭に入るのでしょうか・・・;

私の頭に入ったのは、

立場の違う二人が対談したという事は、

(おそらく)大きな意味があるのだろうという点と、

アインシュタインは、夏目漱石に似てる様な気がする

という点のみです;

これだけは、強く頭に残りそうです;


投稿: shirokuro_cat_125 | 2012年2月14日 (火) 23時22分

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