« 実在の本性をめぐる対話から。 | トップページ | 前期西田のultimate concern »

“有機的知識人”の創出を願う

0001_080609151009

-----

 そのような(引用者註……M.フーコーに代表されるフランス現代思想家たちの主体/他者の戦略的認識図式)認識の暴力(epistemic violence)についての利用可能なもっとも明確な実例は、植民地的主体(colonial subject)を他者として構成しようとする、遠く隔たったところで編成された、広範囲におよぶ、そして異種混交的な企図である。この企図はまた、当の他者が危うくも主体-性を獲得するかにみえるときには、これと非対照的に、その痕跡を抹消しようとする。よく知られているように、フーコーは、ヨーロッパの一八世紀末における正気の再定義のうちに認識の暴力がはたらいていたことを確認している。そこではエピステーメーの徹底した分解検査がおこなわれたというのだ。しかし、その正気というそれ事態としては特殊な概念にかかわる再定義がヨーロッパならびに植民地における歴史のナラティヴの一部でしかなかったのだとしたら、どうだろう。この二つの認識の分解検査の企図が遂行されたのが、あるひとつの巨大な二人用エンジンの、分離された、それとは認められていない二つの部分としてであったとしたら、どうだろう。これはおそらく、パリンプセスト〔元の字を消してその上に別の字句を記した羊皮紙〕のような形態をとった帝国主義のナラティヴのサブテクストを「服従させられた知識」、「かれらの仕事にとっては不適切だとか十分に練り上げられていないという理由で知識としての資格を剥奪されてきた一組の知識、すなわち、ヒエラルキーの下方、認識ないしは科学性のレヴェル以下のところに位置づけられた、素朴な知識」(PK,82)として認知するように求めるということでしかないのではないか。
 こういったからといって、なにも「事態は実際にはどのようであったか」を記述しようとか、歴史を帝国主義の歴史として解釈しようとする歴史のナラティヴを歴史についての最良の解釈であるとして特権視しようというのではない。そうではなくてむしろ、現実についての説明とかナラティヴと称されるものがどのようにして規範的な性格の説明ないしナラティヴとして確立されたのか、その経緯を明らかにしようというのである。
    --G.C.スピヴァク(上村忠男訳)『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房、1998年)。

-----

冒頭は、フェミニズムとポスト・コロニアル批評の問題圏の交差するフィールドで活躍する批評家にして、社会活動の実践家でもあるインド人女性、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)の代表作『サバルタンは語ることができるのか』からの一節。

捕捉するならば、ポスト・コロニアル批評(Postcolonialism)とは、パレスチナ系アメリカ人研究者、エドワード・W・サイード(Edward Wadie Said,1935-2003)によって確立された批評理論で、手法としては『オリエンタリズム』に詳しい。第二次大戦後、それまで西欧列強の植民地だった国々は次々と独立を果たしたが、こうした旧植民地地域にのこる様々な課題を把握するために始まった文化研究のことである。対象としては文学作品やルポルタージュが集中的に論じられることが多い。
旧宗主国で、旧宗主国の言語で書かれた文学作品やルポルタージュなどで、植民地地域がどのように描かれているのか……。
まさにその言語によって表象されていること精緻に分析することで、旧植民地の文化がいかに抑圧されてきたのか(現在進行形として)を冷徹に解き明かす分野である。通俗的にいえば、西洋化とはすなわち文明化という名の科学技術テクノロジーと経済的合理性の勝利という名の押しつけなのだが、その構造や暗黙知の構造を暴き出し、植民地地域の文化の再評価のみならず、西欧の文化自身がローカルな文化にすぎない事実を問い直す物の見方を提供した。

サバルタンといった用語やスピヴァクの経歴に関しては、過去の日記の記載にゆずるが、今日、哲学の授業で、新しい試みとしてスピヴァクの言説を紹介した。

関連エントリは以下のURL
http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_e3d4.html

一番多かったのは……「ムズカシイ」でした、やはり。
それもそのはず、スピヴァクが批判の対象とするフーコー(Michel Foucault,1926-1984)やドゥルーズ(Gilles Deleuze,1925-1995)の理論や思想が、これまた輪をかけて難解だからだ。

ふたりの思想の、キー・概念となる「脱構築」にしても自己言及的な性格からその内奥が掴みにくい。プラトン以来の伝統的な形而上学が静止的な物の見方を前提に、そこから真理を想起的に発見するという在り方に対する異議申し立てである。古い構造を破壊し、新しい構造の生成がその思想運動の中核にあるといえようが、その場合、問いを発する哲学者自身の哲学の営みそのものも反省の対象となる。静止的な物の見方に対する異議申し立てとしての意義は理解できるのだが、それを地でやるのは哲学的達人でもない限りはなはだ困難である。

さて……。

今日は、平和についての議論の中で、静止的な物の見方に対する「脱構築」の話をさらりとながし、そのうえで、そうした批判理論に対峙する知と実践の在り方としてスピヴァクの考え方とその取り組みを紹介したわけです。

モノゴトを、アレかコレかと断ずることはたやすい。そして言語によって表象された在り方をそのまま認識し、構造化することはたやすい。しかし、その断じる行為、そして構造化すること自体、その瞬間に現実から乖離してしまう。そしてひとびとの声を奪っていく……。

考え方としてはストンと理解し、そうあるべきだよな……なんて思うわけですが、これを地でいくのは甚だムズカシイし、それを無限に自己言及していくことは、実にムズカシイ。

しかし、そうした矛盾に充ちたダブルバインドとしての現状のなかで、批評家風に安全地帯から訓戒をたれず、ひとりひとりが動いていくしかないのかな……などとも思ってしまう。

そうしたダブルバインドという現実に、宇治家参去も引き裂かれているわけですが……。

ただ嬉しいのは、そうした話を少しでも理解してくれる学生がいたところ。
大げさな言い方ですが、彼女たちが第二、第三のスピヴァクとして、それぞれの現場で奮闘する“有機的な知識人”となりゆくことを心より祈るのみ。

01aspivak

01b5403b16

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー) Book サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

著者:G.C. スピヴァク
販売元:みすず書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Book スピヴァクみずからを語る―家・サバルタン・知識人

著者:ガヤトリ・スピヴァク
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 実在の本性をめぐる対話から。 | トップページ | 前期西田のultimate concern »

哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: “有機的知識人”の創出を願う:

« 実在の本性をめぐる対話から。 | トップページ | 前期西田のultimate concern »