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ロマンのない倫理学者をうちのめす現実の一言

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欲求は依存であるのだから、自由として特徴づけることはできない。欲求を他方、受動性として特徴づけることもできないのは、欲求が、すでに親しまれ、秘密をもたないもの、欲求を従属させるのではなく、歓喜させるものによって生きているからである。徹底した孤独を言いたてる実存の哲学者たちは、《私》とその喜びとのあいだにひろがる対立について見あやまっている。この対立が--感受性にとって本質的であるような、未来の未規定的なありかたに脅かされた--享受のうちに入りこむ不安に由来するものであれ、労働に内属する労苦に由来するものであれ、実存の哲学者たちは、それを見あやまっているのである。どのようなかたちであれ、問題の対立のなかで存在がその全体性において拒否されることはない。存在との対立にさいして<私>が避難所をもとめるものは存在にほかならない。自殺が悲劇であるのは、生まれてきたことで生じる問題のいっさいが死によって解決されることはなく、地上のさまざまな価値をおとしめる力が、死にはそなわっていないからである。ここから、死をまえにしたマクベスの最期の叫びが生じる。マクベスが死に打ち負かされるのは、マクベスの生とおわりと同時に宇宙が崩壊することなどないからである。苦しみが生じるのは、存在に釘づけにされていることに絶望するとともに、苦しみがそこに打ちつけられている存在を愛していればこそなのだ。生からはなれることは不可能なのである。なんという悲劇であり、なんという喜劇であろうか。生の倦怠(taedium vitae)は、その倦怠が拒む生への愛に浸されていることになるのだから。絶望によってすら、喜びという理想と手を切ることができない。じっさいこのペシミズムはエコノミー的な下部構造がある。ペシミズムが表現しているのは明日の不安と労働の労苦である。このような不安と労苦が形而上学的な渇望においてはたす役割については、のちに示すことになるだろう。ことなった視界からのものであれ、マルクス主義の見解はここでもその力を失っていない。欲求の苦しみが鎮められるのは欲求の減退においてではなく、その充足によってなのである。欲求は愛され、人間には欲求があるがゆえに幸福である。欲求を欠く存在は、欲求をいだく存在よりも幸福なのではない。そうした存在はただ幸不幸の埒外にあるにすぎない。貧しさによって充足の快楽がしるしづけられることがありうるということ、私たちは純粋で単純な充満のうちにとどまるのではなく、欲求と労働とをかいして享受に接近するということ、そこにこそ分離の構造そのものに由来するむすびあいがある。分離とはエゴイズムによって達成されるものである。けれども、始原的なものがそこへと逆流して、そこで失われることになる無の沈黙のざわめきに、分離され充足した存在が、つまりは自我(エゴ)が耳をかたむけないとするならば、その分離はたんなる空語にすぎないことになるだろう。
 労苦が乗り越えることができる貧しさは、欲求によって存在にもたらされたものではない。それをもたらすのは、未来の不確かさである。
 本来という無は--あとで見るように--時間と時間の間隔に転じる。そこに所有と労働が挿入されるのである。瞬間的な享受はものの加工に移行してゆく。この移行が住まうこと、エコノミーにかかわり、すむこととエコノミーは他者を迎えいれることを前提している。徹底的な孤独にまつわるペシミズムは、だから癒されないものではない。人間の病いの治薬を二本の手でつかんでおり、薬が病いに先だっているのである。
 労働によって私は自由に生き、生の不確かさに抗して私は守られる。けれども労働そのものによっては、生に究極的な意味がもたらされることはない。労働もまた、むしろそれによって私が生きるものとなる。私の生のすべての内容によって生きる。未来を保証する労働そのものによって生きている。私は大気によって、光によって、パンによって生きるように、私の労働によっても生きる。欲求が享受を超えて課せられるような極限状況、呪われた労働を強いるプロレタリアの条件、避難所も余暇もわが家にないような身体的存在の貧しさがあるとすれば、被投性(Geworfenheit)という不条理な世界がそれに当たることになるのである。
    --レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限 上』(岩波文庫、2005年)。

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日々の労働のなかで、哲学者のコトバをかみしめるある日の宇治家参去です。
相変わらず市井の職場は、ハァァァァァァァァァァァァ~と深いため息をつかせてくれる毎日です。

しかし、ため息もカメハメ波の如く、気合いを入れて放出すると却ってすっきりします。ご存じのない方は是非おためしアレ。500m先の食卓まで響くくらいの気合いでやってみることが肝要かと思います。

で……
ため息もでないほど忙しいというのが実情ですが、本来自分がやるべき仕事まで手が回らず、残業禁止令も出ているため、いい仕事ができないのが現実です。
当然いい仕事ができないと、連動したほかの部門にも迷惑がかかってしまう。まさに“引き裂かれた自己”のなかで仕事を続けるということは大変ですが、仕事をするということではそれがアタリ前というのもまた実情なのでしょう。
気を引き締めてできるところから手をつけ、あまり深刻に引っ張らない様にするのが要諦かもしれません。

今日は久しぶりに店長へ現況の状況報告を直接行った。
前年比の売上比の数値、客数の変動、売り場面積に対する人員の配置と対人件費効率の問題……。
現状に対する対案を示し、その内容をしごく理解はしてくれるのですが……、ムズカシイとのこと。

「じゃあ、いつもの詩人とか、学者の言葉でまとめて見てよ」

というので……例の如く、学問の言説で戦略的にパロールする。

自分が配下で使っているメンバーは業務の性格上、マルチロール(複数業務兼任)が必須となるのですが、応援業務がいまやその全域をしめつつあり、本業が専念できなくなっているので……

二人のやりとりから……。

「会社とは営利の共同体だと記憶しておりますが、宇治家参去の部隊は他部門への応援業務がそのほとんどを占め、本来やるべきと規定されております業務が殆どできておりません。もちろんそのことで連動する部門へは迷惑をかけてしまい、それに対する有限責任も自覚しております。しかしこれが積み重なっていくと有限責任が天文学的数値にまで発展する恐れもあることをまず理解頂きたい。その上で、応援ということに関して附言するならば……」

「その、共同体という言い方やめてよ~」

「で……、応援ということに関して引き続き述べるならば、現状の人員態勢で他部門への応援をせざるを得ないという現状はまず理解できます。その現状が異常事態であることはまず把握してほしいと思います」

「わかった」

「しかし、本来異常事態であるべきはずの状態が連日となり、それが恒常化した場合、われわれは応援だけで終わってしまい、本来の業務へ手を付けられなくなってしまうおそれがあると共にもうひとつ大きな倫理的難問(アポリア)を個々の成員が抱えてしまう結果になってしまうと思います」

「その難問とは」

「本来、企業という共同体……、共同体という言い方が好みではないようなので、組織でもよろしかろうかと思いますが、企業という組織は、前述したとおり営利を第一目的にした組織であり、たとえば、倫理的訓戒をダイレクトに受容するような、任意の団体、意志の団体とは異なるはずです。そのことはテンニエンスが『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』のなかで鮮やかにその特色の差異を描いて見せたように……」

「てんにえんすの解説はしなくともよい、続けて」

「すなわち企業は営利を目的とした組織であるとすれば、そこに集う人々は営利を目的に、人為的に組織化された人々ということになります。であるとすれば、そこに形而上学的な訓戒としての倫理的側面が顔をのぞかせた場合、人為的に組織化された人工の共同体は崩壊の一穴をつくってしまうということです」

「なるほど」

「要するに、われわれは応援する。人為的に応援するとしても、その応援は双務的であらねばならないはずです、たとえばそれが空語の条文であったとしても建前では必要です。俺たちも応援するが、俺たちが苦況に陥ったとき、誰かの応援もあるはずだと。なぜなら、おれたちは無償の愛を差し伸べる、目的論的共同体の一員ではなく、共通利害と目的をもった人員的な団体の構成員であるはずだから、利益を紡ぎ出すという共同目的に対しては双務的にあらざるを得ないはずだからです。」

「で……?」

「しかし現状を翻ってみるに、われわれは“無償の愛”を提供するのみで、だれもわれわれに対して、人為的なレベルでも“愛”を注いでくれません。応援が常務するなかで、それが常の“業務”となっている。しかしだれも応援はしてくれない」

「応援だけで終わっているというのが現状だもんな」

「これでは企業という人為的組織における応援・協力という範疇を超越した在り方になってしまいます。われわれは使命を帯び、未開のジャングルの奥地に、イエス・キリストの御言葉を伝えること誓い集った宣教師たちではありません。このまま“無償の愛”の提供を“要求”される場合……心理的負荷が大きくなってしまうと思うのですが……」

「わかった。たいへんなとき助け合うのは、人為的な組織だけでなく、人間の普遍的な在り方でもあるというのはまず大前提だ。そのうえで、そうした任意の奉仕を強要する在り方は、この世俗化された産業社会では敬遠するべき事項だな。利益共同体において、任意の奉仕には当然対価が必要になる。いわゆるサービス残業禁止という奴だ、ひとつには。無償の奉仕は宗教団体だけで十分だ。そうしたことを踏まえた上で……、だ。」

「おっしゃいますと……」

「その……(すこし言葉を選びながら)、まずもって応援することが、宇治家さんとその部下の、仕事なんだよ。で……(そう思いなさい)」

「………………」

「宇治家参去の仕事と思えばよいのか?」

「………………」

(何か違うような……間違いなく違うよな)

「たいへんなのは承知だが、がんばってよ~。お願いしますよ~。だって君は夜の店長なんだから」

「聞いてないですよ~そんこと! だったら給料上がりませんか?」

「ちょいムズカシイ」

道理を試みた倫理学者のソラ言はむなしく虚空にこだまするのみ……。

ただひとついえるのは、現状は厳しい現実です。
しかし、それをこうしたかたちで相対化できているという自分は、まだまだ余裕があるのか、もしくは、自分自身をも対象化しネタとして活用できている判断してもよいのかもしれません。

別に店長を責めようとかそういうのではありませんが、このままではいずれこの会社は左前になってしまうのがチト悲しい。自分はいつまでもいませんが、縁といえば縁……、なんとかしたいと思う今日この頃です。

ロマンのない哲学者は細君に学問の鉄槌をうちつけるつもりで、地面にキッスという大惨事を演じてしまった。
現実を深く冷静に相対化し、ふたたび現実に替えるその在り方をかえることを模索する倫理学者の試みは、現実の一言でフイにされてしまった。

さていよいよ神学者として言葉を発する時期に至ったのか(謎)。

(そのうちの次回に続く……)。

で……、おいおいくどいなと言わないでください。
本日発売というか暦の上では昨日になってしまう新発売の第3のビールを飲んでみた。

SAPPORO 麦とホップ

その手のビールの中ではうまいが、やはり限界はあるなと自覚する。やっぱり本物のビールの方がうまい。

田村正和が「ビール歴44年の私が不覚にも、ビールと間違えてしまいました」とCMでやっていますが、「間違わない」とつっこみをいれそうです。
その筋のその他の雑種としては群を抜いて“ウマイ”ですが、ビールとは違うだろう……とウルトラ怪獣たちがウルトラマンとこなきじじいに詰め寄っています。

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コメント

 

投稿: 宇治家 参去 | 2008年6月 5日 (木) 03時34分

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