前期西田のultimate concern
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余は現時多くの人のいう如き宗教は自己の安心の為であるということすら誤っているのではないかと思う。かかる考をもっているから、進取活動の気象を滅却して小欲無憂の消極的生活を以て宗教の真意を得たと心得るようにもなるのである。我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的其者であって、決して他の手段とすべき者ではないのである。
--西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫、1979年)。
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『善の研究』をひもときながら、現存在としての人間の自己発展を求める人間生命の本然的要求こそが「宗教的要求」なのではあるまいか……後期西田にはみられぬ前期西田の溌剌とした発想に感動する。
日本で最初の独創的な哲学書と評された西田幾多郎の『善の研究』ですが……最近ではあまり読まれなくなっているのでしょう。そのへんが知的土台を支える基礎体力の喪失として悲しい部分です。(ときどき紹介しておりながらナンデスガ……)先端の批判理論やポスト・モダンの学際的叡智に耳を傾けることも大切なのではありますが、古典には、そうした知的流行とか趣味に左右されない脈動的な〝生命力〟がたしかに存在すると思われます。その意味では、まさに、先端と古典に両足を突っ込みながら、日々引き裂かれた自己の中で慎ましく思索するある日の宇治家参去です。
さて……、西田の話へ戻りましょう。
西田の発想に従うと、人間は、現在の存在状態よりも善く成長したいという要求を持っている。そして宗教とは、そうしたより善い(ないしはより大いなる)方向性を可能にするものである。ゆえに、安心立命を否定するわけではないが、それが目的ではないが、それだけにおさまりきらないダイナミズムを宗教の中に見出すことは可能である。それはいうならば、単なる現在の悩みの解決という〝消極的生活〟への展望ではなく、積極的な意義をもつべきものと考えなければならない。
その意味では、宗教は何か利益をもたらすわけではない。
カント的な目的論に従うならば、宗教が単に利益をもたらす手段でしかななかったならば、宗教に対峙する人間の自分自身はナニモカワラナイことになってしまう。宗教が人間の自己変革、成長を可能にするものと西田は認めた故に、「宗教は人間の目的其者であって、決して他の手段とすべき者ではない」と喝破したのであろう。もちろん利益を否定するわけでは決してない。それが目的ではなく結果としてもたらされるものにすぎないとの視点である。
ただなかなかここまで到達するのも困難なのが現実ですが……。
ちょうど今日NHKの報道番組を見ていた。
クローズアップ現代の「加熱する スピリチュアル・ブーム」(2008年6月10日(火)放送)である。
NHKのWEBに解説があるのでそのまま紹介します。
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占い、ヒーリング、デトックス・・・。いま。いわゆるスピリチュアルに関する マーケットが急成長している。書籍や家電製品、雑貨やゲームなど市場規模は 一兆円に達したという見方もある。目立つのは、これまでの10代、20代に加えて 30代以上での広がり。背景には成果主義の導入などで、不安や孤独を抱えていることあると見られている。一方でブームを悪用した悪質商法や詐欺も急増。全国の消費 生活センターに寄せられた相談は2006年だけで3000件を超えた。過熱するスピリチュアルブームの舞台裏に迫る。
(NO.2595)
スタジオゲスト : 香山 リカさん (立教大学教授)
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既成の(歴史)宗教が魅力と力を失ってから久しくなる。その過程でひとびとの魅力を掴んだのが疑似宗教(quasi-religon / ティリッヒ)としての共産主義とか民族主義といった宗教的な革命運動ないしはイデオロギーであるが、そうしたものももはや過去のものとなった感がある。そうした間隙を突くように伸張しているのが、占い、ヒーリングに代表されるスピリチュアルなる市場である。
スピリチュアルとはspiritual。邦訳するなら〝霊性〟とでもいえようか。
そうしたものへひとびとを惹き付ける社会的な背景とコンテクストも理解できる。成果主義や営業競争に疲れ果て不安や孤独を抱える人々が増産される社会システムの問題である。そしてその一方で加熱するブームに便乗したトラブル……。
個人的な見解を先に述べるなら、占いもスピリチュアルなるものも、その人間の救済や贖罪には全く無関係でナンセンスなものであると宇治家参去は思っている。
ちょうど南方熊楠が面白いことを言っているのでひとつ。
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最後に、この俗信が天体ないしは気象現象に起因すると説明すると説明した人々にたいして、ある老婆がギリシャの哲学者に忠告したように、つぎのようにお尋ね申しあげたい。「この俗信については、地上にこのように(比較的)直接に辿ることのできる諸原因があるのに、それでもわたしらは、遠くかけはなれた天体に、間接的な曖昧模糊とした原因を探らねばならんのですか」と。
Lastly, to those explainers of the myth, who claim to have traced its origin in certain astronomical or meteorological phenomenon, I would, as an old woman's advice to a Grecian philosopher, like to ask,“while there exsits so ( comparatively ) directly traceable causes of the myth on the earth, must we seek for its indirect and vague origin in the very remote heavens ? ”
--南方熊楠「燕石考」、『南方熊楠全集 別巻I』(平凡社、1972年)。
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ここで南方がやり玉に挙げているのは、神話的俗信の「アストロノミカル・ミソロジスト」的仮説への批判であるが、占いもスピリチュアルも同じ根を持っている。
スピリチュアルを信じる、信じないは、極限的には個人の問題であり、そこに容喙する必然性と当為は全くない。
ただ、共通しているのは、それが「手段」となっているし、営業サイドも相手を「手段」としている点である。報道でもあったが、お互いに「手っ取りばやく」何かをもたらしてくれるのである。
どうやら「手っ取りばやく」癒しや救い、ないしは進路が確定されるようなのだ。
宗教学を対象とする学徒としては、そこまで踏み込む必要もないのだが、何かが違うのだ。
ついでにいうならば、宗教学でもこうしたスピリチュアルブームの分析が盛んで、そのフィールドワークも盛況である。そして比較的成果も出しやすい……。ただ、哲学的解釈学の影響と教義学の狭間で、思想史を記述する者としては何か、すこしそうした実証的研究にたいしてすこし違和感を感じているのですが(それが無意味ということではなく、それですべてを代表してしまうと言うことにですが)……話が再度ずれたようです。
で……手っ取り早さには、つまるところ、人間の生命論的な全人性に対する救いは約束されていないはずである。西田が論じたようにそれは「小欲無憂の消極的生活を以て宗教の真意を得たと心得る」ようにもなるのである。頼る心を足蹴にするのではない。人間の全人性の回復には何が必要なのだろうか……。
かつて神学者ティリッヒは、主著である『組織神学』のなかで、宗教を定義して「究極的関心事(ultimate concern)」と表現した。宗教団体の数ほど宗教の定義はあると俗に言われるが、その中では正鵠を得た表現であると思われる。人間を目的にし、その救済を可能にするのが宗教であるとすれば、まさに宗教の使命が今問われていると思われて他ならない。
ティリッヒが、「究極的関心事」に関わる宗教と、その宗教を装った現象を「疑似宗教」とを峻別に批判したように、疑似宗教では「究極的関心事」を代替することはいずれにしても不可能である。
「宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である」
逆説的ではありますが、宗教者はこの部分をもう一度再考する必要があるように思われる。
善の研究 (岩波文庫) 著者:西田 幾多郎 |
ユリイカ 2008年1月号 特集=南方熊楠 販売元:青土社 |
Systematic Theology (Systematic Theology) 著者:Paul Tillich |
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