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“砂金”(太宰治)を残せたのか?

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 ところで仮りに私が、--自分としてはこの「プロレゴメナ」が、おそらく批判の領域における研究を活発にし、また思弁的方面で栄養を欠くやに思われる一般の哲学的精神に、新らしいきわめて有望な対象を提供して大方を楽しませるであろうということを期待していると言おうものなら、さきに「批判」において、私の案内で荊棘の道を通ってきた読者は、これまでの難路に嫌気がさし、腹立ちまぎれに私をこう問いつめるだろう、--読者がこういう質問を発するであろうということを、私はじゅうぶん予想できる、--「貴方は本書に期待すると言われるが、それはどういう根拠にもとづくのか」と。そこで私はこれに答えてこう言おう、--「それは〔止むにやまれぬ〕必然性の法則--このあらがいがたい法則にもとづくものである」と。
 人間の精神は、形而上学の研究をいつかはまったく廃するだろうということが期待できないのは、--我々は汚れた空気をいつも吸っているよりは、いっそうのこと呼吸をまったく止めるだろうということを、人間に期待できないのと同じである。それだから世界には、いつの時代でも形而上学が存在するだろう、そればかりか何びとも--とりわけ思索を好む人なら、--形而上学をもつであろう。しかし今のところ形而上学は、公認された標準尺を欠いているから、各自が自分流に裁断し、仕立てることになるだろう。ところでこれまで形而上学と称してきたものでは、吟味を重んじる学者を満足させることはできない、さりとてこの学をまったく断念することは、これまたできない相談である。するとけっきょく純粋理性そのもの批判が試みられるが、或いはまた--もしかかる批判がすでに存在するというのなら、--研究されて、これに全面的な吟味が施されねばならない。そうするよりほかには、単なる知識以上であるところのこの切実な要求を充たす手立ては、まったく見出せないからである。
    --カント(篠田英雄訳)『プロレゴメナ』(岩波文庫、1977年)

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人間にはもともと形而上学の諸問題(例えば自由、心の不死、来世や神の存在)に対して、深い関心を持っている。そう感じ取ったカントは、汚れた空気を吸うのはよくないとしても呼吸をまったくやめることを人間に期待できないのと、同じように形而上学的関心、すなわち世界や人間に対して哲学する行為を辞めることはできないと考えた。

すなわち、人間という生きものは「この学に向かおうとする自然的素質」を持っているのである。

狭義の形而上学(=哲学)とはすなわち存在論(とその存在に対する認識論)の問題となるが、広く考えるならば、人間が理性を使ってものごとを深く洞察し、「それは何か」と真実を探求する営みをそれととらえてもよいであろう。それが学として洗練されたものが存在論であり、存在に関する認識論ということになる。その意味では、ひとは世界や物事、そして人間自身に対して、それが一体どうなのか--自覚的であるにせよ非自覚的であるにせ--ふと追求しようとする瞬間が自然に存在する。その瞬間に人間は、哲学し始めたことになるのであろう。

本日、「哲学」の試験を持って無事に前期の講座が修了する。
まずは、履修して頂いた皆様方ありがとうございました。

哲学とは、もちろん専門的な学のあり方としては、たしかに専門的に追求する煩瑣な側面は確かに存在するのですが、それが哲学の全てではない。

うえに書いたように、“ふと”考え始める局面が生活の中には確かに存在する。
その瞬間を大切にしてもらいたい。
用語や哲学者の名前を覚えるのことは哲学とは全く異なる在り方だ。学問としての哲学の本質とはそうした作業を遙かにこえた地平に存在する。

「自分の知性を用いる勇気を持て!」とカントは叫んだが、そこにおそらく哲学的営みの翠点が存在する。

考えることを無益に思わないでほしい。
そして考えたことがただちにカタチにならなかったからといって、投げ捨てないでほしい。

そして、常に、世界と他者に開かれた自分であり、自己自身の存在の有限性と無限性を常に自覚したあり方であったほしい。

そう切に念願してやみません。

(言い方が古く道学者的で恐縮ですが)“まじめに考える”ことを“どこかせせら笑う”風潮が現実の生活空間には充満しているような部分があったり、“自前で考える”ことの知的風土が極めて貧困な経過をたどったこの地の影響を多分にうけている部分があったりもするなかで、ともすると、“まじめに考える”行為から“降りてしまおう”とするのもわからなくはないのだが、それでも敢えて言うならば、“まじめに考える”行為に唾吐くようなことはしてほしくない。唾を吐いても“天唾”で自分自身に戻ってくるだけだ。

そのことをどこかこころの片隅においてほしいのである。
ただ、最終講義でも言いましたが、24H考え続けると頭がオカシクなってしまうのも事実である。リフレッシュや息抜きも忘れてはならない。

その両者があってこそ人間の全人性は保証されるのだから。

短い期間でしたが、皆様、本当にありがとうございました。
今年度は宇治家参去自身としても初の試みとして、哲学を解説するのではなく、哲学をすることのひとつの例を自分自身の思考と実践を通して皆様に見てもらいました(=自分が哲学することを語る)。

やはり難解だという反応が見られましたが、それでも、種々、励ましの声が寄せられた部分を見てみると、その試みは成功したのではないかと思います。

「宇治家先生、哲学者としての信念に忠実な所を尊敬しております。よくいるエセ学者みたいにははならずに、どうかいつまでも模索し続ける先生でいて下さい」

レオナルド・ダヴィンチのごとく、「完成」に甘んじない姿を死ぬまで継続するほかありません。「完成の未完成」「未完成の完成」を苦闘し、模索するなかに自己自身の真実がうかびあがってくるのではあるまいか……。
短い間でしたが、短大生と学問のなかで交流する中でそう実感する。

心のどこかに“砂金”が残せたのであれば、教師として望外の喜びであります。

このなかから「哲学博士」なんかが輩出してくるとすごい時代になるような気もするのですが……哲学は「一文の銭にもならねえ」部分があるのでお薦めすることには忸怩たる部分があります。

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