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遅筆の原因

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ようやく家族奉公からも解き放たれ……自己自身に集中できる状況になったにもかかわらず、今日からまた市井の仕事が再開し、痛風の足が痛み出す。猛暑がそれに追い打ちをかけるように、五躰を蝕むわけですが、蝕まれておわりにすることもできないわけなので、日中にレポート添削を終え発送し、仕事の休憩中に、紀要論文の資料を再度読み直す。

今日はあまりにもからだが熱っぽいので仕事の休憩中には、今季初のアイスを食ってしまった……。宇治家参去が敬愛してやまない『鬼平犯科帳』の主人公・長谷川平蔵も甘党だからよいとしますか……。

本来、学術論文は、ある意味で「作業」なので、それまでに渉猟した資料やデータをまとめ上げる“作業”に徹していけば“カタチ”にはなるので、それはそれでよいのだが、特定の概念研究とか思想史の振り返りの(報告)ではなく、特定の個人における思想史を相手にするとなると、なかなか、“作業”だけにおわらすことができず、いつものように遅筆となる。そのひとと一体化してしまうのが難点です。

今月中に推敲しようと、ほぼほぼ完成状態(といいますか、基本的な骨格の入力は済んでいるのですが)なのですが、その前に、細かく再度、そうした個々人の文献を読んでいくと、「このままでいいのか」とあたまのなかで別の宇治家参去の声がこだまする。

いまあつかっている人物は、博論では、吉野作造(1873-1933)となるが、平行した個別研究としては、人間主義概念の変遷を追跡している。人間主義とは、概念的には近代以降、思想として整備されてくる発想だが、現代世界においては評判のあまり芳しくない発想形態のひとつである。

なぜなら、人間主義が人間中心主義として機能したのが人類の歩みであるわけですが、その結果としてもたらされた問題は、人間自身が招いた環境問題を傍証するまでもなく、周囲を顧みれば宇治家参去ならずとも、剥き出しの利己主義が正面衝突を繰り返す非倫理の人間世界を見ればなんとなく理解できる部分ではなかろうかと思います。

そうした問題群は確かに杞憂すべき事態である。
しかし、そうだとしても、「人間とは何か」という人間という生きものの、いわば“自覚”の問題とその歩みを、産湯を流すついでに赤子まで一緒に流し去るというわけにもいかない。そういう地団駄を踏むなかで、人間自身を見つめ直す作業をもう一度繰り返しながら、「人間とは何か」という部分を自分自身のなかで再度、構築し、そしてその概念を不断に更新していかねばらない……そう思いながら生活し、古今の先哲のことばに耳を傾ける宇治家参去です。

そうしてしまうと、どうしても概念を固定化できず、それをひとつのカタチとしてまとめ上げることがなかなかできないのが現実である。

学生時代から十数年、新聞というメディアで記事を書く修行を行ってきたので、速記ものや解説ものなら手早く処理することは出来るのだが、人間や書物との不断の対話となるとなると、どうしても内容の更新・更新となってなかなか前へ進まない。

いま、人間主義の問題でひとつ取り組んでいるのが、吉満義彦(1904-1945)という近代日本のカトリック思想家の文献である。吉満はもともと学生時代には内村鑑三(1861-1930)の無教会主義に心酔し、その膝下に足繁くかよったものだが、プロテスタンティズムの信仰における絶対的個人還元主義(「私の信仰は……」という告白の強要)に対する違和感と、有限性の自覚(形而上学的意味合いだけでなく、どこにうまれた誰という有限性)の軋轢から、カトリックへ改宗した人物です(但し内村への敬意は終生は失わなかったという)。

こうしたいわば“微妙な人物”と向かいあうと、どうしても筆が進まない。
内在的に「理解」しようと「自分自身が苦悩する」のからかもしれません。
おもえば、自分が哲学の師とあおぐレヴィナスの文献に関してもそうであります。
10数年来読んできていますが、未だ1本と発表はできていません。

さて吉満の場合。
本人の書き方もある意味で、詩的であり、難解な部分もあるのだが、おのれがストレートにいいたい部分をあえてかたらず、“アナロギア”ですませてしまう部分がまさにパズルのような内容で、遅々として研究も進まない(先行研究も含め)人物なのですが、妙に親近感のわく人物の一人です。

「忘れられた思想家」(半澤孝麿)のひとりではあるわけですが、忘れずにはいられない人物の一人です。

勿論カトリックの思想家になりますので、神という絶対者の自覚という部分がその人間論の通底にはあるわけですが、その意味では、プロテスタンティズムともある意味で同じである。しかし、プロテスタンティズムには飽き足らない、自然・文化としての人間の営みの有限性と無限性の考察にはどうも惹かれてしまうのですよね。

通俗的ですが、神と人間との絶対的対峙を強調するプロテスタンティズムにおいては、自然・文化という問題も相対化されてしまうのですが、自然や文化に神の栄光(=恩寵)を読みとるカトリシズムの幅の広さとでもいえばいいのでしょうか……。

まだ思索としては洗練されておりませんが、そういうところをつくづくと感じてしまいます。

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凡そ古今東西を問はず真の偉大な人間的思想においては文学と哲学と、心理と思想とは分離して考へられるものではなく、文学にしても哲学にしても、心理描写にしてもモラル考察にしてもそこに如何に人間性の真理が把握されてゐるかと言ふ事だけが結局は問題なのではないのか。
(中略)
……確かにジードは小説の純粋性と言ふのはつまり思想でも政治でも詩でも何でも入り得ると言ふやうな言はば徹底的非純粋性にあると言つてゐたと思ふが、要するに我々の人間的条件とでも言ふべきものの反映がそこにある訳である。文学することが即ち思想である如き文学者が、今日でもモラリストだと言ふことにもならう。勿論対象は人間の倫理的存在性そのものである。
    --吉満義彦「モラリストの立場」、『詩と愛と実存』(河出書房、昭和十五年)。

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プロテスタンティズムを批判するつもりは毛頭ありませんが、(本来のプロテスタンティズムがそうした概念類型を跳躍する脈動性をもっていたにもかかわらず)本来の姿とはかけ離れて流通してしまったそれが、いわばデーモンな仮称と化してしまったのが近代のプロテスタンティズムの問題なのでは無かろうかと思っています(内村はそれを実は批判していたわけですが)。そうした近代主義を中世的観点から異議申し立てをする吉満のことばにはなぜかひかれてしまいます。
吉満は、通俗的な歴史観をしりぞけ、中世と近代(ないしは近世)の連続性を説きます。
中世で問題提示がなされ、実は、その解決が模索されたのが近代ではなかろうか。
そこを分断としてしてしまう人間の盲点をついているのではなかろうか……そうおもわれてほかなりません。

どちらしても、やはり、多様な存在である、人間自身を見つめ直さずにはいられません。記述不可能な対象を記述しようとするのがたとえ“愚かな営み”であったとしても、それに対してなにか言及したいのも人間の事実であろう。

と……家にかえってから、楽しみにして買ってきたKIRINの「PREMIUM無濾過WhiteBeer」で一息つく。
コピーに「豊かでやわらかな味わい、フルーティーで爽やかな余韻。キリンのシーズンプレミアム」と書いてある。

たしかに「なんじぁこりぁああ」という味である。良い意味ですが。

むかし、A新聞でバイトしていたとき、外報部の記者に連れて行かれたのが、日本橋のビール専門パブ。そこには数百種類のビールが用意されていたのですが、そこではじめて飲んだフルーティーなビールを思い起こしました。

ビールとフルーティーはある意味で合います。
ただし量はのめません。

こんなことをしながら、文献読んで、レポートとして入力しているのがよくないのかしら?

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