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「打解け易いこと、愛想のよいこと、慇懃なこと、鄭重にもてなすこと、温和なこと」

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 道徳的に完全に相互に交際し合い(officium commercii,sociabilitas 交際の義務、交際上手)、孤立する(separatistam agere)ようなことがないのは、自己自身に対する義務であると等しく他人に対する義務でもある。もとより自己自身をば自己の原則の不動の中心点となすのではあるが、併しこの自己を中心とした仲間をば、世界公民的な信条を抱ける一切を包括する仲間の部分を構成せる一つの仲間と見做すこと、世界全体の福祉を目的として促進せしめるのではなくして、ただ、間接にそれに導く手段を、即ち世界に於ける快適、融和、交互の愛と尊敬と(慇懃なことと礼儀正しいこと humanitas sesthetica et decorum)を陶冶し、かくして徳に優美を伴わせるようにする、このようなことを実行することはそれ自体徳の義務である。
 このようなことは実際、徳にまがう美しい仮象を与える補助物乃至は附属物(parega)であるにすぎず、その仮象たるや何人もこれを何と解せねばならぬかを知っているから、たしかに欺くことはしない。それは成程小銭にすぎないのではあるが、併しこの仮象を出来るだけ真理に近づけようとする努力によって、打解け易いこと、愛想のよいこと、慇懃なこと、鄭重にもてなすこと、温和なことに於いて(反対意見を述べるにしても何ら争うことなく)、総じていえば、親切の念を顕わにし、それによって同時に他人を親切ならざるを得ないようにさせる単なる交際の仕方として--このような交際の仕方は徳を少なくとも好ましいものたらしめるが故に確に道徳的心情を牽き起さしめるものである--徳の感情そのものを促進せしめるのである。
 ところがここに問題がある、人は不品行の者とも交際を結んでよいものであるかどうか、と。彼等と会うことを避けることは出来ない、そうでなければ世界外に行くより仕方がなかろう、そして彼等に関するわれわれの判断でさえ権威あるものではない。--併しながらその悪徳が不正事件であり、即ち厳粛な義務の法則を軽蔑する公然たる実例であり、従って、又不名誉を伴っている場合には、たとい国法がそれを罰しないにしても、その時までなし来たった交際は断絶せられ、もしくは出来るだけ避けられるのでなくてはならない。蓋し交際を更に続けてゆくことは、徳からあらゆる名誉を奪い去り、そして徳を、苟も贅沢に飽かしめて食客を買収するに足る程の富あるならば、何人にでも売品に出すことなのであるから。
    --カント(白井成允・小倉貞秀訳)『道徳哲学』(岩波文庫、1954年)。
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カントは徳の義務と法の義務を厳しく峻別する。
前者は、ただ自由な自己強制にのみ基づく義務であるのに対して、後者は人を強いて義務を行わしめる義務である。徳の義務も法の義務も、他者の権利(facultas iuridica)に関わるものだが、いわば自律と他律という大きな違いが存在する。
人間は自然世界の法則から自由でない。その限りで人間は不自由な存在である。同じように、他者からの命令に従うだけの在り方であるとすれば人間は、自然界の法則から自由でないように、自由な存在ではない。それが他律である。
しかし、自分自身が“そうする”と決めて自己自身に対してそれをうち立て、内面の声の命令に従うならば、その在り方がカントにおいては自由である。それが自律である。
こう聞くと……やはりカントの道徳哲学はガシガシの義務論のように聞こえるし、実際、義務を厳密に論じておりますので、道徳的厳格主義者としてのカント像がつきまといますものですから、どうしても近寄りがたいイメージがあるとされる。
しかし、丁寧にカントの著作を読んでみるとどうやらそうでもなさそうだ。
カントは貧しい市民の子として生まれ、謹厳実直な職人の父親と信仰心の厚い敬虔な母親のもとで育ったという。カントは貧しさをなんら恥じることなく、終生、両親への感謝の念を忘れなかったといい、カントが両親のことを述懐するたびに、あふれんばかりの敬慕の念がそのひとつひとつの言葉からほとばしったという。少年時代のカントを育んだ考えたとは「自とは道徳的であってこそ幸福にある(幸福に値する)」というものであろう。であるとすれば、その道徳的な事柄とは無理難題な強烈な道徳主義の主張ではなく、人間のあるべき生き方への深い洞察とその具体的実践の問題、そしてそれを実践する中で人間が人間へと成長する(=幸福)という庶民のドラマが刻まれているのだと思われる。
さて……
確かに義務といえば義務だが、まず発想としては、そのことによって人は自由な自律的な存在として立ち上がれることをまず踏まえておかなければならない。そのうえで、カントが説いている実践を確認すると、24時間義務を背負って戦えという訓戒とは無縁であることが理解できる。自己を滅私奉公して他者への全的な献身をカントはひとつも説いてはいない。
人間は一個の存在としては、特殊で個別な存在である。
しかしそれはその当事者ひとりの事態では決してない。
おなじような存在者がひとつの共同体を形成しているのである。
だからこそそこに倫理が問題となる。
自己自身も快適に自律したいし、他者自身も快適に自律させるべきだ。
そのためにはどう手を打つか……そこである。
カントのいうところの「自己自身に対する義務であると等しく他人に対する義務」である。それが交際の在り方である。交際とは人間と人間がむかいあう瞬間であり、一時的なむかいあいだけでなく、継続的なむかいあいも意味している。
そこで必要な在り方とはなにか。
すなわち……
「打解け易いこと、愛想のよいこと、慇懃なこと、鄭重にもてなすこと、温和なこと」
それだけである。
ここでいう世界とは、weltとしての世界だけでなく、人間という共同存在の場としての世界として理解してもよいだろう。
お互いが「打解け」合い、「愛想」のよく向き合い、そして「慇懃」さと「鄭重」なもてなす心をわすれず、温和にふるまえば、自己も他者も世界の中でお互いの尊敬を忘れずに快適に生活することが可能である。
そう読むと……何も小難しい理論的な思想的談義とはまったく異なった趣を読みとることが可能である。しかし、このことがムズカシイ。
このこととは、すなわち上述した在り方とは「人間自身の振る舞い」の問題だからである。学があるとか無いとかではない……人間の振る舞いの問題。これこそが人間を人間たらしめ、それをもって他者が他者を理解するひとつの大きな契機となっている。この自覚がないとすれば、いかに高邁な理論を構築しようとも一切が無に帰してしまう。
そう思われて他なりません。
そういえば、市井の職場も、経費カットで、さまざまな省エネ(って言い方が古い!)活動による節約を展開しておりますが、そのなかのひとつが休憩室のエアコン管理です。ときどき、だれもいないのに付けっぱなしになっているので、店長が激怒り、エアコンの設定温度およびエアコン使用時間を定め、スイッチ部分に「鍵」を付けてしまった。
「宇治家さんが、最後の管理者だから、時間になったらエアコン消して鍵かけといてね♪」
ちょうどカントを読んでいた訳ですが、何かが違うんだよななア~。
いつも何かに違和感を感じている自己自身を自覚する中で長谷川平蔵そのものを形成するある日の長谷川平蔵です。
本日も暑く苦しい一日でした。久し振りに今日はエーデルピルス(Edelpils/SAPPORO)を発見したので、軽く晩酌して寝ましょう。
昨日が息子さんの幼稚園の終業式。
ということは……今日は朝から息子さんが家にいる。
早く起きないとろくなことがないので。
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