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一人一人が自分の思想を持つ時に、偉大な思想を、本当に偉大な思想として理解する

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火曜は休みなので、本当は早く起きて、紀要の論文に手を入れ、来週の授業の準備を済ませる予定でしたが、出張中および昨日まで連日がっつり飲んでおり、その疲れが出たのか、久し振りに爆睡してしまいました。

さて……
昼頃起きたことを悔やんでもしょうがないので、気を取り直して、顔を洗うと、息子さんが家にいる。風邪を引いたことだとのことで幼稚園を休んだらしい。

ひとまず、あさって〆切のレポートの添削にとりかかり、大学へ返送する。
本当は家で仕事をしたいのだが、何をたのまれるのかわかったものではないので、荷物を発送することを口実に外出する。

宅急便センターへ荷物を預け、自転車で赴くままに野趣あふれる武蔵野の夏を堪能する。
途中、古本屋や喫茶店によったりしながら、気ままに時間を過ごしましたが、いいリフレッシュになる。帰宅すると18時を過ぎていた。

夕食後……
細君がこれから用事で外出とのことで、息子さんと二人っきりになってしまうが、軽くウルトラ怪獣ごっこを行い、関連DVDを一緒に見ていると、知らない間に寝てしまっていた。

細君が帰宅すると、息子さんは、
「パパ、ねんねしてしまったよお~」
「だめねぇ~」

そのやりとりで目が覚める。

たまにはこんな休日があってもいいでしょう。働かない宇治家参去の一日でしたが、お許しを。

入浴後、仕事をする気にもなれないので、ビールを飲みながら、フランス文学者・森有正(1911-1976)のエッセーを再読する。大日本国憲法発布式典の当日暗殺された、初代の文部大臣、明治の六大教育家の一人である森有礼(1847-1889)の孫が森有正である。きちんとした日本語で、自覚の問題としてのモラルを語るその文章は、モンテーニュやパスカルのそれを思い浮かばせる。
読み耽りながら実感するわけですが、思想や哲学の問題は、どこか自分自身の生活やその職業的実践と全くかけ離れたところに存在するのではないのだと思われて他ならない。思想や哲学の問題を日常的な実践と切り離してしまったところに、今日の不幸が存在するのであろう。常々思うところですが、その言葉を洗練させ、存在とか認識とかそういう問題に関して集中していったひとびとの歩みが哲学者のそれであり、人間の営みを言葉として洗練させ集中していったのが文学者たちの歩みであり、市井の人々は“語り”という営みを通じて、その言葉を紡ぎ出しているのであろう。蛇足ながらもちろんその両者が素敵な握手をする瞬間に、その人にとっての究極的な関心事としての宗教の問題が立ち上がるのでしょう。

「自分のある内的な促しが吹き出してまいりまして、そこから経験というものがだんだん結晶化していく。それがさらに言葉を生んで社会と結びつき、さらにそれが一つの思想体系となって普遍的なものになっていく」

ひとりひとりの生活の現場という極めて特殊個別的なローカルな部分を大切にせずして、グローバルな普遍的な在り方といものは立ち上がらないのであろう。そう実感せざるを得ません。

自己の仕事に打ち込む。その労苦の中で、経験を結晶化させ、普遍的なものへとつながりゆく言葉と己自身を磨き上げたいものです。

明日からまた頑張ろうと思うので、今日はおやすみなさい。

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 私はだいたい経験という場合に次のことを考えています。
 まず私どもの内側にある促しということです。これは今日説明する時間がありませんから、一言だけ申し上げます。
 私どもは必ず内側に促しを持っている。それに応じて私どもには経験というものが提示されてくる。それに名前をつけるために言葉というものが出て来る。さらにその言葉自体が一つの体系を成してくるとそこに思想というものが生まれてくる。思想になった時に初めて、私どもが自分の内側に促しとして持っていたものが、だれもがそれに参与することができるものになるということですね。自分だけが持っていたものが、万人が参与することのできる思想というものになる。これが私は人間の一生というもので、彫刻家であろうと芸術家であろうと、あるいは聖人であろうと、なんであろうと究極の人生で生きる意味はそれしかない。自分が自分の内面の促しとして、自分が一番心の底で思っているあるものが、私どもの経験の中核となる。その経験というものは、さらに言葉を呼ぶ、その言葉というものはさらに組織されて、一つの思想となる。その時の思想は本当に私の思想となる。けれども私の思想は、実は思想である以上、先祖以来の言葉によって作られた思想である以上、すべての人、すべての日本人がそれを読むことができる。すべての日本人がそれに参与することができる。
 ですから思想というものは、決してある思想家だけの、たとえば西田幾多郎だけの思想ではない。一人一人が思想を持っている。一人一人が自分の思想を持つ時に、偉大な思想を、本当に偉大な思想として理解することができるわけです。
 人生のなかにいろいろな仕事があり、何千何万という職業があっても、結局人間が生きていくという意味はそれしかないと思います。一人の、ほとんど動物のような赤ちゃんとして生まれ、その中に、自分のある内的な促しが吹き出してまいりまして、そこから経験というものがだんだん結晶化していく。それがさらに言葉を生んで社会と結びつき、さらにそれが一つの思想体系となって普遍的なものになっていく。
 彫刻家は石だとか金属だとか、そういうものを使って同じようなことをやっているわけです。絵かきは絵の具を使って同じようなことをやっている。音楽家は音を使って同じようなことをやっている。それから、事務をとる人は、事務というひとつの仕事の体系を通じて同じことをやっている。学校の先生も同じことをやっている。学校の先生は学問しているから偉いのではなく、学校の先生だから偉いのです。子供を教育するということについても同じだけの過程を分で思想に至ることができます。
 そこにはいかなる職業でも、上もなければ下もない。ただ思想というものを、西田の思想だとかカントの思想とか、特別な人が持つように思っているから間違えるのです。
 たとえばバッハの音楽は偉大です。けれども私ども一人一人が詩を歌うことができるでしょう。あるいはルオー、ゴッホは偉大な絵かきだ、しかし私どもでもいろいろなデッサンをしたりしてお互いに喜ぶことができます。
 ですから、すべての人が結局同じ道を歩いているのです。その中にまた優れた普遍性の高い人が出て、すべての人がその周りに集まって、それに感嘆することができるわけです。
 こういう一番大切な道を捨てて、ほかのものをやることはすべて時間の浪費であると私は考えます。
    --森有正「経験について」、『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫、1976年)。

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