« 軽薄な事柄を真面目に、真面目な事柄を快活にやらせておくがよい | トップページ | 私を直視するものをみつめること »

発酵するまでに時間のかかる一節①

01_r0010135

02_r0010136

いわば、読むことが仕事の大部をしめるので、基本的には何でも読みますが、ときどき書物をよんでいると、ずとーんっ……というような平手打ちといいますか、地雷の爆発といいますか、なにか「ここだな!」ってひらめく瞬間があります。それをそのまま解釈といいますか自分と内在的関係性をそこからくみ取ることが瞬時にできるものもあれば、発酵するまでにまた厖大な時間を必要とする一節も存在します。

今日は市井の仕事の休憩中、近代ロシヤ(ロシアではなくロシヤ!)の作家・文芸評論家ベリンスキー(Vissarion Grigorievich Belinskii,1811-1848)を繙く。市井の仕事をしているときの休憩に読む本は、あまり自分の専門と関係のない文献を読むよう心がけているわけですが(そうできないときもママありますが)、ベリンスキーの著作もそのひとつ。むか~し、たぶん学生時代だと思いますが、大学の教養課程に在学していたとき、履修ミス(マークシートの塗り誤り)で、第一外国語がロシア語(第二が英語)というとんでもない事態になってしまったため、ロシアと向かいあうようになりましたが、その過程でおそらく先生か友達に勧められて買うだけ買った一冊だと思います。まったく繙いていませんでしたが、読んでみると面白い。表題通り『ロシヤ文学評論集II』ですので、19世紀中盤のロシア文壇の報告という一冊ですが、報告という形をとりながら、ベリンスキー自身の見解が溢れ出しており、時間をわすれるように食い入った。「純粋の、切り離された、無条件的な、もしくは哲学者たちがいうがごとく、絶対的な芸術はいかなる時、いかなる場所にも存在しなかった」(『ロシヤ文学評論集II』)というベリンスキーの主張は、後のロシヤの人民解放運動へのきっかけとなったといわれていますが、その力強さと発想の奥深さ(奥深いというロシヤの精神性を深く見つめ直しながらも、その限定されたロシヤ性を超克する世界へ!という視座の同居)に驚かされる。

そのなかで、出会ったのが以下に引用する一節です。これは「発酵するまでにまた厖大な時間を必要とする一節」ですので、コメントのしようがないのですが、深いロシヤの精神性に驚愕すると共に、課題としてのヒューマニズムを考えるひとつのヒントになりそうです。

とりあえず、今日で、禁日本酒一週間たちました。
その間、基本的にはウィスキーか焼酎を飲んでいましたが、スコッチが切れたので今日からバーボンです。金がないので安い「EARLY TIMES」です。Jazzギターの名手ルー・メッカ(Lou Mecca)の小気味よいサウンドと安バーボンに酔いしれつつ、もういちど考えながら酩酊の世界へ瞑想飛行しようと思います。

-----

……ことばそのもの(引用者註……ドイツ人がヒューマニティー(Humanität)と名付けるもの)については、ドイツ人はそれを人間的をいみするラテンのことばhumanusからつくったのであることをいっておこう。人間が他の人々にたいして、本性からかんがえて兄弟であるところの自分の隣人たちにたいして人間として行動すべきであるごとくに、行動するとき、かれはヒューマンに行動する。反對の場合にはかれは動物にふさわしいように行動する。ヒューマニティーは人間愛であるが、しかし自覚と教育によってはったつさせられたそれである。勘定づくでなく、自慢のためでなく、善をなそうという願望によってあわれな孤兒を養育する人間、--かれをうみの息子のように養育し、それとともにその孤兒に自分はかれの恩人である、自分はかれのために散在しているのである等々のことをかんぜしめる人間、かかる人間は善良な、道徳的な、人間愛的な人間という名にあたいするが、しかしけっしてヒューマンな人間という名にはあたいしない。かれのもとにはおおくの感情、愛があるが、しかしそれらはかれにおいて自覚によってはったつさせられていず、粗野な殻でおおわれている。かれの粗野な知力は、人間の本性には繊細で柔軟な琴線があり、人間をあらゆる外面的な幸福の條件にかかわらず不幸なものとならしめないためには、それにたいするもっとヒューマンな取扱にさいしては相當なものとなりうるはずの人間を粗野にし低俗にしないためには、その琴線をようじんぶかくとりあつかわなければならないのだということを夢にもおもわない。ところがこの世のなかには自分の善行がそれにそそがれるところの人々を、なんらのわるい意圖なしに、ときには熱烈にかれらを愛し、ちゅうしんからかれらにあらゆる善をのぞみつつ、くるしめ、ときにはほろぼしもしており、--そしてあとで、執着および尊敬のかわりにかれらが冷淡さ、無關心、忘恩、はなはだしくは懀悪および敵意をもってむくいたということに、もしくは自分はかれらにもっとも道徳的な教育をあたえたのに、自分のそだてた子が惡黨になったということに氣心よくおどろいているような恩人たちがどれだけいるであろうか。ほんとうに自己流に子供たちを愛しているが、しかしかれらにむかって、かれらは生命においても、衣服においても、教育においても兩親におうているのだということを間斷なくくりかえすことを神聖な義務とかんがえている父や母がどれだけいることであろうか! これらの不幸な人人は、自分が自分から子供たちをうばい、それを自分が慈善の感情からもらったところの養子のごときものに、孤兒にかえているのであることに氣づきもしないのである。かれらは、子供たちは自分の兩親を愛さなければならないという道徳的規則のうえにしずかにまどろんでおり、そしてのちに老境に入ると、子供たちからは忘恩のほかはなにものも期待できないといういい古された文句を溜息とともにくりかえすのである。このおそろしい経験さえもかれらの硬化した頭脳からあつい氷結した表皮をとりさりはしない、そしてかれらをしてついに、人間のこころは自分自身の法則によってはらいて、なんらの他の法則もみとめることを欲せず、またみとめえないのだということ、義務により任務による愛は人間の本性に背馳するところの、超自然的な、空想的な、不可能な、あったためしのない感情だということ、愛は愛にのみあたえられるのだということ、愛は権利によってわれわれにあたえられるべきなにものかとして要求してはならないので、あらゆる愛は、だれからであろうともおなじに--われわれよりたかいものからであっても、ひくいものからであっても、子が父からであっても、父が子からであっても、獲得しなければならず、かちとらなければならないのだということを理解せしめることができないのである。子供たちをみよ、--母が子供を自分の乳でやしなっていても、子供が彼女をきわめて無關心にながめ、眼がさめてただちに、かれが自分のそばにはなれずに見ることになれているうばを見ないときは、おそろしいなきごえをあげるということはしばしばおこるのである。かんがえてもみよ、--子供は--自然のこの無缼にして完全な表現は、かれに自分の愛を本當に証拠だて、かれのためにあらゆる満足を拒否し、あたかも鐵のくさりによってのように自分をかれのあわれでよわい存在にしばりつけた人に自分の愛をあたえるのである。
 ヒューマニティーはたかき社会的地位および官位への尊敬とすこしも矛盾しない。しかしそれは惡黨と卑怯者以外のだれにたいしてでもの軽蔑とはだんぜん矛盾する。それはひとびとの社会的首位をこのんでみとめるが、しかしただそれを外面からのみではなく、より多くの内面からながめるのである。ヒューマニティーは粗野な態度、習慣をもつひくい身分の人間に彼にとって習慣的でない叮重さをまきかけることを義務づけないのみならず、またそれを禁止しさえもする。なぜならそのようなとりあつかいはかれをきまずい状態におとしいれ、そのなかに嘲笑またはわるいもくろみがあるのではないかとおもわしめるであろうからである。ヒューマンな人間は自分よりひくい、粗野にはったつした人間にたいしては、その人に奇妙なもの、あるいは不慣れなものとおもわれえないような叮重さをもってたいするであろう。しかしかれはその人にかれのまえで自分の人間的尊厳を卑下せしめないであろう、--その人に足まで頭をさげて禮をせしめないであろう、かれをヴァーニカまたはヴァニュー〔いずれも人名イヴァンの卑稱〕およびそれに類する、犬の名に似た名前でよばれないであろう、その人にたいする自分のめぐみぶかい氣分のしるしとしてすこしばかりかれのあごひげをつかまえてゆする、その人をしていやしくうす笑いをしながら、卑屈さをもって「なんのためにしなさるんだ?……」といわしめるようにしむけはしないであろう。ヒューマニティーの感情は、人間が他の人々において人間的尊厳をそんちょうしないとき、ぶじょくをかんずる、そして人間がみずから自分のなかで自分の尊厳をそんちょうしないとき、いっそう多くぶじょくをかんじ、苦悩するのである。
 このヒューマニティーの感情がイスカンデルの諸作品のいわば魂をなしたてている。かれはそれの説教者であり、弁護士である。かれによって無数にみちびきだされる諸人物は意地わるでなく、大部分善良でさえある人々で、かれらはわるい計算をもってするよりも、よりしばしばよい計算をもって、悪意によってよりも、より多くの無知によって、自分自身および他の人々をくるしめ、追窮する。かれの諸人物のうち感情の低劣さおよび行動のいとわしさによって人を自分からつきのける人々でさえも、作者によって、かれらのわるい本性のぎせいとしてよりも、より多く、かれらの無知およびかれらがそのなかに生活する環境の犠牲として示されている。
     --ベリンスキー(除村吉太郎訳)「一八四七年のロシヤ文学の概観」、『ロシヤ文学評論集 II』(岩波文庫、1951年)。

-----

03vissarion_belinsky_by_k_gorbunov_

Book ペリンスキー著作選集〈1〉

著者:ヴィ・ゲ ベリンスキー
販売元:同時代社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ベリンスキー著作選集〈2〉

著者:ヴィ・ゲ ベリンスキー
販売元:同時代社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 軽薄な事柄を真面目に、真面目な事柄を快活にやらせておくがよい | トップページ | 私を直視するものをみつめること »

詩・文学・語彙」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 発酵するまでに時間のかかる一節①:

« 軽薄な事柄を真面目に、真面目な事柄を快活にやらせておくがよい | トップページ | 私を直視するものをみつめること »