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でもそういうお前の顔だって相当おかしいぜ

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 思うのだけれど、アメリカという国では「概念」というものが一度確立されると、それがどんどん大きく強くなっていって、理想主義的(and/or)、排他的になる傾向があるようだ。よく「自然が芸術を模倣する」と言われるが、ここでは「人間が概念を模倣する」ケースが多いみたいな気がする。この概念をイエス・ノオ、イエス・ノオでどこまでも熱心にシリアスに追求していくと、たとえば動物愛護を唱える人が食肉工場を襲撃して営業妨害したり、堕胎反対論者が堕胎手術をする医者を銃で撃ったりするような、まともな頭で考えるとちょっと信じられないようなファナティックなことがおこる。本人は至極真面目なんだろうけど。
 おそらく人種的にも宗教的にもいろんなオリジンの人が集まってできた国なので、共通概念というものが共通言語と同じような大きな価値を持っているからではないかと僕は想像する。それが樽をまとめるたがのような役割を果たしているのだろう。でも正直に言って、ときどき話していて退屈することがある。高校のときのホームルームでまじめな学級委員の女の子に「ムラカミくんの考え方はちょっとおかしいです」と追及されているような気分になる。そういうことを言われると、「しょーがねえだろう、生まれつきおかしいんだから。でもそういうお前の顔だって相当おかしいぜ」と開き直りたくなってくる。そんなこともちろん言わないけれど。
    --村上春樹「元気な女の人たちについての考察」、『やがて哀しき外国語』(講談社文庫、1997年)。

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村上春樹はエッセー集『やがて悲しき外国語』のなかで90年代アメリカ東海岸での生活をおもしろおかしく振り返っているが、そのなかのひとつが「元気な女の人たちについての考察」である。元気な女の人たち……すなわち、フェミニズムの主張とその生活における実際を報告しているわけだが、フェミニズムの主張はそもそもこれまでの男性中心主義型の社会・文化(構造)に対する異議申し立ての言説として充分に耳を傾けざるを得ない内容であり、批判である。しかしその言説が現実の生活感覚から乖離した理念のための理念となったときの違和感を絶妙の筆致でえがいている。このことはフェミニズムの主張に限られた問題ではない。勘違いされると困るのだが、村上の言説はフェミニズムの主張を揶揄しようとか批判しようとしているのではない。その戦略的な在り方への違和感の表明である。宇治家参去も同じような違和感を感じている。だからその問題はフェミニズムの主張に対してだけ限定された問題ではないということである。アンチ・フェミニズムの言説も同じ瑕疵を免れることは不可能である。

村上春樹はエッセー集『やがて悲しき外国語』のなかで90年代アメリカ東海岸での生活をおもしろおかしく振り返っているが、そのなかのひとつが「元気な女の人たちについての考察」である。元気な女の人たち……すなわち、フェミニズムの主張とその生活における実際を報告しているわけだが、フェミニズムの主張はそもそもこれまでの男性中心主義型の社会・文化(構造)に対する異議申し立ての言説として充分に耳を傾けざるを得ない内容であり、批判である。しかしその言説が現実の生活感覚から乖離した理念のための理念となったときの違和感を絶妙の筆致でえがいている。このことはフェミニズムの主張に限られた問題ではない。勘違いされると困るのだが、村上の言説はフェミニズムの主張を揶揄しようとか批判しようとしているのではない。その戦略的な在り方への違和感の表明である。長谷川平蔵も同じような違和感を感じている。だからその問題はフェミニズムの主張に対してだけ限定された問題ではないということである。アンチ・フェミニズムの言説も同じ瑕疵を免れることは不可能である。

村上は、堕胎反対論者が銃を撃つことに言及しているが、この問題は、フェミニズムの問題以上にアメリカ社会に大きな影を落としている。堕胎を認める立場はプロ・チョイス、堕胎を否定する立場はプロ・ライフと呼ばれている。

まさにチョイスとライフの違いである。チョイスを肯定するがゆえに、堕胎は場合によっては認めてもよいと考えるひとびとであり、ライフを肯定するがゆえに、あらゆる胎児の殺人を否定するとの立場である。後者の思想的伝統としては、聖書の字句を一字一句正しいものとして扱う聖書無謬説に従う保守的キリスト教思想にひとつの根をもつが、原理的になればなるほど原理からはずれていくという不思議な状況を提示している。ライフを尊重するのであれば、銃をとるはずはないのだが、そのあたりが、理念の奴隷と化した人間の現実を語っているようである。

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 ただ僕は思うのだけれども、ものごとの正しいモーメントというのは、本来的に根本的に疑いの念を含んでいるものではないだろうか。というか、本来正当なモーメントというものは、あくまで素朴な自然に疑いに端を発したものであるはずだ。そのような疑いの中から「いちおうこういうことになっているけれど、実はこうではないか?」「いや、実はこうではないか?」という仮説が次々に生まれでてきて、そのさまざまな仮説の集積によってひとつの重要な可変的モーメントが生じるのではないか。しかしある時点でそのような仮説のひとつひとつが固定化され定着されて本来の可変性を失い、誰にでも留まったテーゼとなってしまうと、そこにはあの宿命的なスターリニズムが生じることになる。文学世界においていえば、学問的下級霊がここを千途と必死にしがみつく「蜘蛛の糸」になってしまう恐れもある。僕が心配に思うのはそういうスターリニズム的細部固定化傾向についてであって、決してフェミニズム文学批評全体についてではない。
    --村上、前掲書。

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本来、人間は、生きている現実に対して何か疑問をいだき、「実はこうではないのか」とか「こう考えたほうがよいのでは」とか「こういうスタイルの方が快適ではないのか」とか考える中で、ある意味で固定化した現実(の仕組み)をスライドさせてきたのだと思う。しかし、その現実をスライドさせる批判的な営みがひとつの固定化した理念なり概念になりに定着し、固定化してしまった瞬間、それがひとつの、いわば、また手を変えた形ではあるけれども、人間そのものを抑圧してしまう仕組みになってしまう。いわば、そういう固定化と可変可能性とのせめぎ合いが人間世界の現実化も知れません。

どのような問題でも、現実世界に対する異議申し立てとしての発想は、それなりに意味のある、また耳を傾けざるを得ない主張である。しかし、その敵か味方かとの攻防戦のなかで、ほんらいもっていた新鮮な発想が形骸化していく。そして、異議申し立てが現実化してしまったあと、同じように棄却されてしまった既存の権威とおなじように、異議申し立てを企てた人々が権威になってしまう。そうした循環をどこかで自覚しながら、そうならないように、取り組むしかない。それがまさに理念の可変可能性の自覚である。

たしかに人間にはある意味で範型としての理念は必要である。
それをもつことによって人間は、現状と違う在り方を選択することが可能である。しかし、その理念そのものを権威かさせてはならないのであろう。現実の中で不断に、その理念が議論の対象としてさらされ、さらによりよい在り方へと検討される必要が不断に存在するのである。

そのことを考えておかないといけないのであろう。

さて……
今日は、市井の職場のまわりで祭礼があった。
ま、そういうときなので、店長さんも、その神社の神札を買ってきたわけですが、事務所に帰って来るや否や、責任職のMgrを全員集合させた。そこで、「商売繁盛・無事故」祈念がはじまったわけですが……。

とりあえず、終了後店長宛にメールを送る。

「(キリスト教神学者としての立場から)今回の件に関して……。
(要点だけ言うと)日本ではかつて、国家神道の立場から、キリスト教を含むすべての宗教を、国家神道の立場へ従属させ、宮城遙拝、伊勢神宮参拝を“強制”させて来た歴史がある。それを踏まえて、戦後の憲法では信教の自由が高らかに主張され、内心の自由が確保されたはずである。しかるに、今日の一見は、各個人の内面の問題を顧慮せず、ひとつの号令で、神札に対して礼を迫る在り方というのはいかがなものでしょうか。かつて不敬罪を怖れず抵抗し、死んでいったキリスト者は多数存在します。地上の被造物の神格化というデーモンな行為の強要には一言もうしたいところです」

明日出勤すると、「また哲学者のアレですか?」と揶揄されそうである。

と……書きつつ、そういう「ポリティカリィー・コレクト・トークン」を発する宇治家参去もまた理念の瑕疵にはまっているのでは?

でも……

「しょーがねえだろう、生まれつきおかしいんだから。でもそういうお前の顔だって相当おかしいぜ」

と思っても、開き直らないのが大切ですね。

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